旋律の奔流へ終

 医者と一緒に現れた人物を見て、アンネは驚いた表情をしていた。昨日随分暗い顔をしていたところを見ていたからかもしれない。人は一度折れれば、なかなか戻らない。アンネ自身がそれをよく分かっていた。彼女の力のこもった瞳を何故だか見つめていられなくて、アンネは視線を逸らした。

 医者がアンネの腕を動かしながら、ここの関節を、ここの筋肉をと説明するのを、レキシアは懸命にメモを取っている。もはや諦めて、惰性で訓練をしている自分と、何故か自分以上に必死になっているレキシア。まるで正反対の態度にアンネが戸惑う番だった。どうしてそうまでするのか、彼女にはまったく分からない。

 やがてレキシアは医者が去ろうとすると、彼を追いかけて何かメモを渡す。聞いたことをまた何やら書き留める。何度も何度も頭を下げる彼女を見て、「本当はそうしないといけないのは私なのに」と、小さな胸を針が突き刺す。痛みはあっても、空気が抜けて萎んでしまったアンネの心が、もう膨らむことはないだろう。本人が一番よく分かっていた。


『こんにちは』

 紙を見せてきたレキシアに、いよいよアンネは驚きの目を向けた。驚きを超えて、奇妙の域にまで達してしまいそうだった。これでレキシアは三日連続でこの屋敷を訪れたことがある。自分一人だけが患者というわけではない、専属の医者ですら、三日連続というのはなかなかなかった。この家の大きな垣根を日々超えてくる彼女が、なんだかものすごく身近に感じてしまって、アンネの心は何かで擽られるように疼いた。

 父親が少し困惑しつつも、期待の色を瞳に滲ませて、レキシアの背を叩いた。彼女はロングスカートの裾を気にしながら静かに歩き寄って、アンネの前に腰掛けた。レキシアの瞳にも、僅かに不安の色が宿っていた。しかしそれ以上に垣間見える意思の炎のような色に心臓が跳ねる。今のアンネには少々眩し過ぎた。

『アンネさんがよければ、もう一度私の文章を読んでくれませんか』

「……」

 思い出す。まさに夢のような時間だった。あの頃のように自由な両手で楽器を弾き、旋律を紡ぎ、皆を奔流へと巻き込んでいく。自分だけが生み出せる世界。自分だけが操れる世界。自分の音が、誰かの世界へと響いていく感覚が大好きだった。現実かと見まごう程精巧な描写に、アンネはかえって恐ろしくなってしまった。

 夢が美しければ美しいほど、現実の冷たさはひどく刺さる。幻想の中で一曲を弾ききった自分の腕は、現実に戻った瞬間ぼとりと落ちた。椅子の上に投げ出された腕は、じんわりとした痺れを訴えるばかりだった。

 今も指先は固くこわばったまま、滑らかに旋律を紡いでいたことなど嘘のように、お荷物のように腕の先にくっついていた。また辛い思いをするのかと思ったが、レキシアはそんなことをする人物ではないというのも、何となく勘付いていた。彼女の傷ついた顔を、はっきりと覚えている。彼女はきっと、人の痛みを我がことのように感じることができる人だ。そんな人が、再び同じように、自分のことを苦しめるだろうか。

 アンネ彼女の瞳を思い出す。その光に少しだけ、応えてみたいと思った。


 アンネは夢のような世界の中で、ゆっくりと腕を動かしていた。落ち着く自分の部屋で、基本的な上下の動きを繰り返す。両手を顔の前で組むようにして、そこから速度を付けずにゆっくり伸ばしていく。


 そのシーンだけ過ごすと、すぐにアンネは自分の世界に戻ってきた。今の景色は覚えがある、ありすぎるくらいだ。

「今の、訓練?」

 アンネが問いかけると、レキシアは頷いた。もう一度読むように促され、再び目を通す。すると体感できる、訓練のような景色。再び戻ってくると、不意にアンネは、先ほど体感したときのように、両手を顔の前で組んでみた。しかし、下ろそうとしても、やはり上手く動かない。ぴきっと痺れたような感覚がして、腕が止まってしまう。

 ――ダメなのかな。

 そう思ってアンネは視線を落とした。すると視界に入り込んでくる、レキシアの書いた文章。再び味わう“成功”の体験。ただ惰性で腕を動かすのではなく、どこを動かしているのか、少し意識して体験してみると、二の腕の筋肉を意識して使うようにしているような気がした。再び現実に戻り、試す。

 アンネは徐々に、レキシアが何をしてほしいのか、何を求めているのかが分かってきた。やがて効力を失ってしまったレキシアの文章は、読んでも体験することができなくなった。しかし、だからこそ気付く。自分がほんの数秒味わった景色とは思えないほど、その文章は長いものだった。どこをどのように動かすと、どういった順序で肘が動き、曲がるのか。そこだけ読めば、まるで専門書の一ページのようだ。

 ――まさか、この人がリハビリに付き添って、調べものをしてくれていたのは、このため?

 アンネが彼女を見ると、どこかほっとしたような表情を浮かべて、アンネの肘に触れた。医者が施してくれるよりはよっぽどぎこちないものだったが、触れられている体温がむず痒くて、優しくて……アンネは黙ってレキシアのマッサージを受けていた。


 幼い子どもには「イメージ」すら難しいのではないかと、レキシアは考えた。訓練を重ねる中で感覚を取り戻すといっても、突然突き付けられた現実から、自分の肘が動くのを思い出すのも大変だろう。その現実と向き合うことすら、アンネには辛いのだから。

 レキシアの文章を求める人たちは、普段「夢」を求めてやってくる。自分がもはや味わえないこと。自分が出会えない景色。自分の憧れ……本来レキシアの文章は「夢」を見せるようなものだと思っていたのだ。しかしふと気づいた。夢に苦しむ彼女にならば、「現実」を見せる作戦があるのではないか、と。


『明日また、来てもいい?』

 緊張しながら差し出した手紙に、彼女は大きくひとつ、頷いてくれた。




 それからレキシアは毎日屋敷を訪ねた。次の日に、アンネが腕を組み、動かそうとしているのを見て父親は手で顔を覆った。「初めて娘が前向きに訓練をしてくれている」と、絞り出すような声で言った。それを聞いてひどく安心したレキシアは、図書館での調べものや医者からの聞き取りをもとに、肘、腕、指が動く文章をそれぞれ書き記した。立ち上がったばかりの文筆堂。仕事がない日は足しげく通う。そうして二週間ほどが経った頃、アンネが言った。

「レキシアさん、私にもう一度弾かせてほしいの」

「……」

 初めて出会った日のことを思い出し、レキシアの顔は曇る。アンネの心を考えれば、体験させるべきか迷うことだった。判断がつかないでいるレキシアの両手を、アンネが包み込む。まだまだぎこちない動きだ。肩から大きく腕を動かして、やっと掴めたくらいだ。硬直は続いているようで、指先は固く折れ曲がっている。

「お願い」

 レキシアは、アンネの瞳の中に一筋の炎を見たような気がした。それは彼女自身が写し、与えた、意思の炎だった。それに魅入られたレキシアもまた、決意を固めて頷いた。


 鍵盤の上を指が跳ねる、踊る。理想の音を、理想の強さで紡いで、曲を作り上げていく。旋律は奔流と化し、聴衆を巻き込みながら大きく脈打つようだ。鼓膜が震える。鼓膜だけではない、体中が、音楽の悦びに震えている。

 ――ああ、夢じゃない。

 アンネはそっと笑いながら、最後の和音を響かせた。

 ――これは、私の未来だ。




 彼女の肘が治ったかは分からない。治るまでに何年かかるかは分からない。

 けれども、レキシアの紡いだ彼女の姿は、間違いなく未来の彼女だろう。日々進歩する魔術医療。アンネの気持ちさえ前を向いていれば、きっと光明は差す。


 今日も鈴の音が鳴り、誰かが彼女の文章を求める。そして彼女は言う。自分の文章の美しさへの確かな自信と、それ故に潜む空虚を認識しながら。冷たくも感じる響きを、優しい言葉の中に包み込んで。


『私の文章は虚構です。虚しさはきっと残ります』

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