主人公=作者について
最初に、主人公=作者は駄目だとかそういう話ではないと一応言っておく。小説の書き方は人それぞれで、自分に合うやり方が一番いいと思うので。
昔自作に対する意見で、表題の様な事を言ってくる人がいた。例えば殺人鬼の主人公を書いたとして、その殺人鬼は作者がやりたいことであり、もっと自分のやりたいを煮詰めて書くべきだ。みたいな感じの意見だった(その話は殺人鬼の話ではなかった 一例としてあげているだけ。念のため)。
その意見はどうも腹落ちできなったが、同時に思ったのは「面白い考えもあるものだ」だった。自分には全く主人公と作者を同一視する考えがなかったからだ。自分が思いもしない考えを聞くのは興味深い。
一般的なのかと思って、調査のためWEBの創作論のエッセイを拝読していると作者=主人公と語る人はいて、割とよくある意見のようだ。
思うに、殺人鬼(加害者)を主人公にするだけならともかく、今度は被害者を主人公にするとかもありうるので、じゃ本当の自分って何だろうと思わなくもない。一作で両方の視点がある場合とかもありうるし。
トラウマがある主人公を書いたりすると、それは作者の体験とか言われたりしたこともあるが、全くそんな経験はなかった(実は人から聞いた話を参考にした)。
作品に出してる要素でこれが好きなんですね とか急に言われて驚いたこともあったが、別に好きでもなんでもなく自分が書いていることを忘れているくらいだった。
これは目線を変えると作品をどのように創作したかは、当の作者本人じゃないとまずわからないということで、自分も人の作品をよんで勝手に決めつけるべきではないという学びではあった。
自分で体験しないことでもそれっぽく書けるのが、小説のいいところだと個人的には思う。
主人公=作者に違和感を感じるか(腹落ちできなったか)という考察をしてみる。こういう考察は小説を書く際の参考になるかもしれない。
まず、主人公が作者だという意見は、「となりの家に住んでいる鈴木さんは貴方です!」といわれているような感覚がある。
この鈴木さん(例で実際に隣に住んでるわけではない)が自分とどんな関係なのかにもよるが、他人である以上、「そんなわけないだろう」と思うのが普通の感覚だろう。
この命題は正しいともいえるし、間違っているともいえる。
1.隣の鈴木さんは他人である。故に自分ではない。
2.この世で認識できることはすでに自分の脳内にあることであり、鈴木さんは自分の一部として存在している。他人と思っているがその実、自分の中の記憶で作り上げている自分の一部である。
という感じだろうか?
1は間違っている。2は正しいという考えになる。
1の場合は、小説の主人公と作者は、そもそも名前も思考も住む場所も、さらに価値観も違うので別人だというのは至極当然の話になる。
2の意味では、主人公=自分も正しいといえるだろうか?
自分が腑に落ちない理由はどうもこの1の理由が主だと思われる。
個人的には小説を書くという工程は、この隣の鈴木さんに生い立ちやら話を聞き、人に分かりやすくまとめる他者紹介だと思うからだ。(実在の人物ではない場合、話を聞くことはできないので、設定資料とかに起こすわけだが)
人に鈴木さんを紹介するには、好きなものや、好きな異性のタイプ、年、性別、生い立ちを知らないとできない。
何も知らない人は、鈴木さんの性別も年齢もわからないのだし、興味を持たせるなら、実は失恋したばかりだとか、旦那さんが失踪したとか、奥さんと仲良くやってるとか、エピソードとか、失敗談があるといいだろう。
キャラは他者紹介だと考えると、人にどう伝えるかと興味を引くかという点に着目できて、創作に役に立つかもしれない。
ただ、2の考えもあるので、これが唯一正しいというわけではない。人それぞれというのがいいやり方なのかもしれない。
とりとめもない雑記 海青猫 @MarineBlueCat
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