第63話 教養授業14限目。コイン投げThinking!

月曜日の3限目の授業が終わった。

短い休憩時間の後、鈴音先生が教室に入って来た。

4限目、今週の教養授業の始まりである。起立!礼!

いつもの鈴音先生の透き通った優しい声が響く。


「今日はインターネット上で行われた有名な心理学の

実験に関してお話したいと思います。


この心理学の実験は、コイン投げThinking…と呼ばれる実験です。

ネットでこの心理学のサイトを見た被験者は、そのサイトにその時の

自分の悩みを書き込み、画面上でコインを投げるスイッチを押します。

そうするとネット画面上でコインが投げられ、表か裏かの結果を表示します。

このコインは純粋に1/2の確率で表か裏かを表示する仕様になっています。

表なら実行、裏なら実行しない…という判断をしてみる訳です…。


さて、実際に書き込まれた悩みで一番多かったのは、

会社を辞めるかどうかという悩み、

2位は離婚するかどうかだったそうで、中々深刻な内容です。

こんなサイトでコインを投げるくらいですから、

被験者自身、相当判断を迷っている訳ですが、

暫く経ってから、この実験の被験者に実際の最終判断の確認した所、

約60%の被験者が、コイン投げの判断に従ったと回答したそうです。


その1年後、再度被験者にその判断の結果の是非を確認した所、

コイン投げの結果に従ったグループは、ポジティブ…

良い影響が得られたという被験者が全体の60%以上を占めたとの事。

逆にコイン投げの判断に従わなかったと答えたグループは、

60%以上がネガティブな影響になったと回答したそうです。


これが何を意味しているかというと、

人間という生き物は、決めた事よりも、

決めなかった事をより後悔する傾向を持っている…という事なのですね。

研究によると、決断の結果、短期的な不利益が

あっても多くの場合、人間はそれを忘れて前向きに生きるが、

決断しなかった場合は、【ああ、あの時決断すれば良かった…】

という後悔を後々まで引きずる傾向が強いのだそうです。


人間は、自分の置かれている状況に、常に不安を持つという特徴をもっています。

これは人間以外の動物には殆ど見られない特徴です。

脳を発達させ、考えるという事を進化させた人間特有の感情なのですね。

旧石器時代…人間は僅かな傷を負っても破傷風にかかって死んだし、

病気や寄生虫に対する治療も予防手段もなく、凶暴な外敵は多いし、

食料の確保や雨露をしのぐ生活の場の確保など、

常に強い不安と隣り合わせでした。


今日、文明の進化によってそれらの不安の多くは取り除かれていますが、

常に不安を感じるという人間の特性は何ひとつ変わっていません。

ゆえに中々決断というものが出来ない…。決められない不安というものが、

現代の人間には大きくのしかかっているのです。

ウジウジ悩むくらいなら、コインでも投げてとっとと決めた方が、

結果が良かったりする…というのは、非常に面白いですね。


さて、これら中々物事が決められない、

判断に迷う原因のひとつは、現代の情報過多にあります。

何かを決めるのに必要な情報を集めようとネットを検索すると、

膨大な量の情報がヒットしますよね…。

今日1日で得られる情報は、江戸時代の1年分に相当すると言われる

くらいですから、昔に比べると本当に物凄い情報量です。

ここでも心理学で面白い実験があります。


この実験では中古車を4台用意します。

それぞれに価格がついていますが、

その中に1台だけ、超お買い得な当たりの車があります。


被験者はふたつのグループに分け、

Aのグループには考える時間を長く与え、

Bのグループには、5分以内に結論を出す様に伝えます。

尚、車の情報は価格以外に4つを提示します。

エンジンの馬力、燃費、走行距離等ですね。


この場合、結果としては、考える時間の長いAのグループの方が

当たりを引く確率が高いそうです。


では、車の情報を12に増やして同様の実験をした場合はどうでしょう?

この場合、カップホルダーの数とか、座席のクッションの内容だとかが

情報として追加されています。


そうすると面白い事に、当たりの車を引く確率は、

BのグループがAの3倍になったそうです。

情報が多ければ良い判断をするとは限らない…という結果になるのですよ。


同様の事はスポーツの結果でもそうで、どこのチームが優勝するかの

予想実験を行うと、総じて情報量の多いグループの予想結果が当たらない…

という事になるのですね。


膨大な情報を正しく判断する為には取捨選択が必要なのですが、

情報量が増えれば増えるほどそれが難しくなる…。

私達の不安を増す要素がここにもあるのです。


将棋の羽生九段は著作の中で、

【私の経験上、将棋における直感は9割が正しい…】

と述べています。

以前授業で述べた直観力と論理力では、生きる為には双方非常に

重要だと述べましたが、いくら考えても結論が出ない様なものに

関しては、私達は直感を大事にした方が良いのかもしれません。


心配したり不安に思っている事の9割は、実際には起こらない…。

これは私も正しい様な気がします。

皆さんも判断や決断に迷った時は、この事を思い出してください。


それではいつもの通り、質疑応答の時間としたいと思います。

挙手し、出席番号と名前を言ってから質問をお願いします…」


「出席番号15番 藤原薬子です。

鈴音先生は、物事は決断よく進めた方が結果的には良い事が多いと

言われているのだと思いますが、私もそう思いながら中々それが出来ない

タイプです。先生は色々な決断をする…取捨選択をする上で、

何を最も重視すべきと考えられますか?」


それを聞いた鈴音先生は、にっこりと笑って答えた。


「良い人間関係を一番に考えて下さい。

これはハーバード大学が大変な労力をかけて調査した結果なのですが、

ハーバード大学の卒業生と、ボストンの貧しい労働者達の

幸福感の推移について、実に75年に渡って追跡調査をしています。


この結果から言える事は、幸福感に最も影響を与えたのは

社会的なステータスや収入などではなく、

その人物を取り巻く人間関係だったそうです。

それも友人の数が多いとかではなく、心から理解し合っている、

親友…それは同性でも伴侶でも良いのですが、それを持っているかどうかが、

最終的にその人間の幸福度を決めるポイントになっていました…。


人間を幸福にするのは、最終的には良き人間関係以外にないのです。

私の長きに渡る人生経験からしても、それはまごう事無き事実。

間違ってもお金の為に良き友人関係を切り捨てたりしない様にして下さい。


皆さんがこの学校の生活で、そういう良き友人を得られる様、

私は常に望んでいます…」


ここで授業終了のチャイムが鳴った。

「では今回の授業はここまでとしましょう。起立!礼!」

挨拶が済むと鈴音先生はゆっくりと教室を出て行った。


「おっさん、ビートルズに、【僕が64歳になっても】って歌があるけど、

64歳になったら記念に湯西川温泉でも行って、それを歌って酒でも飲むかしらん。

往時追感に堪へず!」


アレックス岡本が振り返って俺に言った。

「そうだな。この前も楽しかったし、

あんな旅を64歳でも続けられるといいな…」


俺はそう言いながら、遠い未来に想いを馳せるのだった…。

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