第6話

「ここらが潮時かね」

 目前の暗闇に出現した皺くちゃの老爺を、英司は指一本震わせることなく目視する。

 老爺は呆れるほど長い息を吸い、男の声や女の声、細い猫なで声や鋭い絶叫をひとしきり繰り返し、息が切れると咳きこんだ。

「――この声も弱ってしもうた、暗示すら掛けられんほどに。宮森と言ったか、彼のように疑い始めるものが出れば、もう引き上げるしかない。早いうちに殺してもよかったが、君が話し込んでいたから放っておいた。結果、使えたのは収穫だったね」

 老爺は宮森の消えた家の裏手を指し示す。収穫だった、と言う割には、切なげに頷いて歩き始める老爺の後ろを、英司はついていく。

「彼が最後ですか」

「そうだ、もうこの辺りは十分な数を集めた。七十年は保つだろう。彼らの命が尽きるまでだ。――さて、仕事をやっていく決心はついたかい」

 英司は逡巡しゅんじゅんなく首を縦にひとつ振る。

「そんなものは、最初から変わっていません」

「そうか」

「ですが、ひとつだけ聞かせてください」

「なんだ」

「これで本当に、世界が救われるのですか」

 老爺はぐわりと目を見開いて、頓狂とんきょうな笑い声をあげだ。その響きは、少年の断末魔の悲鳴に似ている。呪力こそ失われても、人を恐怖させるには十分過ぎるだろう。

「救われるとは大きく出たな。――そう、確かに人は救われるだろう」老爺は真顔に戻って英司を見据える。「自分らで開けたのだ。天地開闢以来、何億年と均一に広がっていた闇を、この数百年で端へ端へと押しやって開いた穴だ。ほとんどの人間は中身が漏れ出しても見向きもせん。だが世界とはよくできているもので、穿つ者がいれば、その逆をする者も同時に存在する。……偉そうに言ったが、我々の力では穴を塞ぐことは出来ん。だからせめて、外から同じだけの力をかけて、均衡を保つしかない」

「穴の開いたボールに、空気を入れるようなものですか」

「上手いたとえだ。穴は無数に開いている。しかしどこかから空気を入れ続ける限り、完全にしぼみきってはしまわない」

「その役割を、子供たちが」

「合理的な采配だ。穴の開いた当初から行われてきた方法だ。内実は違ったがな。昔はこんな辺鄙へんぴな村でも子供が溢れるほどいたから、不用意に闇に迷い込んで、家に帰りたいと泣き叫ぶ純朴な子供を引き込むのは容易たやすかった。だが今は闇の中でふらつく子は珍しい」

 ただやはり世界はうまくできているものでね、と老爺はくすりと忍びわらう。

「今の子らは別の世界を求めている。突発、慢性、強弱こそあれど、外へ行きたいという願いには変わりない。自身の未来に絶望する者、日常の倦厭けんえんに耐えられぬ者。……我々はただ闇の中で待っていればよい。向こうから勝手にやって来るのだから」

 二人は歩く。老爺は民家の角を曲がり、暗がりの中で這うように進む宮森の背後に立つ。

「しかし彼らは、別の世界に行きたいわけではないんだよ」背後に立つ老爺に気付いた宮森は、笛のような息を鳴らし、溺れるように藻掻く。「今生きている世界に満足いかないだけだ。だからこうして、元の場所へ戻ろうと藻掻く。こんな広大無辺の闇を求めて来たのではない、もっと素晴らしい世界が待っていたはずだといきどおりながら」

 老爺は雪を散らして暴れる宮森の身体を苦もなく持ちあげて立たせる。抱えられた猫のように呆然と立ち尽くした宮森は、しかし己の脚が身体を支えていることに気付くと、思い出したように駆け出した。

「……彼らが必要だ。外へ外へと飛び出したい衝動を持ちながら、何一つ故郷を捨てる覚悟のない者が。彼らは外の世界に焦がれて、この路地にやって来る。しかし自らの世界を取り巻くのは、無限にも等しい闇の世界。望んだ世界と違うと悟ると、一目散に元の家に帰ろうと駆け出す」

「それを利用して世界を守るのが、あなたの仕事ですか」

「これからは君の、だ」

 そう言うなり、老爺の顔は急激に萎びていく。くずおれそうな身体を支え、塀にもたれるよう座らせた。雪が降り注ぐ。萎びた老爺の身体を冷やしていく。


「……君が初めて路地に迷い込んできたとき、私は懐かしい友人に会ったように胸が熱くなった。過去の自分と重ねたのかもしれない。私も空虚くうきょな人間だった。私は君に何も教えなかった。しかし君は私の仕事の意図を汲み取って、おのずから手を貸し始めた。私は君を後継者に相応しいと思った。そして今夜確信した。――君にこの仕事は向いていない」

 老爺は苦し気な笑みを浮かべた。呼吸は浅く、湿ってごろごろと鳴っている。

「弟を追って来た。居ても立ってもいられずに。君には心がある。だが我々は鬼だ。悪魔だ。連続誘拐犯か殺人鬼といっても何ら差し支えない。無意味な生命の住む矮小わいしょうな世界を守る――そんな無意味なことに命を費やす、空虚な存在だ。だから君には――」

「分かります」

 英司は萎びて青黒く腐り始めた老爺の頬を撫でる。

「あなたが僕を選んだにも関わらず、継がせたくない理由。お辛いんでしょう。無意味な世の中、無価値な命と思っても、人の人生を奪ってしまうことが。あなたは優しい。優しさを持ち合わせながら永い間、こうやって勤めを全うしてきた。――でも安心なさってください。僕には心がない。あなたは、僕が弟を追って来たと言いましたが、それは違う。だって僕は、弟があなたに連れ去られたと知っていたから」

 老爺の目蓋が僅かに痙攣する。

「弟は僕に敬語を使いませんから、三途の川のメッセージは嘘だとすぐに分かりました。気にしていたのは、この路地へ来る理由はあっても、戻りたいという強い願いのない弟が役に立つのか、ということだけです。僕は正真正銘の化け物です。あなたの方が、この仕事に合っていなかったんだ。だから何も考えず安心して任せてくださればいいのです」

 そうか、と老爺は長い息を吐く。

「……それを聞けて、良かったよ。なぜなら私は弟君を殺してしまったから」

 英司の息が、僅か、止まる。

「君の言う通り、彼はすぐ無気力になって座り込んだ。さして現実世界に魅力を感じていない、希死念慮きしねんりょを抱える人間が、たまにいる。でも驚いたことにね、兄貴が気付いてくれる、助けてくれるって歩き始めたんだよ。……長年の癖でね、使える、と咄嗟に思った。けれど同時に、これから先、この闇の中で彷徨う君の枷になると可哀想だとも考えた。そして殺しておくことにした。とても胸が痛んだよ。君には心があると思っていたから。……だが違うなら幸いだった」

 心を持ったままでは夜は辛い、そう言いながら老爺は目を閉じる。


 それを最後に、老爺は赤子のように小さく萎んでいった。残ったのは黒い腐臭を放つ塊だけ、それも次第に闇に溶け、かたわらの側溝へと沈んでいった。

 英司は立ち上がり、北の方を見遣る。

(殺されたなら、この無限の夜を歩かなくて済む)

 不意に弟の顔が浮かぶ。腹の奥が熱い。

(こんな化け物のどこが良かったのか)

 力の限り叫んだ。人ならざる者の絶叫。

 長い長い息を吐き切ってようやく、身内の火照りが消える。

(僕は冷たい)

 感情などない。命が尽きるまで、あと七十年か八十年。叫びをあげて人を惑わし、骨を拾い集める一生を送るのだ。

 どこかで遠吠えのように返ってきた帰還を乞う叫びを耳に、英司は夜の彼方をゆっくり歩き始めた。

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夜の彼方 小山雪哉 @yuki02

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