番外編② いつも通り
「おかえりー」
部屋に入った私は、キッチンのシンクで手を洗っている美玖に迎えられた。
「もしかして、美玖も帰って来たばっかり?」
「うん。ついさっき」
「あのさ、外から帰って来たときは洗面所で手を洗ってって何回も言ってるよね」
「いいじゃん、キッチンでも。ちゃんとハンドソープ使ってるよ?」
「そういう問題じゃない」
蛇口から流れる水を止めてから、手を泡まみれにした美玖の背中を押して洗面所まで連行する。美玖が無駄な抵抗をするものだから、床に泡が飛び散ってしまう。
「ほら!キッチンで洗うからこうなるんだよ!」
「真希が押してくるからでしょ!」
「あんたが最初から洗面所に行けば済む話でしょ!」
「じゃあキッチンを洗面所にしてよ!」
「意味が分からない!」
美玖を洗面所に押し込んで、手に付いた泡を水で落とさせる。そして、手が濡れたまま出て行こうとする美玖に「ちゃんと拭いてよ」と注意して、自分もしっかり手を洗ってから、床に落ちた水滴と泡をティッシュで拭き取りながらキッチンへ戻って行く。こんなことをしていると、まるで幼稚園児の娘を持った母親のような気分になる。あんな調子で、よく一年以上も一人暮らしができたなと感心しつつリビングへ戻ると、既に美玖は悠夏から貰ったパジャマに着替えてソファーの上で寝転がっていた。
「ちょっと。せめてお風呂に入ってから着替えなよ」
「だって楽なんだもん。それに、このパジャマ気に入ってるし」
「あんまりずっと着てると、モコモコ感が消えちゃうよ?」
「そ、それは嫌だ」
美玖はソファーからぴょんと飛び起きて、自分の体を抱きしめるようにパジャマを手で触りながら「うん。まだセーフ」と呟いた。
「せっかくのプレゼントなんだから、大事にしなよ」
「せっかくのプレゼントなんだから、着たいじゃん。逆に真希はもっと着た方がいいよ」
「勿体なくて。それに、私にピンクは似合わないし」
「そんなことないよ。真希とお揃いで着たいの」
「うーん」
そんな会話をしながらキッチンへ戻って冷蔵庫を開けると、美玖から「私もビール飲む」というという声が飛んできた。流石、一緒に暮らし始めて半年近く経っただけあって、私の行動パターンはお見通しのようだ。言われた通り缶ビールを二本持ってソファーに戻った。
私から缶を受け取った美玖はすぐにプルタブを引き、勢いよくビールを喉へ流し込んだ。そして、いつもと同じように「苦い!」と叫ぶ。そんなに苦いなら飲まなきゃいいのに。何度そう言っても「苦いけど飲みたい」と突っぱねられるだけだから、もう何も言わないことにする。
そんなことよりも、私には気になっている事があった。
「今日、柊と一緒にどこに行ったの?」
「ハンバーグを食べに。前に真希とも行ったお店だよ」
「柊と二人でご飯なんて、珍しくない?どうして急にそんなことになったの?」
「バイト中にスマホを見たら、柊から『ご飯行かない?』ってメッセージが入ってたから。なんか、真希が悠夏と出かけて、それで......なんか、暇だったみたいで」
美玖の話に一瞬だけ空いた間は、明らかに何か言いかけた言葉を隠したように聞こえた。それが気になった私は、少し追及してみることにする。
「私と真希が出かけてたら、なんで柊が暇になるの」
「いや、なんか......誰かと一緒にいたかったんじゃない?」
「何それ」
「いや、私だって詳しくは聞いてないから......そ、そう言う真希は悠夏とどこに行ってたの?」
「私は買い物だけど」
美玖は、分かりやすく話を逸らした。基本的には目を見ながら喋ってくれる美玖が視線を逸らしながら小さな声で話すのは、何かを隠している証拠だ。
話の流れから推測すると、美玖が隠しているのは柊に関することだと思う。柊から秘密にしてほしいと頼まれている何かがあるのだろうか。
もしかして、悠夏が私に相談している事と同じような秘密を抱えているとか?
柊がそんな重大な秘密を美玖に託すとは思えないけど。
ここは柊のためにも、あまり深堀りはしないでおこう。
「買い物って、何を買いに行ったの?」
どこか遠くへ飛んでいた美玖の視線が私の元へ帰って来た。もう柊に関する話題は終わりにして、早く私と悠夏の話を会話の中心にしたいみたいだったから、素直に私もそれに乗ることにする。
「私が買いに行ったわけじゃないんだけどね。悠夏に一緒に来てほしいって言われて」
柊の誕生日に家まで泊まりに行くという悠夏は、プレゼント選びに相当な気合を入れているようだった。
ところが悠夏は、柊に喜んで欲しいと思えば思うほど、どんな物がプレゼントに相応しいのか分からなくなってしまい、悠夏の”事情”を知っている私を頼ったらしい。「まだ二週間以上先だよ?」と私が言っても、悠夏は「二週間しかないの!」と本気で焦っていた。
美玖への誕生日プレゼントを当日に適当に買いに行く私がおかしいのだろうか。
そんな事を思いつつ、悠夏にとって柊は特別な存在なわけだから焦ってしまうのも仕方ないかと納得した私は、悠夏からのお願いを承諾したのだった。
私たちは百貨店の中を服やアクセサリー、雑貨やお菓子など、柊が好きそうな物を探しながら歩いた。私が何度か気になった物を見せて「これ良くない?」と提案しても、悠夏は「うーん」と唸り声を出すだけで、一向に納得してはくれず、時間が経つに連れて悠夏の焦りは顕著になり、仕舞いには「このお店、何にもない!」と百貨店側に難癖をつけ始める始末だった。
そして私たちは、最後に行った地下の食品エリアでコーヒー豆の専門店を発見した。その看板を見た瞬間に悠夏は「あそこに行こう!」と言って私の手を引き、眼を輝かせながら店の中へ入っていった。
ケースの中に数多く並ぶコーヒー豆を端からじっくりチェックしている悠夏を見て、ようやく見つかりそうでよかったと安心していたのだけど、ひと通り確認し終わった悠夏は私に視線を向けて、「私、コーヒーに詳しくないから分からない......」と弱々しくこぼした。思わずギャグ漫画のようにズッコケようかと思ったけど、今にも泣きだしてしまいそうな悠夏の顔を見た私は慌てて「大丈夫。大丈夫だから。まだ時間あるから。ね?落ち着こう」と慰めの言葉をかけることになり、そんな私たちを不思議そうに見つめる店員さんの視線が恥ずかしかった。
柊への想いを私に明かしてからというもの、悠夏の言動が少しコミカルになっている気がする。
私たち四人でいるときの悠夏が私や美玖に話しかけてくる様子が少し不自然で、大きな声で当たり障りのないことを話しては、少しオーバーなくらい声を上げて笑ったりする。その一方で、柊に話しかけられると明らかに動揺した様子で目を白黒させ、上擦った声がどんどん小さくなっていって、いつの間にか黙り込んでしまう。
そんな悠夏を目の当たりにする度に、私は心の中で「分かりやすいなぁ」と苦笑いしていた。きっと柊も、悠夏の様子がおかしいことには気がついていると思う。その原因が自分にあるとは知らないだろうけど。
私はそのことを、帰りに夕食を食べるために入ったファミレスで直接悠夏に指摘してみた。
「柊が一緒にいるときの悠夏は、誰がどう見ても様子がおかしいよ。分かりやす過ぎる」
それに対する悠夏の答えは「真希さんは私が柊のことを好きだって知ってるから、四人でいる時にどう振る舞ったら良いのか分からなくなっちゃって......」という、聞かされた私がくすぐったくなるような甘酸っぱい理由だった。
「そんなこと言ってるけど、柊と二人きりになったらどうなるの」
そう尋ねると悠夏は、「だから最近、さらに柊にドキドキしちゃって......まともに目も見れないの」と言った。赤く染まった頬の熱を確かめるように自分の手で顔に触れる悠夏の表情は、いかにも「恋する乙女」という感じだった。
こんな調子で、悠夏はこれからどうしていくのだろう。
悠夏は、柊と一緒にいられるのならこのままでもいいと言っていたけど。
まさかずっとこのまま、柊にドギマギするような状態を続けるつもりなんだろうか。
顔に赤みを残したままフォークにカルボナーラを巻き付けている悠夏を見ながら、そんなことを考えていた。
「悠夏は何が欲しかったの?」
エアコンのリモコンを手に取りながら、美玖が尋ねてきた。
「欲しかったっていうか......ほら、今月柊の誕生日じゃん?それで、プレゼントを探すのを手伝ってほしいって。結局、何も決められなかったんだけどね。まだ柊の誕生日まで二週間あるから、また来週も悠夏と出かけるかもしれない」
悠夏の気持ちに関することは省いて、表面の事実だけを美玖に伝えた。すると美玖は突然「あ、そうだ!」と大きな声を出して、暖房をつけたそのリモコンで隣に座っている私の肩をピシピシと叩いてきた。
「な、なに?」
「忘れてた。柊が、誕生日に私と真希も家に来ない?って誘ってくれたの」
「......え?」
「やっと四人でお酒飲めるよ!」
「そ、そっか......」
全く予想外だった。
悠夏から聞いた話では、柊の誕生日に二人で過ごそうと誘ってきたのは柊自身だったらしい。二か月も前から約束を取り付けるなんて、柊もよほど楽しみにしていたんだと思う。そんな柊が、ここへきて私たちも誘うなんて。柊はどうして、こうも間が悪いのだろうか。
「だからさ、次に悠夏とプレゼントを買いに行くときは、私も一緒に行きたい!」
美玖の中では既に私たちも柊の家に行くことは決まっているようだった。それもかなり楽しみにしているのか、私にぐっと近づいてきて目をキラキラ輝かせている。
そんな美玖には申し訳ないけど、私はこう言うしかない。
「やめておこう」
私の言葉はしっかり美玖の耳に届いてくれたらしく、その目から一瞬で輝きが消えた。
「え......なんで?」
「なんでって......ほら、柊は最初に悠夏と約束してたんだから。そこに私たちが入るのは申し訳ないじゃん?」
「でも柊が誘ってくれたんだよ?私たちにも来てほしいってことだよ」
「でも、悠夏には誘われてないでしょ」
「そうだけど......」
美玖は全く納得がいっていないようだ。事情を知らない美玖には、私が友人の好意を無下にする冷たい女に映っているのかもしれない。
それでも私は、その誘いに乗るわけにはいかない。
これが、”事情”を知っている私の役割だから。
*********
「......ビール」
「もう無いよ」
私がそう言うと、美玖は空になった銀色の缶をテーブルの上に放り投げ、そのままソファの上で横になった。対して強くもないクセに、ビールばかり四本も飲んじゃって。
「水いる?」
「......いらない」
「明日もバイトでしょ?そんなに飲んで大丈夫なの?」
「私の勝手でしょ」
説得の末に美玖は、私たちが柊の家へ行かないということには渋々同意してくれた。しかし、酒に酔っていることも影響してか完全にへそを曲げてしまったようで、むくれた顔を真っ赤にして、ぶつぶつ文句を言っている。私の膝の上に足を乗せて横になっている美玖の体を退かそうと、背中を叩いたり脚を揺すったりするけど、美玖は意地でも動かないと決めているようで、体に力を入れてソファから降りることを頑なに拒否した。
「寝るなら自分の部屋に行きなよ」
「ここでいい」
「いつまでへそ曲げてるの。もし柊に何か言われたら、私から謝っておくから。早く起き上がって」
「......区切りを無くそうって約束したんだもん」
「......はぁ?」
よく分からないことを呟いた美玖は、ゆっくり重たそうに体を起こすと、右手で私の顔を指さしてきた。ボサボサになった髪の毛と、私を睨みつける鋭い目が相まって、おどろおどろしい恐怖感が漂っている。
「な、なに?」
「クリスマス」
「......クリスマスがどうしたの」
「クリスマスは四人で遊ぼう」
「いや、私は多分彼氏と会うから無理......うっ」
そう言い終わるかどうかのタイミングで、私のお腹の辺りに鈍い痛みが走った。
「な、なんでパンチするのさ......」
「うるさい!わかったよ。いいもんね。クリスマスは、柊と悠夏と三人で楽しい女子会するから!」
美玖は私の体を叩きながら、そんなことを言っている。
いや、柊と悠夏だって、クリスマスにはどうなってるか分からないよ?
そう言おうかと思ったけど、さらに美玖の機嫌が悪くだけのような気がして止めておいた。
私に何発もパンチを入れた美玖は、再びソファの上に寝転がる。そしてその状態のまま、ぶつぶつと話し始めた。
「そもそもさぁ、真希って彼氏のこと好きなの?」
「......は?」
「全然、惚気話とかも聞かないし。デート行くときだって特にオシャレもしないで、いつも通りの格好で普通に出かけていくし。本当に好きで付き合ってんの?」
美玖は普段、あまり私の恋愛に首を突っ込んでくることは無い。自分に彼氏がいるときは惚気話を聞かせてくる一方で、私の恋愛事には興味が無いようだった。だから、私たち二人で一緒に柊に彼氏ができないことを
そんな美玖が、突然こんなことを訊いてくるなんて、完全に四本のビールが悪い方向に作用してしまっているようだ。
「まあ......普通に好きって感じ?」
美玖に自分の彼氏のことを話すことが滅多にないから、妙な気恥ずかしさがある。中学生の頃に彼氏とデートしていたら偶然母親に遭遇してしまった、あの時の感覚に似ている。
「なにそれ。普通に好きってどういうこと?大好きじゃないの?だから付き合ってるんじゃないの?」
これで納得してくれたらよかったのに、逆に美玖のスイッチを入れてしまったようだった。体をもう一度起き上がらせると、さらにボサボサになった髪の毛を振り乱しながら訴えてくる。
「なんで付き合ってるの?好きになったからじゃないの?」
「いや、まあ......流れで?」
「それが一番ダメなんだよ!そんなだから長続きしないんだよ」
「一応、あなたよりは続いてるんですけど......」
「ビビッときた人じゃないと。この人だ!って思うような、運命の人じゃないと!」
私が今の彼氏と付き合い始めたことを知って、慌てて「私も彼氏ほしい!」とか言いながら大学中を駆けずり回った末に、伝手を頼って即席彼氏を作ったようなアンタに言われる筋合いはないよ。
直接そう言ったらいよいよ何をされるか分からないので、心の中で思っておくだけにして、とりあえず「すみません」と謝っておく。
「あー、もう!そんな『普通に好き』くらいの彼氏なら、私が奪ってやろうかな。顔は悪くないし」
美玖が右の手のひらに左手で作った拳でパンチしながら、そんなことを呟いた。
今の彼氏と付き合い始めてから、何度か他の女の影を感じたことはあった。だけど、一応アイツなりに私の誕生日やクリスマスなどには私を優先してくれているようだし、指摘して言い争いになるのは面倒なので、その度に気付いていないフリをしている。
そんな自分を冷静に思い返してみると、確かに美玖の言う通り、そこまで彼氏のことが好きじゃない気がしてくる。
ただ、そんな私でも、美玖に彼氏を奪われることだけはプライドが許さない。極悪人のような笑みを浮かべている美玖に、「アイツ、金髪の女は嫌いだって言ってたよ」とデタラメを言うと、美玖は自分の右手に向けて打ち込んでいた拳を私の左肩にぶつけてきた。それなりの痛みが走ったが、いちいちリアクションをとるのも面倒なので、無視を決め込む。
私が無反応だったことが面白くなかったのか、美玖はゲップとため息を合わせたような空気の塊を口から放ってから、今度はこんなことを言い始めた。
「じゃあ、私が男になって、真希を彼氏から奪ってやる」
美玖お得意の、『もし男だったら』。今までとは異なり、今回は私ではなくて美玖自身が男だったらというパターンのようだ。
「でも、私が男だったら理想の彼氏だって言ってたじゃん」
「そんな、恋人に興味がないような彼氏は嫌だ。私が男になって、真希を束縛してやるんだ。監禁してやる。他の男には会わせない」
美玖の妄想が徐々に物騒な方向へ向かい始めた。
そもそも私はそんな束縛男となんて付き合いたくなんてないし、男になった美玖を想像することもできない。弟の写真を何度か見せてもらったことはあるが、そこまで似ているわけでもなかったから、男版の美玖を想像するための材料にはならない。
今まで何度も聞かされてきた、美玖の『もし男だったら』
だけど今回は、少しだけ思うところがあった。
それは、美玖には女同士のままで付き合うという発想はないのか、という疑問だ。
こんな事を思ってしまうのは、間違いなく悠夏の影響だろう。
同性の人に恋愛感情を抱く人がいるという事は理解していたが、自分とはかけ離れた世界の話のように感じていた。
もちろん、そのような人たちに対して偏見を持ったりはしていないし、嫌悪感を抱いたりもしていない。だが心のどこかで、男女の恋愛とは異なる特殊なものなのではなかと思っていた節があった。
ところが、悠夏から相談を受けているうちに私は、恋に性別は関係ないのだということに改めて気づかされた。
その感情が異性に対して生まれたものでも、はたまた同性に対して生まれたものでも、それが「恋」であることには何も変わりはないのだ。
とにかく悠夏の頭の中は柊のことで埋め尽くされていて、他のことを考えることができないという状態らしい。
当然、「女同士だから」という悩みが無いわけではないだろうけど、今の悠夏にはそんな悩みを抱える余裕すらないようだ。とにかく今の悠夏が抱える最大の悩みは、「柊のことが好きすぎて困る」という一点らしい。
そんな悠夏を見ていると、その恋が同性への感情であるということなどは関係なく、純粋に心から悠夏を応援したくなるのだ。
もし、美玖がこの話を知ったらどう思うだろうか。
「恋は異性と育むもの」と信じて疑わない目の前の金髪女はどんな反応をするのだろうか。
「......必ずどっちか男にならないとダメなわけ?」
試しにそう尋ねてみると、美玖は怪訝な表情を私に向けて「当たり前でしょ」と言った。
「じゃないと、私が真希を奪えないもん」
そうか。やっぱり美玖には、それ以外の発想はないのか。
それが当たり前なのだ。
「......別に、男じゃなくたっていいんじゃないの?」
私の口は、そんな言葉を発していた。
美玖はその言葉を聞いて、きょとんとしたまま私の方を見ていた。その『?』でまみれた視線の先に、私も自分の視線を繋げてみる。
エアコンから流れ出る暖かい空気が充満していく部屋の真ん中で、ソファーに横並びで座りながら黙って見つめ合う。シチュエーションだけを取り出してみれば最高に甘い時間に感じるけど、正直なところ心情は普段と何も変わらない。自分なりに禁断の領域へ一歩踏み込んでみたつもりだったのに、美玖は何も感じていないようだ。というよりも、理解できていないと表現した方が正しいかもしれない。
何か面白い反応が返ってくると思ったのに、目の前の美玖は眉間にしわを寄せたり開いたり、首を捻ったり戻したりするだけ。どうやらビールに浸った脳みそで一生懸命に考えているらしいけど、一向に答えに辿り着きそうな雰囲気はなく、完全に目が据わってしまっている。
つまらない反応だな。
なんだか物足りなさを覚えた私は、美玖の方へ体を寄せてみる。その怪訝な眼で私を見つめている赤ら顔が目の前まで近づく。じっと見つめ返すと、その丸い瞳が微かに揺れ動いているのが分かる。反応は鈍いけど、それなりに動揺はしているみたいだ。
さらにぐっと顔を近づけると美玖は「え?」「いやいや」「ちょっと」なんて声を出してくれた。ようやく期待していたような反応が見え始めたことに楽しくなってしまい、さらに美玖の動揺を引き出そうとしてみる。
「なに?美玖、どうかしたの?」
「いや、えっと......え?」
「私の言葉の意味、分かった?」
そう尋ねてみると美玖は「わ、わ、わ......」と、まるで傷がついたCDのように繰り返して、そのままフリーズしてしまった。
もっと踏み込んだらどうなるんだろう。
そう思った時には、既に美玖を押し倒していた。
美玖の驚いた表情の上に私の影が重なり、美玖の顔色を読み取るのが難しくなった途端、私は一瞬で冷静になった。
私は何をしてるんだ?
そんな想いが頭に浮かんでいるのに、私の中に生まれていた好奇心は去ってはくれず、むしろ大きくなっているのを感じる。
このまま進んだら、どうなるんだろう。
体が勝手に動き、美玖との距離が更に縮まっていく。
これは......ヤバいかも。
私がそう思うと同時に、美玖の口が開いた。
「......ヤバい」
まるで心を読まれたかのように、私の心情と同じ言葉が美玖から飛び出した。
お互いにそう思ってるなら......
「......吐きそう」
「は?」
美玖の口から飛び出した予想外の言葉に、私の胸の奥に積もっていた重い熱が一気に引いた。
「は、吐きそう......ヤバい。吐く!」
覆いかぶさっている私の体からスルリと脱出した美玖は、そのままトイレの方へドタバタと走って行った。
勢いよくトイレのドアが閉まる音を聞いた私は、美玖が仰向けになっていたスペースにそのままうつ伏せで倒れ込んだ。
私......何をしようとした?
自分自身に混乱していると、トイレの水が流れる音の中から、バタンと扉が閉まる音が顔を出した。見ると、美玖がフラフラとした足取りで壁にぶつかりながら戻って来て、そのまま私の方を一切見ずに自分の部屋に入っていった。その表情が確認できなかったことで、一気に不安が私を襲う。
もしかして、怒らせたかな。
ソファーから降りて恐る恐る美玖の部屋のドアを開けると、その中には暗闇が広がっていた。こちら側から部屋の中へ伸びていく少しの光を頼りに美玖の様子を確認すると、いつも眠るときは豆電球を点けている美玖が、真っ暗な中でさらに毛布を頭から被ってベッドの上に横になっていた。
「......美玖?」
名前を呼んでも、全く反応がない。
そっと近づいていき、もう一度「おーい、美玖」と呼んでみても、やっぱり反応はなかった。もしかしてと思い、ベッドの横まで行ってゆっくり毛布をめくると、美玖は口を半開きにして寝息をたてていた。
やっぱりか。
トイレで吐いてから一分も経たずに、よく眠れるな。
そのだらしない寝顔をじっと見ていると、その柔らかそうな頬を無性に触りたくなってくる。
眠っている美玖にちょっかいを出したことは何度もあるけど、今日のこの衝動は、また何か違う種類のように感じる。
ここで実行に移してしまったら、何か取り返しがつかなくなるような事態になるような気がする。
私は美玖に毛布を掛けてあげて、照明の豆電球を点けてから逃げるように部屋を出た。
リビングのローテーブルの上に転がるビールの空き缶を無視して、そのまま私も自分の部屋へ直行した。とにかく今は、私も眠ってしまうのが得策だと考えたから。
あの様子だと美玖は、明日の朝には一連の出来事を忘れている可能性が高い。それに乗じて私も何事もなかったように振る舞えばいい。
いや、『何事もなかったように』もなにも、本当に何もなかったんだから問題ない。私が美玖をちょっと揶揄っただけ。どうして、ここまで色々と考えなければいけないんだ。
自分で自分の心の声が鬱陶しく感じてきて、それを黙らせるためにベッドへ潜り込んだ。さっさと眠ってしまおうと眼を閉じたところで、自分が悠夏と買い物をして帰って来たままの格好で寝ていることを思い出して、すぐにベッドから出た。
真っ暗な部屋で裸になり、寝る時に着ているインナーを着る。そしていつも通りのルームウェアーを手に取ったけど、ふと悠夏から貰ったパジャマと、美玖の言葉が頭に過ぎった。
「真希とお揃いで着たいの」
......たまには着てあげてもいいか。
そう思った私は、美玖と全くお揃いのパジャマで身を包み、再びベッドに入った。確かに美玖の言う通り、肌に伝わるフワフワとした感触が心地いい。
明日、美玖はどんな反応するだろうか。
そんなことを考えていると自然に瞼が降りてきて、そのまま眠りに引き込まれた。
翌朝、「あたま痛い」とぶつぶつ繰り返しながら眼の下にクマを作って部屋から出てきた美玖は、パジャマ姿の私を見て「え!着てるじゃん!」などと騒いでいたけど、案の定、昨夜の一連の出来事については何も触れてこなかった。美玖が酒に弱くて良かった、と胸を撫でおろしながら、私のパジャマ姿を写真に撮り続けている美玖からスマホを奪い取った。
「あー!ちょっと、返してよ!」
「撮影禁止。それより、シャワー浴びてきな。昨日お風呂入ってないんだから」
ちぇー、と言いながらその場でパジャマを脱ぎ始める美玖に、「ここで脱ぐな!」と一喝する。
寝る時は下着を着けない派の美玖がパジャマを脱ぐと、なんとも寂しげな胸が一瞬にして露わになる。それに対して全くの平常心のままで美玖を脱衣所まで連行する私と、そんな私に抗う美玖。
いつもと変わらない日曜日の朝にいつも以上の安心感を覚えながら、全裸になった美玖のお尻を蹴ってバスルームに押し込んだ。
忘れた頃に彼女は フジ ハルヒ @hujihuji
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