彼女の彼女
おおきたつぐみ
第1話 チョコレートと彼女。
上司からの報告の催促、営業担当たちからの矢のような質問、何十枚と吐き出されるお詫びのポスター。
思わずため息が出た。
仕事中は出来るだけ笑顔で対応するのが自分なりのルールだったのに。
営業部は毎年、2月からの春商戦を迎えると殺伐とした雰囲気になる。
年間最大の商機なのでもともと計画された予算も多く、年明けから本社によるさまざまなメディアミックスプロモーションが始まる。
それに加えて各部の今年度の予算着地見込みがはじき出され、使い切れなかった分は特別経費として100店舗という現場を統括する営業部に流し込まれる。
毎年ある程度その特別経費を見込んで準備はしているものの、年度内に完了するものでなくてはならないので、スケジュールと営業担当からの要望を確認しつつ、どうやったら使えるのかに頭を悩ませるレベルだ。
この時期になるまでは費用削減の号令がかかるのだから、おかしな話ではあるのだけれど。
そんな中、営業部独自で手配したノベルティの入浴剤にカビが見つかったと、発注した広告代理店から突然の連絡があった。
入社して8年。3年前に主任に登用され、それなりに業務経歴は重ねてきたけれど、今回のトラブルは初めてのものだった。幸い人体への有毒性はないと判明してほっとしたけれど、部長に詰められた上司は慌て、とにかく回収とお客様へのお詫びをする手立てを考えてとひどく大雑把な指示を私に与えたあとは、頻繁に進捗を尋ねては部長へそのまま報告するばかりだった。
まずは店舗への周知文書を作り、営業担当に入浴剤の回収指示を出すと共に各店舗でお客様にどれくらい渡したかのヒアリングを行い、結果を取りまとめて報告した。まだほとんど配布される前だったと明らかになり、上司たちは次第に落ち着きを取り戻した。
急を要する一通りの業務を済ませた後に、店頭告知用のお詫びポスターを作成してコピーコーナーで印刷した。
営業担当たちは今回の対応のためにほぼ全員が出払い、静かなフロアに大判プリンターの音が響く。
ロール紙を入れ替えながら何十枚と刷られるポスターを黙々とまとめていると急に疲れを感じ、ついため息が出た。
その時、パーテーションの向こうから新人の営業担当、鈴木
「町田さん……大丈夫ですか?」
「ああ……、鈴木さんも大変だったでしょ? お店に怒られなかった?」
昨年4月に入社してから7ヶ月ほどの研修期間を経て、11月に着任したばかりの彼女にとって、部内が右往左往する現場は初めての経験だっただろう。
新人とはいっても担当店舗があるので、彼女がスタッフたちにどう叱責されたかと思うと胸がきゅっとした。
だがしかし、亜里咲は予想に反して笑顔を見せた。
「大丈夫でした! 私のお店はなんと入浴剤の段ボールを開けていなかったんです」
「それはよかった……いつもなら怒らないといけないところだけれど」
思わず笑うと、亜里咲はほっとしたような表情になって手を差し出した。
「あの、これ……」
そのまだ幼さが残る手には、チョコレートの小さな赤い包みがひとつあった。
「町田さん、普段はにこにこしているのにため息ついていたから……これで少しでも元気出してください」
ため息、聞かれちゃったか。
しまったと思いつつも、突然空腹なことに気がつく。
時計を確認するともう3時近かった。対応に追われ、昼食も取れていなかった。
「ありがとう……嬉しい、いただくね」
包みを破ってチョコレートを口に入れると、舌の上でたちまち溶け、とろりとした甘さが身体中にしみこむようだった。
「美味しい。元気出てきたよ、ありがとう」
「いえ……。それじゃ、失礼します」
亜里咲はにこっと微笑むとパーテーションの向こうに消えた。
業務外でまともに話したのはこれが初めてかもしれない。
可愛い子だと思った。ほんの22,3歳なのだ。
私が新人の頃はこんな風に先輩に気を利かせることなんて出来なかったな……。
チョコレートの甘さと亜里咲の思いがけない優しさに力をもらい、私は深呼吸すると、次々と印刷されていくポスターをまとめて運んだ。
翌日もまだ入浴剤事件の余波は続いたものの、大きなクレームも発生しなかったため、後は営業担当が持ち帰った入浴剤の数をチェックして報告し、広告代理店に代わりの商品と交換してもらうことになった。年度末が近づいているので在庫がありすぐに入荷できるものをリストアップしてもらったので、急ぎ決めて上司の判断を仰がなくてはいけない。
まずは返品する数を確認してから。
今日もお昼を食べている時間はないか……。
小会議室に山のように積まれた段ボールの中身と店舗名をチェックしていると、ノックと共に段ボールを抱えた亜里咲が顔を出した。
「町田さん、お疲れさまです。これ、私の店舗分です」
「お疲れさま、重かったでしょう? そこに置いておいてね」
「はい」
「あと、昨日のチョコ本当にありがとう。力が出て頑張れたよ」
これ以上新人に心配をかけてはならない。
笑顔でそう言うと、亜里咲は少し口をとがらせた。
「もうため息、つかないんですか?」
「え?」
「町田さんが今日もため息ついているかなと思ってチョコ持ってきたんですけれど、いらないですか?」
そう言ってポケットをまさぐり、開いた手にはまたチョコレートの赤い包みがあった。
「今日もくれるの?」
驚いて尋ねると、亜里咲は私から視線を外して言った。
「こんなこと言っていいのかわからないですけれど、町田さんっていつも笑顔で仕事こなしちゃうパーフェクトな人だから近寄りがたかったんです」
――近寄りがたい。
まさか、そう思われていたなんて。
むしろ親しみやすさが私の売りだったのに。
軽くショックを受けている私に気づかず、亜里咲は続けた。
「でも、昨日初めてため息をついているのを見て、こんな私でも励ませることがあるかもって嬉しかったりもして……だからまたため息ついて欲しい、です」
「ため息、ついて欲しい……?」
早口で亜里咲が言った言葉をうまく消化できないでいると、彼女がチョコレートを持った手をぐいっと伸ばしてきた。
「ありがとう……、じゃ、今日もいただきます」
戸惑いながら受け取ると、亜里咲がにこっと微笑んだ。
「町田さんがため息ついていたら、またチョコ持ってきますね。私、見ていますから。それじゃ、失礼します!」
若々しい声と共に亜里咲がドアの向こうに消えた後も、私はチョコレートの包みを持ったまましばらくぼんやりとしていた。
見ているって、私を? 鈴木さんが?
いつの間にか握りしめた手のひらで、チョコレートが柔らかくなりかけていた。
……このチョコ、食べていいのかな。
いいんだよね、だってまたため息ついていたらくれるって言ったんだもん。
職場でため息をつくのはマナー違反だと新人の頃に先輩に注意されて気をつけていたけれど、あの子はそれが嬉しいって言ったんだもん。
思い切って包みを破って口に放り込んだチョコレートは舌の上で瞬く間にとろりと溶けたけれど、濃厚な甘さと亜里咲の言葉はいつまでも私から消えなかった。
つづく。
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