第5話

 ほんの少し呼吸を繰り返して、後を追った。駆けはしなかった。雪についた宮森の足跡を懐中電灯で照らしながら、黙々と北へと歩いた。


 袋小路に辿り着いた。突き当りには二階建ての古めかしい日本家屋が建っている。

 表札は出ていない。門はなかった。

 玄関へ続く石畳を進むと、途中で縁側のガラス戸が開いているのを見てとった。おそらく宮森が侵入したのだろう、足跡は縁側の前を右往左往して、戸の隙間へと消えている。

「悠」

 無意識に呟いて、息を呑む。

 ――弟が悲鳴を上げていたとして、何だというのだ。

 顔面蒼白の宮森を思い出す。そう、彼が気になって来ただけ。何度も自分に言い聞かせながら縁側へ侵入する。板廊下に、足跡が黒い染みをつくっていた。辿った先には階段がある。

 唐突に絶叫が響いた。天井裏を地響きが伝う。恐ろしい勢いで階段を下る音がした。

 何度も階段を踏み外し、文字通り縁側に転がり込んできた宮森は、そこに立ちはだかる人影に絶句する。目に映った表情のない顔に、辛うじて意識を保った。

「うえ、うえに、皺くちゃの、奴が。叫び声、そいつが口を開けて……」

 息も絶え絶えに足にすがりつく小さな体を支え、背中をさすってやる。

「早く、逃げて……」

「大丈夫」

 背中を突き破らんばかりの鼓動を掌に感じながら、英司は宮森の姿と弟を重ねていた。小児喘息を患っていた弟は、母親がいないときも、しばしば小発作を起こした。弟は「すぐ治まるから来るな」と言ったが、背中をさすってやると、喘鳴ぜんめいは苦しげなのに、安堵の表情を浮かべた。それがとても不思議だった。


 宮森は震えながら立ち上がり、覚束ない足取りのまま縁側から外へ出ようとする。

「行きましょ、早く逃げないと、降りてくる」

「大丈夫、君が見たのはこの家の爺さんだろう。向こうも驚いて、腰を抜かしてるさ」

 再び背中をさすろうとした瞬間、宮森は機敏な動作で、英司の手を擦り抜けた。庭へ駆けおり、距離を取って振り向いて瞠若する。

「オレ、爺さんって、言ってない」

 宮森の叫びは声にならなかった。「やっぱり、やっぱり」とかすれた息を吐きながら、殺人鬼から逃げるように、一目散に路地を戻っていった。



(やっぱり、兄貴が誘拐犯だったんだ)

 そして殺人鬼だった。

 細い叫びに誘われるまま、あの家の二階へ飛び込んだ宮森は、そこで幾多の白骨を見た。墓場というにはむごすぎる、剥き出しの死。鼻を覆うような腐臭が、生々しい死体も横たわっているぞと主張していた。

 部屋の中央に老爺は立っていた。最初は首を括った人間かと思った。細い声が漏れていたから。しかしその声が、路地で何度も耳にした声であり、悠の悲鳴だと思って追って来た声だと理解した瞬間、老爺は蝦蟇のごとく大口を開けて絶叫した。


 雪に足を取られながら、最前まで英司のことを信じかけていた自分を呪った。

「兄貴だけは信用してるって、言ってたじゃんか、悠……」

 あの皺くちゃの爺とグルだったなんて。

 悔しかったが涙は出なかった。ただ後ろから追いつかれるという恐怖が感情を支配していた。

 東へ駆ける。まだ深夜二時ごろのはずだが、東の空は薄ぼんやりと白んでいた。眠らない街の明かりを映しているのだろうか、低く垂れこめた雲は、微かに瞬いている。

 路面の雪についた二人分の足跡を辿る。雪は依然として降り続いていたが、高い塀に囲まれているお陰か、足跡を完全に覆い隠すほど積もってはいない。

 左へ右へ曲がり、元来た道を戻る。悠のことが頭にちらついたが、二人が相手では、どうしようもなかった。

「くそ、リュック渡したままだ」

 走るしかなかった。二人をまいて、家まで全速力で帰る。いや、どこかの家に押し入ってもいい。とにかく警察に通報して、路地を、四丁目を徹底的に洗ってもらう。今夜のうちなら、遺体なり凶器なり、証拠を隠しきることは出来ないだろう。


 奥歯を噛みしめながら走っていると、見覚えのある直線に入った。五十メートルほどの、電柱が等間隔に並んだ、路地に入って最初の直線。三途の川の辺りは真っ暗だが、もう出口は目の前だ。力の限り走った。また骨折するかもしれない、と思った。それでも足は意思とは別の強烈な命令で動く。――命を守れと。

 あと三歩、二歩、一歩。最後は前のめりに地面へ飛び込んだ。腹と足を擦ったが、野球をやっていたお蔭か、上手くスライディングできた。

 激しく呼吸し、全身の空気を入れ替えて顔を上げる。

 壁。壁。壁。

 背丈ほどのブロック塀が、真横に走る細い道を隔てて、立ちはだかっている。

(臭いが……しない)

 ここは三途の川のはずだ。しかし側溝はなく、歩道と車道を区切る縁石もない。

 明らかに路地の内部だった。

 宮森くん、と背後から呼びかけられる。振り向いて人影を視認するやいなや、身体が跳ね起きる。「あ、ああ」と喘ぎが漏れた。

 起きた。走った。東へ、空の明るみだけを頼りに。

 宮森くん。

 路地から抜けようと、いくら走っても、背後の声が付き纏う。もう呼吸が限界だった。

「宮森くん」

 手の届きそうなほど近くの声に、意味不明に喚き散らす。手当たり次第掴んだ雪を投げつけ、雪が掴めなくなれば腕を振り回した。

「じっとしてなさい。逃がしてあげるから」

「やめろ、来るなぁ」

 後退っているうちに、背中が塀についた。追い詰められた宮森は、ひし形に模様の入った透かしブロックを見つけると、反射的に足を掛けて上へと登る。自分のどこにそんな力があるのか、呆れるほど俊敏な動作だった。

 塀の上まできた。すぐ足を掛けられそうなところに、家のひさしが伸びている。躊躇なく廂へ乗り移った。一階の瓦屋根を反対側まで伝っていく。電話線を支えに、家の東側へと曲がった瞬間、宮森は動きを止めた。

 視野には一面、民家が広がっていた。一面――地平線の彼方まで。家並みを区切るのは細い路地。見渡す限り路地に囲まれた世界で、ただ東の空だけが、さっきから全く変わらない薄白い光をたたえている。

 宮森は屋根の上でくずおれる。ずるずると身体が瓦を滑り、僅かな浮遊の後、地面に叩きつけられた。しばらく蹲っていた。目を強く瞑り、頭を叩く。(こんな世界、あるはずがない)

 ただ東の明るみだけを思い描いた。

(家も、学校も、デパートも、全部あの都市まちにあるんだ)

 ――帰らなきゃ。

 地面に爪をたて、四つん這いのまま身体を引きずり始めた。

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