第62話 教養授業13限目。鈴音先生、本能寺の変の真相を語る…その②

そこから先、当時の関係者の行動を時系列で見ると、

明智光秀…5月17日 中国出陣準備の為、安土より坂本城へ戻る。

織田信忠…5月21日 中国出陣の途中で入京。

徳川家康…5月22日 安土より移動し、入京。

明智光秀…5月26日 丹波亀山城へ軍を率い移動。

徳川家康…5月29日 早朝…堺へ向け出立。

織田信長…5月29日 午後…本能寺へ入る。

※天正10年5月は旧暦の小の月にあたる為、5月は29日で終わり。

徳川家康…6月1日 堺着。堺の豪商の接待を受ける。

明智光秀…6月1日 丹波亀山城から軍を率い、京に向け移動を開始。

徳川家康…6月2日 早朝堺を出立。全速力で三河へ向かう。

織田信長…6月2日 早朝本能寺の変、自害。

織田信忠…6月2日 午前、京、二条御所にて自害。

徳川家康…6月4日 午前、現在の愛知県大浜(三河)に上陸。


家康さんは光秀さんの通達により、6月2日早朝に本能寺の変が

起きる事を知っており、変の起きる2日前に鉄砲買い付けの

商談に向かうと称して、怪しまれない様に船で堺へと向かい、

本能寺の変の起きた丁度その頃、三河へ向け全力で脱出を計ったのです。


変の混乱による危険を避ける為、出来るだけ早く三河まで

戻る必要があった家康さんは、親交のあった伊賀衆に、

事前に道中の護衛と移動用の馬、船を手配させ、堺の妙国寺から

伊勢の海岸にある白子まで、およそ150キロの距離を2日もかけずに移動、

そこから準備された船に乗り、本能寺の変からまる2日後には

三河に帰り着きました。移動した経路や道の状態、

所要時間を考えると、相当周到な事前準備がないと、

こんな短時間での移動は出来ません。これは家忠日記等、

当時の一級資料でも確認が取れます。今日でも裏が取れるのですよ。

(※作者注 詳細は白狐姫と白狐隊のひそひそ話 53話参照です!)


さて、その後の歴史は皆さんも良く御存知の通りで、

光秀さんは秀吉さんに山崎の戦いで敗れて死にました。

但し重臣だった明智秀満さんは坂本城を密かに脱出して比叡山に逃れ、

そこで修行ののちに天海上人として家康さんに仕えたのは、

ごく僅かの人間しか知らない事です。


最大の誤算は、本能寺の変を事前に通知してあった、毛利家…

その中で小早川隆景さんが秀吉さんに加担した事でした。

光秀さんは非常に容易周到な人で、本能寺の変が起きる丁度同じ頃に、

当時織田家と敵対関係にあった毛利氏と上杉氏、長曾我部氏に、

この変の内容が伝わる様手配していました。

常識的に考えれば、これを毛利氏が知れば、秀吉さんの中国派遣軍に

総反撃を加えるはずですが、小早川隆景さんがこれを押し留めたのですね。

彼はそれまでの戦いを通して秀吉さんの実力を知り、故にその後の事を考えると、

彼に加担した方が毛利の為になると判断したのです。


家康さんは三河に帰ってから、光秀さんの同盟者として東の抑えを

行う予定だったのですが、光秀さんが早々に敗れた為、

それ以降は甲斐/信濃の争奪戦を北条氏との間で行う事になります。


これが私の知る本能寺の変の事実です。

総合的に見た場合、光秀さんの大戦略は極めて優れており、

毛利氏が予想外の動きをしなければ、

光秀さんが勝利した可能性はとても高かったと思います。

この話をされた天海上人…秀満さんは、

「戦と言うものは、周到な準備をしても、最後はやってみぬとわからぬもの。

まあ、多少なりとも博打の要素は残る故のう…」

と、寂しそうに笑っておいででした…。


それでは、質疑応答の時間としたいと思います。

いつもの通り手を挙げ、名前と出席番号を言って下さい。

授業に関係しない質問はしないこと。

それでは宜しくお願いします」


みんな唖然として、教室は静まり返っている…。


「女子出席番号19番、細川玉子です。

先程先生は、毛利氏が本能寺の変が起きた当日にその事実を

知っていたと言われましたが、では何故毛利氏は、高松城の

清水宗治を切腹させたのですか?その必要はないと思うのですが?」


それを聞いた鈴音先生はにっこりとして答えた。

「さすがは明智家の血を引く細川さんですね。良く御存知です。

あの時本能寺の変が起きた事を、その時点の毛利家中の大勢が知ったりすると、

それこそ戦に歯止めが利かなくなるからです。まあ間違いなく

秀吉軍を総攻撃せよという意見が大勢を占め、それを止める事は

誰にも出来なかったでしょう。


故に本能寺の変はごく一部上層部のトップシークレットとして扱われました。

表向きは知らない事にしないと、あそこで秀吉さんと和睦は結べないし、

毛利家も陣を払えません。


それと元々和議の条件に清水宗治さんの切腹は入っていなかったのですが、

高松城と共に秀吉軍の侵攻を阻止しようとした毛利の同盟諸城の多くは

この頃既に落城、その際、宗治さんの盟友の多くが死んだり自害しており、

宗治さんが自分だけ生き残る訳にはいかない、自分も自害し、

武士として盟友の後を追う…と自ら切腹を望んでいたという事情もありました。

時間を掛けて彼を説得する様な余裕もない事から、

毛利家はそれを認めたのですよ。


小早川隆景さん…歴史上でも大変な策士とされていますが、

私もそう思いますね…。


そもそもあの時の毛利軍は軍資金や兵糧にも事欠き、

長期戦を行う様な体力もなく、

既に自分から不利な条件での和議を打診していましたから、

本音を言えばすぐにでも戦を止めて撤退したかったのです…。

秀吉さんが京方面に撤退して行くのを長期に渡って追撃するなど、

ゾッとする話でした。

そんなリスクを背負う事に何のメリットも感じなかったのですよ。


本能寺の変後、それに関わった者の多くは処刑され、明智家も断絶しました。

それでも明智の血を引く人々は少数ながら生き延びました。

秀吉さんが死に、徳川の時代になってから、

家康さんは明智の血を引くものを引き立て、大事に扱っています。

一番有名なのは光秀さんの重臣であり、親戚でもある斎藤利三さんの

娘であったおふくさん…のちの春日局ですね。

光秀さんの思い切った行動によって、徳川家の未来が開かれたのは

事実であり、家康さんは最後までその事を感謝していました。


また、伊賀越えの最中、口封じの為に穴山梅雪さんが、家康さんの

家臣の手によって殺害されます。これは徳川家が明智に同調した事を

外部に漏らさない為で、家康さんが指示したものではありません。

家臣が自発的にやったのです。


家康さんはこの事を不憫に思い、以後穴山さんの子孫は徳川家から

代々重く用いられる事になりました…」


ここで授業終了のチャイムが鳴った。

「では今回の授業はここまでとしましょう。起立!礼!」

挨拶が済むと鈴音先生はゆっくりと教室を出て行った。


「明智光秀って、やっぱりかっこ良いよね!

最終的に徳川の世になって麒麟がやって来たのだから…。

そのきっかけを作った偉大な武将なのよ!」


この細川玉子のつぶやきが、心に沁みる俺(大橋)なのであった…。

麒麟とは…平和な時代にやって来るという、伝説の妖獣である…。

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