第61話 教養授業13限目。鈴音先生、本能寺の変の真相を語る…その①

月曜日の3限目の授業が終わった。短い休憩時間の後、

鈴音先生が教室に入って来た。

4限目、今週の教養授業の始まりである。起立!礼!

いつもの鈴音先生の透き通った優しい声が響く。


「今日は私の知っているお話の中でもとっておきのお話、

日本史を大きく揺るがした、本能寺の変の真相についてお話したいと思います。


天正10年(1582年)6月2日早朝に起きた本能寺の変の真相に関しては、

何百年も議論がなされ、様々な説が発表されていますが、

事実当時からこの変の詳細は公にする事が憚られるものでしたし、

証拠になりそうな文書の多くが意図的に破棄された為、

これからも確定的な証拠が出て来る可能性は低いと思います。


今から話す内容は、徳川の時代に私が面識のあった天海上人…すなわち、

明智光秀さん甥で重臣であった明智秀満さんから直接伺った話なので、

事実と考えて良いでしょう。


まず本能寺の変を起こした光秀さんの一番大きな動機は、明智家の存続でした。

光秀さんの年齢には現在諸説ある様ですが、本能寺の変当時、

実際の年齢は数えの67歳、信長さんより18歳も年上です。

(※作者注 67歳は明智軍記より信憑性が高いと言われる当代記の記録)

この時代としては既に高齢であり、老い先短い彼の最大の心配事は、

彼の死後、明智家がまともに存続するか…にありました。

彼の嫡男、明智光慶(みつよし)さんは1569年(永禄12年)誕生ですから、

本能寺の変の当時は数えの14歳、次男の光泰(みつやす)さんはその2つ下なので、

12歳ですね…。ふたりとも光秀さんが45歳を過ぎて授かった子供です。


天正10年(1582年)当時、光秀さんの立場は微妙なものになっていました。

ひとつは織田家の世代交代が始まっていた事。

重臣の佐久間信盛さん、林秀貞さんが追放される等、

信長さんは家臣団の再編成と若返りを推進しており、

高齢の光秀さんは一線から外される可能性が高くなっていました。


もうひとつは有名な四国問題で、信長さんがそれまで肩入れしていた

長曾我部氏から、肩入れ先を三好一族に変えた事によってもめ事が起き、

長曾我部氏の取次であった光秀さんが、四国方面担当の任を解かれたのですね。


更に付け加えるなら、元々稲葉一鉄さんの家臣だった斎藤利三さんを、

光秀さんが無断で明智家に引き抜いた為、稲葉一鉄さんが怒り、

彼がこの事を信長さんに訴えたところ、信長さんが激怒、

斎藤利三さんに切腹を命じたのもこの頃です。


要するにこの頃光秀さんは、様々な問題を抱え、織田家家中では

宙ぶらりんの状況にあったのです。

自分が生きている間はともかく、死んでからのちの明智家がどうなるか…?

明智家の所領はそれなりに大きなものでしたから、

彼が死ねばおそらく大半は没収…下手をすると取り潰し…

織田の重臣、佐久間さんや林さんの例を見ると、それはあながち否定出来ません。

彼らの最後は、かつての重臣にここまでするか!

と思えるくらい悲惨なものでしたし…。

信長さんという人はこういう面で非常にドライですから、

役に立たないとなると簡単に切り捨てますもの…。

こうした点、もう少し優しい面があれば、彼の人生は変わったかもしれません。


なので、光秀さんは、自分が生きている間に独立した勢力を持つ

大名として生きる道を、子孫と家臣に残そうとした…。

お家を残すという意識は、今の時代を生きる皆さんとは

感覚がまったく違いますから、理解は難しいかも知れませんが、

光秀さんにとっては生涯を賭ける価値のある、非常に切実な問題だったのです。


もはや老い先は短いし、イチかバチか謀反もありか…そう彼が考え始めた頃、

家康さんが信長さんの招待で安土にやって来ました。天正10年の5月15日の事です。


歴史上ではまったく知られていませんが、

実は光秀さんと家康さんは非常に仲が良かった。

きっかけは有名な金ケ崎の退口(のきぐち)で、

殿軍のひとつであった明智軍が、朝倉軍の猛追撃で瓦解しかかった時、

家康さんが駆けつけて光秀さんを救ったのですね。


この時徳川軍は明智軍より先に後退していましたから、

無理をしてまで彼らを救う理由はありませんでしたが、

家康さんは救援に駆けつけてくれたのです。

家康さん自ら鉄砲を放つなど、徳川軍の奮戦で、

朝倉軍の追撃を振り切り、光秀さんはからくも生き残る事が出来ました。

この事を光秀さんは非常に深く感謝しており、

この時からふたりは肝胆相照らす仲になったのです。


天正10年5月15日、この夜、ふたりの間でどの様な会話があったか…。

光秀さんが率直に悩みを打ち明けた所、家康さんはそれに賛同し、

助力を惜しまないと言ったのですね…。

この頃の徳川領は、周囲を織田の領国、ないしその恭順国である

北条氏に取り囲まれた状況にあり、もはや領国拡大の余地が

全くなくなっていました。形の上では独立国の対面を保っているものの、

実質織田の属国と言って良い存在に成り下がっていたのです。

光秀さんの置かれた状況と極めて似ており、他人事ではなかった。

徳川としては、もう一波乱起こってくれないと困る状況だったのですよ…。


この5月15日から、光秀さんが信長さんの命により、

秀吉さん救援準備の為に坂本に戻る5月17日までの僅かの間に、

光秀さんと家康さんは、急遽打倒信長の戦略を描き、

それを実行する段取りを整えたのです。


家康さんの役割は、信長さんの嫡子で、織田家家督を継ぐ織田信忠さんを

京都に誘引する事。仮に信長さんを殺しても、信忠さんが生きていると

光秀さんの謀反が成功する確率は低くなります。

謀反を起こした時、この両名が近くにいる事が必須の条件だったのです。


それで家康さんは、5月18日に安土城で信長さんから直接の接待を受けた際、

「これから京にはいりまするが、出来れば御当主信忠様にも京に入って

頂けると嬉しゅうござりまする。この所あまりお会いする機会もなき故、

戦(いくさ)話でも語りつつ、親睦を深めたく存じまする…」

と、直接お願いし、それを信長さんが快諾したのです。


その②に続く…。

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