第8話 キャンディと彼女。

 翌日、私は小会議室で亜里咲ありさを待っていた。

 二年目社員の亜里咲は自分で業務におけるチャレンジ項目を見つけ、九月終わりに中間発表、二月に最終発表を行うという人事部からのミッションがある。最終発表で新人期間が終了し、基本的には最初の異動を迎える。ポヤンとしたところのある亜里咲は、もう一人配属されている二年目の川原くんに比べて進捗が悪いのが気がかりだった。間もなく上半期も終わるから、初めての発表会も控えている。

 私は亜里咲の直接の上司ではないけれど、総括として若手社員の育成を担当しているので、今日は状況確認をするために呼び出したのだ。


 コンコンとノックの音がしたので、どうぞと声を掛けると、入ってきたのは詩絵だった。

 淡いミントグリーンのパンツスーツに水色のブラウス、まっすぐでさらさらの髪。今日も夏の太陽のように輝いている。

 思わず見とれてしまってから、はっとして背筋を伸ばした。

「あの、これから鈴木さんとの面談なんですけれど」

「うん、スケジュール見たから知ってる。でも今、鈴木さんが横田さんに呼び出されていたからちょっとだけふたりで話せるかな~って」

 社員のスケジュールは全て基幹システムで管理されているので、誰でも確認できる。

「何か用ですか?」

 私は亜里咲の報告ファイルを開いたノートパソコンをモニターに接続しながら聞くだけ聞いた。

「なんで昨日の歓迎会来なかったの?」

 ――やっぱり。

「急ぎの仕事があったんです」

「嘘。課長も部長も何もオーダーしていないって言ってたよ。私と話したくなかったから来なかったんでしょ」

「別に……どうせ大勢の中では表面上の話しかできないし。また別途、落ち着いて話しましょう」

 詩絵は嬉しそうに身を乗り出した。

「そっか、それじゃ早速だけど、今夜どう?」

「特に予定もないし、いいですけど……」

「わかった。じゃあ、お店決めて連絡するから。――それと、ちょっとこれだと視点がとっちらかってるよね」

 詩絵の視線の先はモニターに映る、亜里咲の資料だった。今見たばかりで問題点を的確に指摘するのは、さすがだった。

「ですよね。まずは優先順位つけて、メイン以外は参考でまとめてもいいかもと思っています。あとはなぜこの課題を選んだのか、着眼点ももっと掘り下げるべきかなと」

「私もそう思う。発表会いつだっけ」

「9月です。その時は課長の皆さんにも招集かけますから」

「よろしく。それじゃ、今夜ね」

 詩絵が立ち上がって会議室のドアを開けると、そこにノートパソコンを抱えた亜里咲が立っていた。

 今の話を聞かれただろうかとドキリとし、瞬時に内容を思い返したけれど、ほぼ仕事の話だったし大丈夫だろう。

「滝沢課長、お疲れさまです……」

 もじもじしている亜里咲の顔を詩絵が覗き込んだ。

「あなたが鈴木さん? チャレンジ頑張っているね。アドバイスはあず……町田さんに伝えておいたから、直したら私にも見せて欲しいな」

 突然の言葉に亜里咲があわあわしている。

「あ……ありがとうございます! 頑張ります」

「うん、期待してる」

 詩絵がにっこり微笑みながら去って行った。相変わらず鮮やかにあざとい。


「はあ……急に滝沢課長に話しかけられちゃって緊張しました……」

 亜里咲がため息をつきながら椅子に座った。

「突然だったもんね。ごめんね、準備していたら急に滝沢さんが入って来ちゃって、鈴木さんの資料も見られちゃって。でもいいアドバイスくれたよ」

 詩絵と私のアドバイスをまとめて伝えると、亜里咲はノートパソコンにすぐに打ち込んだ。

「すごくありがたいです……あの、すみませんちょっと気になったんですけれど、町田さんは滝沢さんと元々知り合いなんですか?」

 やはりさっきの会話を聞かれていたのだろう。まあ、知り合いだったのは課長にも知られたことだし、伝えてもいいだろうと思った。

「数年前に異業種交流研修会で知り合ったの。まさか転職して来て同じ職場になるなんて思わなかったけれど、すごく仕事ができる人だからうちの営業成績にもみんなの育成にもいい刺激になりそうだよね」

「へえ、偶然なんですか?」

「うん、偶然。最近は連絡が途絶えていたから、いきなり再会してびっくりした。ええと、鈴木さんのチャレンジ項目は新しい出店場所を開拓するだけど、今はどんな状況なの?」

 詩絵について質問が続くとボロが出てしまいそうで、私は無理矢理話を亜里咲の課題へと戻した。

「はい、○○スーパーに当たってみたんですけれど、ここ三ヶ月はテナントの空きがないって断られて。あと、△△ショッピングセンターは、現在新規申し込みは受付していないそうです」

「そうなんだ。△△センターは表向きには受付していなくても、うちの法人営業と取引があったはずだから法人営業を通せば大丈夫かも知れないよ。営業統括の宮原さんのグループに当たってみたら? 知ってる人いる?」

 かがりさんの担当を社員録で開いて見せると、亜里咲が配下の社員から「武藤まゆみ」という名前を指差した。

「武藤さんはひとつ上の先輩なんでちょっと知っています。連絡してみます」

「うん、それがいいね。あと、一昨日の出店報告データ見た? ドラッグストアも反応いいみたいだよ」

「あ……自分の担当のところばっかり見ていました。ちゃんとデータ見直さないと。ドラストだと、やっぱり■系とかですかね?」

「うん、大手だしね。そこも法人で取引あったと思うよ。めぼしいところリストもらってもいいかもね」

「じゃあ、合わせて武藤さんに頼んでみます」

 入力し終わると、亜里咲はため息をついた。

「やっぱり町田さんはすごいです……視野が広いし、社内の他の部署とも連携するとか、私には思いつかなかったし……私は自分で当たってみてダメだったらすぐ諦めちゃって」

「私のほうが八年長く勤めている分、知恵が回るだけだよ。社内のネットワークは活用していくべきだし、Win-Winになれたら一番いいよね。そのためには鈴木さんが出店先テナントさんに喜んでもらえるような企画にしないとね。企画書も見せてくれる?」

「はい、お願いします」

 それから会議室予約終了時間まで三十分ほど、私は亜里咲と話し込んだ。


「そろそろ時間だね。それじゃ、また来週にでも進捗教えてくれる?」

「はい、お願いします。町田さんのスケジュールと会議室の空き状況確認してあとでメールしておきますね」

「ありがとう」

 会議室に入って来た時は自信なさげだった亜里咲が生き生きとした表情になったのが嬉しい。

「じゃあ、今日もよく頑張ってるからおやつにどうぞ」

 と言ってポーチからキャンディをふたつ出して亜里咲に渡すと、亜里咲もポケットからいつものメーカーの個包装のチョコレートをふたつ出してくれた。

「私もどうぞ。いつもありがとうございます」

「ありがとう。あれ、これダージリンティー味なんだ。初めて食べる」

「新しい味が出ていたんで早速買っちゃいました、美味しいですよ。町田さんの塩あずきキャンディは最近すごくCMやっていますよね」

「うん、CMで見て気になってたんだけど、なかなか売っているところなくって、ようやく昨日コンビニで見つけたんだ。あずき感すごいから食べてみて!」

 亜里咲は嬉しそうにキャンディを頬張った。

「あっ、ほんとだ! あずきそのまんまですねこれ!」

「でしょう? じゃあ、もうひとつあげる……って、なんかこれじゃ、飴ちゃん配るおばちゃんだね」

 はしゃいだ自分が照れくさくなってそう言うと、亜里咲は大真面目に首を振りながら大切そうにキャンディを受け取った。

「そんなことありません! 町田さんは若々しいし、可愛いし、それでいて仕事も完璧で、憧れの先輩です。だから前よりお話しできるようになって嬉しいです」

「ああ、前は近寄りがたかったって言ってたね」


 亜里咲と仲良くなったきっかけを思い出して私は少し笑ってしまった。――今年3月、年度末商戦の最中、ノベルティで手配した入浴剤へのカビ混入事件。対応に追われ、思わずため息をついた私に亜里咲がチョコレートをくれたのだ。


 ――町田さんが初めてため息をついているのを見て、こんな私でも励ませることがあるかもって嬉しかったりもして……だからまたため息ついて欲しい、です。


 あの時の亜里咲の言葉は、思い出すと今でも胸の奥がきゅっとしてしまう。

 入社して九年目、揉まれて奮闘しているうちに知らず知らずのうちに被っていた強い自分の仮面を軽やかに取り去ってくれたようだった。


「あーっ。今思えば、私とっても失礼なことを言いました……すみません」

「ううん、いいのいいの。私もいい人の振りして、周囲に壁を作っていた部分もあったし」

「そんな、壁って言うほどではなかったんですけれど……いつもみんなに呼ばれて忙しそうで、私なんかが話しかけたら邪魔になるなと思っていたから」

「そんなことないのに。でも今じゃすっかり、ため息なしでもチョコレートくれるようになったね。他の人にもあげているの?」


 それは前から少し気になっていたことだった。

 亜里咲が私以外にもチョコレートをあげているのかどうか。

 亜里咲にとって、チョコレートをあげるというのは、どんな意味なのか。


「いいえ、町田さんにだけです。ずっと町田さんともっと話してみたいって思っていたんです。でも、なかなか勇気が出なくて……。あの時、思い切ってチョコあげてよかった」

 私にだけ――。鼓動が早くなる。

「そ……そうなんだ」

「町田さん、優しいし何でも教えてくれるから若手に人気あるんですよ。でも、私が一番仲良いって思ってます。こうやって秘密の特訓だってしてくれるし、私が町田さんを一番好きなんです」

「えっ……」

 好きってどんな意味で? 一瞬で動悸が激しくなる。

 でも、私より10センチ程小さな亜里咲は屈託なく私を見上げるばかりだった。瞳が眩しいくらいキラキラしていて、思わず目をそらした。

「……若い子は、何でも可愛い~大好き~、だもんね」

 期待したくなくて一般論で濁してみる。

「町田さんは特別です。その証拠に、私、町田さんがくれるキャンディ、全部は食べていません。大事に取っているんです」

 話が急に変わったので戸惑っていると、亜里咲はふふっと笑って続けた。

「キャンディを見て、これはあの時に町田さんがくれた、こんな話をした、って思い出すと嬉しくなるから」


 その時、会議室にドヤドヤと社員たちが入ってきた。次に予約していたのだろう。亜里咲と一緒に慌てて会議室を出ると、会計課から電話がかかってきた。

 電話に出ているうちに、亜里咲はその場から去っていた。


 *


 詩絵に指定されたのは小路の奥にある、鮪をさまざまに料理する新しい店だった。鮪は私と詩絵の大好物なのだ。

 一緒に部署を出るのも気が引けるので先に出て店に着き、滝沢で予約と告げるとテラスに面した席に通された。付き合っていた頃、こんなふうにして待ち合わせしていたことをよく思い出す。その時は滝沢とスタッフに告げるのもすっかり慣れていた。けれど、今は。

「滝沢様はご予約の際、鮪ざんまいコースをご注文いただいております。お揃いになりましたらお食事を運びますね」

 スタッフは食前酒を置くと、一礼して下がっていった。

 小さなグラスからはほのかに梅の香りがした。酔っ払ってしまいそうだったのでそのまま手を付けずに業務用のスマホから社内メールをチェックしていると、亜里咲からメールが届いていた。今日アドバイスした内容を早速直したらしい。

 添付されていたパワーポイントを開いて確認していると、詩絵がやってきた。

「お待たせ。仕事?」

「鈴木さんが直した資料を確認していました」

「ふうん。ねえ、会社じゃないんだし敬語は止めてよ」

「あなたはただの昔の知り合いで今は会社の上司なんですから、どこだろうが敬語は当たり前でしょう」

「そういうところ変わらないなあ。雰囲気は優しくてふわっとしているのに、実は気が強いところ」

「すみませんね」

「魅力的だって思っているよ? 私、ただのゆるふわちゃんは興味ないもの。梓の気が強くて、情熱的なところが私は好きだった」

 

 何を言っているんだか。そう思おうとしても、詩絵の言葉は耳に心地よかった。この人の前では私は自分を取り繕う必要はなかった。あれだけ好きだと言って付き合って、あれだけ暴言を吐いて別れたのだから。


――年を取ると新しい関係をイチから作っていくのって大変なのよ。一度は付き合って気心知れた人だったら、問題が解決しているならいい相手だと思う。


 ふみさんの言葉を思い出し、頷きかけてはっとする。問題――そうだ、今日は凪子さんについて聞くつもりだった。


「あの、凪子さんと別れたって本当ですか?」

 前菜を優雅に口に運びながら、うん、と詩絵が頷く。

「梓と別れてから一年後くらいに別れた。私の母が知り合いから紹介してもらった医師の診察を受けて、見立てがよかったのか処方された薬がすごく合って、みるみる元気になっていったの。体調がよくなると気分も明るくなって自信がついたのか、一人で暮らしたいって言い出して」

 詩絵と付き合っていた頃、病院へ向かう詩絵と凪子さんを陰から見ていた時のことを思い出した。二人の表情は暗かったけれど、凪子さんは詩絵にしっかり捕まっていたし、詩絵もまた凪子さんを支えていた。

「凪子さんから別れたいって言ったんですか?」

「そう。私がずっと一緒にいたことが、凪子にも負担だったみたい。そうだよね、私が彼女のことをもう好きじゃないっていうのは伝わっていただろうし、彼女だって私を好きじゃないのに私に頼るしかないって、しんどいことだよね。当時はそんな彼女の気持ちまで思いやれなくて、私ばっかり犠牲になっていると思っていたな。言われた時はちょっと呆気にとられるというかショックだったけれど、離れてようやく幼なじみに戻れた感じかな? 私の実家にもよく顔を出してくれているし、たまに連絡とってお茶したりしている。気楽になったよ」


 驚きと共に受け止めながら、私もようやく凪子さんの心情が理解できた気がした。あの頃、自分と詩絵の苦しさばかり嘆いていたけれど、凪子さんもまたどれだけ辛かったことだろう。自分が恋人の負担になってしまっていること。次第に離れて冷めていく恋人の心。それでも居場所は彼女の家にしかないこと。凪子さんもまたずっと苦しんでいたのだろう。


「そうだったんですか……。今も、滝沢さんは同じマンションに住んでいるんですか?」

「ううん。一人で住むには広いし、私も心機一転したくて引っ越したよ。今度遊びに来てよ」

 詩絵はふふっと笑って付け足した。

「あの頃、こうやって私の家にも気軽に誘えたらよかったのにね。梓にはたくさん辛い思いさせて悪かったと思ってる。凪子も梓に謝っていたよ」

「凪子さんが? なんて?」

「旅行を邪魔して悪かったって。梓と別れて、こんな私でも結構落ち込んだんだ。梓でもダメなら、もう私には恋愛は無理なんだと思って、誰ともデートしたり付き合ったりしていない。そういう私の変化を見て、凪子は私がどれだけ梓のことを好きだったかわかったんだって。梓の会社に転職するって言ったら、たくさん我慢させた挙げ句に旅行も邪魔して別れさせることになってごめんなさいと伝えて、だって」


 さまざまな思いが溢れてきて、言葉にならずに私は梅酒を飲んだ。

 詩絵が私を本当に好きだったこと。別れてから誰とも付き合っていないこと。凪子さんが私に謝ってくれたこと。

 詩絵と別れたあの日から固まっていた心が溶かされていくような思いがした。


「うちの会社に転職したのはどうして?」

 昔の話をしているうちに、いつの間にか以前のような話し方になってしまっていた。

「最初に就職した会社から前職の飲料会社に転職した時、もちろん仕事内容にも興味はあったけれど、凪子のことを考えて突然病院に付き添うことになっても対応ができるような勤務体系だったり、福利厚生もしっかりしている会社にしたのね。でも今は社会人になって初めて一人になって身軽になったから、純粋に自分でやってみたいところにチャレンジしようと思って。転職サイトに登録していたら、この会社が営業で募集していたんだ」

「でも、前の会社のほうがよほど大手だし、仕事の規模も大きいから色々チャレンジできると思うけれど」

「次の異動で東京行きを打診されていたんだよね。そこでは情報セキュリティーの担当になる予定だったんだけれど、私はやっぱり営業がやりたいの。この会社はまだまだこれから伸びる分野だし、若い社員も増えてきている。でも旧態依然の社風だって梓が言っていたし、何か私ができることがあるんじゃないかと思って。――それにもちろん」

 詩絵はじっと私を見つめた。

「梓がいるから、この会社にしたんだよ。でも、まさか同じ部署になるなんて思わなかった! やっぱり運命なのかな、私たち。ねえ、やり直すこと考えてくれた?」


 そっと詩絵が私の手を握る。

 懐かしい手のぬくもり。

 私はその手を握り返すことはできなかったけれど、振りほどくこともしなかった。


「わからない。詩絵との恋愛も失恋も私にはあまりにも大きすぎて、あなたのことは思い出さないようにしていたし、正直憎んでもいた。とてもじゃないけれどまた恋愛なんてする気になれなかった。だから再会して急にそんなこと言われても、やり直す気持ちには今はなれないし、先のこともわからないよ」

「そうだよね。そこまで傷つけたのは私なのに、図々しいね、ごめんなさい」

 詩絵の手が離れた。一瞬の後、ぬくもりが消えたことを少し寂しく思った。

「でも、頭ごなしに拒否じゃなくてよかった。私も焦らないでまた梓に好きになってもらえるまで仕事もがんばるから、見ていてね。だからこうして時々会ってくれる?」

 そう聞く詩絵は会社で見る自信満々な様子ではなく、不安そうで、切実さを感じた。だからこそ、私は苦しさを感じた。

「何で私なの? せっかく身軽になったんだったら、いろんな人と会ってみたらいいのに」

「梓の前にいろんな子と付き合ったけれど、梓が一番私を理解しようとしてくれたし、梓といる時が一番幸せだった。忘れようと思ったけれど、結局今でもずっと梓が好きなの」


 ――それは、凪子さんを抱える詩絵を好きになったから、理解し受け入れるしかなかったのだ。

 そんなこと言えなかったけれど、モヤモヤとした霧のようなものが胸の中から生まれ、くすぶる。

 詩絵は、本当の私を知っているのだろうか。見ようとしたことがあるのだろうか。

 その疑問は自分にもあった。私は本当の詩絵を知っているのだろうか。

 凪子さんがいたから、苦しかった。けれど、凪子さんがいない状態で、私と詩絵はまた恋愛ができるのだろうか。私は凪子さんを抱えて孤独な詩絵を好きになったから支えたかったし、詩絵は凪子さんを一番に優先させながらも私に救いを求めた。幸せな瞬間はたくさんあったけれど、いびつな恋愛だった。


「時間も経ったし、今の私はあの頃の私とは違う。あの頃だって、私は詩絵を自分のものにしたくて、凪子さんごと受け入れようと物わかりがいい振りをしていたけれど、実際の私はもっとわがままだし、優しくもないの。詩絵もあの頃とは違うよね。だから私のことが好きだなんて決めつけないで欲しい」

「決めつけじゃないよ。久しぶりに会ってもときめいたし今もドキドキしている。だけど、焦らないことにする。まずは話せて良かった」

「うん、私も良かった」

「それと……せめて、LINEブロックは解除してもらいたいんだけど」

「あっ……そうだね」

 私は慌ててスマホを操作し、ブロックを解除した。

「ありがとう。これでまた気軽に連絡が取れるね」

「とは言っても、今は職場の同僚っていうことで、だからね」

 ――少なくとも、今は。

「わかってますって。じゃあ、改めて再会に乾杯」

 詩絵が微笑んで掲げたグラスに自分のグラスを軽く合わせた。詩絵の微笑に相変わらず私は弱かった。ずるいな、と思いつつ残りの梅酒を飲み干した。


 *


 翌週から亜里咲は法人営業部の武藤さんと連携してドラッグストアへの出張販売実施に向けて商談を開始し、粘り強く交渉してうまくまとめ、締め切りギリギリに資料をなんとか完成させた。

 詩絵とふたりで直前までプレゼンの練習に付き合ったかいもあり、本番の発表会では亜里咲は緊張しながらも立派に発表できて、部長たちに大いに褒められた。

 私は詩絵や他の部員たちとオンラインで祈るような気持ちで見守り、無事に終わった時は涙が出てしまった。


 発表会終了後、亜里咲から私と詩絵へ小会議室へ来て欲しいとメールが届いた。

 さっさと歩く詩絵の後を追うように会議室へ入ると、亜里咲がとびきりの笑顔で出迎えてくれた。

「お二人のおかげで無事に発表出来ました。本当にありがとうございました!」

「鈴木さん、プレゼンすごく上手だったよ。質問にも堂々と答えていて見違えたわ」

 詩絵が拍手で称えたので、私も一緒に手を叩いた。

「時間も五分十秒でちょうどよかったね」

 プレゼン時間は一人五分程度と通達されており、五分を切っても、そして五分半を超えても減点されるという変に厳しい暗黙のルールが我が社にはある。

「緊張して手が震えましたが、お二人がぎりぎりまで練習に付き合ってくれたので、何とかできたんだと思います」

「質問も私たちの想定外が出たけれど、落ち着いて答えていたじゃない」

「鈴木さんがちゃんと準備していたからだよね。残りの半年も頑張って有終の美を飾ってね」

 自分で言いながら、亜里咲があと半年で営業部を去ることを実感して寂しく思った。

「これからもご指導よろしくお願い致します! あの、これ少しですがお礼です」

 ぺこりと頭を下げながら亜里咲が私と詩絵に小さな紙袋をひとつずつ渡してくれた。中を覗き込んだ詩絵が歓声を上げた。

「わ~! ありがとう、これジャルダンの生チョコレートじゃない! 私の大好物!」

 その言葉を聞いた時思わず、えっと声が漏れた。


 チョコレートをあげるのは、私にだけじゃなかったの……?


「町田さん、どうかしましたか? 生チョコレートは嫌いでした?」

 きょとんとした瞳で亜里咲が私を見上げる。

 その無邪気な表情に――私は身体中の血が抜けるような感覚を覚えた。

「ううん……ありがとう、後でいただくね」

「はい、ぜひ。お時間いただいてありがとうございました」

「私は早速次の会議の後いただこうっと。楽しみ、ありがとう! それじゃ、遅れるからもう行くね」

 詩絵が足早に出て行くのに合わせて私と亜里咲も会議室を出て、次の会議へと向かう詩絵を見送った。

「お忙しそうですね、滝沢さん……」

「瞬く間にうちの部のエースになったもんね……」


 最近の彼女のスケジュールはパンパンに詰まっている。

 詩絵とはあの夜以降二人で会っていない。嵐の海のように揺れていた私の心もだんだんと落ち着き、詩絵を客観的に見ることができた。

 コーヒーメーカー廃止から始まった詩絵の改革は一ヶ月の間に少しずつ進み、管理者たちの会議は短縮されるようになったし、労働時間もチェックして常態化した残業や労務の偏りがないかも確認された。残業こそ熱意の表れとして見ていた古いおじさんたちには疎まれることもあったけれど、若い社員層からの支持があったし、働き方改革として経営会議で紹介することを部長に勧め、まんまと支社長に褒められた部長は端で見てもわかるほどウキウキしていた。支社長はそこで終わることなく、全社的に業務効率化を進めると宣言して経営企画部に指示を出し、各部からプロジェクトメンバーを募った。うちの部署からは詩絵と五年目の男性社員が立候補した。部長からもお墨付きを得た詩絵の立場は早々に強固なものになり、まさに水を得た魚のように生き生きとしていた。

 そんな彼女を見ていると、一時でも付き合っただなんて嘘のように思えた。詩絵はやっぱり――いや、同僚として一緒に働いていみると、さらにカッコよくて尊敬できる人だった。


 魅力と実力を備えた詩絵には当然みんなが憧れる。亜里咲もきっと好意を抱いているに違いない。

 自分のデスクに戻り、亜里咲からもらったチョコレート入りの紙袋をため息と共にそっとバッグにしまった。バッグには亜里咲にあげるための封を開けていないキャンディがあったけれど、紙袋と一緒に奥底へと押し込んだ。


                つづく。

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