第4話 レモネードと彼女。

「え? それ裏切りだよね」

 ハイボールを飲み干したふみさんの目が鋭くなった。

 ――ヤバい。怒っている。

 ついさっきまで、「誕生日忘れててごめんね!」って申し訳なさそうに謝り倒してくれていたのに、気にしないでほしくて花梨かりんが用意してくれたサプライズについて報告しているうちに、ふみさんの機嫌が悪くなってしまった。なぜ。


「う、裏切りとは……?」

「ほら、忘れてる。梓 、将来は私と住むって言ってたじゃん。それなのに佐野っちに付き合おうとか一緒に住もうとか言われて、ほいほいと約束したんでしょ」

「いや、ちょっと待って下さいよ」

 私は慌てた。

 そういえば、ふみさんと前回飲んだ時、「将来独り身の女同士で同じマンションに住んでたまに飲んだりご飯一緒に食べたりしたい」と言われ、私も! と乗ったっけ。

 でもなんだか曲解されている気もしないでもない。


「確かに同じマンションに女同士で住みたいと言いましたけれど、ふみさんと住むという約束とはちょっと違うのでは……だって部屋は別って感じだったじゃないですか」

「あーほら、そうやって私をめんどくさい女扱いする」

「じゃあ、花梨も一緒にそのマンションに住めばいいですよね。ほら仲間が増えた」

「どうかなあ。佐野っち、私のこと別に好きじゃないと思うんだよね」


 ――確かに、と私は密かに思う。

 花梨はふみさんのことを今でも新入社員時代のまま怯えている。


「まあ、私に懐いてる後輩なんて梓ぐらいだけどさ。でも佐野っちは誕生日当日にチーズフォンデュに連れて行っただけじゃなくって、さらに手作りのガトーショコラを用意していたんでしょ? その愛の深さにはとても敵わない……梓ってモテるのね」

「いや、モテてませんてば」

 そう言いつつも、あの夜は確かにどこか甘やかだったと思い出す。


 ――じゃあさ、もしちょっとでも好きって気持ちが湧き上がって来たら、付き合おうよ。それで一緒に住もうよ。

 あの時花梨の瞳は少し怖いくらいに光っていたけれど、やはり酔っての勢いだったのか、その後会社で会う時は以前のままの仲良しの同期として接してくる。


「その時花梨にも言われたんですけれど、友だちと恋人ってどんな差があるんでしょうね」

 ふみさんはハイボールを口にして、うーん、と首をかしげた。

「友だちと恋人ね……。私、友だちを好きになるタイプだからなあ。友だちになっているってことは人間として信頼できるってことでしょう? その信頼とか一緒にいて楽しいって気持ちが恋に発展する感じ」

「確かに、立花さんとはそんな感じでしたね」

「うん。恋愛以前に人間同士でこれだけわかり合っているから大丈夫って思ったよ。でもふたりで一緒に暮らしたり、結婚という枠の中に入ったりしたら、予想もしなかった顔が見えてきちゃうんだから人間って奥深いというか何というか。お互い様なんだろうけれどね」

「難しいですよね。私も友だちが恋人になったら理想的だとは思うんですが、私にとって友だちと恋人ってはっきり違うんです。友だちとして仲良くなったらずっと友だち枠。恋人は最初から、ああ好きになりそうって惹かれる何かがあるんです」

「あっそうなの? じゃあ、佐野っちを好きになることはないってこと?」

 私は考えながら頷いた。

「花梨は私の中では同期で、親友で。恋する人としては見たことなかったから……。でもまだわかりませんけれどね。疲れて帰っても家に花梨がいたら幸せだろうなって思いますし」

「へえ~」

 ふみさんは鼻に皺を寄せてつまらなそうな顔をした後、思い出したように言った。

「そういえばチョコレートくれる新人ちゃんは誕生日にどう出たのよ」

「あー、たまたま知らせることになっちゃって、持っていた板チョコくれました」


 亜里咲がくれたチョコはまだ食べないまま、自宅に置いている。

 31にもなると、板チョコをまるごと食べるのもしんどいのだ。


「じゃあ、少なくとも新人ちゃんには勝てるか。今日は私のおごりだし」

「なぜ勝ち負けになるのか謎ですけれど、おごりは素直にありがたいです」

「よし。さ、じゃんじゃん好きなもの頼んでいいよ」

 と言うが早いか、ふみさんは手を挙げて「すみませーんハイボールおかわりー!」と叫んだ。

「いやいや私にもちょっと選ぶ時間下さいよ……」

 と呟きつつ、慌ててメニューに目を走らせる。

 とは言え、ここは我が社の社員行きつけの居酒屋、サラリーマンの聖地「こてんや」なのでオシャレなアルコールがあるわけでもない。

「私、レモンサワーで!」

「了解。すみませーん、レモンサワーと焼き鳥盛り合わせお願いしまーす」

 よく通る声でオーダーしたふみさんの手が挙がったまま、止まった。

「か……かがり!」


 振り向くと、入り口で見慣れない若い女性と一緒にいるかがりさんがスタッフと話しているのが見えた。

 どうやら席が埋まっていると説明されているらしく、残念そうな顔をしていたかがりさんがふみさんに気づいてぱっと笑顔になる。

 相変わらず華やかな美人だ。長い髪を片側に寄せて下ろし、無地のオリーブ色のTシャツにベージュのロングタイトスカートというシンプルな格好なのに色っぽくて、彼女が微笑むだけで満員の客の視線が引き寄せられる。


「かがりと一緒にいるの、彼女だと思う」

 ふみさんが小声で言う。

「え?」

「彼女――恋人」

「ああ、そうなんですね。あの人が……」

 かがりさんを一度振って、もう誰も好きになれないと言わせ、それでもなお再度自分の元に引き寄せた彼女。

 背はかがりさんと同じくらい。肩くらいの黒髪をきゅっと後ろでひとつに縛っている。少し釣り上がった切れ長の目は理知的で、通った鼻筋が凜々しい。ブルーのストライプのシャツに白いパンツがよく似合う。

 ――女の子にモテそう、と思った。

 いやそれよりも、何歳だろう? 亜里咲と同じくらい? かがりさんといくつ違うのだろう?

 そう考えた時、前回飲んだ時にふみさんが言っていたことを思い出した。

 ――世の中には10歳、15歳の年の差カップルだっているんだよ。

 あの年の差はかがりさんのことを言っていたのではないか。とすると10歳、もしかして15歳は離れていることになる。


「ここに呼んでもいい? 私、彼女と話してみたい」

「あ、はい」

「かがりー! こっちおいでよ」

 私の返答にかぶせるようにふみさんは立ち上がって言った。ずいぶん前のめりだ。

 再び振り向くと、かがりさんは彼女に私たちを指差しながら小声で話している。タイプが違う長身の美人女性ふたりが囁き合う姿はそこだけ別世界のようだ。彼女が少し戸惑いながらも頷くと、かがりさんは彼女を引き連れるようにして私たちのテーブルまでやってきた。


「お疲れさま。ふみちゃん、町田さんと飲んでいたのね。いいの? お邪魔しても」

「もちろんだよ。梓とはただ仕事の愚痴言いあってるだけだもん。座って座って」

 私の遅れた誕生祝いのはずじゃ? 目をむいてふみさんを見るけれど、ふみさんはそわそわと立ち上がってかがりさんを誘導すると、自分は私の横に移動した。


 私の前にはかがりさんが、ふみさんの前には彼女さんが座る。

 正面から見るとますます絵になるふたりだった。華やかなかがりさんと涼やかな彼女さん、ふたりの美人に見つめられ、私はすっかり萎縮した。

「おふたりは何を飲みますか……?」

「私はビールで。聖はウーロン茶だよね?」

 かがりさんに聞かれ、彼女がうん、と頷く。

 飲めそうな感じなのに意外だった。またそのギャップが可愛いじゃないか。


 料理数品も合わせてオーダーした後、かがりさんが居住まいを正して切り出した。

「えっと、紹介するね。こちら、生田ひじりさん。小学校の先生で……」

「かがりの恋人だよね?」

 ――今日のふみさんはいつになく攻め込む。

 かがりさんは目を丸くしてふみさんをしばし見た後、うん、と頷いた。

「どうしてわかったの?」

「以前、週末に街でふたりを見かけたことがあったの。かがりも……聖ちゃんもとろけそうな顔をしてお互いを見ていたから。今もだけどね」

 かがりさんと聖さんは顔を見合わせた。ふたりの紅潮した頬が可愛らしい。

「そっかあ、ふみちゃんに見られていたか。ふふ。そうです、この子、私の彼女なの」

 かがりさんは笑って明るく言ったけれど、聖さんは少し心配そうな表情になって目を伏せてしまった。

「大丈夫だよ、聖。ふみちゃんも町田さんも変に言いふらしたりしない人たちだから」

 ふみさんのついでなのだろうけれど、憧れのかがりさんにそんな風に言われて舞い上がってしまった。

「もちろんです! 決して口外は致しません!」

 喜びの余り仰々しい言い方になった私を横からふみさんが醒めた視線で見たけれど、気にしない。

「ありがとうございます」

 ニコッと微笑んだ聖さんに、胸がキュンとした。

 ――かがりさんのことを大好きな気持ちが、その微笑みから溢れていたから。


 四人で乾杯し、食べたり飲んだりしていくうちに私たちはだんだんと打ち解けて話すようになっていった。

「前にクーニャン会でかがりが言ってたじゃない、15歳年下の子と付き合ったことがあるって。聖ちゃんのことでしょ?」

 ハイボールを重ねるふみさんがビシバシと切り込んでいく。


 クーニャン会とはふみさん、かがりさんたちの同期女子会の名前だ。

 男性優位の会社なので、歴代の女性の先輩方はくれない会や小悪魔会などそれぞれの期の女子会に名を付け、強く結束して支え合ってきた。ちなみに私や花梨の同期女子会はまだ無名だ。次回はみんなで名前を決めることにしようと思った。


「そうそう。よく覚えているね。聖、まだ24歳なの。若いよね」

 ビールの次にハイボールに移ったかがりさんが苦笑しながら答える。

「出会った頃はまさかこんなに年下だと思わなかったんだけれどね」

「おふたりは年齢も仕事も違うし、一体どうやって知り合ったんですか?」

「法人システムエンジニアだった時に、ビル近くのコーヒーショップで当時大学生の聖がバイトしていて、毎朝立ち寄っているうちにだんだん仲良くなったの」

「かがりが異動前日に連絡先を書いた紙をくれたんだよね」

「もう! やめてよ」

 頬を染めたかがりさんはまるで少女のようだった。

「だって本当のことでしょう。でもあれ嬉しかった」


 ふたりの周りにまるで一斉に菜の花が咲いたように甘い空気が立ちこめる。かがりさんは大輪の薔薇や百合が似合う大人の美女なのに、聖さんといると菜の花が似合う初々しい少女のような可愛らしさをのぞかせることに感動さえ覚えた。

「かがりさんは若いし、聖さんは大人っぽいから年齢差を感じさせないですよ」

「町田さんって優しいのね」

 入社当時から女神のように憧れていた分、遠い存在でもあったかがりさんが、目の前で本当に幸せそうにしている。見ている私まで嬉しいし、なんとも言えずに満ち足りた気持ちになった。おそらくこれが何かで読んだ「尊い」という感情なのだろう。

 ふと気づくと、横のふみさんの目がガラス玉のようになっている。

 まずい、何かちょっとふみさんの興味を引くような話題にしなくては。


「え、えっとそれじゃ……おふたりは相手のどういうところが好きですか?」

 咄嗟に口から出た質問は、さらにふみさんを真顔にしそうなものだった。

 仕方ない。私が聞きたかったことだから。

「聖はこうと決めたらストイックに努力してちゃんと成し遂げるの。年下だけれどそういうところはすごく尊敬している。ちゃんと夢を叶えて教師になったし」

 ほとんど考える間もなく、かがりさんはすらすらと答えた。

 いつも実感しているからこそだろう。

 照れた表情の聖さんを見て、かがりさんはふっと微笑むと、小さな声で付け足した。

「それに、別れていた間も……ね」

「え? ああ……ね」

 聖さんがそれ以上言わないでと言うようにかがりさんに目配せした。


 もちろん、それをふみさんが見逃すはずはない。聖さんが登場してから初めて満面の笑みになるとぐいっと身を乗り出し、

「えー、何々? 聞きた~い」

 と言い出したので、聖さんはあからさまに困った表情になった。

 かがりさんはそんな彼女を安心させるように優しく見つめながら言った。

「別れている間、聖は小説を書いてWEBに出していたの」

「小説?」

 私とふみさんの声が揃う。聖さんは恥ずかしそうにあらぬ方向を見ながらウーロン茶をがぶがぶと飲んだ。

「うん。同じ15歳差の女性同士の出会いから一度別れてやり直すまでのお話だったんだけれど、まさに私たちがこうできていたらよかったのに、というストーリーで。偶然見つけたんだけれど、聖はそれまで小説なんて書いたことなかったから、まさかこの子が書いているなんて思わずに読んでいたら、自然と自分たちのことを思い返してね。あの小説があったから、私もこじれていた気持ちがほぐれて聖とやり直したいって素直に思えた」


 自分に向けて綴られた小説――それがかがりさんに再び火を付けたのだ。

 もう誰も好きにならないと思わせた張本人に再び恋させたのだ。

 読みたい、と思った。かがりさんに火を付けたなら、私にも火を付けてくれるかもしれない。

 二年前、あの人が残した傷のせいで、二度と恋なんてしたくないと思っていた私にも。

 

 私は慌ててバッグからスマホを取り出した。

「読みたいです……! タイトルを教えて下さい、どこのサイトで読めますか?」

「ごめんなさい、もう消したんです」

「え……」

「そうなの。完結した後、私がもしかして作者は聖なのかと思って匂わせコメントしたら消しちゃったの」

「まさかかがりが読んでいると思わなくて、驚いて衝動的にね」

「私に向けて書いていたくせに」

「そりゃそうだけれど……。まあ、書き終えたらやがて消すつもりではあったしね。余りにも自分の反省とか願望が投影されていて恥ずかしいし」


 ああ、聖さんは小説という形をとった長い長い手紙を書いていたのだ。

 それはどれほどかがりさんの胸を打ったことだろう。


「WEBから消しても元ファイルはありますよね!?」

 食い下がった私の肩にふみさんが手を置いた。仏のような顔で首を横に振っている。

 確かに、聖さんがかがりさんのために書き、彼女が読んだ後でこの世から消した小説を初対面の私が読みたいなんて無粋もいいところだ。それでも私は、かがりさんと同時に聖さんの小説を読んでいた名も無き人々に激しく嫉妬した。

 彼ら、彼女たちは何を感じながら読んでいたのだろうか。


「一度別れてまた元サヤに戻って……お互いへの印象って変わりましたか?」

 そう尋ねると、ふたりはお互いを観察するかのように見つめ合った。

「別れる前は聖って軽い話はぺらぺら喋る割に肝心なことはなかなか言わないから、本当に私のことを好きなのか、どう思っているのか不安な部分もあったんだけれど、あの小説を読んで、聖がこんなにも内面でいろいろ考えているんだって初めてわかった。だからずっと小説を書いていてほしいな。聖の本心がわかるから」

 かがりさんに言われ、聖さんは参ったなあと言うように頭をかいた。

「喧嘩した時とかまた夏芽と望実で書いてるよ。溜まったらまた見せるよ」

「ちゃんと書いてるんだ!」

「約束したから……」

 ヨリを戻して今は蜜月が続いているのだろう。この人たちは隙あらばすぐにふたりだけの世界に行ってしまう。無言でハイボールを飲むふみさんはふたりの眩しい光に灼かれ、次第に透明になっていくようだ。


「あの、聖さんはどうですか? かがりさんの印象って変わりましたか?」

「私のほうはあんまり変わらないんですけれど……」

 聖さんはかがりさんのグラスに浮かぶレモンを眺めていた。

「かがりはレモネードだなって思うんです、最近」

「レモネード?」

 かがりさんもきょとんとしている。

「ええ。レモネードって、酸っぱくて爽やかで甘いでしょう? 飲む瞬間瞬間で違う味がして、何度飲んでも飽きない。もっともっと飲みたくなる。かがりはよく笑って優しいけれど繊細だからすぐ傷つくし、かと思うと怒って泣いたりする。年上だけれど、どんなかがりのことも可愛いと思うし、大切にしたいと思うんです」

「……」


 尊さの散弾銃を浴びたような衝撃だった。レモネード。レモネード。語彙を無くした私は何度もその単語を胸に反芻させた。私も一度でいいからこんな風に好きな人に表現してもらいたい。


「あれっ、私、変なこと言っちゃった?」

 私は余りに尊すぎて。ふみさんはすっかり透明になって。かがりさんは照れと喜びでそれぞれ無言だったので。聖さんは一人慌てた。

「とても素敵だと思います。史上最高にお似合いすぎて泣けてきます……」

 しみじみと私が言う横で、ふみさんはさっと財布から一万円を出してテーブルに置いた。

「今日はふたりと話せてよかった。聖ちゃん、私の大切な同期のかがりをよろしくお願いします。それじゃ、私たちはそろそろ帰るわ。さ、梓、行くよ」  

 ふみさんはぽかんとしていた私の腕を取って立ち上がった。

「え、もう行くの? それに多すぎだよ、一万円なんて」

 かがりさんが驚いて返そうとすると、ふみさんは手で制した。

「私たちはかがりたちが来る前から結構飲んで食べていたのよ。あと、明日は朝から月例報告会だし、遅くならないほうがいいから」

「じゃあ清算して明日でもお釣り渡すからね」

 とかがりさんはふみさんに言った後で、優しく私を見つめた。

「町田さん、たくさん話を聞いてくれてありがとう。私たちのことなかなか公言できないから、惚気みたいになっちゃったけれど聞いてもらえて嬉しかった」

 お礼を言いたいのはこちらのほうだ。

「いえ、こちらこそいろいろ聞きこんじゃって失礼しました。お話しできて、私まで幸せな気持ちになれました」

 ふみさんに腕を引っ張られながら、私は慌てて荷物をまとめて立ち上がり、頭を下げた。


 店を出る前にもう一度ふたりに目をやると、聖さんがかがりさんの向かいに席を移動していた。かがりさんが目配せし、聖さんも振り向いて手を振ってくれた。

 焼き鳥や焼き魚の脂の匂いが充満し、男女のサラリーマンたちがガヤガヤうるさい店内で、彼女たちだけがレモネードで満たされたグラスの中にいるようだった。酸っぱくて爽やかで甘い、ふたりだけの世界。


 先を歩くふみさんに追いつき、五千円札を渡そうとすると、ふみさんは首を振った。

「梓の誕生祝いだからおごるって言ったでしょ」

 あ、私の誕生日のこと、覚えていたんだ……。

 かがりさんと聖さんが登場してから私の誕生日のことなんてすっかり忘れたと思っていたのに。思わずくすっと笑ってしまう。


 夏の夜道は好きだった。昼の暑さの余韻を残しながらも涼しい風が吹いて、どこまでも歩いて行けるような気持ちになる。

 かがりさんたちが放っていた幸せな空気がまだ身体の周りにふんわり漂っているようだ。

 横を歩くふみさんが小さくため息をついた。

「なんだか完全に負けたって感じ」

「負けた?」

「うん。かがりが15歳も年下の相手に惚れ込んで振られてまた付き合って、って振り回されてると思っていたけれど、聖ちゃんも相当かがりのことが好きなんだね。別れてもかがりに向けて小説を書き続けながら、目標としていた教師にもちゃんとなってさ。それにあのレモネードって言われたかがりの幸せそうな顔を見たら、こっちは祝福するしかないもん」

 なんだかふみさんの声が湿っているような気がした。

「……ふみさんは、かがりさんが取られちゃった、って感じなんですか?」

「取られたって、かがりが私のものだったことなんてないけれど。でも同期の中でも一番仲良かったし、わかり合ってるって思っていたのに、かがりはずっと近くにいた私のことは恋愛相手として見なかったのがなんだか悲しい。つまんない」

「だけど、ふみさんだって別にかがりさんのことは恋愛対象として見てなかったんですよね……? 結婚だってしたんだし」

「そりゃあそうだけれど。だって私は男性が恋愛対象だったからさ、少なくともこれまでは。でもかがりは女性が恋愛対象なのに、私はタイプじゃなかったってことでしょ」

「ふみさんはかがりさんを好きなんですか?」

「……同期としてすごく信頼していて、仕事も出来るしみんなに好かれるかがりが誇りで、眩しくて、いい女だなっていつも思ってきたよ。好きかどうかなんて……好きに決まってるけれど、単純に言い表せる気持ちじゃないんだよ」


 ふみさんの言い分はちょっと自分勝手ではあったけれど、わかる気もした。

 きっとふみさんがかがりさんへ抱いてきた思いは、ほとんど恋愛感情に近いものなのだろう。ふみさんが離婚し、聖さんが恋人として現れるまで意識していなかったのだろうけれど。


  ――友だちと恋人ってどんな差があるのかな――

 花梨の言葉が再び脳裏に蘇る。

 友だちとして信頼する気持ちの発展で好きになる、と言っていたふみさんの言葉も。

 どんなきっかけで恋が始まるかは人それぞれ違うし、その時その時で変化するものなのだろう。

 

「私はモブだったけれど、ふみさんは登場人物だったんですね。かがりさんたちの物語の」

「モブ? 登場人物? どういうこと?」

「私はかがりさんと聖さんを見ていると、ただただ尊さで胸がいっぱいになって、私もあんな風に恋をしたいって久しぶりに思えました。でもふみさんは重要な登場人物だから、ちょっと苦しい思いもしちゃうんですね。それでも、ちゃんと祝福できたふみさんはカッコよかったですよ」

「……ちょっと待って」

 ふみさんが足を止めたので、私も立ち止まる。

「どうしました?」

「梓、また恋をしたいって思えたの?」

「は、はい……」

 ざっと吹いた夏の夜風に髪を煽られながら、ふみさんは嬉しそうに笑った。

「やったじゃん、梓! 二年も恋していなかったから、もしかしてこのまま枯れるのかと心配してたのよ。ようやく失恋から立ち直ったんだね」

「失恋を引きずってなんかいませんよ、すっかり元気でしたもん」

 口をとがらせて私は言い返す。


 しかし、誰のことも好きになれず、人に気持ちを向けられることからも逃げてきたこの日々は、やはりそういうことなのだろうか。

 どんな恋をしていたか、相手はどんな人だったか、詳細はほとんどふみさんには伝えていなかったけれど、失恋したことだけは話していた。ふみさんは根掘り葉掘り聞くこともなく、しんどい思いをしたんだね、またいつか梓が今の痛みなんて吹き飛ぶくらい素敵な恋ができることを祈ってる、と言ってくれた。それからずっと、次の恋に進まない私をふみさんは心配してくれていたのだろう。


 ふみさんは満面の笑みで私の背中をばしばしと叩いた。

「かがりたちだっていろんなこと乗り越えての今のラブラブなんだもんね。今度は梓がラブラブになる番だよ。もし私に惚れたら受けて立つし」

「ふみさんは逆らっちゃいけない先輩枠なので今更恋愛対象にはなりませんよ」

「枠とかつまんないこと言わないの。これからのことなんてわからないでしょ」

 ふみさんは人が変わったように饒舌に喋った。

 私の気持ちの変化を心から喜んでくれているのだ。

 やっぱりふみさんは心根が温かくて優しい。そんな彼女が私は大好き。


「よーし、恋するぞ!」

 恋をしたい。かがりさんと聖さんのような恋をしたい。

 もう一度誰かを心から好きになって、骨まで溶かすくらいの熱で愛されたい。

 夜空の三日月にこっそりと願う。

 どうか私に恋をさせて下さい――。


しかしそんな砂糖菓子のような甘い願いは翌朝、早々に打ち砕かれることになった。


「来月1日に中途採用でうちに入ってくる女性がいるから、名刺や業務用携帯の準備を始めておいてくれ。飲料のセントリーから転職してくるらしい。年齢も町田さんと近いから、サポート頼むよ」

 課長が示した書類に書かれた名前を見て、私は凍り付いた。


 そこには、二年前、私に愛し合う喜びを深く刻みつけながら、ひどく傷つけて捨てた女――滝沢詩絵しえの名前があったのだった。


つづく。

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