第4話

 身体が小さくてもホームランは打てるし、努力次第で対格差をものともしないほど、技巧的なプレーもできる。天性の才能がなくても、真摯に練習に打ち込んで、心ゆくまでスポーツを楽しもう――そんな健気な願いは、少年野球団に入団して早々、骨折であっけなく崩れてしまった。

「――生まれたときから骨が折れやすいんです。軽度だけど難病で。大人しく生活してるつもりでも、毎年一回は折れます」

 でも、どうしても野球がやりたかったんです、と宮森は腕をさする。古傷が痛んでいるのか、もしかしたら今も治療中なのかもしれない。

「医者と相談して、なんとか続けてはいたけど、中学に入って早々、練習で骨折して。……当然ですよね。こんな接触の多いスポーツ、健康な人でも怪我するんだから」

「それで、野球は諦めたの?」

 宮森の眉がぴくりと震える。至って真面目な英司の顔を見て、息をひとつ吐いた。

「……今はマネージャーをしてます。どんな形でも関われたら嬉しいと思ってたから。……でもそれは嘘でした」

 選手として参加できないのが、悔しくて堪らない。打って走って、投げたい。

「なんでこんな弱い身体に生まれたんですかね。もし親が同じ病気なら、理不尽だけど親に八つ当たりしたかもしれません。でも遺伝じゃないんです。医者が言うには、家族でオレだけに起きた突然変異で、誰のせいでもない。だからどうしようもない」


 二人は雪の路地を隣り合って歩いていた。相変わらず牡丹雪が降り続いている。懐中電灯を握った手は、すでに悴みきって感覚がなかった。時折気休めに息を吐いて温めるのだが、ひりりと痛んで、結局は雪に打たれるままにしておくのだった。

「――中学の時に、この路地の噂を聞きました。異臭がするとか、叫び声を聞いて眩暈を起こしたとか、馬鹿馬鹿しい都市伝説だって思ってたんです。でも興味本位で調べたら本当に何人も失踪していて。――オレの学年では、この路地に入った奴は、夜の彼方かなたに行くっていうんです」

「夜の、彼方」

「はい。別世界のことみたいです。あの世っていうと不吉だし、異世界だと現実味がないからかな――夜の彼方も十分ファンタジーですけど」

 そう言って苦笑する横顔を、英司は黙って見つめた。

「オレの学年でも一人失踪したんです。写真部の真面目な奴でした。家でも学校でも何ひとつ問題がないように見えたのに、ある時から学校に来なくなりました。自室で寝ていたはずが、いつの間にか、いなくなってたそうです」

 すぐに夜の彼方の噂が流れた。三途の川の場所を周りに訊いていたという噂も。

「とにかく彼は、路地に消えたことになりました。怖がる奴もいたけど、保護者も学校も警察も動かないから、みんな変に安心して、噂は非現実的に膨らんでいったんです」

「その子は、夜の彼方で新しい人生を送っているとでも」

「そうです」言って、宮森は悲しげに眉を寄せる。「酷いことを言いますけど、遺体でも見つかればいいのに、と思いました」

 単なる路地で人が消えるなどありえない。この異常が現実の事件だと理解されれば、半端な気持ちで路地に入る人も減るだろうし、見えない所で苦しんだかもしれない失踪者を、別世界に行ったと美化することもなくなるに違いない。

 でも、と宮森は立ち止まる。英司の方に身体を向けた。

「先月、三丁目に来たんです。友達の家で遊んでたら夜になって。急いで帰る途中に、四丁目へ歩いていく人影を見ました。フードを被っていたけど、顔が一瞬見えたんです。――お兄さんでした。小学生の頃、一度だけ悠の家に遊びに行ったとき、とても静かで不思議な雰囲気だったから、覚えてたんです」

 記憶を呼び起こしているのだろうか、こちらの顔をぼんやり眺めてくる。英司も真似をしてみたが、幼い宮森の顔は重ならなかった。

「……僕の記憶にはないみたいだ」

「そりゃそうです。オレ、怖くて顔を伏せてましたから」目を細めて笑う。「気を悪くしないでほしいんですけど、正直冷たい人だと思ってたんです。悠にもそう聞かされてました。ジュースとお菓子を持って部屋に入ってきたときも、無言でロボットみたいに置くから、仲が悪いのかと思ったりして。……でも、悠はありがとうって礼を言ったんです。お兄さんは何も返さなかったけど、微笑んでるように見えました。それで、冷たそうに見えるけど実は優しい人なのかなって――小学生の考えることだから、直感以外の何物でもないんですけど」

 くすくすとひとしきり笑うと、宮森は表情を強張らせていく。足元の雪を無意味に踏み固め、ふと決心したように爪先で雪塊を弾く。

「……オレ、尾けたんです。昔の不思議な感覚が懐かしかったから。目が合ったらすぐに挨拶しようって決めて。……でもあなたは一度も振り返らなかった。あっという間に四丁目に着いて、そして、腐臭のする路地に入っていったんです。そこで初めて三途の川の場所を知りました」

 何をしてたんですか、と宮森は懇願するような視線を向ける。

「気になって眠れないんです。別世界なんて存在しないって分かり切ってるのに、あなたが路地に入って戻ってきたっていうだけの事実が、とても怖くて、不思議で、魅力的なんです。このひと月、何度も深夜に路地の前まで来ました。お兄さんも何度も、来ましたね。真っ暗な路地へ入って、一時間ほどで戻ってくる。何をしてるんですか! 弟がいなくなって慌てて駆けつけてくるんだ。犯人じゃないと思う。でも、これだけ四丁目の路地に詳しいなんて、無関係とは思えない。――ここで人が失踪する理由を知っているんじゃないんですか」

「僕は、何も知らない」

「じゃあ、なんで路地に来る必要があるんですか」

「君には、理解できない」

「オレが理解できないことが、この路地で起こってるんですか! お願いです。別世界が、夜の彼方があるならあると、無いなら無いと言ってください。じゃないとオレ――」

 勢い込んだ宮森が、英司の腕を掴みかけたとき、鋭い声が聞こえた。北の方。二人は静止して耳をそばだてる。再び、叫び声。明瞭に聞き取れたそれは、喉を引っ掻くような、断末魔じみた叫びだった。

「悠……?」

 その名前を口にした自分が信じがたいというように、宮森は口を開けたまま立ち尽くす。

 また悲鳴。

「今の……あいつの……ねえ、お兄さん」

 宮森は葛藤するように、悲鳴の出所と英司を見比べる。

「そうだ、路地の入口で聞こえた声と似てる……じゃあ、さっきのも悠の」

「それは、どうかな」

「……警察、呼んでください。オレ、助けに行きます」

「危ないよ」

「分かってます。でも待ってられない」宮森は背負っていたリュックを押し付けてくる。「スマホ、入ってます。通報して、どこかに隠れててください」

 そう言うやいなや、宮森は駆け出す。

 残された英司は、小柄な体が風のように去ったあとの闇を見ていた。

(正義感からだけじゃない)

 弟を助けたいという思いは当然あるだろうが、夜の彼方という幻想から逃れたい方が、彼を突き動かす原動力の中で、大きな比重を占めているだろう。

 それでも、己の危険を顧みずに、友人を助けようとしていることに変わりはない。

(僕も、あんな風に駆け出したいのだろうか)

 遠く細い叫びを聞きながら、英司は首を傾げたまま雪を浴びていた。

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