旋律の奔流へ①

 レキシアは必ずこう言う。

『私の文章は虚構です。虚しさはきっと残ります』

 彼女の文章は読んだ者に風景を想起させ、あたかも実際にそこにいるかのような感覚を呼び起こさせる。体感しているかのような、錯覚を起こすことができる。彼女はその能力があることを知ってから、それを更なるものとするため、自分の表現力に磨きをかけてきた。相手に合った表現であればあるほど、写実的な表現であればあるほど、それがあたかも現実であるかのように思わせることができる。そして、情緒的であればあるほど、感性に訴えた景色を見せることができる。レキシアの半生は、そのための勉強だった。

 しかし、その感覚がかえって虚しさを増大させることは、間違いない。だからこそ、能力の取り扱いには慎重にならなければならない。彼女は経験からそう思っている。


 レキシアはポストに入っていた、一通の手紙に着目した。ペーパーナイフで封を開くと、そこには手紙と、一枚の写真が入っていた。女の子が楽器の前に座っている“日常”を切り取ったような一枚。レキシアはその姿にほっと胸を撫で下ろすと、アルバムの中に手紙と一緒にしまい込んだ。彼女はアンネという。依頼主の娘だ。彼女と出会ったのは、この店を開いてから数か月ごろのことだった。




 いつも通り書き物をしていたレキシアは、久しぶりの鈴の音を喜んでいた。代筆業というのは識字率の低い国でこそ需要はあるが、レキシアの住む地域は決して低くない。身分差というのもほとんど埋まった今、読めるが書けない、という人物はなかなかいないのだった。店はいつも閑古鳥が鳴いており、出版社への寄稿などで細々と稼ぐ日々を過ごす。

「あの、噂で聞いたのですが」

 店に入ってくるなり、男性はレキシアに詰め寄った。その表情は暗く、ひどく思い詰めていることが伝わってくる。口のきけないレキシアは「落ち着いてください」と伝えることもできず、男性の言葉を受け取ることしかできなかった。

「あなたの文章には、疑似体験する能力があるんですか?」

 心なしか早口で紡がれる言葉たち。端的であることからしても、彼の急ぎ具合が伝わってくる。要領が掴めないことは確かだが、その勢いに呑まれるようにして、レキシアは頷いた。男性はその姿を見るやいなや、いたく感動した様子で、彼女の肩をばしばしと叩く。涙ぐみ始めてしまったために会話をすることもままならず、レキシアは彼の姿に注視することになった。この街の生活水準は高めで、人々の身なりも整っている。しかし、彼の着ているものは、それとは一段違う水準のようだ。彼の身体のラインにぴったりと沿うように作られた造詣といい、使われている生地の質感といい、自分が身に着けている大衆向けのものとは明らかに違う。彼の社会的身分の高さを感じてしまい、そういった世界とは無縁だったレキシアは身震いした。

 しばらくして落ち着いたらしい男性は「申し訳ない」と言いながら、ハンカチで目元を拭った。

「お恥ずかしい姿をお見せしました」

 やっと彼女は手元にタイプライターがないことを思い出す。慌てて奥から引っ張り出してくると、文字を打って話し始めた。

『気になさらないでください』

「文章の代筆とは少々異なるのですが、お願いしたいことがありまして」

 察しはついていた。でなければ、ここまで思いつめることはあるまい。

「私には一人娘がいるのですが、一年ほど前に大病を患いました。その後遺症で右腕に痺れが残ってしまったんです。

 それっきり随分ふさぎ込んでしまって……」

 娘とすれば、彼より若い。まだまだ子どもだろう。そんな子どもが自分の腕が上手く動かないとなれば――以前はきちんと動いていたと考えればなおのこと――その辛さは身に染みるようだ。現にレキシアも、口のきけない不便さを幾度となく味わっている。気の短い人が相手では、筆談すら満足にできない。

「お願いします。娘を励ましたいんです。彼女の腕が自由に動いていたころを、もう一度体験させてあげてください」

 彼の娘への思いが伝わってくる。レキシアはしばらく考え、首を縦に振った。しかしその胸の中には、形容しがたい、不安の種のようなものが埋まっていた。




 依頼主に連れられて訪れた屋敷は、それはもう立派なものだった。彼の身なりから察していたが、やはり彼の社会的地位は高そうだ。これほどの財力があるということは、きっともう、その娘に対して手を尽くしてきたのだろう。何人もの医者や専門家が呼ばれたのであろうことは想像に難くない。無名の文章代筆店の女店主にまで声をかけるとは……

 ――よほど追い詰められているんですね。

 何人もの給仕たちに挨拶をされ、その風景に気圧されながら、レキシアは屋敷へと足を踏み入れる。中も派手ではないが立派な造りになっており、置かれた調度品からも財力を感じる。

 ――どんなに財力があっても、娘さんの心はどうにもならなかったのか

 わずかな寂しさと、それと同時に強い使命感を感じる。レキシアは少し厳しい顔をしながら、娘がいうという部屋へと向かう。扉のすぐ側に立っていた給仕も、どこか表情が暗い。彼女もまた依頼主と同じように、すがるような視線をレキシアに向け、深々と頭を下げた。

 部屋に入ると、まずレキシアの視界に飛び込んできたのは大きな箱のようなものだった。初めはなんだか分からなかったが、しばらく観察しているうちに、それが楽器だと気付く。鍵盤が並び、弦が張られている。レキシアの記憶にある限り、ピアノが最も近い形状だと思った。

 しかし、それは厚めに埃をかぶっていた。もうしばらく触っていないのだろう。

「アンネ。お客さんが来たよ」

 その声で我に帰る。レキシアが一度頭を下げるが、アンネと呼ばれた娘はさして表情を変えることもない。それを見るだけで、レキシアの胸は痛む。おおよそ十歳ほどの少女が浮かべるものではないからだ。憂い、諦め、退屈、そして絶望。負の感情を煮詰めたような表情。

「アンネです」

 そう名乗りはするが、彼女はレキシアに大して興味も持っていない様子だった。依頼主が諦めたくないという気持ちを持っているのに反して、彼女は既に諦めてしまったのかもしれない。

「この人はすごい能力を持っているんだ! きっとアンネも喜ぶよ」

「……」

 押し黙るアンネに父親の表情は曇った。その雑念を振り払うように、レキシアに笑顔を向ける。それを受けては、動くしかない。彼女は父親と話し合ってかき上げた文章を、彼女に渡した。左手で受け取った彼女の目が、みるみる見開かれていった。


 ――軽やかな音階。流れるような旋律の奔流の中にいた。それを生み出しているのは自分だ。鍵盤の上を踊るように動く両手。紡がれていく音はとめどなく溢れ、まるで泉のようだった。――


「……」

「アンネ? どうだった? すごいだろう、まるで腕が動いているときみたいだったろう!」

「すごかったよ」

 レキシアはその表情を見て固まった。父親も同じだろう。彼女の表情は先ほどよりも一層暗いものになっていたからだ。

「すごいけど、でも、これ、本当じゃないんでしょ?」

「アンネ……」

「すごかったよ、でも、寂しくなっちゃった。私はやっぱり、腕が動かないんだって」

 現実であるかのように感じられる能力を持つ、レキシアの文章。それ故に、読み終えたあと戻ってきた現実が辛いものであればあるほど、虚無感が大きくなる。アンネの暗い顔を見てレキシアの心は抉られた。

 そんな顔をさせるために、代筆店を営んでいるわけではない。

 誰かを傷つけるために、文章を書いているわけではない。

 ――私のせいだ

 あのとき感じた不安の種から、目を逸らすべきではなかった。幼い子どもの心が傷つく可能性に向き合うべきだった。安直な自分の行いを深く後悔する。自分の腕を見つめてため息を吐くアンネに、それ以上何も言うことができなかった。


「申し訳ないことをしました」

 そういって見送ってくれる父親に首をふる。それはこちらの台詞だ。最後の希望としてやってきてくれたのに、期待に応えるばかりか、ますます彼女の気持ちを沈ませてしまった。

 帰路についても、レキシアの気持ちは晴れることがない。空の色に反して落ち込んでいく気持ち。彼女を励ますような文章を書きたいと思って思案をめぐらせるも、どれもこれも、現実の虚しさを助長させるように思えた。何より何人もの医者が、彼女に向き合っては去っているのだ。今更自分が医者の真似事など――

 そこまで考え、ふとレキシアは気付いた。医者の真似事を自分がするにせよ、唯一自分が越えられることがあるではないか。彼女は踵を返すと、再び屋敷の方へ駆け出した。

 息を切らして戻ってきたレキシアに驚いた顔をした給仕が、父親を呼んできてくれる。彼女は慌ててメモに書き込みをし、彼に渡した。

『彼女のお医者さんはいつ来ますか?』

「えっ、ええ、次に来るのは、明後日の予定です。アンネの肘を見てもらって、訓練を……」

 ならば好都合だ。レキシアは続けざまに伝える。

『私も、それに同席させていただけませんか』

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