ミタサレタヒト
今日の昼、ベーグルを食べたいと思った。
ベーグルって美味しいよね。あのもっちりとしたパンの食感がたまらない。ハムや野菜も悪くないけれど、私はクリームチーズとブルーベリージャムのやつが好き。
なめらかなクリームチーズと、甘酸っぱいブルーベリージャムの相性は本当に最高。一緒に飲むドリンクはカフェラテがいいな。甘ったるい缶入りじゃなくて、カフェで出しているような苦いエスプレッソを泡が立ったミルクで割ったちゃんとしたやつ。砂糖は入れないで、熱いままちびちび飲むの。
でも私はベーグルを食べなかった。会社の近くの公園で、ダイエット用のビスケットを二枚だけかじった。ビスケットはぼそぼそして味がないのに、なぜかストロベリーの匂いがした。口のなかに残った鉄っぽい味が気持ち悪くて、ボルビックで無理やり流し込んだ。いつも通りの最低の昼食。
そんな私は今、コンビニのパンコーナーで悩んでいる。
私の目の前には、ベーグルがあった。手に取り、かごに入れ、百三十円支払えば、このベーグルは私のものになる。昼間、どうしても食べたかったクリームチーズとブルーベリージャムのベーグルだ。
私の脳内が再び、いつか食べたベーグルの記憶を再生する。唾液を呑み込むと、恥ずかしいほど「ごくり」と大きな音がした。
かごのなかにはすでに、今日の夕飯のからあげ弁当と大盛りチャーハンと塩焼きそばとプリンとシュークリームが入っていた。これからレジ前に置かれているおでんも買うつもりだった。今日の夕飯はカロリー計算をする必要がない。べーグルを一つ増やすくらいなんてことはない。
昼間、私が想像したベーグルはパン屋やカフェで売られているようなできたてのものだったけれど、たとえコンビニの安っぽいベーグルだったとしてもそんなことは大した問題じゃない。もちろん金銭的な理由でもない。私が躊躇する理由は、もっと別のところにある。
ベーグルは、とにかく吐きづらい。
胃に入ったベーグルは、水分を吸収して膨張する。そのうえもっちりとしたパン生地は、喉の奥で詰まる。指を三本入れてかき出そうとしてみてもびくともしない。せり上がってくるような吐き気は感じるのに、出すとこができないので、やがて胃が痛みだす。頭痛もはじまる。涙も流れる。どんなに気をつけていたとしても、長い時間指を突っ込んでいると爪で喉を傷つけてしまう。それがすごく痛い。というか、いろんなところが痛い。苦しい。本当に苦しい。でも、吐かなきゃ。どうしても吐かなきゃと思って指を口まで運んでみると、手が震えていることに気づく。左手でおさえても震えは止まらない。あぁ、もう消化がはじまってしまっているかもしれないと思うと、また涙が流れる。止めどなく流れる。それが嗚咽に変わると、吐くどころではなくなってしまう。肩は揺れ、言葉にならないなにかを叫びながら、私は泣く。そんな状態でも私の頭の片隅は妙に冷静で、あぁ、これだけ泣けばベーグル分のカロリーくらいは消費してくれるかもしれないと思っている。
嘔吐に失敗した夜は眠れない。一睡もできないまま会社に行くと、同僚の視線が痛い。
きっと太ってしまった私を笑っているんだ。私はデブだ。身長が百六十四センチなのに、体重が三十四キロもあるのだから。
「すみません」
突然声をかけられ振り向くと、小柄な女性が後ろに立っていた。目がくりくりした可愛らしい女性だった。カーキ色のモッズコートの裾から、黒いショートパンツが覗いている。すらりと伸びた細い足が綺麗だ。
「あの、いいですか?」
女性がパン棚を指差した。
「あっ、すみません」
身体をずらすと、彼女は笑って会釈をした。そしてベーグルを手に取りレジに向かって歩いて行く。私があれほど悩んでいたベーグルを、彼女は簡単に買ってしまった。心のなかに、苦くて黒い感情が広がっていくのを感じる。呼吸が乱れる。意識してしまうと、それまでどうやって空気を吸っていたのか分らなくなった。息苦しい。その場でうずくまりそうになったが、なんとか耐えた。私はベーグルの隣にあったロールパンを三つ、かごのなかに入れた。
ロールパンは柔らかくて、とにかく吐きやすい。
レジでおでんも忘れずに買った。はんぺんとだいこんとたまごと糸こんにゃく。はんぺんとだいこんとたまごは一つずつ、糸こんにゃくだけ五つ買う。とくに好きな訳じゃないけれど、胃の底に入れておくと吐くときに楽なのだ。食材を絡めて、どばどばと出てきてくれる。
「お箸はおいくつおつけしますか」
店員が訊いてきたので、三つつけてもらった。私の家には数えきれないほど割り箸が溜まっていたけれど、断る訳にはいかなかった。そんなことをしたら私が過食嘔吐をしていることを店員に気づかれてしまうかもしれない。誰かに知られることが、なによりも怖かった。たとえそれが面識のないコンビニ店員だったとしても変わらない。総菜屋、コンビニ、ファーストフード店をローテーションでまわり、同じ店には週一以上は通わないよう気をつけていた。訊かれる訳がないのに、私は言い訳まで用意している。
今日は自宅から少し遠いコンビニで食料を買ったので、アパートまでの十五分がもどかしい。早く帰って、苦しくなるほど、胃いっぱいに食べ物を詰め込みたかった。
気分を紛らわすために携帯電話を取り出すと、あと少しで日付が変わるところだった。
智に「もう少し痩せた女が好きだ」と言われて振られてから、明日で七百八十五日目になる。今日も智から連絡はなかった。智はいつになったら連絡をくれるのだろう。
私、こんなにがんばっているのに。
智に「大好きだよ」とメールを打った。今日、四度目のメールだった。
足元になにかが触れた気がして視線を落とすと、野良猫が私のブーツに顔を擦り付けていた。思わず後ずさりする。
やけに太った猫だった。顎は二重にたるみ、でっぱったお腹は地面につきそうだ。
野良猫は私のコンビニの袋を見上げて、「ミャア」と鳴いた。丸くて大きな瞳は、コンビニでベーグルを買った女性のものとよく似ていた。
私は袋のなかから塩焼きそばを出すと、ネギとイカだけ選んで猫にやった。猫が口にしたのを確認して、その場を離れる。
再び歩きながら携帯電話を開くと、メールが一件受信されていた。
『次のあて先へのメッセージはエラーのため送信できませんでした。送信先メールアドレスが見つからな……』
ここ数年よく見かける内容のチェーンメールだった。すぐに削除する。今日も何度か同じものを受信した。そろそろメールアドレスを変えたほうがいいのかもしれない。
智からの返信はなかったので、「愛してるよ」とメールを打って送信した。今日、五度目のラブメールだ。携帯電話を持つ手が冷えて、痛かった。
最後の曲がり角が見えると、私は安堵した。アパートまであと少し。最初におでんを食べるのは決まっている。その次はなににしよう。やっぱりチャーハンかな。いや、そこでデザートを挟むのも悪くない。今日はロールパンが三つもある。
わくわくしながら考えていると、突然強い北風が吹いた。両腕をクロスさせ、身体をかがめた。手が震えていると思ったら、携帯電話のバイブレーションだった。今度こそ智からの返信かもしれない。
私はゆっくりと、携帯電話を開いた。
ショート・ショート・ショート 真波のの @manaminono
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ショート・ショート・ショートの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます