大切、ってどういうこと?

夕目 紅(ゆうめ こう)

大切、ってどういうこと?

「ねえ、大切、ってどういうこと?」


 丁度ハンバーガーを頬張ろうとした瞬間彼女がそう尋ねてきた為、僕は空腹を堪えながらハンバーガーをトレイに戻した。

 先に食べてから話せばいいと思うかもしれないが、彼女は自分が話しかけたらすぐ返事をして欲しいという不思議で厄介な癖を持っていた。もちろん普段はそれをきちんと抑えているのだが、僕の前ではそんなことはせず、自分がきちんと何よりも優先されないとすぐさま怒り出す。そして彼女の機嫌を直すのに、必死に頑張って二時間はかかる。代償は、とても大きい。

 僕は蛍光灯の光に照らされ、コーラを悠々と飲んでいる彼女をしっかりと見つめてから、そうだなと一拍置いた。


「大切、っていうのは、失いたくないと思うもの、だろうな。それを失っても死んだりはしないんだけど、とても悲しい気持ちになる」

「私は私が今飲んでいるコーラが無くなったらとても悲しい気持ちになる。私にとってコーラは大切なもの?」


 うーん、と僕は唸った。それはちょっと違うかなと答えると、でも大切だよ、と言ってから彼女はまたコーラを啜った。

 辺りは人で溢れており、騒々しく、日常性に溢れていた。様々な人の会話が聞こえるが、その中でどれだけの人がどんな話をしていることだろう。少なくとも僕達のような話はしていないだろう。ハンバーガーを食べるのを我慢している男の子やコーラを大切なものだと言う女の子も、きっといないだろう。

 僕は頭をぽりぽりと掻き、じゃあ訂正しよう、と告げた。空腹でうまく回らない頭をフルに活用し、別の言い方を模索した。


「それは量産できない、唯一無二のもの。失ってしまったらもう戻ってこない。だからとても悲しい気持ちになる」

「確かにコーラは量産品だね。頼もうと思えば、いくらでも頼める」

「その通り。だからコーラは大切なものには含まれない」

「この世界で私の為だけのスーパーコーラがあれば、それは私にとって大切なものになるのね」

「……まあ、そうだな」


 僕は呆れて首を竦め、それからハンバーガーを手にし、口を開いた。

 ハンバーガーが半分程口の中に入った。しかし彼女がくるくると髪を指に巻きつけながら、じゃあさ、と言った為、心の中で激しく涙しながらハンバーガーをトレイに置き直した。


「全国にあるこのお店から選りすぐりの一流シェフを呼んで、その一流シェフが私の為だけにスーパーミラクルエックスコーラを作ってくれたとしたら、そのコーラは大切なものになるのかしら?」

「……スーパー、何?」

「スーパーミラクルエックスコーラ」

「……大切なものになるんじゃないかな」


 僕の言葉に、彼女は可愛らしく小首を傾げ、人差し指を唇に当てた。


「でもスーパーミラクルエックスコーラは、材料さえあればもう一度作れる。つまり、唯一無二では無い」

「……そうだね」

「私にとってスーパーミラクルエックスコーラは大切では無いの?」


 僕は再び唸り声をあげ、考え込んだ。

 スーパーなんたらコーラは確かに唯一無二ではないが、もしそれが本当に存在するのなら、大切なものになるのだろう。もし僕がそんなものをもらったなら、やはり多少なりとも大切さを感じると思う。しかし、どうして大切に思えるのだろうか。

 僕はぼんやりと考え続け、空腹から若干滞っている思考回路を強制的に直すように自分の頭を叩いた。もう一度叩き、それからコーラを飲み続けている彼女を見た。


「訂正する。唯一無二じゃなくて、希少性、としよう。君の為だけ、というのが、大切に思える証なのさ。もちろん唯一無二だって希少価値があるということ」

「定義の幅を広げたのね」

「うん」


 彼女はなるほどと呟いたが、どこかしか引っかかるようで、唇に人差し指を当てたまま、宙を見つめていた。

 僕が素早く口に運べるポテトに手を伸ばそうとすると、まるで狙ったかのように彼女は言葉を続けた。


「でも、さ」

「……何?」

「普通のコーラだって店員さんが私の為だけに作ってくれるわけじゃない? だったら普通のコーラだって私には大切なんじゃないの?」

「いや、店員さんは君の為だけにコーラを作っているわけじゃない。君の為だけなら君以外の人には作らないわけだし、そもそも店員さんは君ではなく、客の為にコーラを作っているんだ。そしてその客の中に僕や君も含まれる」

「そうね」


 彼女は頷き、再びコーラを啜った。僕は掴んだままだったポテトを素早く口に運び、三本程を一気に噛み砕いた。

 幸せだ。何て幸せなことだろう。

 僕にとってポテトはとても素晴らしいものだった。おいしく、素早く食べられ、地味にお腹に溜まる。

 ふと、そこまで考えてから、じゃあ僕にとってポテトは大切なものなのだろうかという疑問が生じた。それからこれはまずい兆候だと思い、彼女のような突飛な思考法をしないよう、意識にメッセージを刻み付けた。

 僕は彼女の様子を伺いながら恐る恐るハンバーガーに手を伸ばし、掴む直前に深呼吸をし、それから素早くハンバーガーを手にした。

 しかし彼女は全く別の方向を見ながら、再び口を開いた。僕はハンバーガーを諦めざるを得なかった。やはり家で昼食を食べてくればよかった、と思った。しかし前に昼食を食べてから彼女の昼食に付き合った時は、何で一緒に食べないの、と怒られたものだ。代償はどう足掻いたって、変わりはしない。


「じゃあ、もしスーパーミラクルエックスコーラを五十人が飲んだとして、その中の一人に私や貴方が含まれるとしたら、スーパーミラクルエックスコーラは私のとって大切なものになるのかしら?」

「人数の問題だね。それは個人の価値観に左右される。君にとって五十人が飲んでいるという事実が、五十人しか飲んでないと思えるのなら、それは君にとって大切なことになるだろう」

「じゃあ私が何十億人も飲んでいるかもしれないノーマルコーラを、何十億人しか飲んでないコーラと思えるなら、私にとってノーマルコーラは大切になるの?」

「……ねえ、もうこの会話止めない?」

「どうして? ちゃんと答えてよ」

「……」


 僕は再び考えた。考える度にお腹が空く気がした。

 気が付けば周りの景色が若干揺らいでいる気がした。恐らく空腹のせいだろうと思い、いやもしかしたら僕にとっての現実逃避が無意識に始まっているのかもしれないと考え、僕は若干の焦りを覚えた。

 どうしよう。ファーストフード店にいながら空腹で死ぬなんてごめんだ。しかもハンバーガーが食えなくて死亡とか、情けなさ過ぎる。

 僕は早いところ彼女が納得のいく答えを出すべきだった。それしか道は残されていなかった。

 僕は脳の伝達速度を可能な限り速め、哲学的な問題に対峙するように、何十億人しか飲んでいないノーマルコーラの大切さについて思考を巡らした。


「そうだね……君にとって何十億人しか飲んでないコーラなら、君にとっては希少性があるということになる。物事の価値観は常に個人の中にしか存在しない。特に大切さなんていう価値観は、個人差の大きい問題だ」

「でも最初の話に戻るけど、コーラはいつだって頼める。量産出来る。でも何十億人しか飲んでないと思えるなら、どうなる?」

「……そうだな……希少性は量産性を上回る価値観、と見ればどうだろう。つまり例え量産品であろうと、そこに希少性を見出せるならそれは大切なもの、ということ」

「希少性と量産性は、対立する性質のように思えるよね?」

「人間は矛盾を抱えられるよ。なぜなら人間の思考は常に一面的だからさ。自分の中に量産性を作り出し、そして自分の中に希少性を作り出す。両者は対立するものだが、対立する為には思考のテーブルに二つの面を提示しなければならない。だが人間の思考が一面的である以上、それは不可能だ」

「私にとって今私が飲んでるコーラも結局大切なものなのだとしたら、私が今飲んでいるこのコーラとスーパーミラクルエックスコーラとの間に、そこまでの差異は無いのね。つまり、大切さこそがスーパーミラクルエックスなんだわ」


 彼女は自己完結し、嬉しそうに微笑むと、僕のハンバーガーをすっと取り、そのまま頬張った。

 あまりにも自然な動作だった為、僕は呆然とその様子を見つめることしか出来なかった。

 ハンバーガーが。僕のハンバーガーが……!

 僕はショックのあまり倒れそうだった。しかしそんなことで倒れてしまうわけにもいかず、ぼーっと彼女がハンバーガーを噛み砕くのを見つめていた。無意識の内に、言葉を漏らしていた。


「どうして……」


 彼女は少し驚いたように目をきょとんとさせると、ハンバーガーをごくんと飲み込んでから不思議そうに呟いた。


「何、貴方にとってこのハンバーガーは大切だったの?」

「……いや、大切とか大切じゃないとか、そういうんじゃないと思うんだけど……」

「大切じゃないんなら、別にいいじゃない。また買えばいいんだし」

「……わかった。こう言おう。僕にとってハンバーガーはとてもとても大切なものだった。失ってしまったせいで、僕はひどく悲しい気持ちになっている。どうしてくれるんだい?」

「たかがハンバーガーよ?」

「お前が言うな」


 僕が不満げにそっぽを向いて見せると、彼女はくすくすと笑って僕の頬に触れた。両手で僕の顔を挟み込むと、ぐいっと強制的に正面を向かせ、僕らは見つめ合うこととなった。


「ねえ、私思うんだけれど、大切ってことは、失うってことなのよ」

「失う?」

「そう。失ったって思えることが大切な証なの。私や貴方が、これが無くなるってことは失うってことだって思えるなら、それは私達にとって大切なものなのよ。それが例えハンバーガーやコーラであっても、それを失ったと思えるなら、それは大切なものなのよ」

「僕は、大切なハンバーガーを失った。とても悲しいよ。君は、その埋め合わせをするべきだと思う。僕に何をしてくれる?」


 彼女は少しぼんやりと考えていたが、やがておもむろににこりと微笑むと、素早く腰を持ち上げて顔を近づけてきた。

 そして僕らはキスをした。

 それは甘いキスではなく、どちらかというとしょっぱかった。恐らくポテトやハンバーガーの塩気が原因だと思われた。彼女の唇はひどく柔らかかったが、僕はしょっぱいキスという事実にしばし呆け、彼女の顔を見ているのかどうかすらうまく知覚出来ずにいた。


「これじゃ足りない?」


 彼女はそう言ってから再びコーラを飲んだ。彼女にとって大切なコーラだ。そして僕は大切なハンバーガーを失い、彼女からキスをもらった。

 しょっぱいキスだった。それでもキスはキスで、彼女は僕にとってとても可愛い人だった。

 僕は静かに首を横に振ると、テーブルに肘をついて彼女に尋ねた。


「ねえ、どうして僕のハンバーガーを食べたんだい?」

「大切だったから」

「僕のハンバーガーが?」

「貴方から奪ったハンバーガーが食べたかったの。とても希少価値があるわ。そうでしょう?」


 彼女はくすくすと笑い、飲み干したコーラを捨てに立ち上がった。

 僕は彼女の後姿を見つめながら一人静かに肩を竦め、彼女に聞こえないように独り言を呟いた。


「ねえ、失うことで得たと思えて、だから大切になるものもあるみたいだよ。君の言ったことは間違いではないけれど、どうやら完全な正解ではないみたいだ」


 彼女に聞こえないように呟いたのは、もちろん、また似たような話を繰り広げられてはそれこそ完全に昼食を食べる機会を失う。そう思ったからだ。代償はなるべく少ない方がいい。彼女と付き合っていると、いつだってそう思う。

 彼女はきちんと見返りをくれる。代償が少なければ少ないほど、僕はキスのおいしさをかみ締めることが出来る。それが例えしょっぱいキスであっても、彼女からのキスであることが僕にとってとてもスーパーなんたらエックスなのだ。

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