ミッドナイトブルーに別れをつげて

雨谷結子

ミッドナイトブルーに別れをつげて

 世界がひっくり返ったその日、あたしはパンパンになったごみ袋がふたつ転がった1DKのアパートで、泥のように眠っていた。

 たまの休みはいつもそう。

 新卒で入社した小さな自動車販売会社はいわゆる家族経営で、労働基準法などない世界線に存在していた。昨日も、窮屈なパンプスを脱いだのは日付が変わってから。残業代という形而上の概念はない。随分前に書いた退職願は、日付の部分が空欄のまま、引き出しの中で埃をかぶっている。辞めよう辞めようと思っているうちに二年の月日が経っていた。

 あたしはくちゃくちゃのシーツの上で目覚めると、寝ぼけまなこを擦りながら休日のお決まりのルーティンを開始した。スマホのおやすみモードを解除。だらりと壁に寄りかかって、ツイッターのアプリをタップする。まるで、海の底に沈んでいくみたいにベッドが軋み、ゴォって押し寄せてくる情報の洪水に身を任せる。その一連の儀式を飽きもせずに毎週繰り返しているのは、そうすれば職場の人たちの顔を思い出さなくて済むからだ。

 あたしのタイムラインは趣味も愚痴もごった煮で、いつも闇鍋の様相を呈している。なのに今日は、妙に深刻な安否確認のリプライばかりが電脳世界を飛び交っていた。

 トレンドを埋め尽くしているのは、奇怪な文字列。急性不死化感染症、世紀末、噛みつき、殺人の定義、緊急出動、生存者グループ、バール最強、極めつけは、ゾンビに酷似。

 まだ真昼間なのに、みんな揃いも揃ってゾンビ映画の放送でも観ているんだろうか。

 正直、グロいのは得意じゃない。だけど昨年、ふらっと入ったレイトショーで観たゾンビ映画『バーズ・オブ・ザ・デッド』は別だ。主人公は、ブラック勤めの社会に疲弊しきった自己肯定感の低いOL・鷦子しょうこ。彼女がゾンビ化したクソ上司たちを金属バットでぶっ飛ばしていくという単純明快なストーリーだ。その実、クライマックスでこの物語がただの痛快エンタメではなく、ぼろぼろでみっともない大人の成長譚だと判明する。そんな現代に蔓延る社畜のための映画は、日本でゾンビ映画はヒットしないというセオリーを破って、昨年の興行成績三位にランクインした。

 あたしは鷦子様に感情移入しまくって、映画館でガチ泣きした。もっともあたしが鷦子様に感情移入するなんて恐れ多いので、そんなツイートはしなかったけど。こんなふうにゾンビ世界になったらあたしだって、退職願どころか退職届を叩きつけて世界に中指立ててやるのに。そう妄想するのは楽しかった。

 そんなあたしが、推し映画布教の大一番である地上波初放送の日にちを忘れるなんてありえない。このトレンド群のへんてこさには、もっと別のわけがあるはずだ。

 なんだか理解不能なトレンドを追うのが面倒になって、あたしはのそりと起き上がった。

 閉めきったミッドナイトブルーのカーテンからは、ほとんど陽が射し込まない。ストライプ模様はまるで、なにかの檻のようだった。真昼間なのに夜の延長線上じみた、もったりと空気のよどんだベッドルーム。

 先週、あたしの家に転がり込んだ古い友達は、あんたの名前に似合わないねと笑った。あたしの名前の由来は、朝告げ鳥なんて言われるヒバリから取ったものだったから。

 だけどね、とあたしは一週間遅れで弁解する。それは逆というもので、あたしという人間が名前に似つかわしくなくなっちゃったのだ。

 寝室を出たところで、外から辺りを劈くような悲鳴が聞こえた。女の人のものだ。それも聞き覚えのある。たぶん隣の隣の部屋に住んでいる、香山さん。次いで、なにかを争うような物音も聞こえてくる。壁が薄い安アパートだからって、いくらなんでも聞こえすぎだ。つまりそれくらい常軌を逸した事態が起きたってこと。

 あたしは反射的に玄関の扉に駆け寄りかけて、なにかの予感に駆られてもう一度スマホに目を落とした。トレンドをタップして、ニュース映像を眺める。

 それは要約すれば、ゾンビ・パンデミックが世界で同時多発的に起こったらしいということだった。

 ハリウッド映画でも、『バーズ・オブ・ザ・デッド』でもなく。現実のものとして。

 「は?」って乾いた笑いがこぼれる。だってありえない。だけどいよいよ隣の田中さんちの窓ガラスが割れる音がして、あたしは考えるよりも先に防災リュックを手に取った。右手には、登山好きのお父さんからもらったサバイバルナイフ。当時は何に使うのって馬鹿にしたけど、多分今に使いどきがくる。そんな確信めいた予感がする。逸る呼吸と空気を震わせるような心臓の鼓動とは裏腹に、あたしが玄関を飛び出す直前に思ったのは、「もう会社行かなくていいんじゃん」だった。




 遠くの方で、午睡にまどろむように寄せては返す波の音がしていた。潮のにおいはあんまりしない。たぶん、あたしたちの誰もがもっときついにおいを放っているからだと思う。

「湘南の海が、沖縄の海みたいにエメラルドグリーンに見えるんだって。こうなる前のニュースで見たんだ。円石藻えんせきそうっていうプランクトンのせいで白潮が発生したって」

 ささめくように、知念くんが言う。知念くんは、地味を絵に描いたみたいな男の子で、東京の大学に通う沖縄出身の大学院生だ。専門は琉球文学。物腰柔らかで、発言の端々に知性が滲み出ていて素敵だけど、このポスト・アポカリプス後の力が物を言う世界では、ちょっと頼りなくも見える。

「ふうん、沖縄って行ったことないや」

 円石藻とか、プランクトンとか、白潮とか、はっきり言ってこうなった世界じゃなんの役にも立たない。無用の長物だ。でもそう言うときっと知念くんはそうだねって悲しそうに笑うから、あたしはなにも言わない。

 ここは、相模湾に面する倉庫街。窓には板が打ちつけられ、光は射さない。いうなれば、あたしのミッドナイトブルーの部屋の拡大版。閉塞感ってものを煮詰めてみたらこうなるって感じ。それがあたしの日常でもあったけど、今はシュワッとした清涼飲料水が恋しい気分。

 なんであたしがこんなところにいるかっていうと、自宅をサバイバルナイフ一本で脱出して早々、スーツのおっさんゾンビに襲われかけて、たまたま車で通りがかったこの生存者グループに救われたからだった。

 それからもう、十日くらい経っただろうか。あたしたちは死に物狂いの逃走劇を演じ、仲間を六人も喪ったけれど、それでもついにこのゾンビのいない楽園を勝ち取った。

 食品メーカーの倉庫だったらしく、幸い食料には困らない。そういうわけで、あたしたちは自衛隊が救出にきてくれるまで、ここで息を潜めて籠城を決め込むことにしたのだ。

 ネットも電話ももはや通じなくて、時代遅れに見えたラジオだけが、今あたしたちと外界をつないでいる。といっても、役に立つ情報はほとんどなく、まだ死霊のえじきになっていないらしい官房長官が、いつかみたいにステイホームをしきりに繰り返していた。

「ひばりちゃん、腰、マッサージしてくれない?」

 南野さんの、営業マンらしい溌溂とした声があたしを呼んだ。南野さんはこの生存者グループのリーダーだ。若干三十五歳で上場企業の課長さんに抜擢されたバリバリのエリート。休みは一日ごろごろ過ごすあたしとちがって、スポーツジムに欠かさず通っていたとかで、ゾンビ殺しの腕も一級だった。

 あたしはへら、と笑って南野さんの近くに寄る。取り巻きの屈強な男性陣のなかで、あたしは異質だ。ゾンビ討伐レコードはたったの一体。このコミュニティでは役職や年の功じゃなくて、戦闘力によって格付けが成されるから、実質あたしはお荷物だ。

 そんなあたしが南野さんから気に入られているのには、別の理由がある。

「うわ、そこダメだって。ひばりちゃん。ヘンな気分になったら責任取ってくれるの?」

 南野さんはそう言って、あたしの右手に湿った指を這わせた。取り巻きの老いも若きも入り混じった男たちがドッと笑う。

 はっきり言ってノリがキモい。うるせーよ、こんな世紀末にまで性欲振りかざしてんじゃねぇよ、ゾンビに股間喰われて死ねって思ったけど、それは一文字も声になることはない。

「ひばりちゃん?」

 当然のようにあたしの脇腹をうぞうぞする芋虫みたいな太い指に、口角が引き攣る。

 だけど縁日で売ってるお面になった気持ちでスマイルを貫きとおした。全然まるで一ミクロンも笑えたもんじゃなかったけど、「もうやだぁ、やめてくださいよぉっ」っていう南野さんが望んでいるであろう台詞つきでへらへらっと笑ってさえ見せた。

 もはや習性だ。処世術と言い換えてもいい。

 あたしは会社で、合コンで、いつだってこの顔をつくってきた。他の若い男性社員が誰もやっていないのに、なぜか毎日毎日コーヒーを重役の皆々様に淹れてさしあげて、男子トイレの便器掃除まで“自主的に”やってさしあげているときも、合コン帰りに彼女もちを公言している男にお持ち帰りされたときも。

 波風立てないように、誰かの顰蹙を買わないように。あたしみたいな取り柄のない女が存在しても、赦されるように。役立たずの烙印を押されて追放になり、臓物をぶちまけて一人ぼっちで死ぬよりは、あたしってクソ女だと自虐しながらつまんない人生を生きる方がましだと思えた。




 あたしたちの籠城戦に転機が訪れたのは、それから二日後の早朝だった。ブォォォン、っていう怪音が、倉庫の前で止まった。

「バイクの音? バイクにゾンビが乗ってるはずないですよね? 生存者かも」

「そうだねえ。でも、念には念をだ。おい役立たず、偵察してこい」

 南野さんはあたしに対するものとは桁違いに居丈高に知念くんに命じた。知念くんはここ数日、南野さんとその取り巻きの横暴な振る舞いに盾突いていて、セクハラについても諫めてくれちゃったりして、それで彼らから嫌がらせを受けるようになっていた。

 でも嫌がらせにも限度がある。これは、一歩間違えれば死ぬかもしれない事態で、好き嫌いがどうこうの話じゃない。

 なんて倫理を説いたところで、権威に味を占めた南野さんにはなんにも響かないのは目に見えていた。そもそもあたしにそんなふうに吠えるための爪も牙もない。

「あたしも付き添いで行ってきますね。ほら、トラブったとき、ちゃんと倉庫のドア閉めなきゃいけないし」

 あくまでもとろい知念くんじゃなくて、このグループの安全を心配してるんですよっていう体で、あたしはへらりと言った。南野さんたちも、いくらあたしでも倉庫の非常用扉を閉めるくらいのお遣いはできると思ったのか、まあいいだろって感じで顎をしゃくる。

 あたしは知念くんのひょろ長い影法師を踏みながら、後をついて行った。

 知念くんの手には、鋭利なバール。もっとも、バールの先っちょはまだ血糊も肉片もくっついていなくて、新品そのものだった。一方あたしの手には、一度どす黒い血でべちゃべちゃになったサバイバルナイフ。ちゃんとお父さんの言いつけを守ってすぐに手入れしたから、まだ使える。でももう、未使用時の白銀のいっそ神々しい排他的なきよらかさは見いだせない。ゾンビアポカリプス初期、ツイッターで“殺人の定義”がトレンド入りしたことの意味が今頃になってよく理解できた。

日晴ひばりさん。ごめんね、巻き込んで」

 いたわりに満ちた声が耳にするりと入り込む。聡明な知念くんは、あたしの浅はかな考えなんてとっくのとうにお見通しだった。知念くんは南野さんたちの不興を買ってまであたしを庇ってくれたのに、あたしはせこい援護射撃しかできない。そもそも援護射撃になっているのかも謎だけど。

「ううん、ゾンビの可能性は低いもん。知念くんが黙って従ってるくらいだし」

 知念くんはちょっと照れくさそうに笑った。

「彼らに知能はない。もしここに来たとしても、ただ破壊することしかできないはず」

 知念くんは、連中のことをまだ『彼ら』と呼ぶ。まるで連中が、あたしたちと同じ人間の殻をとどめているみたいに。

 こめかみがじくじく痛みだす。あたしはそれに気づかない振りをして、先を急いだ。

 非常扉上部の緑の誘導灯は、電池切れ間近なのか、死に急ぐ蛍みたいに鈍く明滅している。あたしは汗ばんだ掌をパーカーの腰の辺りで何度も拭って、それから知念くんを見た。

 知念くんは涼しい顔で人差し指を口元に当てる。ウチナーンチュらしくない地味顔だけど、なんだかそのしぐさは様になっていた。

 でもあたし、冷静になれ。よくよく考えてみれば、知念くんってば一個下だし、そもそも知念くんのゾンビ討伐レコードはあたし以下、つまりゼロだ。もしこの非常扉の外でゾンビさんとこんにちはをしたら、あたしがこの純情無垢な男の子を守らねばならんのだ。

 あたしはかつてなく気合を入れて、ナイフを握りしめた。ゾンビ撃破法は、数多のフィクションと同じでただひとつ。頭部の破壊だ。

 知念くんが慎重に内鍵のつまみを回して、扉に手をかける。キィ、という軋み音がして、眩い光の洪水が視界を焼いた。

 そこには女の人が立っていた。全身血まみれで、顔にまで血飛沫が飛んでいたけど、ひと目見てゾンビじゃないと分かった。それくらいの、生の輝き。彼女の黒々としたふたつの目は尋常じゃなく、この世界の不条理に抗っていた。

 短く切り揃えられた黒髪が午後の強い日差しを照り返す。飾り気のないベリーショートだから余計に、端正な造形が際立って見えた。

「群れが来る」

 彼女の言葉は簡潔だった。気だるそうに背を大型バイクのシートに凭れながらも、手にはクロスボウが握られ、バッグからは血まみれのスパナとバールが飛び出している。腰のあたりに提げられているのはたぶん、ナイフかなにかだろう。完全武装の構えだ。

「群れ?」

 聞き覚えのない言葉に、あたしは知念くんと顔を見合わせた。

「それってゾンビの群れってことですか?」

「そう。奴らここ一週間以上、群れを増やしながら南下してる。陽が沈まないうちにここを離れたほうがいい。秦野の百人規模のグループもみんなやられた」

 女の人は、つっけんどんな物言いとは裏腹に、丁寧に言葉を重ねた。

 それで事の深刻さが腑に落ちる。

「あたし、南野さんグループの春野日晴っていいます。曜日の日に晴れって書いて日晴。ひばりって呼んでください。こっちは、知念ゆうくん。あなたは?」

「……白鶯はくおう小夜 さよ。グループには入ってない」

「えっ」

 思いがけず大きな声を出してしまって、あたしは慌てて自分で自分の口を塞いだ。

「ひとりなんですか?」

 だって、せいぜいあたしの一個か二個上くらいに見えるのに。それに小夜さんのバイクには、ふたり分のヘルメットが無造作に括りつけられていた。ひとりにしては妙だ。

 小夜さんはしばらく謎の沈黙タイムを設けたあと、「その方が楽だからね」と平坦な声で言った。

 あたしは小夜さんを自分のグループに誘おうか迷って、結局口を噤んだ。こんな綺麗な女の人はいかにも南野さん好みで、彼女があの人たちのしょうもない毒牙にかかるのが反吐が出るくらいに厭だったから、というのは建前に過ぎない。あたしのここでの特権をいとも簡単に掠め取られそうで怖かったのだ。

 あたしのこのグループでの存在価値は女であること。ここに至っても、あたしの思考は薄汚い。ゾンビが溢れかえろうがかえるまいが、どうしたって世界に中指なんか立てられない。

 地球規模でゾンビワールドになったのが嘘みたいな青天が広がる昼下がりに、あたしの心はいまだミッドナイトブルーの息苦しさで溺れ死にそうな1DKに取り残されている。

 あたしは取り繕うみたいに、小夜さんと呼びかけた。

「ありがとうございます。知らせてくれて。ヒーローみたいですね」

 とってつけたような言葉になっちゃったけど、これは本心だ。

 あたしだったら、見ず知らずの他人のためにこんな危険は冒せない。

 小夜さんは酢を飲んだような顔をした。

「日晴さん。これ、これ」

 見かねた知念くんが菓子の袋をたくさん差し出してきた。なるほど、知念くんは用意周到だ。情報のやりとりも想定して、貢物まで準備してきていたらしい。それに比べてあたしの「ヒーローみたいですね」って小学生か。

 あたしはお大尽様に年貢を献上するみたいに、へへーって頭を垂れながら、小夜さんにポテチの袋を差し出した。

「あんた、私の話、額面通り受け取んのね」

 小夜さんが苦笑して、それを開封する。泥塗れの指先がポテチを摘まんで口に含んだ。その唇には真っ赤な紅が刷かれている。マットな質感の、強い女の象徴みたいなルージュ。映画で鷦子様がつけていたのによく似ていた。

「え、今の話嘘だった?」

「そうじゃないけど」

 小夜さんは説明が面倒くさくなったのか、知念くんを横目で見た。心得たように知念くんが言葉を引き取る。

「もしかしたらこの場所を奪い取るための策略かもしれないってこと。実際、生存者同士の縄張り争いも起きているらしいよ」

「……そんな」

 あたしはなんだか、かつてなく凹んだ。あたしたち人間は、いつだって醜い。世界の終末ですらも。

 そもそも知念くんはなんでそんなことを知っているんだろうと思ったが、そういえば彼はいつだかお巡りさんゾンビと交戦した際に、無線を奪い取っていたのだった。

「まあ僕も、小夜さんが嘘を吐いているとは思えないな。なにしろ日晴さんがすぐに信頼するくらいだから」

「なにそれ」

 あたしが目を真ん丸にして驚いていると、知念くんは、ふはってちょっと少年じみた笑みを見せた。知念くんが歯を見せて笑うなんて驚天動地の大事件だ。

「日晴さんは、人を見る目があるってこと。それに情が深い」

「それはないよ。だって――」

 あたし、自分可愛さに小夜さんのことをグループに誘いもしなかったのに。その言葉は情けなさすぎて声にならなかった。知念くんはまるでなにもかもお見通しみたいに菩薩のような顔をして、小夜さんをちらりと見る。

「きっとね、これからもっと、人が人を信じられないような荒んだ世の中になる。だけど、日晴さんが僕や小夜さんに差し出してくれたものは、変わらないでいてほしいなあって、勝手かもしれないけど思っちゃうよ」

 知念くんの言葉の意味はあたしにはよく分からなかった。小夜さんはその切れ長の眸を引き絞って、どこか遠くを見つめる。見通しの悪い倉庫通りに特別焦がれるようなものはなにもない。あたしは小夜さんに見えているものが知りたいなって漠然とただ思った。

 そうしてあたしは今度こそ、小夜さんをグループに誘った。返事はすげないものだったけど、あたしはその結果にほっとするどころか、何故かちょっと落ち込んだのだった。



 果たして、小夜さんのありがたい忠告に対して、南野さんたちは知念くんが危惧していたとおりの反応を示した。

「信用できないな」

 南野さんは、開口一番そう言った。

「ゾンビどもが群れるなんて情報はどこからも入ってきていない。それより喜べ。朗報だ」

 いわく、急性不死化感染症罹患者――いわゆるゾンビ――の捕獲チームが自衛隊を中心に編成され、明日にも出動の見通しだという。

「なのにそんな不確かな情報で動いてみろ。奴らの縄張りにでも迷い込んで犬死にするのがオチだ。救出を待つのが賢い。だろ?」

 南野さんの取り巻きが口々に同意する。

 南野さんがこんなに自信満々なのは、ゾンビの超人的な嗅覚や聴覚が、この相模湾一帯では潮の薫りと波風によって、さほど脅威ではなくなるからだった。事実ここ数日、このエリアは全くゾンビの襲撃を受けていない。

 それに人は、一度ひとところに収まるとずるずるといつまでも現状維持したくなっちゃうものなのだ。あたしのミッドナイトブルーの部屋に置き去りにした、退職願みたいに。

 だけどもう猶予はない。南野さんたちを置いて出ていくか、それとも一緒に脱出を果たすかだ。正直南野さんたちのことは嫌いだ。でも悲劇を予感しているのにさっさと見棄てて出て行くわけにもいかない。だってそれは、あたしがあたしでないものになくなる気がする。迷った挙句、北の偵察にでも行って状況をこの目で確認してこようと決心したときだった。

 なにかが叩きつけられるような嫌な音がした。呼吸一つ分置いて、また重く鈍い音。ずる、ずちゃ、と鈍くなにかが外で蠢いている。

 あたしは一瞬、呼吸の仕方を忘れた。誰かが生唾を飲み込む音が、静寂の中に耳障りに落ちる。直後、かりそめの平穏が砕け散る音がした。暗がりそのものだった倉庫内に光が射す。東の窓が破られたのだ。窓からぼてっと落ちてきたなにか黒々とした人であったものの成れの果てが、のっそりと起き上がる。ゆうに百メートルは離れているのに、炎天下に放置された生ごみみたいな腐臭がした。

「ギャアアアアァ!」

 一目散に非常扉に向かったのは、南野さんだった。だけど呻き声がして、そこから十体以上のゾンビが雪崩れ込んでくる。

 南野さんが金属バットをぶん回してゾンビを三体撃破した。だけどそれも長くはもたない。取り巻きのおじさんのひとりが、断末魔を上げて床に倒れ込んだ。そこにゾンビが五体も六体もむしゃぶりつく。臓物が引き出されて、一気に鉄錆のにおいが充満する。

 あたしはいったん山のように積まれた段ボールの上に飛び乗って、知念くんを引き上げた。周囲を見渡す。正面のシャッターがガタガタ言っていた。あそこが破られれば今とは比べ物にならない数のゾンビが押し寄せてくる。西の窓は沈黙を保ったままだ。だけどあそこに打ちつけた板を剥がしている間にやられる。東の窓は身長が足らないからまず台を用意しなければならず、小柄なあたしや知念くんには不利だ。残る手段は、今一番のゾンビ人口を誇る非常用扉しかなかった。

「僕も賛成。背中は任せて」

 阿吽の呼吸で知念くんが応える。あたしはサバイバルナイフ片手に段差を飛び降りた。

 一体目の額をぶち抜き、二体目を膝蹴りで追いやり、三体目を鼻っ柱から突き上げる。返り血に人肌の温みはもはやない。あるのはただ、噎せ返るような死臭だけ。あたしは無我夢中で戦い抜いた。後ろの知念くんはゾンビ撃破レコードゼロだったのが信じられないくらい的確に急所にバールを突き刺していく。

 非常用扉はもうすぐ手前だった。

 外へと縺れるようにまろび出る。横から飛び出してきた消防士ゾンビにナイフを突き立てる。すぐにその屍を蹴り倒してナイフを引き抜き、続けざまにランドセルを背負った女の子の頭蓋を砕く。同じように応戦する知念くんはなんだか、泣き出しそうな顔でそれでも懸命にバールをぶん回していた。

 絶望的に見えた生存者は他にもいたらしく、すぐ傍でエンジンがかかる。乗用車が脇目もふらずに猛スピードで発進した。

 辺り一帯、ゾンビの群れに囲まれていた。小夜さんの想定よりも早く群れが到着してしまったようだ。車でなければ逃げきるのは難しい。残るは軽トラ一台。振り返れば南野さんとあと二人、生存者がいた。一人が運転席に滑り込み、南野さんと塩田さん、そしてあたしと知念くんが軽トラの荷台に飛び乗った。

 あたしと南野さんが必死で食らいついてくるゾンビをもぐら叩きの要領ではたき落とし、軽トラが急発進する。

 腐臭が薄れ、気持ちのよい風がバリバリになった髪を巻き上げた。助かった、と安堵の息が漏れた、そのとき。

 聞き覚えのある獣じみた唸り声が、間近で響いた。あたしは意味が分からなくて、束の間フリーズする。

 いの一番に我に返ったのは南野さんだった。

「塩田だ! 噛まれてる! 殺せ!」

 そう言って、荷台に転がったバールを取ろうとする。だけど塩田さんのほうが早かった。唸り声が轟き、土気色の顔が牙を剥く。南野さんと塩田さんの間にはあたしがいて、あたしは南野さんに蹴り出された。生贄みたいに。

 物凄い力で肩に掴みかかられて、生臭い吐息が絡む。人生最期なのに、あ、ダメだこりゃなんてそんなお間抜けなことを思った。

 ――そうであるはずだったのに。

 いつまで経っても痛みが襲ってこない。恐る恐る、薄目を開く。

 生温かいものが肩を伝っていた。あたしの血じゃない。震える顔をのろのろと上げれば、知念くんの嘘みたいに綺麗な横顔があった。

「ちね、……く、……。うで、が――」

 それきり、言葉にならない。

 知念くんの右腕は塩田さんに噛みちぎられていた。知念くんはそんな状況でも冷静に、バールを塩田さんの額に突き刺す。

「そんな顔、しないでほしいな」

 彼は緩慢なしぐさであたしを見た。淡い、透きとおるような笑みが立ちのぼる。

「僕は日晴ちゃんに出逢えてすくわれたよ。うだつのあがらない、文系院生の僕の話なんか、こんな世界になる前だって誰もまともに聞いちゃくれなかったのに、君はいちいち真面目に聞いてくれたね」

 ちがうよ、と言いたいのに舌が貼りついて声が出ない。

 あたしが知念くんの話に耳を傾けたことに、ここまでしてもらう価値はない。

 あたしはただ、知念くんに嫌われたくないだけだった。自分にひとつの価値も見出せないから、せめて誰かに好かれていることであたしの存在意義をたしかめていただけだけだった。つまらない、この世でいちばんつまらない人間だって、自分だってわかっている。

「だから日晴ちゃんの傍にいたいなって思って、こんな結末を望んじゃいなかった。……だからこれを呪いになんかしないって約束してくれる?」

 知念くんはそう言って膝立ちになる。西日に照らされた顔は青ざめていたけれど、まだ知念くんの魂はたしかにここに存在していた。

「……あーあ、でもせっかくなら、せめて湘南の海が見たかったなあ」

 そう言いながら海の方を見晴るかす。海は見えない。林立する建物の隙間に、ほんの一瞬、水平線がきらりきらりとひらめくだけだ。

 あたしは顔をくしゃくしゃにして知念くんに縋った。その肩をそっと押される。あたしは呆気なくその場に尻もちをついた。

「ずっとずっと、君はここではないどこかに行きたくて、自分ではない何者かになりたくて藻掻いていたね。僕とあんまりそっくりで、目が離せなかった」

 そんなわけない。

 だって知念くんは、こんな馬鹿みたいな世界になっても、円石藻だのプランクトンだの、白潮だの、そういうものの価値を見失わなかった。ゾンビを人扱いした。

 あたしだってもう、本当は気づいている。それってほんと、すごいことだよ。人間が人間である証ってたぶん、そういうことだ。役に立たないものに、心を砕けることだ。どうしようもなくなってしまったものに、心を寄せられることだ。

 あたしはたぶん、あなたがいたからこんな世界でぎりぎり人でいられたんだよ。

「だからね、もし最期の言葉を言うならこれがいいって決めていたんだ」

 知念くんは、斜陽にとけおちるようなまろみのある声で続ける。

 それからついに思いいたったように立ち上がった。後ろにたたらを踏んで、背中から道路にゆぅらりと投げ出されていく。

「いってらっしゃい、日晴さん。君は、どこまででも飛べる」




 軽トラは、あたしと南野さんと、塩田さんの死体を乗せて走る。すぐに海岸線沿いに出て、左手に海が見えてきた。あたしはぼんやりとその橙色に燃える紺碧を眺めながら、「湘南の海は今はもう、エメラルドグリーンじゃないみたい」と呟いた。それを伝えたい人は今、あたしの隣にいない。

 あたしはひらりと立ち上がると、運転席との境にある柵を掴んで、大きく声を張った。

「止めてください」

 軽トラがゆるゆると停車する。振り返れば、ゾンビの群れはもうずっと遠くにいた。

 あたしはナイフを手に荷台から飛び降りる。

「お、おい」

 ひどく不愉快な、ミッドナイトブルーの残響がした。あたしは振り向きもしない。

 あの、鳥籠じみた青ぐろい部屋に、ぬくぬくとぬくまりつづけるのはもうやめた。

 あたしはもうあたしを粗末になんかしないし、誰かさんに言われたからじゃないけれど、南野さんみたいな人がこの世にいるんだなってちょっと世界に絶望したくなったりしても、だからって心を手放さない。そういうふうに生きる。あたしのことだからきっとまた、何度だって立ち止まってうじうじするに決まっているけど、そう決めた。決めたんだよって叫ぶ。もうここにはいない、だけどたぶんこれから先ずっと、一緒に歩いていく人に。

 海岸線沿いの防波堤の上をあたしは一本橋を渡るみたいに歩く。波頭がテトラポットに砕け散って、宝石めいた飛沫が海に散らばる。

 やがて、ブオォォォンっていう聞き覚えのあるエンジン音が響いた。夕焼けにしなやかな身体を染めて、長い影が伸びている。でも、夕焼けよりもその唇の紅のほうがなお赤い。

 白と黒のツートンカラーの、車高の低いレトロなバイクの燃料タンクには、“DRAG STAR”と金字で刻まれている。それはよくよく思い返してみれば、映画で鷦子様が乗り回していた相棒だった。

 小夜さんは、一瞬辺りを見渡した。けれど、おそらく気づいたであろう事実には言及せずに、ただ咲き初めるように眸がたわんだ。

 ヘルメットが美しい放物線を描いてあたしの方に飛んでくる。小夜さんの分の他にもうひとつ、バイクに括りつけられていたやつだ。

「どこに行きたい?」

 小夜さん――いや小夜の言葉は出逢ったときと同じで簡潔だった。

 どこだろう。あたしは考える。どこにでも行ける。だけどまずは。

「沖縄の、海が見たい」

 小夜は、ばかじゃんと笑った。でも、あたしの言葉を否定はしない。

 あたしは小夜の腰にしがみつく。

 バイクが西へ西へと走り出した。

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