第9話 クリスマスと彼女。
十月になったある日、久しぶりに花梨にランチに誘われた。
社員が多く集まる定食屋やそば屋を避けて、少し遠くにあるカフェで待ち合わせた。財布とスマホだけ持って出てカフェへ入ると、すでに花梨が奥のテーブルに座っていた。社内の人が誰もいないのを確認して花梨の向かいに座る。ランチは日替わりパスタのみで、サラダとコーヒーか紅茶がセットになっている。水曜日はジェノベーゼで、花梨も私もミルクティーを頼んだ。
「久しぶりだね! この間は二年目社員の発表会お疲れさま」
明るい水色のニットに白いロングスカートを着ている花梨は明るい表情で頷いた。花梨は発表会全体を仕切っており、当日は司会進行を務めていたのだ。
「梓も、鈴木さんのサポートありがとうね。あの子心配だったけれど、資料も発表も立派でびっくりした。ずいぶん成長したよね。やっぱり梓のところに出してよかった」
「ううん、鈴木さんもすごく頑張っていたし、直属の本多課長以外にも滝沢課長も熱心に指導してくれたのよ。川原君もなかなか良かったでしょう?」
「うん、すごく良かった。営業部さすがだよねって人事でも話題になってたよ。そっかあ、滝沢さんも絡んでいたから今までにない視点も入っていたのね」
「彼女、どんどん改革しまくっているよ。すごいわ」
「今全社的にやってる業務見直しももとは滝沢さんの案なんでしょう? いいことだと思う。誰もが不要だと思っているのに今までやってきたからってずるずる続いている業務って結構あるもん」
「特におじさんたちがそういうのに固執するよね。女って割とバッサバッサ切り捨てちゃうけど」
「あるある。自分達の存在意義と重ねちゃってるんじゃない? おじさんたちも改革しなきゃね」
私たちはクスクスと笑い合った。
「それで――、今日は何か話があるんじゃないの?」
ジェノベーゼを食べながら聞くと、花梨は小さく頷いた。
「うん、実は……この前の日曜日に、ふみさんとデートしたんだ」
「デート!? 飲み会とかご飯とかじゃなくて?」
目がチカチカする思いで聞くと、花梨は照れくさそうに目を伏せた。なんだか今日の花梨は可愛いと思っていたけれど、ふみさんとデートしたからなのだろうか。恋しているのだろうか。というか、もう岩ヶ崎さんではなくてふみさん呼びなんだ……。
「うん。私からね、デートしませんかってちゃんと誘ってみた」
花梨は普段、物静かなので一瞬意外に思ったけれど、実は計画性も行動力もある。私の誕生会も一人でも開催してくれたのだ。
「それはふみさんのことが好きだから?」
「……前に三人で飲んだ時になんだか可愛いなあ、ほっとけないなあなんて思って。他の人がふみさんを狙ったらどうしようと思い始めたらすごく焦っちゃって、それからたまにランチしたりしていたんだけれど、自分の気持ちをはっきりさせたくて、ただの会社の先輩後輩でのランチじゃなくて、デートしましょうって言ってみたの」
「そんなことになってたなんて知らなかったよ」
「黙っていてごめんね。でも私もまずは自分の気持ちを自分できちんと知りたかったんだ。誰かが気になるのも久しぶりだし」
「そうだよね。どんなデートしたの?」
「定番だよ。『ブルー・バード』を見ませんかって提案したらふみさんも見たかったって言ったから映画館で見て、ランチして」
韓国映画「ブルー・バード」は寂れた海辺の町で出会った少女二人が、家族や仕事の都合で別れと再会を繰り返しながら、人生の半ばを過ぎてようやく自分たちの気持ちに気づき、確かめ合い、共に暮らすようになる静かな恋愛感情を描いたもので、韓国やアメリカで多くの支持を得て日本でも公開されたばかりだった。この映画を誘うのはもはや告白にも近いと思うけれど、ふみさんも応じたというのは、それは……。
「その映画、私も気になってた。ふみさんと見てどうだった?」
「私もふみさんも今まで女性同士の恋愛ものは見たことなかったけど、すごく感動して二人でめちゃくちゃ泣いちゃった。その後ぶらぶら歩いてカフェ行ってケーキ食べて、夜になったけれど夕食をどこかで食べるにはまだお腹が空かなくって、でもまだ一緒にいたいな……と思っていたら、ふみさんが家に来る? って言ってくれたの」
「え! 私、一度もふみさんの家に呼ばれたことないんだけど……」
今までのふみさんと私の仲を思えば正直少しショックだったけれど、それほどふみさんも花梨に心を許しているのだろう。一緒に映画を見た効果かも知れない。
「ああ、そんなこと言ってた。離婚して引っ越してから誰も家に呼んだことないって。まあ、大通からふみさんの家のほうが近かったのもあるんだろうけれど。それでスーパーでお酒とかお惣菜、おつまみを買ってふみさんちで食べ飲みしたよ」
「そ、それで……二人はどうなったの?」
もう、パスタどころではない。私はフォークを置き、身を乗り出して花梨の話に集中した。花梨も話すのが忙しくて手が止まっている。
「私、あんなに気兼ねなく話せる人って梓以外では初めてかも知れない。でもね、梓にはムカついたことが一度もないんだけれど、ふみさんのことはたまにイラッとしたりもするの。でも何故かそれをそのまま言えちゃうの。だから一緒にいてすごく気楽なんだよね。年上で頼れたり尊敬もしているけれど、急に寂しがったり甘えたりするから、ドキッとするし、私が支えたいと思う……」
「それって……完全に好きじゃん……」
「私もそう思って、好きです、付き合って下さいって言っちゃった」
「初デートで告白! で、で、ふみさんはなんて??」
「私も佐野っちが可愛い、誰にも渡したくないと思ってるって。でも、自分の離婚歴が気になるんだって。佐野っちにはもっとふさわしい人がたくさんいる、女で離婚歴あって八歳年上の私といても、幸せになれるとは思えないって。人生が決まる大切な時期だから、無駄にしちゃだめだって……」
「あ~、ふみさんって急に自信なくしたり自己否定したりする時あるよね……会社ではあんなに強いのに……」
「そんなところも可愛いんだけれど……でも私は幸せにしてもらいたいわけじゃない、私がふみさんといると幸せだから、ふみさんのことも幸せにしたいって言ったんだ。そしたら、ちゃんと考えるから時間をちょうだいって言われて、帰ってきた」
「そっか……花梨、すごいよ。すごくカッコいい」
私は改めて花梨を見つめた。常に相手の顔色を窺っていた前の恋愛に疲れ、しばらく恋愛は休みたいと言っていた頃に比べて、今の花梨からは瑞々しい果物のような幸福感が感じられる。恋のパワーって本当にすごい。
「その後、ふみさんとはやり取りしているの?」
「うん、メッセージとか電話でね。だけどしつこく押すだけでもダメかなと思って、待ってますとは伝えたけれど、普通の仕事の話とかニュースの話とかばっかりだよ」
「そっか……私からふみさんに何か言っておこうか?」
花梨はふふっと笑って小さく首を振った。
「正直、それもちらっと考えた。梓にアシストしてもらおうかなって。でも、ふみさんの心を動かすのは私でありたい。私を信じてもらわないときっと付き合ってもうまくいかないもの。だから私が頑張る」
「なんか感動するんですけれど……」
本当に目が潤んできたので、私は笑う振りをしながらこっそり目頭を拭った。こんな強い誠実な思いを持った花梨が羨ましいと思った。
私はちゃんと自分の気持ちに向き合っているだろうか。いや、向き合っていない。自分の気持ちなんて無視しても自動的に朝が来て、会社に行けばやるべき仕事があって、こなしているうちにいつの間にか夜になっている。その繰り返しでどんどん時は過ぎていく。それは楽な生き方だった。
けれど、花梨が羨ましかった。恋されているふみさんではなく、好きな相手を幸せにしたいと言い切れる花梨が羨ましかった。
「どうしたの、梓」
花梨がティッシュを差し出してくれた。泣いていることに気づいたようだ。
「なんだか、恋している花梨が幸せそうで嬉しくてさ……」
ごまかそうとしたけれど、花梨には通じなかった。
「うまくいくかはわからないよ。でも、頑張りたい。ねえ、私のことばかり話しちゃったけど、梓のことも心配していたよ。――滝沢さんとはちゃんと話せた?」
「話せたよ。本当に凪子さんとは別れていて、またやり直すことを考えて欲しいと言われたけれど、時間も経ってお互いに変わったし、私はまだそんな気になれない」
「今は同じ部署の上司だし、簡単に恋愛関係にもなれないもんね」
「そう。でも……今、私が一番気になっているのは滝沢さんじゃなくて……鈴木さんがチョコを滝沢さんにも渡していたこと」
「チョコ? 鈴木さん?」
花梨が驚いている。私も自分で言いながら驚いている。言葉にすると、なんて器が小さな人間なのかと自分で自分が嫌になってくる。
――でもそれが本音だった。
「そういえば、梓が職場でため息ついたら鈴木さんがチョコくれるって前に言ってたね」
「そうなの。今でも続いていて、私もお返しにキャンディあげるの。少し前に、チョコはみんなにあげているのかと聞いたら町田さんだけだって言ったの。それなのに、発表会がうまくできたお礼にってわざわざ私と滝沢さんを呼び出して、ジャルダンの生チョコをくれたんだよ。私だけじゃなかった」
「ジャルダンの生チョコって大人気でなかなか買えないよ。昼前には売り切れるらしいし。……鈴木さんが、滝沢さんと梓にすごく感謝しているのがわかる。でも、滝沢さんにもチョコを渡したのが梓にはショックだったんだね」
「自分でもちっぽけでつまんない人間だと思うよ。でも、そうなの。チョコをあげるのは私だけだって言ったのに、うちの会社に来たばかりの滝沢さんにもあげていたのが嫌なの。そりゃ滝沢さんは美人で仕事できるからみんなが憧れるのは当然だよ。私なんて平凡で地味で仕事もそこそこだし、太刀打ちできるわけないけれど」
自己嫌悪と亜里咲への怒りと、詩絵への嫉妬でぐちゃぐちゃになり、私はまた涙が溢れた。どうしよう、この後も仕事があるのにひどい顔になってしまう。
「――梓、鈴木さんのこと好きなんだね」
花梨の静かな声に、心臓が止まりそうになった。
「え? まさか。だって八歳も年下だよ」
「私もふみさんの八歳年下だけど?」
「そうだけど……鈴木さんはまだ社会人になって二年目で、大学出たばっかりの女の子だよ。花梨とふみさんとは違うよ」
「大切なのは、年齢差とかどんな状況かではなくて、梓の気持ちだと思うよ。鈴木さんを好きだから、チョコをもらって嬉しくて、キャンディをお返しにあげていた。鈴木さんを好きだから、他の人にもチョコをあげたのがショックだった。違う?」
「……そうなのかな……わかんない。私、あんまり自分の気持ちを見ないようにしていて……」
それは、詩絵と付き合っていた頃にできた癖だった。
詩絵が今どこにいるのか、凪子さんとどんな顔をして過ごしているのか――止まらない妄想に疲れ、自分の気持ちから目を逸らすようになった。
「そっか。一番大切なのは年齢差とか状況ではなくて、梓の気持ちだと思うよ。もしも鈴木さんを好きなら、その気持ちをまずは大切にしてもいいんじゃないかな」
「うん……ちゃんと自分の気持ちを整理して考えてみる」
「そうしてみなよ。恋愛に関係なく、自分の気持ちは大切にしないといつか爆発しちゃうよ」
食後のミルクティーが運ばれて来て、私たちは慌てて残りのジェノベーゼパスタを食べた。もう13時近かった。ミルクティーを急いで飲み終えると、私たちはカフェを出て会社へと向かった。
「私たち、二年前、同じ時期くらいに失恋してから誰のことも好きにならなかったけど、梓がいたから楽しかったし、こんな感じでずっと一緒にいられたらいいなと思ってた。でも、ふみさんを好きになったと気づいた時、やっぱり嬉しかった。初めて女性を好きになったから不安もあるし、そもそもふみさんから振られちゃうかも知れないけど、ふみさんを好きになってから世界がキラキラして見えるし、振り向かせたくて自分磨きするのも楽しい。だからもし、梓が誰かを好きになってこんな気持ちになったら嬉しいし、応援しちゃう」
早足で一緒に歩きながら、花梨がそう言ってくれた。
「ありがとう。花梨は親友だし、ふみさんも大好きな先輩だから、ふたりが幸せになったら私もすごく嬉しい」
「もちろん、恋愛していなくても梓は梓だし、私の大切な同期だから、ずっと応援しているよ」
「うん、わかってる。それじゃあまたね」
エレベーターが私のフロアに到着し、私たちは手を振って別れた。
ドアを開けて部署に入ると、丸めたポスターを何本も抱えた亜里咲とぶつかりそうになり、よろけた亜里咲はポスターを床に落としてしまった。
ああ、なんで今、よりによって亜里咲と会ってしまったんだろう。
ここ最近ずっと、亜里咲を避けていた。もし目が合ったら、話をしたら、自分でもよくわからないぐちゃぐちゃな気持ちに気づかれてしまいそうで。
「あっ、ごめんね、大丈夫?」
しゃがみこんで拾うと、亜里咲もしゃがんで一緒に拾い出した。
「いえ、私のほうこそすみません、ちゃんと前を見ていなかったので……」
「せっかく出かけるところだったのにごめんね」
拾った分を渡すと、亜里咲は戸惑うような顔をして受け取った。
じゃあ行ってらっしゃい、と言って立ち上がろうとすると、亜里咲がぽつりと言った。
「――私、何か悪いことしましたか?」
「え……?」
「最近、町田さんが私を避けているような気がするんです」
「そんなことないよ」
至近距離で目が合った。ほんの一瞬が永遠のように感じた。
「そんなことあります。だって、私はいつも町田さんを見ていますから……」
亜里咲の目は潤んでいた。
「言ったじゃないですか。ため息ついていないか、見ていますって」
その瞬間、痛烈な後悔が湧き上がって来た。
何をやっているんだろう、私。こんな若い子を傷つけて。
バッグを探り、底に押し込めていた亜里咲のためのキャンディを掴むと私は言った。
「最近忙しかったからかな……はい、これあげる」
「わあ、久しぶりだ……町田さんのキャンディ」
ニコッと笑って亜里咲はキャンディを受け取ると立ち上がり、私に手を差し出した。この手を掴んでいいのか――一瞬の迷いを振り払い、亜里咲の手を掴んで私も立ち上がった。
「私もちゃんと鈴木さんを見てるよ。何か落ち込んでいないか、頑張りすぎていないかって。それじゃ行ってらっしゃい、気をつけてね」
「ありがとうございます。またキャンディもらえるように頑張ります、行ってきます」
ポスターをたくさん抱えた亜里咲のためにドアを開けてやると、亜里咲はほっとしたような笑顔を残してエレベーターホールに向かった。
――花梨。この気持ちは、恋だよ。私は八歳年下の二年目社員に恋してる。
彼女をずっと見ていたい。苦手なことが多い子だけどきちんと努力する子だから、うまく能力が発揮できるようにサポートしてあげて、少しでも成長したら褒めてあげたいし、少しでも落ち込んでいたら励ましてあげたい。そうやって彼女が経験を積んでいくのを、支えていきたい。
でもこの気持ちは別に伝えなくても構わない。
ただのいい先輩でいたい。彼女が慕う先輩のひとりでいい。
本気で好きだなんて言って困らせたくない。好きと自覚する前からもう傷つけてしまった。詩絵とだって最初はうまく自分の思いを抑えながら恋愛できると思ったのに、結局コントロールできないほど好きになり、困らせて捨てられた。きっと私の思いは強くて重すぎるのだ。
それに亜里咲は来年四月――あと五ヶ月後にはこの営業部を巣立つことが決まっている。札幌にいるとも限らず、本社やほかの支社へ異動の可能性もある。それなら彼女が去るまでチョコレートとキャンディで時たま繋がって、営業部の思い出のひとつになればそれでいい。今ならまだ間に合う。まだ抑えられる。
それからは気持ちを切り替えて、亜里咲や他の若手社員にそれまでより積極的に関わり、キャンディもたくさんあげた。
亜里咲とふたりで話す機会はほとんどなかったけれど、若手社員グループと一緒に飲みにも行って、その中で話もしている。若い子どうしで話している様子はやっぱり麗しくて絵になる。亜里咲には同年代と幸せになって欲しい。自覚してすぐに切り替えたからか、幸い私の傷は浅く、順調に「ただのいい先輩」へのシフトチェンジは進んでいた。いや、そもそも亜里咲にとっては最初からずっと私は「ただのいい先輩」なのだが。
青空に映えていた紅葉は色を失って曇り空に吹く強い北風に舞い飛び、十一月半ばになると月の名の通りに霜が降りた。
「町田さん、なんだか最近若い子に人気あるんじゃない?」
会議の議事録をまとめるために残っていたある夜、フロアにいる人数もまばらになった八時過ぎに詩絵が話しかけてきた。
「私はただの飴配りおばちゃんですよ」
「あー、そういう自虐的な言い方よくないよ。それに町田さんがおばちゃんなら年上の私はどうなるのよ」
「むしろ私より滝沢さんのほうが若く見えますよ」
「私は自分がおばちゃんなんて認めないからね。自分をおばちゃんとかババアとかいう女性は嫌、女が女を下げてどうするのよ」
「はい、仰るとおりです。すみませんでした」
めんどくさくなりそうだったので一応謝って話を終わらせようとすると、詩絵は空いていた椅子を引っ張ってきて座り、私の顔を覗き込んだ。
「ねえ、クリスマスって空いてる?」
「え……」
詩絵は相変わらず忙しく、秋の異動時期の歓送迎会や下期キックオフなど部全体の飲み会では顔を合わせたものの、もうずっと二人で出かけていない。私への関心も薄れたと思っていたので、突然の誘いに驚いた。
「今年のクリスマスイブって金曜じゃない。良かったら私とデートしてくれないかなと思って」
「何で私……?」
「好きだから」
何でもないことのようにあっけらかんと詩絵が言うので私も即座に「予想外です」と打ち返した。
「えー。再会してからずっと言ってるじゃない」
詩絵は不満そうに言いながら両腕を上げて背もたれに大きく寄りかかった。
「確かに会ってすぐは言われた気がしますけど、一度二人で飲んで以来そんな話もしてないし、最近は仕事の話しかしてないですよね」
「私もさすがに転職して自分のペースを掴むまではいっぱいいっぱいだったし、思ったより忙しくなっちゃってさ。それに梓が職場でそういう雰囲気を出すの嫌がったじゃない。初対面みたいにしてくれって」
急に名前で呼ばれ、ドキリとする。
「そうですね」
「でも私はずっと密かに好きだったわけ。迷惑掛けないように自分の思いを隠していたなんて健気でしょ?」
詩絵のキャラとはとても思えない言い分に、つい私は笑ってしまった。
「ただ忙しくて恋愛どころじゃなかったって聞こえるけれど、ありがたいことですね」
「でも黙っていても全然気づいてくれないから、梓が誰かに取られないうちに早めにクリスマスの予約してみました。デートしてくれるなら最高のクリスマスにするよ。それとも、もう誰かと約束があったり、一緒に過ごしたい人がいたりする?」
一緒に過ごしたい人――。
亜里咲の顔が思い浮かんだ。若い子達との飲み会では亜里咲は恋人はいないと言っていたけれど、クリスマスはきっと同年代でワイワイ過ごすのだろう。
「そんな人いません」
「それじゃ、私とデートしてくれる?」
にっこりと微笑んだ詩絵はやっぱりくらくらするほど魅力的だった。特にこんな疲れた残業の夜には眩しすぎるくらい。
「……承知しました」
「やったあ」
詩絵が両手でガッツポーズをして見せた時、詩絵のデスクがあるほうから「滝沢さーん」と呼ぶ声がした。
「はーい、今行く」
と部下に向かって声を上げた詩絵は、振り向いて小声で付け足した。
「それじゃ、プランは私にお任せってことで。決まったらまた連絡するね」
頷くと、小さく手を振りながら詩絵は軽やかに歩いて行った。ワイドパンツに高いヒールを合わせた後ろ姿は残業の疲れなんて全く感じさせない。私は鏡を見なくてもクマが浮かんでいるのが自分でわかるし、スカートから覗く足はむくんでいる。こんな私のどこがいいんだろうと思うけれど、詩絵との会話は楽しかった。一年に一度の特別な日に、詩絵のような人に誘われることは自己肯定感を高めるのに充分で、疲れた体の奥底から力が沸いてくるようだった。
「さて、頑張るか」
と小さく呟き、私は再び議事録作成に集中した。
*
十二月に入ったばかりのある日、ふみさんから花梨の誕生日祝いの飲み会に誘われた。これは……とピンと来たけれど、あえて私も何も聞かずに指定された中華ダイニングに向かうと、先に着いていたふみさんと花梨は並んで座り、顔を寄せて親しげに何か話していた。二人の醸し出す空気が甘い。
「花梨、お誕生日おめでとう。これ、少しだけれどプレゼント」
と言って用意していたプレゼントを渡すと、花梨は喜んで受け取った。
「わあ、かわいいバレッタ! ありがとう」
早速開けた花梨はバレッタを取り出してふみさんに見せている。
「さすが梓、花梨の好きな洋服に似合いそう。よかったね」
「あれ、ふみさん、花梨って呼んでいるんですか?」
確信を抱きながらあえて聞いてみると、ふみさんは真っ赤な顔をして黙りこくった。
「もしかして二人は……」
「えへへ、付き合うことになりました!」
花梨は気まずそうにしたままのふみさんの腕に自らの腕を絡ませて、満面の笑みを浮かべた。
「おめでとう~! その報告じゃないかと思っていたんだ」
「えっ、梓は知っていたってこと?」
ピクリと目を上げたふみさんに向かって私は慌てて両手を振った。花梨と私でこっそり作戦会議をしていたなんて誤解したら、ふみさんは嫌がるだろう。
「いや、夏の三人での飲み会、あの時から私は怪しいと思っていましたよ。この二人もしかしたらもしかするんじゃないかって」
「えー、やだそうなの?」
「あと、一度十月に一緒にランチした時、私が打ち明けたんだよね。ふみさんのことが好きって」
「そうだったの? 私、何も知らなかった……」
花梨の話を聞いてもともと赤かったふみさんの顔がさらに赤くなった。まずい。花梨、何でも正直に言わなくていいんだよ。
「でも、その時私から何か手助けしようかって聞いたら、花梨は言ったんですよ。ふみさんの心を動かすのは私でありたいから、私が頑張るって。めっちゃカッコイイですよね?」
「え……そんなこと花梨が言ってたの?」
ふみさんがすぐ横の花梨を見つめる。花梨も見つめ返しながらそれはそれは可愛らしく頷き、再びふみさんは耳まで真っ赤に染めた。そりゃ、至近距離であの花梨の想いを込めた上目遣いをくらったら、誰でも参ってしまうだろう。ふみさんはどうにか無理矢理にという感じで私に顔を向けた。
「……だから梓から最近誘われなかったんだ」
「はい、私なんかと会う時間があったら二人で向き合って欲しいなと思って、ただうまくいくように祈ってました。それで、どうやって付き合うに至ったんですか?」
「花梨と初めて二人で出かけた日に告白されて……私はほら、離婚歴もあるしずいぶん年上でしょう。花梨はそうじゃなくてもモテるし、でももう三十になるのに、私といてもチャンスを逃してしまう気がして」
「自分のことは自分でわかっているし、ふみさんのことも全部わかった上で好きだからふみさんと一緒にいたいって告白したのに」
花梨が唇をとがらす。その甘えた表情が可愛らしかったし、花梨が素直にふみさんに甘えられる関係になったのだと思って私は安心した。
「だって私は四十を目前にしたバツイチおばちゃんなんだもん。女の子と付き合ったこともないから、こんなに可愛い花梨を幸せにできるなんて思えないし、自信なんて持てないよ」
「ふみさん、自虐はだめですよ。女は自分で自分をおばちゃんなんて言ったらダメなんです」
と私は詩絵の言葉を思い出しつつふみさんに言った。
「花梨、どうやってこんな自虐モードのふみさんを振り向かせたの? すごいよ」
「特に何かすごい秘策があった訳じゃないんだけれどね。よくランチとか夕食に誘ったり、ふみさんが忙しい時期は差し入れしたり、あとよくメッセージを送ったり……」
「そう、それが……身体中溶けそうに疲れている残業帰りに花梨から、今日もお疲れさまとかゆっくり休んでとかメッセージで送られてくると、つい電話しちゃうんだよね。それで仕事の愚痴を聞いてもらったり、すごく頑張ってるって褒めてもらうと泣きそうになるし、仕事が落ち着いたらここに行こうとかあそこのカフェに行きましょうとかデートプランを挙げてくれて、それが楽しみでまた頑張れるし……」
弱っている時にそんな波状攻撃をされたら……やばい。
「花梨沼……」
思わずつぶやくと、ふみさんは大きく頷いて私を指差した。
「そう、まさに花梨沼だよ。ふみさんと会う時に着るんだって新しい服の写真送ってくれたり。あー似合うんだろうなって想像したら眠れなくなって、寝ても花梨の夢を見て、仕事中もふと気づくと花梨のことを考えていた。これって本気で好きなんだとようやく自分で認めて、二週間前の週末に好きって言った」
「えー、すごい……ふみさんも花梨もすごい」
「すごいかな……」
ふみさんと花梨は照れくさそうな表情で私を見つめた。
いつの間にか、二人の表情が似てきている。気持ちが通じ合ったからだろうか。それがとても尊いことのように思った。
「すごいですよ。ちゃんと自分の気持ちにもお互いにも向き合っていて、前に進む勇気があって。それが二人ともだなんて」
ふみさんが「花梨がいてくれたから」と言うのと、花梨が「ふみさんがいてくれたから」と言うのは同時だった。
「なんて尊い……乾杯しましょう」
本気で目頭が熱くなったのをごまかすように、ちょうど運ばれてきたビールグラスを二人に渡し、三人で軽くぶつけた。黄金の液体がしゅわしゅわとグラスの中で跳ねながら喉に流れ込んでいく。冷たい苦みの一瞬後で熱さが喉を刺激した。思わず顔をしかめていると、花梨が心配そうに私を見た。
「梓、ビールでよかったの?」
「うん、やっぱりこんなおめでたい日はシュワーッと行きたいからね。ふみさん、これから楽しみがいっぱいですね。クリスマスに、お正月に、バレンタインに、ひな祭りに、ホワイトデーに、事業計画策定に次年度予算策定に年度末決算に」
「やめて……ホワイトデーまでで止めて欲しかったな……」
経理課のふみさんが頭を抱えた。
「事業計画はまだ先ですよ、ふみさん。冬から春ってイベント盛りだくさんで楽しみ」
「梓はクリスマスはどうするの? もしよかったら私たちと……」
顔を上げたふみさんが気遣うような表情で言うから、私は慌てて首を振った。
「それが、私にも予定があるんですよ」
「えっ、もしかして……」
ぱああっと明るい顔になった花梨の横で、ふみさんが首をかしげつつ「滝沢さん?」と続けた。
私はそっと花梨に目配せする。亜里咲のことはここでは言わないで、と。花梨は何もかも心得たように神妙な顔で小さく頷いた。
「さすがだなあ、ふみさん。そうなんです、滝沢さんに誘われて……」
「えっ、ヨリを戻したの?」
「いえ、そうではないんですけれど、予定がなかったらどうかと」
「へえ~、まだ梓のこと好きなんだね。それって結構な本気度だよね」
「滝沢さんって思ったよりずっと真面目な人だよね。私、梓がもし嫌じゃないなら、滝沢さんと今なら幸せになれるんじゃないかなとも思うんだけれど……」
花梨の言葉にふみさんも大きく頷いた。
「そうかな。今すぐ恋人が欲しい訳じゃないけれど、あんな美人で仕事もできてみんなに好かれる人が、こんな取り柄もない私のことを思ってくれるなんてありがたいなとは思ってる」
「何言ってるの、梓は可愛いし仕事もできるし頼れる私の自慢の同期だよ」
「ほんと、私にとっては自慢の後輩だし。今度は自分が自虐モードになってどうするのよ、あの滝沢詩絵がクリスマスデートに誘ったのは梓なんだから自信持ちなさいよ」
二人に強く励まされ、申し訳なさを感じながらも嬉しくなった。
この気持ちの行方がどこに行くかはわからないけれど、素直にクリスマスを楽しみにしてみよう。詩絵と別れてからクリスマスは同期で飲むか、普通に仕事だったので、今年はちゃんとデート用の服を用意してみよう。久しぶりに髪を切るのもいいかも知れない。もう雪も降るからブーツも可愛いのを探してみようか。疲れ顔だと思われたくないから今からパックくらいはしてみようか……考え出すとあれこれやるべきことが浮かんできて、少し焦りを感じるのだった。
つづく。
彼女の彼女 おおきたつぐみ @okitatsugumi
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