明智光秀は天海上人だったのか?徹底検証!

白狐姫と白狐隊

第1話 明智光秀は天海上人だったのか?徹底的に検証してみた!

人気大河ドラマ、麒麟が来たも終了しましたが、

今回は長年に渡って論争されている、

明智光秀=天海上人説について検証してみたいと思います。


まず考えなくてはならないのは、明智光秀さんの本能寺の変当時の年齢です。

明智軍記の記述だと、変の当時の年齢は数えの55歳、

当代記の記述だと67歳です。ここでは明智軍記に比べて信憑性の高い

記録と言われる、当代記の年齢であると考えて話を進めます。


天海上人が死んだのは寛永20年10月2日

(グレゴリオ暦1643年11月13日)です。

盛大な葬儀が行われたはっきりした記録があるので、これは間違いありません。

本能寺の変から既に61年余りが経過しており、光秀さんが当代記の

年齢だったとすると128歳、明智軍記の年齢だったとしても116歳になります。

太田牛一の信長公記には、信長が光秀の老体を労わる記述があり、

信長より相当年長なのはまず間違いないでしょう。

信長が死んだ時の年齢は数えの49歳ですから、

それから推察するに当時の光秀さんの年齢は50代後半から60代…。

これらの資料を見る限り、

彼が寛永20年10月まで生きていたとは考え辛いですね…。


さて、次はこの天海上人について詳しく見てみましょう。

東京の上野にある東叡山寛永寺…ここは天海上人の開いたお寺ですが、

天海上人の晩年、おそらく本人から口頭で聞き取ったと思われる

記録が残っており、それによると天海上人が生まれたのは

天文5年(1536年)とあります。本人から聞き取った記録としても、

108歳まで生きていた事になるので、当時としては驚異的な長寿ですが、

まあ、この年齢であれば可能性がないとは言えません。


この記録を詳細に見ると、天海上人は天文5年(1536年)陸奥国大沼郡

高田の生まれで、 彼は11歳の時に黒川稲荷堂の別当を務めていた

弁誉のもとで出家得度し、随風と号します。

その後14歳で諸国を遊学し、比叡山で神蔵寺の実全に師事、

園城寺(三井寺)にも赴き、同寺勧学院僧正尊実の元で学んだそうです。

その後、奈良の興福寺で法相・三論を学び、

足利学校でも四年間学んだ後、 天正元年(1573年)には、

蘆名盛氏の要請で、黒川稲荷堂の別当になり、その後上野国世良田長楽寺で、

宜海春豪に師事し、葉上流灌頂大阿闍梨位になっています。

天正18年(1590年)に武蔵国入間郡仙波の星野山無量寿寺で僧正豪海に師事、

名を天海に改め、 ここに天海上人が誕生する訳です。


とまあ、この記録からすると相当高位の僧侶の息子として生まれ、

順当に修行、出世していたと言う事になりますが、

この前半生の記録を裏付けする資料が他に一切ない為、

全て出鱈目であると推論する事も可能です。

もし天海上人が明智家に連なる人物であったとすれば、

本当の事を記録に残すはずがないですよね。


さて前述の通り、天海上人を明智光秀と考えるのは、年齢的に無理があります。

では光秀の周囲にこれに当てはまりそうな人物がいるかと言うと、

ひとりだけ存在します。明智左馬之助秀満…通称弥平次。光秀の従弟、

又は甥にあたる人物で、明智家の重臣ですが、なんと彼の生年は、

天海上人と同じ天文5年(1536年)なのです。


先程の寛永寺の資料以外で、天海上人が初めて記録に登場するのは、

天正16年(1588年)52歳の時、川越にある無量寿寺(喜多院)で修行をしていた…

という所からになります。所でこの喜多院なのですが、

ここには天海上人の銅像の他、何故か春日局(お福さん)と、

3代将軍家光の遺品が大量に収蔵されています。

これは天海上人と春日局、家光の非常に密接な繋がりを伺わせるものですね。


お次は良く言われる光秀=天海上人説の証拠を検証してみましょう…。

・比叡山の石灯篭には「奉寄進 願主光秀 慶長20年2月17日」と、

光秀の死から33年後の日付が刻まれている 。

→実在する。但し光秀という名前は当時ありふれていた様なので、

これだけで明智光秀本人かどうかの断定は出来ない。


・日光東照宮などには明智家の家紋・水色桔梗の紋を身に着けた人物像がある 。

→東照宮にある木造随身像の事ですが、この紋はよく見ると桔梗紋ではなく、

織田木瓜ですね。織田家の家紋です。


・お福さん(春日局)は初対面であるはずの天海上人に、

「おひさしゅうございます」と挨拶し、親しく会話をした。

→お福さん(明智家重臣、斎藤利三の娘)が、寛永寺で初めて天海上人に

会った時にこう言ったのは、当時の記録にもあり、事実です。

このふたりが以前から知り合いであったのは、間違いないと思われます。


・東照宮に行くいろは坂の途中に【明智平】という地名があり、

これを名付けたのは天海上人である。

→これも事実ですが、明智というのは悟りを開くと言う

仏教用語でもあります。

天海上人が仏教用語で命名した可能性もあります。


山崎の戦いで光秀さんが敗れた後、それを知った明智秀満さんは

安土方面から坂本城に急いで戻ろうとしています。

馬で瀬田の川を渡って、坂本城に帰ったという逸話は有名ですよね。

なぜならこの時瀬田の橋は山岡隆景によって焼き払われ、焼失していたからです。

2020年に滋賀県の石山寺で発見された最新の古文書に、【明智秀満が山岡景隆と

船で一戦に及び…坂本へ向かった】という内容が記されており、

実際には船で瀬田川を渡り、坂本城に向かった様です。

そして坂本城にあった明智家の家宝を敵将に渡し保護を託したのち、

自刃したと通説では言われていますが、当時の一次資料では、

自刃したとか切死にしたとか逃亡したとか記述が様々で一貫しておらず、

要するに最後どうなったのかよくわからないのですね。


ちなみにこの坂本城から歩いていける距離に、比叡山延暦寺があります。

明智秀満は坂本城を脱して延暦寺に身を隠し、そこで熱が冷めるのを待った…

死んだかどうかもわからない以上、これを100%否定する事は出来ないでしょう。

同時期に天海上人は延暦寺で修行したとも言われています…。


あと、これは殆ど知られていませんが、上野の寛永寺のすぐ傍にある

不忍池は天海上人が作ったもので、実は琵琶湖を模して造られています。

琵琶湖の中にある竹生島(ちくぶじま)も再現されています。


天海上人はその後慶長12年(1607年)に家康に正式に出仕し、

比叡山探題に任ぜられます。

その後慶長18年(1613年)には日光山の貫主(かんす)に任じられ、

家康の死後、日光東照宮の造営に携わります。


徳川家への正式な出仕が極めて遅く、この時既に70代の高齢にも関わらず、

極めて異例な事に家康の政治、宗教上の重要なブレーンとして大活躍し、

それは3代将軍家光の時代まで続きます。そして彼の開いた東叡山寛永寺は、

寛永元年(1624年)には正式に徳川将軍家の菩提寺になっています。

何故家康、そして徳川家は、直接縁もゆかりもない天海上人を、

ここまで重く用いたのでしょうか?


もし彼が本当に明智秀満であったとするなら、

実際の彼の顔を知る人物の大半が鬼籍に入ってから登用した…とも考えられます。

早い時期だと彼の顔を知る人物が大勢いたでしょうし、

人は歳を取る事で人相に変化も現れますから…。


最後に…。

全国に慈眼堂と呼ばれるお寺は3か所しかありません。

そのひとつは日光、もうひとつは川越。

いずれも天海上人ゆかりの地です。

そして最後のひとつは琵琶湖のほとり…坂本にあります。

そしてこの坂本の慈眼堂には、不思議な事に天海上人のお墓があります。

更には徳川家康のお墓まであります。その理由は何故なのでしょうか?

今となっては誰にもわかりません。あとこれも殆ど知られていませんが、

坂本には東照宮も存在しています。


以上の事実から皆さんは何を思われるでしょうか?

天海上人は光秀ではなく、明智左馬之助秀満であった!

歴史上の大きな謎ではありますが、何らかの新資料でも出て来ない限り、

私はこれを100%否定する事は出来ない様に思います…。


本能寺の変の時、【是非もなし!】と炎の中に消えた信長。

そして生きながらえた天海上人こと明智左馬之助秀満。

壮大な歴史ロマンを感じざるを得ませんね…。


※これらの事実を元に、本能寺の変の真実を考証したお話も以下に

書きましたので、ご興味のある方は是非遊びに来て下さりませ!

https://kakuyomu.jp/works/1177354054922399527/episodes/16816410413961300785

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