詰襟とヘッドフォン

真花

詰襟とヘッドフォン

 自分の残り時間を意識したことは一度もなくて、だから実質、時間の感覚なんてなかった。卒業まであと一年半と数えてみても、それはさらりと越える節目に過ぎず、もしくは大学受験のタイミングを示しているだけで、昨日と今日と明日の違いのない、同じ日々。

 詰襟とセーラー服の進学校に入学した日の充溢した未来への熱情が、毎日に削られてもう滑らかなゴムみたいで、弾むことはあってもそのボールはいつも手元に返って来ては、いずれ次に投げる距離も短く、俺は大きくあくびをする、昼休み。

 視界に入った木崎きさき君はいつもヘッドフォンをして何かの音楽、もしかしたら落語かも知れない、その世界に一人で漂いながら窓の外を眺めたり、ときに何かを記したりする。彼と話したことはあっても、彼の耳を塞ぐもののためにお互いの時間を重ねて割いたことはない。

 今日を昨日と少しでも違うものにするために必要な勇気は風呂桶一杯分、自分が浸かって染まるくらいが要るから。慣性の法則に抗うのか、静止摩擦係数を超えるのか、妙に物理な比喩ばかりが浮かんで、俺は机から離れられない。木崎君は外を見ている。

 どうしようか。

 俺は彼の後ろ頭をじっと、片想いか絵画を観るときくらいにしかしない熱の籠った視線で焦がして、その発火に気付いたのか木崎君がくるりと俺の方を向く。

 眼と眼がバチンと音を立てる。

 咄嗟に逸らそうとしても出来ないから、俺は、ニヤリと笑う。その笑顔に根のある意味はない、ただの仮面だ。でも、木崎君にはそうは映らなかったのか、彼もニコリと笑う。弱々しく、屈託の滲む、なのに、世界の底を知っているような。引っこ抜かれるように俺は机を離れ彼の前に立つ。木崎君はゆっくりとヘッドフォンを外す、そこだけ時間の流れが違うみたいに。

湯島ゆしま君、何か用?」

 彼は平静、いや穏やかに、いつもの授業中の緊迫した彼ではなく、まるで彼の自前の空間に俺を呼んだがために平気でいられるような。彼は彼の領域から出ると怯えたように、その中に入ると平穏に、そう言うことなのかも知れない。普通は自分の範囲ってのは自宅とか友達との間だけで、学校とかそれ以外の時間は外だ。でも彼は外の中に自分のテリトリーを組んでいる。きっと、そうしないと息が出来ないんだ。だから、その外とやり取りをするときには、潜るような感覚で。俺達がいつも見ているのは素潜り中の彼で、正体ではなくて。

「いや。ちょっと興味があってさ」

 さっきまでともう興味の内容が変わった。どうやって彼のための空間を、そのヘッドフォンが生んでるかが知りたい。

「何に?」

「木崎君はいつも聴いてるじゃん。どんな曲聴いてるのかなって」

 彼は両手でヘッドフォンを触る。大丈夫だよ、奪ったりはしないから。

 視線が一瞬迷った後に、彼は、知らないかも知れないけど、と始める。俺が慣性を抜け出すのよりずっと、見た目は簡単に彼はいつもの彼から逸脱した。それとも、彼にとっては自分のひたっている音楽をクラスメートに伝えることは大きな「いつもと違う今日」ではないのだろうか。もしそうなら、怯えて生きているように見える木崎君の方が俺よりもずっと新しいことに対する勇気を持っている。……胸の中に掌で押したようなへこみ。

「THE BLUE HEARTSだよ」

「聞いたことはある。あ、いや、曲は知らない。名前だけ」

 彼は頷く。彼のテリトリーのもう一つ奥に連れ込まれた。

「大切なんだ。いつも聴いてる。……湯島君、聴いてみる?」

「いいの?」

 木崎はMP3プレーヤーを操作して、この曲がいい、と俺にヘッドフォンを装着することを促す。俺は彼の机の前に立ったまま、耳を済ませる。遠くから汽車のような音、そしてピアノと男性の声。


 こんな音楽があるのか。木崎君はいつもこの世界の中にいる。この歌には空間を保つに値する力がある。

「TRAIN-TRAINって曲だよ」

「トレイントレイン」

「どう、……だった?」

 今だけ彼が正体に戻ったのは、もし否定されたなら空間ごと破壊されるだけじゃ済まなくて、彼の愛するものを拒絶されることは、彼が俺から排斥されること。だったらなおさら武装すればいいのに、だから好きなものを人に提示するのはリスキーなんだ。好き過ぎて、防御の態勢が取れない。好きってのは明け渡すことなんだ。

「信じられない。知らずに生きて来たのがどれだけつまらなかったか、今悟ってる」

 木崎君は嬉しそうに、本当に嬉しそうに太陽がそこだけ照らしたかのように笑う。

「もっと聴いてみてよ」

「聴く。これは聴かずには生きられない。明日俺のMP3空にして持って来るから、それに入れてくれよ」

「ファイルで送るよ。パソコンのアドレス教えてくれれば」

「じゃあお願い」

 アドレスを渡して、じゃ、と言って俺は俺の席に戻る。

 頭の中で曲が回る。俺は眼を瞑って、リフレインに身を任せる。木崎君は彼の大切なものを俺に分けてくれた。触れ合わぬ隣人だったのが、大事を知った相手になった。ブルーハーツは誰のものでもないけど、俺にとっては木崎君がくれたもので、彼の中のかけがえのなさが楽曲にくっついている。


 放課後に田端たばたと校門でばったり会ったので一緒に帰る。会えば帰り道はつるむし、会わなければわざわざ連絡を取り合うことはない。田端はご機嫌に沿った大声とジェスチャー。

「湯島、今流行の『ジェラードッグ』のステッカーが手に入ったんだけど、見るか?」

「別にいいよ」

「そう言うなよ。クラスの女子なんかキャーキャー言ってたぜ? 『ストラッチャテッラ』かわいいぜ?」

 俺の返事より先にアイスクリームの溶けたような犬のイラストが入ったステッカーを見せられる。流行ってのは理解が出来ない。流行っているから流行っているだけなんじゃないのか? ものを見る眼がない人々を扇動してるだけなんじゃないのか?

「犬だね」

「まあ、そんな反応だと思ったよ。でもな、今日はとっておきがあるんだ」

 イヤホンを出すと渡されて、俺は渋々耳に付ける。

「聴いて驚くなよ」

 遠くから列車の音。ピアノと彼の声。

 俺は引きちぎるようにイヤホンを外す。

「お前、この曲、どうしたんだよ!?」

「ふっふっふ。これこそが今の最大のトレンドなんだよ。何十年も前のバンドだけど、名曲だろ? ってお前最初しか聴いてないじゃん。名曲を聴かせてやるってんだ、聴けよ」

「この曲は知ってる。でも、どうしてお前が聴くんだよ!」

 急に言葉のボルテージが上がったのに田端は怯んで、え、え、と眼を瞬かせる。

「だから、流行ってんの。流行ってるから聴くんだ。当たり前だろ?」

「流行りで聴いていい曲じゃない」

「いきなりなんだよ。流行った方がアーティストも売れて嬉しいだろ? それにどの曲を聴くかはそれぞれの勝手じゃん」

 それは正論で、論破なんて不可能で、俺は感情論で、でもその感情は俺のためのそれではなくて。

 木崎君の命の歌が、使い捨てにされている。田端は来年にはブルーハーツのことを忘れているだろう。流行っているなら同じことが多くの人に起きている。その中に僅かでも魂に届いた人がいれば許されるのだろうか。誰に? ブルーハーツに? 木崎君に? それとも俺に?

 耳から入った衝撃は脊髄を降りて腹の底に至り、そこにマグマを煮え立たせる。

 だから俺は何の理解もされないままに田端を殴りそうで、違うだろ、友達をこんな訳の分からないことで失ってはいけない。

「田端、ごめん。俺混乱してる。危険だから一人で帰るわ」

「あ? 危険なら俺が一緒の方がいいだろ」

「違う。俺がお前に危害を加えないかが危険なんだ。整ったらちゃんと説明する。ごめん。一人にしてくれ」

 田端は梅干しみたいな顔をしてから、溜め息をく。

「分かった。ちゃんと説明しろよ。じゃあな」

「ごめん」

 通学路に一人残されて、スーハーと息をする。体の中に煮え滾っているものが治らない。

 ブルーハーツがファッションにされている。

 それが今起きていることだ。

 ファッションであることと、木崎君が生きる糧にしていることは両立する。なのに、両方があることが我慢出来ない。穢された。人が真剣に愛しているものだから、そう思うのだ。


 家に帰り木崎君から送られたTRAIN-TRAINを聴くと、はらはらと涙が出た。何度も聴くより早く、この歌が俺にとっても大事になるって分かった。分かったら蕾が綻んだ、毎日が平坦の連続ではなくなった。感じる、時間は在る、流れる。

 今日も学校には詰襟が並ぶ、でもその中身は二つに分かれる、木崎君はずっと生きていた。俺も、もう戻れない。


(了)

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