第2話 ハイボールと彼女。
「職場でため息をつくのはマナー違反? そんなこと私言ったっけ」
首をかしげてそう言うと、ふみさんはハイボールをグビグビ飲んだ。
あっという間にグラスは氷とレモンを残して空になる。
いつもながらいい飲みっぷりに見惚れてしまう。
「すみませーん、これおかわりー!」
大声で注文すると、ふみさんはどんっとグラスをテーブルに置いた。
仕事帰りの女性客で賑わう古民家風のご飯屋さん。八百屋さんが母体となっているので野菜を使った料理が美味しく、ふみさんが気に入って二人で飲む時は大抵ここだった。
「言いました~。いたいけな新人の私がミスしてため息つくたび言いました~」
私は恨みがましく言う。
「そうだっけ~。ため息なんてついてなんぼじゃんね」
ふみさんは笑いながらきゅうりの浅漬けをぽりぽり食べた。
こういうところ……と思いつつ、ふみさんのことは憎めないし、反論はできない。私にとって彼女は絶対服従の相手なのだ。私ははいはいと呟きながら焼き鳥に食らいついた。
38歳の
「ため息はつくな」だけではなく、「何でもメモを取れ」「同じことは二度聞くな」「同じミスも二度するな」という基本動作から始まり、ひとつひとつの仕事の教え方も結構厳しい先輩だったので私は必死だったし、応えられない情けなさ、悔しさで時折トイレで泣いた。
でもふみさんが教えてくれる内容は的確だったし、私に足りないことばかりだった。それに、気まぐれで怒ったりせずにあくまでも仕事の面だけ必要なことを言ってくれたし、実際にふみさんは自分で言っている内容を実行していて上司にも認められていたから納得できた。慰めたり励ましたりするふりをしながら二人で飲もうといやらしい顔をして誘ってくる男の先輩よりよほど彼女のほうが頼りになったし、ついていきたいと思えた。
やがて私が成長するにつれ、ふみさんもだんだんと私に仕事を任せてくれて、意見を聞いてくれたり、相談を持ちかけてくれたりするようになった。時折仕事帰りに食べ飲みに誘ってくれるようになり、会社とは違うリラックスした表情でいろいろ話してくれるから、距離はどんどん近くなっていった。
最初のビール以降はハイボールをぐいぐい飲み干すふみさんの飲み方はカッコいいけれど、私はそこまでアルコールに強くなくて、飲むとすぐぼーっとしてしまう。
「可愛いなあ、
と言いながら頭をよしよしと撫でてくれると、もっと酔いがまわる気がした。
そんな関係がお互い異動を繰り返しながらもう8年になる。
「その新人ちゃんにため息ついて欲しいって言われて動揺したわけだ、町田主任は」
運ばれてきたハイボールを手にしてふみさんはにやりと笑う。
「だって私たちにはない文化じゃないですか。先輩にため息ついて欲しいって言ってチョコ渡すなんて」
「ため息ついちゃだめとか今どきの若い子に注意したらもはやパワハラだよね。ねえ、そのチョコ食べたの?」
「食べましたよ。それ以降もくれますしね」
あれから、
営業部隊の亜里咲と総務業務を行う私はすれ違う時間も多いけれど、長い会議から戻ってきて〈お疲れさまです〉なんてメモと共に赤いチョコの包みがデスクに置かれていると、胸がきゅんと鳴る。
外回りをする亜里咲のほうがよほど大変だろうにと思い、最近は亜里咲用にキャンディを用意している。
「なんか聞いているだけでチョコなのに甘酸っぱくなるんですけど。で、どうなの。梓はその子、有りなの?」
「有りって何がですか」
「だってあなたしばらく恋人いないじゃない。ありさとあずさ、名前も似てるし」
そう言う意味で聞いたのだとわかって、一気に頬が熱くなった。
「わ、私は8歳年下の女の子をそんな目で見ませんよ。鈴木さんだって変な意味でチョコくれていないと思うし!」
「なかなかストレートな好意の示し方だと思うけれどなあ。それこそ今どき、8歳の年の差なんて気にならないよ」
ストレートな好意――。
まあ、そりゃ嫌われているわけではないというのはわかる。けれど、こないだまで大学生だった若い女の子がどんなつもりでチョコをくれるかなんて、私にはわからない。
なので私は冷静なふりをして話を切り返す。
「ふみさんは気にならないかも知れないけれど、私には8歳下の子なんて未知すぎます。きっと怖いお局攻略法としてチョコで餌付けされているんだと思いますよ」
「世の中には10歳、15歳の年の差カップルだっているんだよ。ふむ、私と亜里咲ちゃんなら15歳差だ、なかなかいいね」
「なかなかいいって……」
ふみさんと亜里咲がいちゃついているところを一瞬想像してぶんぶんと私は首を振る。
どうやらもうすでに私は酔っ払っているようだし、ふみさんもいい感じになってきているのか、いつもより饒舌になっている。
だから、ずっと聞きたくて聞けなかったことを思い切って聞くことにした。
「ところで気になっていたんですけれど、なんで立花さんと離婚したんですか?」
ふみさんの瞳からすっと熱が消えたのを感じた。
(あ、やっちゃったかな)
背中を冷ややかなものが走ってぞっとしたけれど、ふみさんはただ小さくため息をついただけだった。
「そういえば言ってなかったね」
「ええ……離婚することになった、理由は聞くなってふみさん言ってたから……。でも言いたくなかったらいいです」
「もう1年半経つんだね。あの時は恥ずかしくてとても話せなかったけれど、時間が経つとかえって自分から言い出せなくなるから、逆に聞いてくれたほうが話しやすいよ」
しんみりした表情でふみさんはハイボールを口にする。
夕暮れ色のグラスの中で、しゅわしゅわと炭酸が弾けた。
3年前、ふみさんが同期の立花さんと結婚すると発表した時、正直驚いた。
派手さはないけれど、凛として姉御的な存在のふみさんに比べて、立花さんはちょっとぽっちゃりめで大人しく、ふみさんより少し背が低くて目立つところがない人だった。
ふみさんとは仲が良いと思っていたのに、彼と付き合っていたことすら知らされていなくて悲しくもあった。
それでも披露宴で並んで高砂に座る和装姿の二人はお似合いだった。
バリバリ前進し続ける妻とにこにこと支える夫という感じがにじみ出ていて。
でもそれは私の勝手なイメージだったようだ。
結婚から半年後、立花さんが岩手支店に転勤していき、彼らは遠距離婚になった。転勤の話が出たことが結婚のきっかけになったらしいけれど、もちろんふみさんには仕事を辞めて付いていくなんて選択はなかった。それについてはなんだかんだ周囲から言われて辟易していた。
そして遠距離開始から約一年で二人は離婚した。
「直接的な理由は、立花の浮気。岩手支店の女の子とね」
「え……あの人畜無害な立花さんが!?」
ふ、と口の端で笑ってからふみさんはハイボールを飲み干した。
「すみませーん、ハイボールお代わり!」
「あ、じゃあ私も同じのを」
「珍しいね」
ふみさんは目を丸くして私を見た。
「なんか私もふみさんと一緒に飲みたい気分だから」
運ばれてきたグラスを私たちはぶつけ合った。
「何に乾杯なんだろ……そうだな、私の離婚に乾杯!」
「ふみさんの離婚に乾杯!」
「そこは後輩として何かもっと前向きな言葉に代えなさいよ」
久しぶりに飲むハイボールは、ウイスキーのほろ苦さがレモンの香りを残しながら胃までまっすぐに届く感じがした。ぶわ、と体温が上がる。
「ほら、梓はすぐ赤くなるんだから、慌てないでゆっくり飲みなよ」
ふみさんが頬を指で突っついて笑った。
「……なんで浮気がわかったんですか?」
ふろふき大根を食べつつ、ふみさんは遠い目をした。
「ある時向こうに行ったら、ネクタイとか通勤鞄とか見慣れない新しいものが増えていて、部屋も観葉植物とかあって……極めつきは洗面所の鏡の裏の棚に女性もののカミソリがあったこと。彼が気づかなくて、私なら気づくだろうって所にわざと置いていったんだろうね。彼は慌てて自分のだって言い張ったけど、わざわざピンクの女性用を買わないでしょ」
「わあ、マーキング……」
「その時、悲しみより何より、プライドが折られた気がしたの。なんでこの私が立花に裏切られないといけないの、って。結局私が彼を夫として立ててこなかったから、彼はつまらなくて寂しくて若い子に手を出したんだと思う」
「でも、立花さんだってそういうふみさんの性格をわかって結婚したんですよね?」
「それよ」
ふみさんは私をびしっと指差した。
「付き合っていた頃、君は好きなようにすればいい、そんな君を応援したい、と彼は言ってくれたけれど、やっぱり結婚したら自分が夫なのに私のほうが評価が高いとか、収入があるとか、妊娠に前向きじゃないとか、いろんなところが不満になっていったみたい。向こうの両親も私のこと嫁のくせに生意気だと言っていたし。何が嫁だ、あー結婚ってつまんないって思って即離婚決めたもん。でも、私も結婚に不向きなくせにやっちゃったのがいけなかったんだよね」
「まあ、してみないと不向きかどうかもわからないですもんね。ふみさんは悪くないです」
「梓は優しいね」
肘をついたふみさんが私の顔をじっと見るから、ドキドキする。濃いまつげに縁取られた切れ長の瞳は何もかもを見透かすようだ。
きっと立花さんもそんな恐れのようなものを感じていたのかもしれない、などと思う。
離婚してからふみさんはものすごく綺麗になったと評判だった。
「ま、まあ、ふみさんが全く悪くないとは言いませんけど……」
「わかってますって」
ふっと視線を外すとふみさんはまたハイボールを飲んだ。
多少頬が上気しているものの、ほとんど顔色は変わっていない。
「……また恋したいと思います?」
何を聞いているのだろう、私。
先ほどのふみさんと亜里咲のイチャイチャ妄想が頭に渦巻く。
動悸が身体中に響いた。ああもう、これ以上飲まない方がいいな。
「したいかと正面から聞かれると、恋愛はしんどいからもういいかな……。一人でいると誰に気兼ねもしなくていいから気楽だし。将来は独り者の女同士で同じマンションに住んで、たまに飲んだりご飯一緒に食べたりしたいなって同期と話したりする」
「楽しそう! 私もそのマンションに住みたいです」
いいよ、とふみさんは呟いた。
「梓も一人だったら仲間に入れてあげるよ。かがりに振られて今のところ候補者が私しかいないから」
突然、かがりさんの名前が出てきて驚く。
宮原かがりさん。ふみさんの同期で札幌支店法人営業部のエース。そして、支店一の美女と誰もが認める人――私もずっと憧れ続けている女性だ。
「……かがりさんに振られた?」
いかん、また新たな妄想が生まれてしまう。
ふみさんはグラスを軽く回した。溶けかかった氷がぶつかり合い、涼やかな音を立てる。
「うん。去年の忘年会でね、かがりが恋人に振られてもう二度と誰のことも好きになれないかもしれないって言っててさ。二人でマンションに住もうって盛り上がったけど、結局元サヤに戻ったらしくて幸せそうだよ」
「わ、私がいますから」
勢いで言うと、ふみさんがとろんとした目で私を見る。彼女がこんな表情をするのは珍しい。
「本当? ――梓は裏切らない?」
「はい」
「じゃ、約束」
ふみさんは細い小指を私の小指に絡めて軽く振った。
その繋がった一点で、私と彼女の体温が行ったり来たりしていた。
つづく。
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