第3話 ガトーショコラと彼女。
本来なら31歳の誕生日の夜は同期女子でわいわいと過ごすはずだった。
心おきなく語れる友たちと迎える誕生日。悪くない。むしろ最高。
もはや親くらいしか覚えていないと思っていたのに、どうせなら梓のバースデーに同期女子会をしようって言ってくれて、私が好きなチーズフォンデュのお店を予約してくれたみんなの気持ちが嬉しくて心が浮き立った。
けれど。
急な出張、急な接待、急なじんましん、……などなどのキャンセル連絡がグループメッセージにひゅんひゅんと飛んできて、幹事役だった子が延期を決めた。
もちろんもう誕生日を指折り数えて待ちわびる子どもではない。年なんて取りたくないから、誕生日なんて来なくてもいい。だけど、――やっぱり楽しみだったのだ。
母が「31にもなるのに独り身で誕生日を過ごすなんて」と寂しげに電話で言った時だって、「恋人が全てじゃないよ。私には祝ってくれる仲間がいるんだから」と強気で言い返したのだ。
だから、ごめんね、ごめんねとみんなに謝られるたび、私のほうが申し訳ない気持ちになった。浮かれていた私のバカ。
5月下旬の月曜だ。ふみさんの顔が思い浮かんだけれど、この間飲んだばっかりだし、一人の誕生日が寂しいなんて理由で誘うほど厚顔無恥でもない。おごれって言っているようなものだし。
〈梓がもしも私と二人でもいいなら、お誕生日お祝いしたいな〉
同期の
そういえば花梨はキャンセルを言いださなかったと思い当たる。
〈すごく嬉しい!〉
〈実はもう、チーズフォンデュのお店を2人で予約し直したんだ〉
ああ、花梨、大好き。
花梨は内定時代に研修で出会った時から、本当に優しく接してくれる子だった。
同じ大学の人がいなくてまごまごしていたら、気づいてくれて一緒に座りましょうと声をかけてくれたり、お昼に誘ってくれたりした。
向上心もあるから、率先してみんなが面倒くさがるリーダーなどを引き受けるし、全員の意見を聞きながらうまくまとめてくれる。
流されずに自分の意見もはっきり言えるけれど、人を傷つけるような言い方は絶対しない。仕事もきちんと段取りをつけて進めるけれど、何が起こっても柔軟に対処するから、行き当たりばったりなところがある私は何度も助けてもらった。
仕事でもプライベートで遊んでいても嫌な思いをしたことがないし、一緒にいると素の自分が出せて何でも話せる、そんな相手だった。
そして迎えた誕生日当日。
人事部の花梨とは定時に一階ロビーで待ち合わせたので、私は終業チャイムと同時に急いでデスクを片付け、パソコンを切って立ち上がった。
するとそこに2年目社員となった鈴木亜里咲が書類を手に近寄ってきた。
「あれ、もうお帰りですか? 今日は早いですね」
「うん、ちょっと約束があって……」
そう濁すと亜里咲はにこっと笑った。
「デートですか?」
相手は花梨だけれど、普通に否定するのもつまらないなと思った。
「まあそんな感じかな。実は、今日私の誕生日なの」
亜里咲は目を見開いた。
「え……知らなかったです……」
「ふふ、同僚の誕生日なんて普通知らないよね。えっと、それの書類?」
「あ、こないだの出張の立て替え払い申請書です。机に置いておきますね」
「ちょっと見せてくれる?」
亜里咲は申請書類にケアレスミスが多いので、受け取ってざっとチェックした。
「ほら、ここ今日の日付になっているけれど、帰着日の日付が正しいよ。二重線引いて修正して印鑑押してね。あと、ここ直筆で署名しないと」
「あ……すみません、毎回」
「ううん、いいよ。修正したのを机に置いておいてね。それじゃお先に」
書類を亜里咲に返し、私は足早に廊下へ出た。
同じようなミスがもう三、四回目になるだろうか。教育係だった頃のふみさんなら「同じミスは二度しないようにと言ったよね?」と鬼の形相になっただろうと思い、噴き出しそうになる。
今は若い子に怒ってミスを隠されるほうが心配なので、笑顔で対応するのが一般的だ。
それにこれから花梨とデートなのだ。これくらい可愛いものだ。
エレベーターホールで下へのボタンを押すと、ちょうど上から下りてくるところだった。
ラッキーと思っていたその時、
「町田さんっ」
バタンと音がしてドアが開き、亜里咲が走ってきた。
「これ、いつもミスしてるお詫びも込めて渡したくて。誕生日プレゼントにはほど遠いですが!」
息を乱しながら亜里咲が差し出したのは、箱入りの板チョコだった。
「えっ、こんなまるごといいのに……自分のために買っていたものでしょ? 受け取れないよ」
「受け取って下さい! 私このチョコ好きじゃないので!」
「ええっ? じゃあなんで買ったの」
まさかの言葉に思わず笑ってしまった時、エレベーターが到着してドアが開いた。
「あ、梓! ちょうどよかった」
中には花梨だけが乗っていて、私を見てにこにこと手を振った。
「あら鈴木さんじゃない。久しぶり、元気?」
花梨は新人採用を担当しているから亜里咲のことも知っている。亜里咲は「佐野さん、お疲れさまです」と言って一礼した。
「町田さん、それじゃこれで」
亜里咲は私にチョコを押しつけると、小走りでフロアに戻っていった。
「行っちゃった……」
仕方なくそのままエレベーターに乗ると、花梨は私が胸に抱えたチョコに目をやった。
「モテるねえ、梓」
「モテてないよお」
私は笑ってバッグにチョコをしまった。
エレベーターが一階に到着し、私たちは並んでビルを出て地下鉄駅へと向かった。
「鈴木さんどう? うまくやれてる? ふわっとして変わった子だから、営業部で鍛えてもらったほうがいいということで配属が決まったけれど、ちょっと心配してた」
「うん、確かに今どきの子って感じだけれど、一生懸命やってるよ」
「安心したわ。まあ総括に梓がいるから大丈夫だとは思ったけれど。それにしてもずいぶん懐かれているみたいじゃない?」
「業務外で話し出したのは最近なんだけれどね。3月の繁忙期に入浴剤事件あったじゃない? あの時、私がついため息をついてたら、むしろ親しみやすくていいってチョコくれたんだよね」
花梨は目を見張った。
「え、なにそれ。ため息ついたらチョコ?」
「でしょう? 私たちって職場でため息つくなって言われて育った世代じゃない、だからびっくりしちゃって」
「あー、梓の教育係は岩ヶ崎さんだもんね、言いそう……。私は優しい宮原さんだったからそんなこと言われなかったけれどさ。でも確かにそういうマナーあったよね」
かがりさんの名前が出て、ふと先日、ふみさんと絡めた小指を思い出す。
――梓は裏切らない?
ふみさんは、かがりさんに裏切られたと思ったのだろうか。
私と小指を絡ませながら、なんだかふみさんは傷ついているように思えたのだ。
同期というのは特別な間柄だから、その相手にかがりさんを取られたように思ったのだろうか?
とはいえ、ふみさんだって結婚するほどの人がいたわけなのだけれど。
かがりさんほどの女性を一度振り、もう誰とも付き合えないと言わせながら、またよりを戻すほどの相手ってどんな人なのだろう。
きっとふみさんはその相手のことも知っているのだろう――そんな気がした。
花梨と食べたチーズフォンデュとワインは特別美味しかった。
全く気を遣わず、食べたいように食べ、飲みたいように飲めるのはやはり同期ならではだ。
同期として出会い、会社というものを、社会というものを共に一から学び始めた時からもう9年目。
最後には「HAPPY BIRTHDAY AZUSA」とチョコペンで書かれたデザートプレートが運ばれてきて感激した。プレートを持ち、花梨と一緒にスタッフに写真を撮ってもらった。
「あー、私、花梨さえいれば幸せに生きていけるわ。今日はありがとうね」
そう言うと、花梨はえへへと笑った。
「実はまだこれで終わりじゃないんだよね。さ、時間ももったいないしタクるよ!」
タクシーで到着したのは花梨の自宅マンションだった。
同期女子会でたまにお互いの家で料理を作って食べたり、二人で遊んだ時に花梨の家にも来たことがある。私の家と違い、いつも小綺麗に調えられた部屋は居心地がいい。
ソファに座らせられ、目をつぶって待っているように言われてわくわくしながらその通りにしていると、何やら冷蔵庫を開けたり閉めたりする音がした。
「はい、いいよ。目を開けて」
目を開けると、明るかったはずの部屋の電気が消されており、暗闇の中、花梨が持ったケーキに立てられたろうそくの火の光が揺れていた。
「ハッピバースデーあーずさ~♪」
歌いながら花梨が大皿を持って私に近づいてくる。
「え……ちょ……嘘……!」
「ハッピーバースデーディアあーずさ~! ハッピバースデートゥーユー! おめでとう! はい、お願い事しながら吹き消してね」
テーブルにケーキを置いた花梨がにこにこして私を見つめる。
――ケーキにろうそくに、バースデーソング。
こんなにきちんとお祝いされたのはいつぶりだろう?
以前付き合った人からもこんなことされたことはない。
ろうそくの火を吹き消そうとするのに、涙が出てきてなかなか息が吹けない。
「泣かないでよ梓~。じゃあ、一緒に吹き消そうか? お願い事した?」
うん、と私は頷いた。
――いつまでも、花梨と仲良くいられますように。
「じゃあ、せーの……」
花梨の声に合わせて私たちは一緒にろうそくの火を吹き消した。
「いや、泣くとは思わなかったよ」
部屋の電気を付けた花梨は笑ってティッシュを取ると、私の涙を拭いてくれた。
「すっかり涙腺が弱くなったねえ」
「だってこんなことしてくれるなんて想像しなかったもん」
「サプライズ大成功してよかった」
「もしかしてこのケーキ、手作り?」
「うん、私が唯一自信があるガトーショコラだよ。昨日作ったんだ。とは言ってもデコレーションとか全然出来なくてシンプルだけど……」
明るい中でケーキを見ると、チョコレートケーキの上には星空のように粉砂糖が振られ、周りには切ったイチゴと缶詰のみかんが散りばめられていた。
「すごい可愛い……撮影してもいい?」
「こんなのでよければ」
スマホを取り出して撮影していると、にこにこ笑って見ていた花梨が私のスマホを掴み、顔を寄せた。
「一緒に撮ろうよ」
「うん!」
画面に笑顔の私と花梨とケーキが収まる。
「私、幸せそうに写ってる。実際幸せだもんな」
「幸せ?」
「うん、すごく幸せな誕生日になった。ありがとう。ねえ、この写真インストに載せてもいい?」
「載せてくれるの?」
「誕生日くらい幸せ自慢したいよ」
インストを操作していると、花梨はガトーショコラを持ってキッチンに行き、切りわけてフルーツと共に小皿に載せて持ってきてくれた。
いただきます、と一口頬張ると、ビターチョコのほろ苦さが濃厚で美味しい。
「すごく美味しいよ!」
「よかった、うまくできて」
横に座った花梨ももぐもぐと食べて安心したように頷く。
「おめでとう、梓。特別なことは出来ないけれど、こうやって二人でお祝いできて、私のほうが嬉しいよ」
「こんなスペシャルな誕生日はないよ」
そっとケーキをテーブルに置くと、私はぎゅっと花梨を抱き締めた。
「花梨がいなかったら一人さびしい誕生日になるところだった。恋人もいないし、仕方ないと思っていたけれど、花梨のおかげでこんなに素敵な日になったよ。いつも優しくしてくれてありがとう」
花梨の柔らかい腕が私の背中に回された。
「私こそ梓に何度も何度も助けてもらってきたよ」
思い出を遡るけれど、花梨に助けてもらったことしか思い浮かばない。
「私、花梨を助けてあげたことなんてあったっけ?」
私の肩で花梨が頷く。
「入社研修の時、篠田くんが私がまとめた内容を自分の意見として報告した時、それは佐野さんの意見だって言ってくれたり」
「え、そんな些細なことで」
つい笑いをこぼすと、花梨もふふっと笑った。
「もちろんそれだけじゃないよ。一年目の時、課長に怒られて階段室で泣いていた時に梓が見つけてくれて慰めてくれたよね。フロアに戻りにくかったけれど一緒に戻ってくれて助かった。あと、二年前に加藤さんと別れた時は朝まで泣くのに付き合ってくれたし、去年昇進した時は一番におめでとうって言ってくれた。五年くらい前かな、鍵落とした時に急に泊めてくれたりもしたね」
「よく覚えているなあ。でも友だちだもん、当然だよ」
「私、梓と一緒にいるといつもほっとする。嫌な思いをしたことがないし」
「私もそう。花梨といるとリラックスできて楽しい」
私たちの間に沈黙が降りてきた。
爽やかでかすかな甘さが混じる花梨の香りに包まれる。出会った頃からすごく安心できる匂いだった。
お互いの鼓動しか聞こえないような静かな部屋で、花梨が呟くように言った。
「……ねえ、友だちと恋人ってどんな差があるのかな……」
驚いて少し身を離そうとすると、花梨は私を抱き締める腕に力を込めた。
「恥ずかしいからこのまま聞いて」
「あ、うん……」
「私さ、好きになった人と付き合うのに、そのうちいつも相手の顔色を窺うようになっちゃうの。ほら、男の人って急に怒ったり機嫌悪くなったりすると何をするかと怖いじゃない? あと一緒にいる時は、自分の家でも彼の家でも私が家事をするのが当然みたいなことだとか。外で食事しても彼の分取り分けたり飲み物が無くなってないか見ていないと気が利かないって言われたり。相手にも好かれて付き合ったはずなのに、だんだん対等じゃなくなっていく」
花梨は二年前に年上の彼と別れて以来、誰とも付き合っていない。可愛くて優しい彼女を密かに慕う人は多いけれど、しばらく恋愛は休みたいと公言していた。
私も同じ頃に前の恋人と別れた。
一人でいると、仕事後や週末は自分の好きに使えるし、気兼ねなく誰とでも会えるし、自分の好きな映画や洋服を選べる自由が心地良い。このままでいいと思う。
――でも心のどこかが寂しい。
「梓といると、そんなふうに思ったことがない。私がしたことはすごく喜んでくれるし、感謝してくれる。怖い思いもしないし、細やかに気を配ってくれる。梓も私を守ってくれるし、励ましてくれるから安心するし、また頑張れる。――そんな相手が恋愛相手ならいいのにって思う」
確かにそうだと思った。
友だちとして気が合う大好きな相手が恋愛相手でもあったら――それって理想的だ。
今まで、恋愛と友情は別物として考えていたと気づく。
「私もそう思う……」
ぽつりと言うと、花梨は笑った。
「――じゃあ、付き合っちゃう?」
「でもさ」
今回は身を離して花梨の瞳を見ることに成功した。
チーズフォンデュと一緒に飲んだワインの酔いがまだ残っているのか、花梨はとろんとした目をしていた。それがまた無防備なようで可愛い。
「付き合ったら、その……キスとかその先とかするってことでしょ? 花梨、私としたいと思う?」
花梨は首をかしげた。
「うーん、どうだろう……でも、付き合ったからってキスとかその先とかしなきゃいけないってことでもないでしょう?」
「そりゃそうだけど。でもやっぱり好きっていう強い湧き上がるような気持ちって欲しくない?」
「まあ、それが恋愛の醍醐味だもんね」
「うん」
「じゃあさ、もしちょっとでも好きって気持ちが湧き上がって来たら、付き合おうよ。それで一緒に住もうよ」
「展開が早いなあ」
私は苦笑した。花梨はまだ酔っているのだろう。
「だって二人で住んだら絶対楽しいもん。ね、約束」
「うん、いいよ」
それから少しして私は花梨の家を後にした。ガトーショコラをお土産に持たせてもらって。
エレベーターホールまで見送ってくれた花梨は、少し寂しそうな顔をしていた。
花梨に手を振った後、扉のガラス窓に映った私もまた寂しげだった。
私と花梨はいつかお互いを好きになるのだろうか。
まだ自分の気持ちを覗きこんでも、花梨を友だちとして好きだという気持ちしかない。
恋愛にはならないとしても、と私は想像した。
――いつか、一人の寂しさのほうが今より大きくなった時、家に花梨がいてくれたら楽しくて安心できて幸せだろうな。
それに――自分勝手だとは思うけれど、もう誰かのものになった花梨は見たくない。
〈十年後もこのままお互い一人でいたら、結婚しよう〉
そんなのは昔のトレンディドラマの臭い台詞かと思っていたけれど、なんとなく今はしっくりくる。
花梨と暮らす日常を想像しながら、私は夜道を歩いた。
つづく。
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