第5話 ジャスミンティーと彼女。
真夏のような女だった。
突然現れて私の視界の全てを眩しく白く染め、灼熱の太陽のように私の身体に永遠に消えない痕を刻みつけ、一年も経たないうちに台風のように傷と侘しさを残して去っていった。
もう二度と恋はできないのではないかと思った。彼女を忘れ、また恋をしたいと思えるまでに二年かかった。脳裏の隅々に至るまで、彼女にまつわるすべての痕跡を消したかった。顔も見たくなかったから、画像は全部消去したし、彼女が行きそうな場所は徹底して避けてきた。
それなのに、なぜ今滝沢
「何にも変わらないね、
耳元でそう囁かれ、背中がぴくりと反応する。懐かしい詩絵の少しハスキーな声。
いや、こんなことで動揺したなんて思われたくない。
私は椅子ごと近づいて来た詩絵から身を背けた。
「――滝沢さん。今、情報セキュリティの話をしています、わかってますか? うちの部署では顧客情報を扱うので厳重な注意が必要です。共同サーバーに保存するファイルはセキュリティレベルを記載してください。顧客情報が含まれるファイルの保存期間は最長でも六ヶ月で――」
再度椅子ごと身を寄せた詩絵が顔を傾け、右下から私を覗き込む。
「ううん、違うな。あの頃よりもっと可愛くなった。いい恋してるってことかな?」
いい加減にしてください、と最大限の怒りを滲ませた声で言うのと、部長と課長が「悪い悪い、資材部の打ち合わせが長引いちゃって」と言いながら会議室に入ってくるのが同時だった。
詩絵がすっと椅子を引かせ、涼しい顔をして手元の資料をめくる。
「どうだい、滝沢さん。順調? うちの町田さんは部のことでも会社のことでも何でもよく知ってるから頼りになるよ」
「ええ、おかげさまで」
〈公式の場〉に合わせて、詩絵は素よりも少し高い声を出している。
「実は町田さんとは以前、異業種合同コミュニケーション研修会でご一緒したことがあるんです。年も一歳違いで仲良くなって、その時もとっても優秀な人だなと思っていたんですけれど、こうして偶然同じ会社の同じ部署になれて嬉しいです」
「なんだ、そうなんだ。町田さん何も言わなかったから……」
課長が少し不思議そうな顔をしながら私を見る。
「私は滝沢さんのお名前をすっかり忘れていたんです。失礼致しました」
精一杯の嫌味を言ったが、詩絵はビジネス微笑を崩さない。人の好い課長だけが、目を丸くして私を見つめた。
「珍しいねえ。町田さんは人の名前を覚えるのが得意なのに」
「二年前に二日間研修で一緒だっただけですから」
「残念。私はずっと忘れていなかったのに」
右横で詩絵が私に顔を傾けると、肩から落ちた長く細い髪がさらさらと音を立てた。
何を言ってるんだか、と胸の中で悪態をつく。
私はあなたを忘れたくて忘れたくて――どうにか忘れて立ち直ったところだったのに。
「でもこうしてまた町田さんとも出会えるなんて、この会社にはよほど縁があるんだと思います。私、必ずや札幌営業部の売り上げに貢献できるように頑張ります! どうぞよろしくお願いします」
頭を下げる詩絵に部長が、「いやあ、素晴らしい人が来てくれた!」と拍手を送る。
おじさまを手なずけるなんて詩絵にとっては造作もないことだ。
二年前の私もそうだった。思い出したくもないあの時のことが自動的に記憶の最上位に浮かび上がる。――ああ、私なにも忘れていなかった。
*
異業種合同コミュニケーション研修会の初日が終わり、初対面から始まって少しずつ関係性もできたところで、講師がさらなるコミュニケーションのために打ち上げをしようと言い出した。熱心な男性の講師で、みんなを乗せるのが巧い人だった。そうすると参加しないとは言いづらく、疲れていたしさっさと帰りたかったけれど、仕方なくついていった。その中に詩絵もいた。
研修会は男性の参加者が多く、飲み会も始まってすぐに男性特有のノリが横行した。私が30歳手前の独身と知るや、まずは自分の手柄の自慢から始まり、女性とはこうあるべきだとか、だからきみは結婚できないんだよとか勝手に評価し、最終的には下ネタになる。彼らは酔いながらも注意深く、どこまでこの女はいじっていいのかを見極めてくる。空気を読んでイヤイヤながらも笑っていれば“まだいける”とエスカレートし、少しでも冷ややかな視線を送ったり反論したりすれば“冗談なのに本気にするなよ”とけん制する。そんなの大学で飲み会に参加し出してからずっとだけれど、なぜこちらが空気を読み、面白くもない話題に付き合い、もう嫌だと意思表示したら途端にダメな女だと烙印を押されるかのような扱いを受けないといけないのだろう。しかし現にうまく立ち回れる女たちはいつもいて、彼女たちは楽しそうに男たちに接している。楽しめない私がまだ社会人としてなっていないのか。
そんなことを考えながらちびちびとビールを飲んでいると、いつの間にか詩絵が隣に移動してきた。絹糸のようにまっすぐで光を放つさらさらの長い髪をかきあげ、にこにこと笑いながら。今ならわかる、あの時のあの笑顔は男たちへの愛想笑いなどではなく、好戦的になっている時の顔なのだ。
「あっ、また美人来たー」
「滝沢さんだよね? 研修でも意見ずばずば言っててすごいと思って名前覚えたんだ。乾杯しよう~」
「彼氏いるの? 結婚指輪はしてないね」
反応の薄い私をいじることに飽きた男たちが彼女に関心を向けると、彼女は歯を見せて笑った。
「やっぱりそんな話か。結婚してたらなんなの、してなかったらなんなの? なんで男っていつでもどこでも誰でも同じような薄っぺらいことしか話さないのか、ほんと不思議!」
そう言うといきなり私の腕を掴み、立ち上がった。
「たまには女いじり無しで会話成り立たせてみなよ。少しは時間を割いてよかったなと思わせるくらいの知的な話題のひとつふたつは用意して欲しいね。こっちはもうとっくに中身のない話にうんざりしてるんだって。ではっ、私たちお先に失礼しま~す」
言いながらぐいぐいと私を引っ張って男たちの間を進んでいく。
「えっ、あっ」
私は慌ててバッグを掴むと、彼女に連れられるまま居酒屋を出た。外に出るとようやく詩絵は私の腕を放し、にこっと微笑んだ。
「脱出できてよかったでしょ?」
「え、あ、はい……でも参加費も払っていないし、どうしましょうね」
心配になってそう聞くと、詩絵はくっくと笑った。
「町田さん、私に連れ出されているのにまだそんな心配しているの? いいのよ、あれだけ男たちのくだらない話に付き合ってあげたんだから慰謝料みたいなものよ」
「でも、明日も研修で顔を合わせるのに気まずくなりません……?」
「あれだけ飲んでいるんだもん、みんな忘れているよ。忘れてなかったとしてもこっちが正論なんだから向こうが気まずくて何も言ってこない。保証する」
「はあ……だけどもし覚えていたらなんて思われるか。雰囲気悪くなりませんかね」
「腹の中で何を考えようがこっちには実害なんてないんだしほっときなよ。ねえ、それより私のことを見て。町田梓さん、私、あなたがタイプだから連れ出したんだけれど。このあとどこかで飲み直さない?」
背が高い彼女が少しかがんで私を射貫くような視線で見つめてくる。目が離せないまま、私はぽかんとしていた。私がタイプ? ――もしかして私を口説いている?
その時は女性なのにということよりも、なぜこんなにも華やかで、研修でも瞬く間に場を掌握するような才気溢れる人が、どこにでもいるような平凡な私に興味を持ったのかということが気になっていた。
恋愛経験が豊富な詩絵にとっては、逆に経験の少ない私が珍しかったのかもしれない。私を落とすことなど、赤子の手をひねるくらい簡単だったろう。
「――一緒に来て。素敵なところ知ってるから」
そう囁かれ、再度腕を取られた私はただ頷いてついていくことしかできなかった。
*
「よし、それじゃ一通りのレクチャーは終わったね。滝沢さんの課長としての具体的な業務については部長との面談で説明します。三時に小会議室へ来て下さい」
「わかりました。ありがとうございました」
課長と詩絵の会話を聞きながら、私は会議室のパソコンをシャットダウンしモニターの電源を切って片付けていた。
「疲れたでしょう。コーヒーサーバーが給湯コーナーにあるから好きに飲んでね。あ、ついでだから一緒に行ってやり方を教えようか? わりといい豆を使っているんだよ」
よほど詩絵が気に入ったのだろう、愛想良く言った課長に、詩絵は「いえ、結構です」と首を振ってにこやかに続けた。
「私、コーヒーはカフェインが強すぎるので、飲み物はジャスミンティーと決めているんです。仕事の合間に飲むとリラックスできるし、抗酸化作用も高いので水筒で持って来ているんですよ」
――こういうところがムカつく。泥酔するまで酒を飲むし、次々に女性と関係を持って人の心は平気でズタズタにするくせに、妙に健康に気を使ったりするところが。ジャスミンティーを飲むだけで日頃の不摂生が帳消しになるわけでもないし、だいたいジャスミンティーにだってカフェインは入っているのだ。
「意識が高いねえ。私もそのお茶を飲んだら少しはこの腹も引っ込んで滝沢さんみたいにスリムになれるかなあ」
課長がセクハラすれすれのことを言いだして焦ったが、詩絵は全く気にしていないようだった。
「まあ、所詮お茶なので、飲むだけではそこまでの効果は期待できませんけれど。ただ課長、そのコーヒーサーバーって誰が手入れしているんですか?」
「主任以下の若い子たちが順にやってるよ。男女関係なくね。うちはダイバーシティも推進しているから男女差別はないよ」
何かを感じ取ったのか、胸を張って言った課長に詩絵は笑顔で頷いた。ちらりと彼女の表情を見て、あ、始まったと思った。また好戦的になっている顔だ。
おいおい滝沢さん、まだ転職初日も初日ですよ?
「男女差別がないのは素晴らしいことだと思います。ですが、そもそもコーヒーサーバーって職場に必要なのでしょうか? 前職の飲料会社のデータでも、若年層はコーヒーを飲まなくなってきていると出ていました。ちなみにコーヒーサーバーの設置費用はどこから捻出しているんですか?」
「え? ああ、みんなから徴収している親睦会の費用で……」
「ではコーヒーを飲まない主任以下の人は、自分は利益を全く享受しないにもかかわらず費用も手入れの労力も負担しているということですよね。ちょっと不公平じゃないですか?」
詩絵の流れるような口調に課長がたじろいでいる。背を向けながら私はつい笑ってしまった。
――詩絵らしい。当然のようにそこにあるものでも常に神経を研ぎ澄ませ、疑問を持ち、たったひとりでもきちんと意見を言う。なあなあにしないのだ。変わってないな、と思う。
確かに若い子たちからは「なんで僕たちはコーヒーを飲まないのに、部長たちが飲むためのコーヒーサーバーのお金も負担して手入れまでしないといけないんですか」と文句を言われることがあった。けれど部長を始めとした管理者たちが日常的に飲むものだし、私も入社当時からコーヒーサーバーが給湯コーナーにあるのが当たり前だったからどうしようもないものとして受け入れていた。ちなみに私自身は甘いカフェラテが好きなので職場のコーヒーは飲まない。私だって疑問を持っていいはずなのに、「そういうものだから」と諦めて思考停止していた。
「急に言われても……伝統があるものだし……」
「そうですよね、突然すみません。でも先ほど部の社員構成について説明いただいた時、ここは二十代の若年層が他の部署より多くいるとおっしゃっていましたよね。それならば一度、コーヒーサーバー設置の是非についてアンケートを採ってはいかがでしょうか? 例えばウォーターサーバーに切り替えるということも検討してみてもいいと思うんです。部長に進言してみてもよろしいでしょうか」
「ああ、うん……部長がいいと仰るなら私に異論はないよ」
「わかりました。それでは」
一礼して詩絵が出て行くと、さっきまでにこやかだった課長が顔をしかめて私を見た。おそらく初対面の女性社員にあんな物言いをされたのは初めてだったろう。社内ではふみさんくらいしか詩絵に対抗できる女性はいないかも知れない。
「なんだか思ったよりきつそうな人じゃない? 滝沢さんって」
「これが初めての転職でもないようですし、自分の力量で勝負してきた方ですからね。うちの雰囲気も変わるかも知れないですね」
「やだよ、町田さんまで怖くならないでよ?」
媚びを売るような言葉に肩をすくめたいのを私はなんとか抑えた。
なぜ、女性が思うとおりのことを言うと「怖い」と捉えられるのだろう。
「コーヒーサーバーについては実はすでに若手から不満が出ていたんです。でも仕方のないことだと思って私は何も対処しませんでした。課長にご相談もしないうちに勝手に諦めていたんです。滝沢さんが問題提起してくださって私も反省しました。部長にご説明して、ゴーサインをいただけたら問題ないですよね?」
「まあそうだけれど……」
「滝沢さんがいらっしゃることでうちの若手や女性社員が意見を出しやすい雰囲気になるなら私は歓迎です。誰もが意見を言い合えることは怖いことではないと思いますよ。それでは失礼します」
私は不満そうな課長を置いて先に会議室を出た。
ドアのすぐ横に詩絵が立っていて、目が合う。
「援護射撃ありがとう。梓もなかなか言うじゃん」
「……立ち聞きは趣味悪いですよ」
聞かれていたことにばつが悪い思いがする。詩絵のことは憎んで忘れていたはずだったのに、ああこういうところが好きだった、と思ってしまった自分に腹が立つ。
そしてそんな思いを見抜いたかのように詩絵は涼やかに、余裕ありげに微笑むのだった。
「ねえ、まだ部長面談まで時間があるからさ、社内を案内してよ」
「なんで私が……」
「だって梓はここの総括担当でしょ。不安でいっぱいの中途採用者の面倒を見るのも大切な業務じゃないの?」
「そのなれなれしい呼び方は金輪際辞めて。私たちは何の関係もない初対面の社員同士なんですから」
「そういう設定もエモいね。了解」
大きなため息をつきつつ詩絵を伴って歩くと、その場にいる全員の視線を感じた。中途採用の女性課長なんて社内でも聞いたことがない。生え抜きの社員だってこの若さで課長職になっている人は相当のエース社員だけだ。私なんて三年前にようやく主任になったばかりだから、課長昇格試験に挑戦できるまで少なくともあと三年はかかるだろう。
年上の社員は管理職として採用された詩絵を値踏みするような目で見ている。特に男性は自らの安寧を危うくさせるかもしれない彼女のあら探しをするかのようだった。
若手社員は男女ともに憧れのまなざしで詩絵を見つめていた。意志の強い目とまっすぐな長い髪の詩絵はパンツスーツが似合うクールな美人だけれど、みんなに気さくに笑いかけるから、目がハートになっている男子もいた。詩絵の奥には好戦的で難ある性格が隠れていることはまだ誰も気づいていないけれど。
「町田さんっていつも笑顔で仕事こなしちゃうパーフェクトな人だから近寄りがたかったんです。でも、昨日初めてため息をついているのを見て、こんな私でも励ませることがあるかもって嬉しかったりもして……だからまたため息ついて欲しい、です」
あんなに可愛いことを言っていた亜里咲だったけれど、パーフェクトという言葉は余程詩絵のほうが合っている。亜里咲がチョコレートを渡して励ましたくなる相手は私ではなく詩絵になるかもしれないな、なんて思った。
エレベーターに乗り、ビルの最上階ボタンを押した。そこには支社長室と共に総務部と人事部があるので、そこから下に降りつつ各部署を回るのが社内挨拶回りの常だった。
「部長との面談まであまり時間がないので、取り急ぎ関係がある部署だけに絞って回りますね」
操作盤に向き合ったまま、詩絵に背を向けて言った。
「梓の思うとおりにしてくれたらいいよ。――で、今は恋人はいるの? まさか男とは付き合っていないでしょ」
はあ、と頭を抱えそうになる。また呼び捨てだし、何なんだろうその自信。自分と付き合った後は男では満足できないだろうと言いたいのか。実際は詩絵のせいで恋すること自体が嫌になっていたのに。
「私は何も答えません。自分の話でもしたらどうですか?」
「私? そうねえ、梓が知っている話をすると、
「えっ……?」
その時エレベーターが到着し、扉が開いた。
「驚いた?」
ふふっと詩絵が面白そうに笑う。
凪子さん――詩絵の幼なじみで、互いの初恋の相手。私と付き合っても、他の誰と付き合っても凪子さんは詩絵の一番特別な存在で、一緒に住む相手であり、文字通り帰る場所だった。だからこそ私が一番辛い思いを抱いた相手であり、悩み苦しんだ末に「凪子さんと別れて」と言った時、詩絵は一瞬も悩むことなくすぐさまこう答えた。
「ごめん。凪子とは離れられない。私のことが好きなら、凪子ごと受け入れて。できないなら別れよう」
私には凪子さんを超えることなんてできない。でも、凪子さんごと受け入れることももう無理だった――そうなれたらとずっと努力していたけれど、限界だった。私は詩絵から離れるしかなかった。
その凪子さんと……別れた?
エレベーターの扉が閉まりかけた瞬間、詩絵が腕を伸ばして私の目の前の「開」ボタンを押し、再び扉が開いた。
ボタンを押したまま、至近距離の詩絵が私の耳元で囁く。
「それに今、ちょうどフリーなの。だから、私たちやり直すのに何の問題もないと思うけれど」
「なっ……」
「考えてみて」
再びふふっと笑いながら詩絵がエレベーターを降りたので、私も慌てて続いた。
そこには――呆然とした顔の
つづく。
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