第6話 フルーツパフェと彼女。

 愛している、は呪いの言葉にもなる。


 別れる時に詩絵は「でも、私は梓を愛しているよ」、そう言った。

 本当にそうなら詩絵は私を捨てないだろう。凪子さんではなく、私を選んだだろう。「でも」という二文字には、凪子のことを一番に愛しているけれど、が隠れている。それがわかっていながらも、私は実はその言葉にずっとすがっていたのだろう。それほど好きな人だった。もしかしたら今日には、明日には、私を迎えに来てくれるのかも知れない――。

 詩絵はどれほどの思いを別れ際の「愛している」に込めたのだろう。口寂しい時のガム一枚くらいだったかも知れないのに、縋りすぎてそれはやがて呪いになった。


 二年かかってその呪いが解かれたと思ったけれど、まだ呪いは続いていたようだ。

 まさか詩絵が私の会社に転職してきて、さらに私の部署に入るなんて。

 そして、凪子さんと別れていたなんて。


 その事実を知った日の夜、少し残業したあとに私は花梨が選んだ街中の個室ダイニングに向かった。会社近くの店ではしにくい話をする、という意味だろう。

 部署では詩絵の歓迎会が開かれることになっていたけれど、残業を理由に断った。詩絵は物言いたげな瞳で私をじとっと見ながらおじさんや若者たちに連れられていった。


 突然、詩絵にやり直そうだなんて言われてまだ動揺が収まらない。

 自分の気持ちがよくわからない。

 花梨に洗いざらい話して、どうしたらいいか、相談したかった。


 案内されたテーブル席には、奥側にすでに花梨とふみさんが並んで座っていた。すでに飲み始めていたようで、二人ともほのかに頬が赤い。花梨からはふみさんが来ることは聞いていなかったので、私は驚いた。

「いつの間に二人は仲良くなったんですか?」

 椅子に座りながら尋ねた。花梨は新入社員時代からふみさんのことを怖がっていたはずだし、ふみさんもそれを察していたのに。

「梓のことを相談できる相手と言ったら岩ヶ崎さんしかいないでしょ」

 花梨は何やら怒っているようだった。ふみさんは逆に心配そうな顔をして私を見ている。

 案内された時に注文したビールが運ばれてくると、取りあえず習性で乾杯しようとグラスを差し出した。ふみさんはハイボール、花梨はビールの入ったグラスを持ち上げる。それぞれ半分以下に減っていた。

「何に乾杯しましょうか?」

 と花梨がふみさんを見ると、ふみさんはにやりと笑った。

「そうね、これから尋問される梓に」 

「なんですかそれ」

 軽く不満を漏らしてみたけれど、花梨は賛成! と言って二人揃って「尋問される梓に乾杯!」と言いながら私のグラスにグラスをぶつけてきたのだった。


 ビールを一口飲むと、私は覚悟を決めて二人の顔を交互に見つめた。

「どうぞ、何でも聞いて下さい。何でも言いますから」

 はい! と手を挙げたのは予想通り、ふみさんだった。

「あの転職してきた美女とはどんな関係なの? エレベーターでただならぬ状況だったって聞いたけど?」

 ふみさんの隣で眉間に皺を寄せた花梨が頷いている。花梨は目撃したことをすでにふみさんに報告していたらしい。


「滝沢さんとは二年前に一年ほど付き合っていました。でも振られて終わりました」

「え! じゃあ、あの人が梓を恋愛不能にさせた張本人なの!?」

 ふみさんが目を丸くした。

「そうなりますね」

「なんと………うちの会社に梓がいるってわかって転職して来たの? 事前に連絡があったの?」

「いいえ、別れてからは連絡は一切取っていません。転職も偶然だと思います」

「だって、梓がどこに勤めているかは知ってたんでしょ?」

「そうですね……」

「それじゃ、梓を追ってきたってこと? 梓をまだ好きってことじゃない?」

 興奮してきたふみさんの横で、ビールをぐいっと飲んだ花梨が身を乗り出した。

「あの時、エレベーターでなんて言われていたの?」

 その鋭い眼光はいつもの穏やかな花梨とは大違いだ。

 私は戸惑いつつも打ち明けた。

「やり直せないか、考えてみてって」


 やっぱりー! と言い合った二人は、苦々しい顔をしながらも何故か乾杯してグラスに残ったそれぞれのアルコールを飲み干した。

「今のは何に乾杯なんですか?」

「何だろうね。佐野っち、とりあえず次の酒注文しよう」

「岩ヶ崎さんは次もハイボールでいいです?」

「うん」

 花梨が注文用のタブレットでハイボールを二杯注文すると、間もなく先に注文していた生ハムサラダやエビマヨ、コロッケ盛り合わせと一緒に運ばれてきた。

 来た来た! と言ってまた二人は乾杯している。


 ふみさんと食べる時は先輩とは言え、私が取り分けたりしない。一緒にご飯に行き始めた頃にそういうのしなくていいから、自分が食べたい時に食べたい量だけ取りたいから、とはっきり言われたのだ。ふみさん以外の先輩や上司と飲む時は気を利かせる必要もあるけれど、同期や後輩と飲む時は私もふみさん方式を広げて各々好きに食べるようにしている。

 花梨はふみさんと少人数で飲むのが初めてなので、すぐに取り分けようとしたけれど、ふみさんが花梨の手に自分の手を重ねてそっと制した。花梨が、いいの? と言うように私を見たので、「ふみさんってこういう人だから」と頷く。

 さっさと自分の分をとって食べ始めたふみさんを見て、花梨は微笑んだ。

「岩ヶ崎さんのこういうところ、すごく尊敬します」

「え~? 大げさだよ。私はただ、自分の食べたいものを好きな量だけ食べたいだけだし」

「そうですよね、絶対そのほうがいいですよね。でも後輩とは、部下とは、女とはこうすべきだ、みたいな暗黙の了解がまだまだ多いですもん」

「めんどくさいよね、そういうの。もう令和なのにさ、自分のことは自分でするのが大人でしょうがって思うよね」


 うんうん、と頷き合っている二人を見ると、胸にじわじわと感動が広がっていった。

 お互いを知りながらも距離があった二人がふとしたきっかけから急速に仲を深めている……そんな尊い光景を目の当たりにしているのだ、私は。


「なんだかふみさんと花梨、すごく息が合ってますね」

「私、岩ヶ崎派になります」

 間近で花梨の大きな瞳に見つめられ、ふみさんが赤くなりながら「派閥なの?」と呟いて目をそらすのを見ていると、頬が緩むのをこらえきれない。


 花梨の家で誕生日を祝ってもらった夜、「もしちょっとでも好きって気持ちが湧き上がって来たら付き合おうよ」と言われた。でも、私は相変わらず花梨のことは最高の同期で親友だとは思っているけれど、恋愛対象としては見られない。

 ただ、花梨が他の誰かのものになるのを見るのは嫌だな、とあの時思ったのだ。

 だけど、もしも花梨がふみさんと付き合ったら。ふみさんなら、大事な同期の花梨を誰よりも大切にして絶対幸せにしてくれると思うし、花梨なら、大事な先輩のふみさんの、実は弱いところやお茶目なところも優しく包んで守ってくれると思う。

 それに二人とも、友だちとして気が合った相手が恋愛対象にもなると言っていた。

 これは、もしかしてもしかするのでは。

 

 妄想の花が咲き乱れている私に気づいたふみさんはギロリと睨んできた。ああ、ふみさんのギアがまた入ってしまった。


「じゃあ、尋問再開。そもそもさ、滝沢さんが梓を振ったんでしょ? なんで今更うちの会社にまで転職して来て、梓を口説くのよ?」

「それは私が知りたいですよ。まあ、転職はたまたま条件があっただけだと思いますけど」

「そうかなあ。そもそもさ、滝沢さんが梓を振った理由は何なの?」


 私はひとつため息をついた。

 誰かに打ち明けるのは初めてだった。言おうとするとまだ胸が痛くなる。


「私と付き合っていた時、滝沢さんには同棲している本命の彼女がいました。幼なじみで初恋の相手で……他にもいろいろ訳ありの人で、お互いが家族同然の存在でした。知り合ってすぐ、そんな人がいると打ち明けられていたんです。それでも私は滝沢さんを好きになっちゃいました。滝沢さんも彼女がいる上で私と付き合ってくれたんですが、結局、私が好きになればなるほど辛くなっていって、とうとう彼女と別れてと言ったら、あっさり振られました」


 ふみさんと花梨が口をつぐみ、場の空気がしん……とした。


「だから滝沢さんは悪くないんですよ、いやちょっとは悪いか。彼女いるなら私と付き合うなって話ですよね、でもそれでもいいからって告白したのは私だし……」

 こみ上げるものを感じて私は言葉を詰まらせた。

 脳裏に、初めて詩絵と二人で飲んだ時のことが思い浮かぶ。


 どうしてあの時、居酒屋の男達から私を連れ出したりしたの。

 どうして大切な彼女がいるのに、私なんかをタイプだなんて口説いてきたの。

 美しくて才気溢れる詩絵と、容姿も中身も平凡な私なんて、もともと仲良くなるはずもなかったのに、どうして私の人生に入り込んできてしまったの?


 *


 男だらけの異業種交流研修会の飲み会会場から私を連れ出した詩絵は、落ち着いたバーに連れて行ってくれた。

 暗い店内にはあちこちにキャンドル型のライトが揺らめき、二人連れや一人客がテーブルやカウンターにポツリポツリと座っている。

 大人っぽい雰囲気に私がおどおどしていると、詩絵はクスリと笑った。

「町田さんってアルコールそんなに強くないでしょう? ここは実はパフェの穴場でね、季節のフルーツをたくさん使ったパフェが絶品なの。甘いの好き? 生クリームって大丈夫? フルーツでアレルギーある?」

「はい、パフェ大好きですし、私は一切アレルギーはありません」

 よかった、そう言って詩絵はスタッフに今月のパフェひとつとマティーニ、と注文した。


 飲んでいる時、詩絵は遠くの席にいたのに私があまり飲めないことに気づいていたことも、パフェを頼む前に私の好みやアレルギーを確認してくれたことも好ましかった。今まで一緒に飲んだり食べたりした人で、こんな気遣いをしてくれた人はいなかった。


 スイカとメロンを使った夏のパフェが運ばれてきて、私は歓声を上げつつスマホで撮影した。

「私、こんな映えるもの食べるの初めてです」

 そんな私を見て詩絵は嬉しそうに微笑みながらマティーニを口にした。

「美味しい! 滝沢さんも一緒にどうぞ」

「私、生クリーム苦手だから」

「それならどうしてここのパフェが美味しいって知ってるんですか?」

 きょとんとして聞くと、詩絵はふふっと笑って目を細めた。

「女の子を口説くには、女の子が好きなものは知っておかなきゃ」

 その言葉で、詩絵からタイプだと言われたことを思い出して、顔が赤くなった。

「あの……滝沢さんって女性が恋愛対象なんですか?」

「そうだよ、レズビアン」

 血液型はB型、くらいにあっさりと言われて、あ、そうなんだとそのまま理解した。惹かれる対象が異性の人もいれば同性の人もいる、それだけのことなんだ。

 そしてやっぱり口説かれるのかも知れない、と思って動悸がした。


「町田さんは――ねえ、梓ちゃんって呼んでいい?」

「あ、はい」

「私は詩絵ちゃんでいいよ」

 三歳年上であることは知っていたので、私は、じゃあ詩絵さんで、と答えた。

「梓ちゃんは女の子と付き合ったことある?」

「ないです。と言っても、男の人も二人しか付き合ったことはないですけど。しかも超短期間だったし」

「私は男と付き合ったことはないけど、女の子はいいよお。なんと言ってもお互いの思考回路がわかりやすいし、生理も理解しあえるし、いい匂いで柔らかいし、ちゃんと言語化してコミュニケーションとれるし……まあ、もちろん女の子だって千差万別だから人によるけれど、男相手よりよっぽどコミュニケーション取りやすい。さっきだってそうでしょ。男もきっと男同士で話していたらもっと建設的なことも話しているだろうに、なんで相手が女になると偉そうになるか、媚びるふりして都合良く使おうとするか、ヒステリックに攻撃するかなのかねえ」

 早口で言うと、詩絵はマティーニをあおった。

 聞いているうちに確かに女性同士で付き合うほうがいいような気がしてくるのは、まだ酔っているからだろうか。いくらなんでもチョロすぎるだろう、私。


 もう一杯マティーニを頼むと、詩絵は頬杖をついて私を見つめた。

「でも、梓ちゃんって真面目な子だよね。純真無垢な感じ。だからタイプだけど、口説けないな」

「どうしてですか」

 振られたような気持ちになり、少なからず傷つきながら私は言った。

 私は、口説かれたいのだろうか。

「クリームついてる……」

 詩絵は細長い指を私の口元に伸ばすと、口の端についていたクリームをすくい、ぺろりと舐めた。ちらりと覗いた赤い舌から目が離せない。

「私、訳ありだから」


 それから、詩絵は凪子さんの話をした。 


 *


 詩絵と凪子さんは母親同士が親友の間柄で、生まれた時期も1ヶ月しか違わず、生まれる前、母のお腹にいた頃から何度も会っていた幼なじみだった。病弱に生まれた凪子さんのことをみんなが心配し、詩絵は凪子を頼むねと双方の親から言われて育った。

 小学校、中学校は校区が違ったものの同じ高校に進学し、いつも一緒に過ごした。二人は気が強く、ケンカもしょっちゅうしたけれど詩絵は引きずらない性格だったので、むくれ続ける凪子さんにすぐに屈託なく接して仲直りしていた。その頃にはすでに二人の心は通じ合い、互いの両親に隠れて付き合っていた。


 二人が同じ大学に進学してすぐ、凪子さんの両親が交通事故死してしまう。詩絵の両親は凪子さんを同居させ、家族ぐるみで支えたが凪子さんは精神的にも不安定になり、詩絵がいないと不安が強く出るようになった。

 詩絵が就職した後は凪子さんを連れて実家を出て同棲した。二人の仲に気づいていた両親からも凪子さんを支えるよう言われ、凪子さんが嫌がるので会社の人に誘われても極力飲んだりせず、仕事後はまっすぐ家に帰るようにしていたが、残業があったり出張があると凪子さんは浮気を疑って詩絵のスマホを取り上げたり、寂しさのあまり不安定になって詩絵に当たり散らした。そんな日々に次第に詩絵は疲れていき、二人の間に溝ができていった。

 もうケンカをしても簡単に仲直りできるほど二人は幼くなく、ただの恋人同士でもなかった。凪子さんの両親の遺産がありながらも、物心両面で凪子さんの全てを背負うのは若い詩絵には荷が重かった。


「だんだんとね、離婚寸前の熟年夫婦みたいになっていったんだ。もちろん凪子には情もあるし私たちには長年の絆がある。でももう恋はしていない。互いに自分の食べたいもの作って食べて片付けて。たまに一緒に食べて。凪子がリビングでテレビを見ていたら私は自分の部屋で過ごして、狭いマンションの一室にいるのに家庭内別居みたいな。凪子から拒否されて、もう何年も抱いていないしね。――でも夜中、凪子がちゃんと寝ているか、息をしているか、見ないと不安でたまらないの。彼女は自分に無頓着で好き嫌いも多いから、食べそうなものは冷蔵庫に補充しておくし、病院に行く日は忘れないように声かけるようにしている。薬がちゃんと減っているかも見ている。凪子に何かあったら、私も生きていけないんじゃないかと思う。それと同時に、あの重苦しい空間からちょっとでも離れて息抜きしたい自分もいるの。だからたまに外で女の子と遊んじゃう」


 自分の起伏が少ない平凡な人生を思い返すと、簡単にわかりますなんてとても言えなかった。それでも、詩絵の行動は仕方ないことなのではないかと思った。ただの幼なじみや恋人だったら、関係が変わった時に別れて思い出にすることもできただろう。けれども、詩絵はいつしか困難な状況にある凪子さんの人生を背負っていた。終わらせることなんてできない、がんじがらめになった関係。


「数年前に一度、凪子と言い合いになった後に女の子の家に転がり込んで二日間帰らなかったの。朝方帰ったら凪子が死のうとしてた。本当に怖くて、もう二度とそんなことしないと誓った。凪子が、自分が私に辛い思いをさせているのはわかっている、でも私から捨てられたらどうしたらいいかわからない。だから、何をしてもいいから、朝目覚めるまでには帰って、と泣いたの。だから誰と付き合っても、一番に優先させるのは凪子。それが私が背負っているもの」

 詩絵は遠い目をして薄く笑いながら淡々と話した。

「こんな重たい話を会ってすぐに梓ちゃんに聞かせちゃって、ごめんね」

「いえ……、聞くしか出来なくてすみません」


 凪子さんがいながら他の女の子と遊ぶ、それは正しい行動ではないだろうけれど、誰が責められるだろうか? 少なくとも私にはできない。自分で選んで望んで会社と家の往復をしている今の日々だってたまに逃げ出したくなるし、何もかも忘れて気分転換したいと思うことなんてしょっちゅうだというのに。


「ううん。聞いてくれてありがとう。いつもは、タイプの女の子がいたらもちろんこんなこと話さないよ。気分良くさせる言葉を聞かせて、何回かオシャレなお店でデートして、その気にさせてエッチして発散する。相手がどうして泊まらないのとか旅行に行きたいとか不満を言い出す頃にはうやむやにして自然消滅。凪子がいながら深く長く付き合うなんて無理だからね。そこまで理解してくれる女の子なんていなかったもの」


 この人は寂しいのだ、突然私は理解した。

 寂しくて寂しくてたまらないのだ。

 その寂しさを、誰かに受け止めて欲しいのだ。


「……なんで私には話してくれたんですか?」

「うーん、梓ちゃんは私の気分転換になんて使っちゃいけない子だと思ったからかな。梓ちゃんは研修でもすごく真面目だったし、いつも人を傷つけないように細かく気を配っていた。酔ってくだ巻いてくる男達にすら気を遣って、言いたいことも黙って飲み込んで。この人なら受け止めてくれるって思ったんだ」

 詩絵はにこっと笑って、止まったままになっていた私の手からパフェ用のスプーンを取り、グラスから溶けかかったバニラアイスクリームをすくって私の口に運んだ。

「明日の研修で会うのも最後だと思うけど、こんなふうに生きているお姉さんもいるんだって覚えていて。梓ちゃんがこの先何か辛いことがあった時、詩絵さんも今頃頑張っているかなあとか思い出してよ。私もしんどい時、梓ちゃんが私のこと覚えていてくれると思ったら元気が出るだろうから」

 そんなことを言われて泣きたくなってしまい、何も言えずに私はただ口を開けて詩絵が差し出したスプーンを口に入れた。

「ふふ、小さい子みたいで可愛い……って、なんで泣くのよ」

「すみません……」

 詩絵は慌ててハンカチを取り出すと、こぼれ落ちた私の涙を拭いてくれた。

「私は大丈夫、これでも結構楽しくやってるし。あ、あと、ちょっとうるさいけど先輩としてアドバイス、もっと自分の意見は大事にしていいんだよ。男達は女が黙っていることを思慮深いとは思わない。自分に賛成なんだって都合良く考えちゃう。梓ちゃんは内面ですごくいろんなことを考えているでしょう。それをもっと主張しなきゃ。なかったことにされちゃだめ。賛成だって、ちゃんと賛成って声に出すの。そうやって後輩の女の子たちのお手本になっていってよ。応援しているからさ」


 詩絵がくれたアイスクリームが舌の上で甘く冷たく溶けて、飲み込もうと意識するより早く、私の体内に入っていく。


「落ち着いた? さ、もうすぐ終電だ。帰ろうか」

 腕時計を見た詩絵の手をとっさに掴んだ。

「どうしたの?」

「あ……明日で最後なんて、嫌です。私は聞くことしかできないけれど、もっといろいろ話して欲しいし、教えて欲しいです。凪子さんを一番大事にしていいから、私なんてただの研修で知り合った後輩としてでいいから、連絡を取り合いたいし、また二人で会いたい、……です」

 もっと、この気持ちをうまく言葉に出来たならいいのに。

「こんな私でもいいの?」

 頷くだけで精一杯だった。初めての感情に溺れそうで、苦しい。

 詩絵はうつむいた私の顎に指をかけて上げると、目と目を合わせた。

「梓ちゃんのことは傷つけたくない。だから、私のこと好きにならないって約束してくれる?」


 ――好き。

 恋に落ちる感覚を全身で感じながら、私は再び頷いた。こんな感情の渦が自分に沸き起こるなんて思いもしなかった。詩絵を引き留められるならどんな言葉でも受け入れたかった。


「うん。それなら、友だちとしてたまにご飯とか飲みとか行こう。じゃ、LINE繋げるからスマホ出して」

 差し出した私のスマホと自分のスマホを操作してLINEを繋げると、詩絵は私の手にスマホを持たせ、さ、帰ろうと促した。

 凪子さんがいる家に帰る詩絵を見送るのが、もう胸が痛かった。


 そうやって、私と詩絵の関係は始まった。


                     つづく。

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