第7話 ティラミスと彼女。

 ――私のこと、好きになったらだめだよ。

 そう言う詩絵の瞳の射貫くような強い輝きを覚えている。その輝きが私に飛び火して、心臓が燃えているように熱く感じた。


 翌日、詩絵の言うとおり男性陣は何事もなかったかのように挨拶をして研修を開始した。会場に先に入っていた詩絵には軽く会釈だけしたが、昨夜、別れてからここに来るまでにすでに何百というメッセージのやり取りをしていた。幼い頃からの思い出、仕事、趣味、好きな食べ物、よく聞く音楽、どんな家に住んでいるか、何にこだわるか、今までの恋愛、そして互いの印象。もちろん、それだけで詩絵を理解した気になってはいけないことはわかっていたけれど、どれだけ聞いても興味が尽きず、もっともっと詩絵を知りたくてたまらなかった。

 当然のことながら睡眠不足で研修中は眠くなったけれど、休憩時間に詩絵と話す時だけは目が冴える。我ながら現金なものだと思った。

 夕方、研修が終わると、講師を囲んで質問をしたり、飲み会会場を押さえようとスマホで検索する受講者たちを避けて足早に会場を後にした。もう表面上の付き合いのためだけの飲み会などに参加する気はなかった。一刻も早く詩絵と二人になりたかった。

 ビルの外に出ると詩絵がすでに待っていた。私たちは並んで歩き、詩絵が好きだというスペイン料理店へと向かったのだった。


 生演奏されるギターのセンチメンタルなメロディを聴きながら、何度も好きですと言った。自分から告白したのも初めてだった。

「好きになったらだめって言ったばっかりでしょ」

 詩絵は困ったように微笑みながらワイングラスを置いた。

「すみません。でも、別にいいんです。詩絵さんが私なんかを好きになるはずはないし、詩絵さんにとって凪子さんが一番大切な存在だってこともわかっていますから。ただ、こんな風に急に誰かを好きになるなんて初めてで、自分の気持ちでいっぱいいっぱいになって苦しいんです。だからこうして聞いてもらえるだけでいいんです。詩絵さんは答えなくていいんです」

 慣れないワインの酔いが回ってきて、とうとう私は泣きだした。

「二日連続で泣かせちゃった……梓ちゃん、泣き虫さんだね」

「こんなの、初めてです」

「梓ちゃんが泣くと胸が痛いよ」

「酔っ払いの涙なんて気にしないで下さい」

 私は無理に笑ったけれど、涙は止まらない。ギターの切ない旋律に心をかき乱され、感情がコントロールできない。タイプだなんて言われてその気になって、初対面の翌日に告白して相手にされなくて泣くなんて、なんて惨めなんだろう。

「すみません、私もう帰ります」

「ダメだよ、こんな泣き顔の梓ちゃんを外に出せないよ」

 立ち上がろうとした手を引っ張られ、私は再び椅子に座った。昨日と逆だ。

 詩絵が私の手を離さないまま、私の目を覗き込んだ。目が合った瞬間、全てがどうでもよくなり、そのまま彼女の瞳の中に沈み込みたくなった。

「本当に私のこと好きになっちゃったの?」

「はい」

「困ったね」

「はい」

「困ったよ。私も梓ちゃんが好きだから」

「はい……え?」

「私が好きになったって梓ちゃんを困らせるだけだから我慢してたのに、こんなに好きになられて。私、どうしたらいい?」


 なんてずるい人なんだろう、と思った。

 こんな恋愛経験もろくにない私に聞くなんて。

 でも私を見つめる詩絵の瞳は幼い子のように潤んで揺れていた。

 本当にどうしたらいいのか、わからなくなっているのかも知れない。


「私が決めていいんですか?」

「うん、決めて」

「じゃあ、私と付き合って下さい」

「私には凪子がいるよ。寂しい思いもさせるだろうし、私の家には呼べないし、朝まで一緒にいられないし、旅行とかできないよ。それでもいいの?」

「わかってます」

 昨夜から何度も考えた。経験がなさ過ぎてよくわからなかったけれど、そんな状況にいる詩絵を、寂しさを押し殺している詩絵を、私だけはわかってあげたかったし、支えたかった。

「ありがとう。できる限り大切にするから……私と付き合って下さい」

 そう言って、詩絵は掴んだままだった私の手の甲に唇を付けた。


 初めて肌を重ねた時、詩絵は泣いた。髪の毛の一本一本、手足の爪の先まで絶え間なく打ち寄せる快感の波に気を失いそうだった私は、頬にポタポタと落ちてきた雫に意識を取り戻した。

「詩絵さん、どうして泣いているの?」

 言われて詩絵も初めて自分が泣いていると気づいたようだった。私は指で詩絵の涙を拭った。

「ごめんね、泣いたりして。ようやくわかったの。私はずっと寂しくて、ずっとこうやって誰かに抱き締められたかったんだって」

 詩絵は私を抱き締める腕に力を込めた。肌と肌が密着し、溶け合うようだった。

「大好きな人が私を大好きでいてくれるって幸せだね。梓ちゃんを通して自分を抱いた感じがする」


 ああ、そういうことかと思った。

 女が女を抱くとは、自らを抱くことでもあるのだ。

 同じような感情を持ち、同じ身体を持つからこそ、こんなにわかり合えて満たされるのだ。


「ちょっとわかる気がします」

「本当?」

「こんなに優しく大切にされたこと、なかったから。私もずっとこうされたかったんだって思いました」

「梓ちゃん、好き」

「私も詩絵さんが好き。詩絵さんが感じてきた寂しさを全部埋めたい。だから……私も詩絵さんにしてみてもいいですか? うまくできないかも知れないけれど」

「うん。梓ちゃんがすることなら全部嬉しいから、して」

 私は精一杯の愛情を込めて詩絵の伸びやかな身体に手を、指を、舌をはわせた。だんだんと熱を帯びていく詩絵の吐息。寄せられた眉。震えるまつげ。桃色に染まる皮膚。次はここ、その次はここ、もっと深く……と、言葉を使わずに詩絵が教えてくれる。指先に水音を感じた時の飛んでいきそうな幸福感といったら。

 幸せだった。もう、詩絵とは離れられないと思った。


 文字通り、私は詩絵に溺れた。

 付き合い始めの頃こそまだ冷静さがあり、詩絵にそろそろ帰らなきゃと促したり、私を気遣って謝る詩絵を逆に励ましたりしていた。詩絵も私を喜ばせようと、新しくオープンしたお店や夜景が美しい場所に連れて行ってくれたり、アクセサリーや洋服など何かとプレゼントもくれた。そして私たちは時間を惜しむように抱き合った。

 私なら大丈夫。他の女の子とは違う、凪子さんごと詩絵さんを受け止めて支えるんだ。――そう思っていたのに。

 最初の甘い二ヶ月ほどが過ぎると、次第に凪子さんという存在は現実感を持って私の心を苛み始めた。

 詩絵を見送って一人になるとすぐに見たことのない凪子さんのことを考えてしまう。詩絵は凪子さんの前ではどんな表情で、どんな声で話すのか。本当に一緒に寝ていないのか。実は私と会っていない時、セックスしているのではないか――詩絵はあんなにも私と抱き合う時に幸せそうにしているのだもの、一人で眠れるはずがない――いつも妄想が頭に渦巻き、仕事の効率も下がってミスをするようになってしまった。

 軽い調子を装って凪子さんがどんな人か、写真がないか聞くと、いつも詩絵は注意深く話題を逸らした。それは詩絵の愛だったが、私には不信感となった。


 あまりにも気になりすぎて、詩絵が凪子さんの通院に付き添うために会えない土曜日に、一日ずっと詩絵のマンションに張り付いてしまった時もある。秋が深まる頃で、肌寒い日だった。朝からマンション向かいのコンビニに出たり入ったりしながら待って、とうとう並んで出てきた詩絵と凪子さんを見た。凪子さんはスウェット上下に地味なパーカーを羽織り、化粧っ気もなく、伸ばしっぱなしの髪は艶もない。シャツとデニムにトレンチコートの何気ない格好でも美しい詩絵とは、お世辞にもお似合いだなんて言えない。しかし長身の詩絵にすっぽりと守られるような小柄な彼女は、元気でオシャレをしたのならきっと可愛らしい人なのだろうと思わせた。そもそも、詩絵が初めて恋をした人なのだ。詩絵の恋の原型を刻みつけた人なのだ。

 通りに出た二人はバスに乗るまでほとんど会話をせず、凪子さんは詩絵の腕にしがみつくように掴まって歩き、詩絵も凪子さんの足元を見ながらいつもよりゆっくりと歩いていた。その無言の一歩一歩が二人が積み重ねてきた日々を物語るようで、見てしまったことを後悔しながら涙を流した。

 そのまま三時間、さらに待ちながら時折詩絵に何気ないメッセージを送ったけれど、既読にすらならなかった。凪子さんがいる自宅で過ごす時などはいつもそうだった。そのたび、私より凪子さんが優先されていることを思い知る。日が傾く頃にまたバスで戻ってきた二人を見て、逃げるように去った。


 詩絵は私のその行動に気づいていた。でも何もとがめず、とびきり優しくしてくれたので私も落ち着きを取り戻し、詩絵のために料理を作ったり、会えない時も二人で行きたいお店について調べたり、ダイエットのために筋トレをしたり、詩絵に追いつこうと資格取得にも挑戦した。

「梓、辛くない?」

 ある夜、私の家でセックスした後、詩絵は私の髪を指ですきながら尋ねた。その頃にはお互いに、梓、詩絵と呼び合うようになっていた。

「辛くない」

 即答したが、詩絵は首をかしげたままだった。

「嘘、辛いでしょ。離れた方が楽なら、いつでも別れるから。友だちに戻ったって、たまにご飯食べたり、連絡取り合えばいいし」

「今さら友だちづきあいなんてできない。詩絵が好きだから全然辛くない。詩絵は私と別れたいの?」

 詩絵の目が揺れるのを見て、私は安堵する。

「別れたくない」

「じゃあ、このままでいて」

 それ以上余計なことを言わないように、私は詩絵の唇をキスで塞いだ。


 しかし私たちのそんな日々は、予め宣告された余命を一日一日消化しているようなものだった。

 時が経つにつれ、私は何かと悲観的になって泣くことが多くなっていった。好きだから辛かった。恋愛初心者の自分が、うまく割り切れるはずなどなかったのだ。それでも好きだから詩絵を手放すことなんてできなかった。

 凪子さんもまた詩絵に今までのような一晩限りの相手ではなく、特定の恋人が出来たことに気づいたらしく、時折嫌味のような言葉を言うようになったらしい。

「外で何をしようが朝までに帰ればいいっていう約束だし、責められるわけじゃないんだけれど、楽しそうでいいよね~元気があって羨ましいわ~とかよく言っているわ」

 と詩絵は苦笑いしていたけれど、家でも外でも心が安まらず、詩絵も疲れていった。


 最初に言われていた通り、クリスマスも年末年始もゴールデンウィークも誕生日も一緒に泊まったり旅行に行ったりは出来なかったので、詩絵とデートする以外は実家に帰ったり、花梨たち同期女子と小旅行に行ったりもした。花梨たちには恋人がいるとは伝えていたけれど、詳しいことは言わなかった。

 夏が近づく頃、仕事帰りに待ち合わせた詩絵は珍しくはしゃいでいた。

「7月に凪子が検査入院することになったの。いつもは日帰りの検査なんだけれど、今回は項目が多いらしくて念のための入院だから心配ないの。その時、お互いに会社休んで一泊二日でどこかに行こうよ」

 嬉しくてたまらなかった。時間を気にせずに一緒にいられることも、詩絵が私のためにその貴重な時間を使ってくれることも。

 旅行の計画を立て、準備をしていたあの頃が私たちの最後の幸せな日々だった。


 当日、お互いに会社を休んだ私たちは札幌近郊の湖のほとりに建つホテルに向かった。ホテルは源泉掛け流しの温泉とフレンチで名高いオーベルジュで、一度行ってみたいと思っていた憧れの場所だった。それを知る詩絵が予約を取ってくれたのだ。

 詩絵は凪子さんを病院に送った後、レンタカーで私のマンションまで迎えに来てくれた。途中のカフェでランチを食べてから湖に向かい、ホテルにチェックインした。湖でカヌーに乗ってさんざんはしゃいでからホテルに戻って温泉を楽しみ、ベッドでゆっくりと愛し合った後、レストランに行くためにとっておきのワンピースを着て軽く化粧をしている時に、詩絵のスマホが鳴った。

 画面に「凪子」と表示されているのを見た時、ああ終わったと思った。詩絵が私の顔を見ないようにごめんと言ってスマホを掴み、洗面所へ行く。

 漏れ聞こえる声は言葉として聞こえなかったけれど、どうしても耳をそばだててしまうので化粧も途中で投げ出し、ベッドに座ってテレビを点けた。平日午後六時のテレビはどこも暗いニュースしか放映していなかった。


 永遠のような十分が経って、詩絵が硬い表情で戻ってきた。

「梓、ごめん……私、」

 私は詩絵の言葉を遮った。

「凪子さんに帰れって言われた?」

「うん。急に退院することになったみたいで……」

「なんで? 検査入院ってそんな簡単に退院していいものなの?」

「検査中に心理的に不調になったみたいで……どうしても家に戻りたいって言って帰らせてもらったんだって」

「ふうん。でも明日の朝、凪子さんが目覚めるまでに帰ればいいんじゃないの?」

「凪子、一度不調になっちゃうと、私がいないとダメなの。梓と一緒にいる時に電話してきたのなんて初めてでしょう? 泣いてどうしても帰ってきて欲しいって言うから……本当にごめん。埋め合わせはするから」

「埋め合わせなんてできないくせに! 付き合って一年かかってようやく初めての、たった一泊の旅行だよ?」

 涙が溢れ、声が震えた。ひどい風邪を引いた時のように喉がぎゅっと痛んだ。

「本当にごめんね」

 詩絵の声はか細く、彼女もまた辛い思いをしていることはよくわかった。それでも、もう止められなかった。

「凪子さんは私たちが旅行に行くってわかってたんでしょ? だからわざと邪魔しているんだよ。最初からこうするつもりだったんだよ。病院から一人で帰れたぐらいなんだもん、詩絵が帰らなくったって大丈夫だよ。これからコース料理だよ? せめて一緒に食べようよ。もうキャンセルなんてできないよ」

「そうかも知れないけれど、もう私も食べられる気分じゃないの。今、一緒に帰るなら家まで送っていくし、梓だけ残って食べて泊まっていってもいいんだよ。その場合は申し訳ないけれど明日、バスかなんかで帰って。交通費は置いていくから」

 言いながら、詩絵は手早くバッグに荷物を詰め始めた。

「今帰るのも、一人で残るのも嫌。今日だけ一緒にいてよ。誕生日の夜だって一緒に過ごせなくても我慢したんだよ」

「本当に悪いと思っているけれど、私が一番に優先させるのは凪子だってことは、梓には最初から伝えていたよね?」

 もはや詩絵は私を見ようともせずに部屋を歩き回りながら帰る準備を進めていた。

「それはそうだけど、こんなに好きにさせておいて、初めての旅行で、それはないよ」

 私は喚いた。醜く、泣き喚いた。こんなに醜い私に詩絵を引き留められる訳がない。


 そして理解した――「私のこと、好きになったらだめだよ」出会った日にそう言われた時、私に飛び火した詩絵の火が、今心臓から全身を焼いている。それは自分か、詩絵か、凪子かを燃え尽くすまで消えない炎だった。


「――別れて! 凪子さんと別れて」

 詩絵は私をまっすぐに見つめた。あれほど私の言葉ひとつひとつに揺れていた瞳は今は凪いだ夜の海のように暗く動かず、とうに何かを決意していた。

「ごめん。凪子とは離れられない。私を好きなら凪子ごと受け入れて。それができないなら、別れよう」

 詩絵は私が凪子を受け入れることなどできないのを知っているのだった。だからそれは別れの挨拶だった。いつかこう言われるとずっとわかっていたのに、いざ言われると全身の血が引いていく気がして、私は座っていたベッドに倒れ込んだ。それでも詩絵は私に近づこうとしなかった。

 口の中がカラカラに乾いている。私はやっとのことで声を絞り出した。

「もう私には無理。別れる。一人で帰るから早く出て行って」

「――わかった。今までありがとう。週末にでも梓の家に置いている荷物を取りに行かせて」

「……」

「ごめんね。それじゃ」

 去って行く足音とドアが閉まる音がして、その後はただ静けさだけが残った。あんなに楽しかった時からたった三十分ほどしか経っていないのが信じられなかった。まだ二人の体温と匂いが残っているベッドに突っ伏して、もう誰に遠慮する必要もないのに私は声を押し殺して泣き続けた。


 しばらくしてチャイムが鳴り、私は飛び起きた。詩絵が帰ってきた、やっぱり私のことを思って引き返してくれたんだ。そう思って涙でぐちゃぐちゃの顔をタオルで手早く拭ってからドアを開けると、傍らにワゴンを置いたレストランの女性スタッフが立っていた。

「滝沢様より、ご同行のお客様分のお料理を部屋まで運ぶようにとご注文がございましたので参りました。入ってもよろしいでしょうか」

 一人で食べろと? 意味がわからないと思ったが、断ることもできず頷くと、女性スタッフは部屋に入ってきてテーブルに手早くクロスを広げ、美しい料理数品とバゲット、ボトル入りのワインクーラーを置き、赤ワインのボトルを取り出してグラスに一杯注いだ。

 並べられた料理の端に、小さくて華奢な食器に盛られたティラミスを見つけて、私ははっとした。

「すみません、このティラミスって元々コースについていたものですか?」

「いえ、コースにはレアチーズケーキがセットになっておりましたが、滝沢様からご予約の際にティラミスに変えたいとご要望がありましたので、特別に準備致しました」

「そうですか……」

「では、お食事が終わりましたらフロントまでお電話下さい。食器を下げに参ります。どうぞごゆっくりお召し上がり下さい」

 一礼してスタッフが出て行った後、私は呆気にとられながらワインを口にした。詩絵らしい。こんな修羅場でも料理のことまで気遣うなんて。次第にこの状況がおかしくなって笑ってしまい、すぐにひどく惨めな気分になった。あのスタッフは私が泣き腫らした顔をしていることに気づいただろう。女に置いて行かれて泣いている女だと、哀れに思っただろうか。

 料理はほとんど喉を通らなかったけれど、絶品なのはわかった。詩絵と一緒にレストランで食べたならどんなに美味しかっただろう。


 最後にティラミスを口にした。<私を元気にさせて>という名のこのデザートが、私は大好きだった。チョコ、マスカルポーネとカスタードクリームという好物だらけの組み合わせ。コーヒーは苦手なのになぜかティラミスは大好物だったから、詩絵はよく街中のパティスリーや、私の家に来る途中のコンビニで買ってきてくれた。どこのティラミスだって詩絵がくれるものはとびきり美味しくて、幸せな味がした。いつだって私を元気にしてくれた。

 ――でも。

 特別に作られたというティラミスはとても苦かった。苦くて甘くて、涙の味がした。

 もう二度とティラミスは食べない、そう誓った。


 翌日、泣き腫らした顔に念入りに化粧をしてチェックアウトした。支払いは詩絵が先に済ませており、私はスタッフにバスの時間を教えてもらって一人感傷に浸りながら帰った。


 予告通りその週末に詩絵から連絡があった。顔を見たらまた恋しくなるだろうかと恐れていたけれど、思ったより私はこの日々に疲れていたようで、ただ胸が痛むだけだった。詩絵もまた、疲れた顔をしながらもどこかほっとしているようだった。

 玄関先に立ったまま、私たちはこの関係の最終章をどう終わらせるかを探りあうようにぽつぽつと話した。

「凪子さんは大丈夫だったの?」

「うん、私が帰ったら安心して寝た」

「そう」

「あの後……夕食、食べた?」

「うん、別れた後にコース料理を一人で食べるってどんな罰ゲームかと思ったけれど、お料理も特別注文のティラミスも美味しかったよ。ほとんど食べられなかったけれど」

「少しでも食べてくれてよかった」

「お気遣いいただいてありがとう」

 もう二度とティラミスは食べないよ、そう言おうと思ったけれど、やめた。

「――今までありがとう。梓と付き合えて楽しかった。私の事情に巻き込んで、たくさん我慢させて傷つけたのは悪かったと思ってる」

「最初からわかっていたことだし。凪子さんがいることも、こんな風に終わることも」

「わかってた?」

「詩絵だってわかってたでしょ」

「うん……でも、梓のことは本当に好きだったし、別れたくなかったから頑張っていたつもり。独りよがりかも知れないけれど」

「私も頑張っていたつもりだったけれど、やっぱり無理だった。次はもっと我慢強くて包容力のある相手を見つけて」

 精一杯の嫌味を言うと、もう話すことはなかった。私は予めまとめておいた詩絵の荷物を入れた紙袋を渡した。中を覗き込んだ詩絵は、私にプレゼントした洋服やアクセサリーが全部入っているのを見て、捨てるか売ればいいのに、と少し笑った。

「それじゃ、行くね。次は、優しくて誠実な相手を見つけてね」


 泣きたくなりながら私は頷いた。

 詩絵だって優しくて誠実だった。ただその相手が、私だけではなかった。

 潤んだ目を見せたくなくてうつむき、詩絵の先の尖ったヒール靴を見ていると、また声がした。


「さよなら――私は今でも梓を愛しているよ」


 そう言うと、詩絵はドアを開けて出て行った。

 ドアが閉まるより早く、私はLINEを操作して詩絵をブロックした。

 それでも、愛しているという詩絵の最後の言葉は呪いとなって私に残った。

 そうやって私と詩絵の関係は終わった。


 *


 話し終わってふと気づくと、ふみさんと花梨は両肘をついて組んだ両手に額を付けてうつむいていた。まるでひどい戦況に悩む司令官のように。

「あの……ご静聴ありがとうございました」

 声を掛けると、二人ともふーっとため息をついて顔を上げた。

「滝沢詩絵、恐ろしい女……惚れるしかない……」

 ふみさんが重々しく言うと、花梨も苦々しい顔で頷いた。

「梓を傷つけた人だし、どんなひどい人なのかと思っていたけれど、想像よりずっとカッコよくて素敵な人だった……背負っている事情は重すぎたけれど、梓が好きになるのもわかるよ。それだけに終わり方が悲しい」

「多分私も、ひどい人だったと思うことでどうにか立ち直ろうとしていたんだろうね。ちゃんと思い出してみると、最初から凪子さんがいることを隠さず教えてくれていたんだし、誠実だったし優しかったと思う。私には無理だっただけで」

「梓はよく頑張ったよ。恋人が自分以外の人を優先させるのってやっぱり辛いもん。やっぱり、凪子さんがいながら梓に手を出したのは私は許せないな」

花梨は眉根を寄せて怒っていた。普段、怒りという感情を持たないかのように優しい花梨が私のために怒ってくれているのが嬉しい。

 しかしふみさんは、やれやれというように肩をすくめた。

「若いねえ佐野っち。恋愛関係じゃなくなったけれど簡単には別れられない相手がいる。それでも清く正しく美しく生きられる人間なんてなかなかいないと思うけれどなあ。しかもまだ三十代前半だよ? まだまだ若いし、滝沢さんだって本気で梓のことが好きになっちゃったんだよ。ちゃんと大切にしようとしていたんだし……」

「でも本当に梓のことを思うなら、梓がどんなに好きだと言っても受け入れちゃだめだったし、好きでも我慢すべきだったと思います。付き合っているのに自分より優先されている人がいる、旅行もできないって辛すぎる」

「私だって一生添い遂げようと思って結婚したけれど結局離婚したし、状況も感情もどんどん変わっちゃうものだからね。滝沢さんだって梓に恋して一緒にいたくて、どうにかうまくしようと思って付き合ったんだと思うよ。梓だってそうでしょ」


 ふみさんの言葉に私が頷いているのを見もせず、花梨は勢いよくハイボールのグラスを掴んだ。

 いかん、酔っているな。

「花梨、ちょっと落ち着いてよ。今、水持って来てもらうから」

 慌ててタブレットで水を注文しながら言ったけれど、花梨は残ったハイボールを一気に飲み干した。


「じゃあ、滝沢さんが今度は岩ヶ崎さんを狙ってきたらどうするんです? 付き合うんですか?」

 花梨がふみさんを睨むように見ながら強い口調で言ったので、ふみさんと私は呆気にとられた。

「私なんかを滝沢さんが狙うわけないでしょ」

「そういうことじゃなくて、もしも狙われたらどうするか聞いているんです。岩ヶ崎さんは滝沢さんのこと理解できるんだし、ホイホイ付き合うってことですよね?」

「はあ? 人をゴキブリか尻軽女みたいに言わないでくれる?」

「そんなこと言ってません!」

「ちょっとちょっと、なんで二人が言い合いになるんですか」

 私は慌てて両手を振って二人を制した。

 ちょうどその時、水が運ばれてきたので花梨とふみさんに飲ませる。

 しばし沈黙の後で花梨は落ち着きを取り戻したのか、ふみさんに頭を下げた。

「……すみません、なんだか興奮しちゃって」

「ううん。佐野っちも梓のこと大切に思っているからだよね」

「はい……あと、岩ヶ崎さんのことも」

「私? 私なんて社内でも怖がられているし、滝沢さんの眼中にも入らないよ」

「そんなことありません。岩ヶ崎さんは仕事には厳しい面もあるけれど、それだけ仕事が出来るし、後輩にも熱心に指導してくれるし、でもこうして話すととっても可愛いところもあって、話していて楽しいし……」

「可愛いだなんて……私は佐野っちのほうが心配だよ。社内でも佐野っちを狙っている輩は多いんだよ、可愛くて優しくて、帰ったらあんな嫁が家で待ってたらいいよなって。佐野っちのこと何だと思ってるんだか。佐野っちはそんな、誰かのものになって閉じ込められるような女の子じゃないんだよ。お前らが佐野っちのために何ができるのかって感じ」

「ええ……? そんなこと言ってくれるの、岩ヶ崎さんだけですよ……」


 いや、私もしょっちゅう花梨のことは心から褒めているけれどな。

 なぜだろう。さっきまで二人とも私の話を夢中で聞き、私のために怒っていたはずなのに、今私は――モブだ。

 まあ、二人が幸せになるならいいし、ふみさんと花梨がくっつく過程を目撃しているとしたなら奇跡的ではあるんだけれど。


 私が無言でタブレットを操作してデザートを選んでいることに気づいたふみさんが、気まずそうに、えっと……と切り出した。

「梓は滝沢さんとやり直したいの?」

「どうなんでしょうね……とりあえずは、凪子さんと本当に別れたのかをちゃんと聞きたいとは思います」

 花梨の眉根がまた寄せられ、口が尖った。

「やり直すのは反対。本当に凪子さんと別れていてまだ梓を好きなら、別れてすぐ梓に連絡したんじゃない? たまたま同じ会社で再会したらすぐ口説いてくるって調子がいいよ」

「それはそうだけど、私は滝沢さんをブロックしていたから彼女から連絡取りようもなかったのもあるし」

「私は本当に今滝沢さんがフリーなら、やり直すのもいいと思うけれどね」

 ふみさんが言うと、花梨は不満そうに「えーっ」と叫んだ。

「だって年を取ると新しい関係をイチから作っていくのって大変なのよ。一度は付き合って気心知れた人だったら、問題が解決していればいい相手だと思う」


 実際にそうだとも思う。詩絵なら私がどんな性格かも、何が好きかもわかっている。私も詩絵のことならわかっている。

 けれど、それは凪子さんがいる時の詩絵だった。あんなに強い結びつきだった凪子さんとどうして別れたのか。別れて、詩絵は何か変わっただろうか。今日、職場で再会した詩絵は表向きの顔をしているだけで、まだ本心は見えていなかった。詩絵が私をどう思っているかも伝わってこない。

 それに、あれだけの別れをした相手にもう一度私は恋できるのか、よくわからなかった。


「それじゃあ、岩ヶ崎さんは離婚した旦那さんがもう一度やり直そうって言ってきたらまた付き合うんですか!?」

「どうしてそうなるの!? 無限ループなの!?」


 再び二人の言い合いのようなじゃれあいが始まった。花梨はよほどふみさんが気になるのだろう。それでも結婚歴は、やはりただの元恋人とは違う。心配性の花梨がふみさんにもしも本気になったとしても、ふみさんの過去は気になって仕方が無いだろう。でも、次にふみさんが付き合うのは、傷ついた過去も全て受け止めて愛して、新たな道を一緒に歩いてくれる人がいい。

 詩絵もそんな人と付き合って欲しい、と思う。私は? 私はそうなりたい……?

 ずっと詩絵についての記憶に蓋をしていたから、自分の感情がよくわからない。


 運ばれてきたティラミスをしばらく眺めてから、意を決して食べた。二年前、あのホテルで一人で食べて以来だ。二年ぶりのティラミスは、ココアパウダーの一瞬のほろ苦さの後、マスカルポーネクリームの濃厚な甘さが舌に広がり、エスプレッソの苦みが余韻となった。やっぱり好きな味だった。

「美味しい……」

 と思わず漏らすと、花梨とわちゃわちゃ言い合っていたふみさんが気づいた。

「ちょっと、一人で食べてずるい」

 そう言いながらふみさんが私からスプーンを奪ってぱくっと食べ、またすくうと、はい佐野っちも、と言って花梨の口に運んだ。

「美味しい! でもこれって、岩ヶ崎さんと間接キスしたってことですか?」

「間接キス!?」

 花梨が赤い頬に両手を当てて尋ねると、ふみさんがもっと赤い顔で慌てた。

「二人だけじゃないよ。私もだよ」

 そう言って私はふみさんからスプーンを奪い返すと、再びティラミスを味わった。

 私を元気にさせる味だった。

 詩絵とちゃんと話そう、そう思った。

             つづく。

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