恋、願う終

 老人は固く目を閉じていた。大きな窓から差し込む光から逃れるようにしながら。いつから病床に伏せていたのか、もう彼には思い出せない。産まれてからずっとここで過ごしてきたかのようにさえ思えた。あるいは、そこに何の感情もないのかもしれない。 自分の家にはメイドが一人いるらしく、献身的に世話をしてくれている。しかし、彼女についても、老人は何も思い出せない。今日初めてあったような気がしていた。あるいは、やはり、そこに何の感情も、ないのかもしれなかった。


「失礼致します」

 シリィは少し緊張した面持ちでドアを開けた。彼女が持つトレイには、彼が新婚時代に喜んでくれたという、思い出のブレンド。そしてシリィの思いを受け取り、それをそのまま表出した、レキシアが代筆した手紙。文字こそ彼女が綴ったものだが、そこには等身大のシリィの気持ちが溢れんばかりに入っている。

 老人は紅茶の香りを楽しむような仕草を見せた。「いい匂いだ」と、呟くように口にした。シリィの瞳はそれだけで揺らぐ。手紙は高級な便箋だが、彼が開きやすいよう、封筒に入れることも、シーリングも行わずに置いてある。身構えた手紙にしては少々不格好ではあったが、これがシリィの気遣いだった。メイドの気持ちを受け取ったのか、彼は手紙を開き、読み始めた。

 長い手紙だった。彼は、最後まで読んでくれるだろうか。シリィが自分自身の過去と、主人との秘密に面と向かい合った結果生まれた、勇気の手紙を。


 ――私があなたと出会ったのは、もうずっと前のことでした。太陽がかんかんに照った日、私は牢に一人残され、大人たちの喧噪を聞いていました。暑さのせいか頭がぼんやりとしていて、彼らの言葉は何一つ入ってきませんでした。そんな中、彼らをかき分けるような足音が響きました。一人の青年が、牢の前で膝を折ります。彼の笑みは涼し気で、優しくて、まるでそよ風のようでした。具合を悪くしていた私の頬に、心地よく響きました――


 一枚、めくる。


――あなたは私に名前をくれました。私はあなたの優しさをめいっぱい受けて、心の傷を癒すことができました。初めてあなたに紅茶をいれたのは、屋敷に来てから二日目のこと。あなたは苦笑いをしながら、「独特だね」と言いました。不味いとは言わないあなたの優しさに、私はかえって、努力しようと思えたのです。――


 老人の手が震え始めた。


 ――私は紅茶の勉強を始めました。あなたのための一杯を作りたくて、ブレンドを色々と試しました。仕事中には、爽やかな飲み味を。休憩中には、薫り高い一杯を。次第に美味しいと言ってくれるようになって、本当に嬉しかった。

   季節は移り替わり、随分寒さの深まった日の午後三時。私は窓から差し込む四角い光を眺めながら、あなたに休息の一杯を作りました。暖炉の薪がぱちぱちとはぜています。舞い上がる火の粉を横目にしながら、時間を測り、私は紅茶を煎れました。ベリーの甘酸っぱい香りと、基本の紅茶らしい骨太な風味。あなたはいつもより表情を綻ばせて、ゆっくり、ゆっくり、それを味わってくれました。――


「あぁ……」

 感嘆の息を漏らす。手紙は続く。新婚生活のこと。初めてした喧嘩のこと。家を飛び出したシリィを、探しにきてくれたこと。結婚しないのかと周囲の人が騒ぎ始めたけれど、彼が秘密を隠し通してくれたこと。あまりある人生のページを、凝縮した十枚の便箋。

 いつの間にか彼の目には、懐かしさが宿っていた。温かい感情がそのまま涙となって、白いシーツに黒い染みを作っていく。シリィがそっと側に寄って、穏やかな笑みを浮かべる彼の手を握った。


「セオドア、私のこと、分かりますか?」

 艶やかな髪の毛。麗しい頬。優しい瞳。穏やかな笑み。甘い、甘い、紅茶の匂い。

「……あぁ、分かるよ、シリィ」

 彼らを照らす光よりも、よほど二人の方が眩しく見えて、レキシアは目を細めた。




「本当に、ありがとうございました」

 久しぶりに紅茶を飲みほしたあと、彼はまたベッドに沈んだ。今はもう、穏やかな寝息を立てている。レキシアは少しだけ表情を曇らせていた。

 ――きっと、目が覚めたところで、また彼は

 人が最後にかかる病気というのは、そういうものだ。一時思い出したところで、それが永遠になってくれるわけではない。奇跡は続かない。一時だからこそ美しいが、同時に、寂しい。

 それをくみ取ったのか、シリィは首を振った。

「大丈夫です。分かっています。ご主人様の病気は、そういったものですから」

「……」

「久しぶりに名前を呼んでもらって、本当に嬉しかった。私の夫が帰ってきてくれたんだって、心から思えました。あなたには感謝しかありません」

 レキシアは深々と頭を下げて屋敷をあとにした。彼のために我慢をする彼女も素敵だったが、彼のために素直になった彼女は、もっと素敵だった。

 きっと彼らは残された時間、うつくしい時を紡ぐのだろう。片方の記憶から抜け落ちていたとしても、それを補って余りある、過去が彼らにはある。

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