第八話
フェンザムン――、それは三つの環を持つ惑星である。もっとも、人々がそれを惑星と認識するのははるか未来のことであり、この星がフェンザムンの名を冠したのもその頃のことである。カナタスたちの時代では、フェンザムンとはこの星唯一の王国の名であり、その王国の領土である大陸全体のことであった。細かな塵や小さな氷が織り成す三つの環も、人々は頭上にかかる「神々の橋」なのだと理解していた。
大陸はひとつであり王国もひとつだったが、そこに暮らす民族はひとつではなかった。フェンザムン王朝の祖、エルディン王を始めとするフェンザムン人は最大の勢力を誇ってはいたが、たとえば大陸の西側、大河の向こう側には「
フェンザムンの祖、エルディンは、当時大陸を支配していた炎の巨人「スルト」を封印し、その功績によって大陸全土の王となることを認められた。彼はその封印の上に城を建て、守りをより強固にした。彼こそは歴史上唯一のフェンザムン大陸の完全な支配者であった。
エルディンの死後、王国はふたりの息子によって分割された。父は自分の支配地域全体をどちらか一人に任せるのは荷が重いと考え、王都を含む東側を兄に、西側を弟に継承させたのである。境界線は、倒したスルトから流れ出た血でできた「安息の川」と定められた。フェンザムンの歴史の中でも極めて短いこの期間は、二王国時代または兄弟王国時代と呼ばれている。
東側を継いだ兄は、王都フェンデントを中心としてそれぞれの地域に配下の者たちを住まわせ、現在まで至る支配を確立した。一方、西側を継いだ弟は、交通の要衝であるシェーンブルクを本拠地とし、フェンザムン人とヘルナーとを合わせて統治を行おうとした。しかし、農耕民のフェンザムン人と狩猟民のヘルナーは衝突し、弟の政策は多くが失敗に終わった。それでもヘルナーはエルディン王の恩に報いるため、弟王の支配を受け入れ続けた。しかし、弟王が死に、世代が替わった時、彼らはついに反旗を翻した。
西フェンザムン王国の二代目の王、エルディン王の孫は、父親の玉座が何によって守られていたかを理解していなかった。よって、エルディン王の功績を知らない世代が現れた時、ヘルナーの忍耐とエルディン王への感謝が薄れていたこと、それによって王座が脅かされようとしていたことも理解できなかった。彼は、父がヘルナーと結んだ約束を破り、土地と住民とを結び付けてしまった。つまり、狩猟のために国内全体を自由に行き来していたヘルナーを、その氏族ごとにひとつの土地に縛り付け、弓矢と投槍を捨て土地を耕すように強制したのである。後に「フェンザムン暦124年の令」として知られるこの命令は、ヘルナーだけでなく周辺の少数民族の怒りを引き起こし、その後二十年に渡る内乱時代への引き金となった。フェンザムン人は命からがら境界の「安息の川」を渡って東側へ逃げのびた。この反乱から逃れる際、王は鎧の継ぎ目に矢を受けて落馬し、三日後に死亡した。この時王を射たのが、後にシェーンブルクを名乗ることとなるヘルナーの族長レインディアであった。レインディアは王の去ったシェーンブルクを奪取し、ヘルナーのそれぞれの部族を招集して「ホルンの盟約」を結ばせた。この盟約は「ヘルナーの一部族が戦いを挑む際には全部族が結束して戦うこと」を取り決めたものであった。
西王国の滅亡を知った東フェンザムン王国は、全軍で川を渡り報復戦争に出た。この戦争は物資と人口で勝る東王国の勝利に終わったものの、多くの死者を出すことになった。東王国はレインディアとその一族を妻子に至るまで処刑したあと西側も領土に加え、現在のフェンザムン王国の原型が完成する。以降、ヘルナーの反乱と王国の鎮圧戦争は断続的に繰り返されていくこととなる。
最後の蜂起は四年前で、ガントス王は渋々それを鎮圧せざるを得なかった。彼は戦を望まなかったし、西側の民が殺されることも望まなかったが、放っておけばより多くの血が流れることも理解していた。仕方なく鎮圧戦争に乗り出した王は、反乱を鎮めた後、彼らにのみ不当に設けられていた重い税を廃止し、それを不正利用していた貴族たちを処罰した。議会は大荒れになったというが、ガントス王は協力的な貴族たちと共にどうにか改革を断行したという。
*** *** *** ***
洞穴の中の、世界の大きさに比べればあまりに小さな作戦会議はそれほど長くは続かなかった。選択肢もやるべきことも限られていたからだ。
「殿下が生き残れる道はたったひとつでしょう」
レオンがそう言うと、ルシアもそうだなと同意した。まさか、とカナタスは息を飲んだ。レオンは静かに言った。
「安息の川を渡り、西側の領主たちを、ヘルナーを味方につけるのです」
「待ってくれ、そんなことができるはずないだろう! まともな武力もない俺が彼らのところへ行くなんて、殺されに行くようなものだ!」
そんなことは前代未聞だ、とカナタスは思う。フェンザムンの王族があの川を渡る時はいつでも、鉄の鎧を纏う何万人もの兵士を連れ、フェンザムン王家の百合の旗と剣を掲げてだったはずだ。それは王に約束された守りであると同時に、川の向こうの民にとっての死の形であった。
「殿下。彼らは馬鹿ではありません。今の殿下を殺すより、生かして利用する方が自分たちにとって利になると、理解するはずです。モルガン派の貴族たちがヘルナーをどのように見ているか、彼らは知っているはずですから」
ガントス王はヘルナーたちに対して寛容であり、理解を示していた。何より、彼はヘルナーの長を自分の家系に迎え入れ、友として良い関係を築き上げた。それは望まぬ形で終わりを迎えはしたものの、エルディン王以来初めて、フェンザムンの王族が剣以外のものをヘルナーに向けた出来事として記憶されていた。しかし、モルガンやその陣営に属する貴族たちは古い価値観で凝り固まっており、安息の川の西側に住む者たちは発展の遅れた蛮族だという烙印を押していた。ガントスの死が知れ渡れば、彼らはそれに敏感に反応するはずだった。
「でも……、俺に利用価値なんてあるのか? 追放されて殺されかけてる俺に」
少女が呆れたようにカナタスに視線を注いだ。
「まだ分からないのか? お前は王位継承権を持っている。濡れ衣を着せられようと、囚人服を着ていようと、お前はガントス王の実子だ。これ以上の利用価値がどこにある」
それでも首を捻っていると、レオンがそっと補足した。
「彼らと取引するのです。彼らの望みを叶える代わり、自分に協力してほしいと。彼らの望みは自分たちの王国内での待遇改善と、おそらく不当に接収されているシェーンブルクの返還でしょう。シェーンブルクを押さえているのはモルガン様の親戚筋のダンフォード家です。モルガン様さえなんとかなれば、どちらもできない取引ではないのです」
カナタスは俯いた。目の粗い服の裾を握り締め、眉を寄せる。
「その最大の問題をどうにかする力が俺にあるとは思えないし、思わせることができるとも思えない。城にいてさえ俺は叔父上に逆らうことはできなかったのに」
逆です、とレオンは言った。
「殿下、不躾な物言いをお許しください。殿下は今、生まれてはじめてモルガン様に逆らうことができるのです。今の殿下は確かに何もお持ちではないかもしれません。今はご自分がこの世で最も惨めな存在に思えるかもしれません。しかし、代わりに城や学園にいた時には持てなかったものを手にしておられます」
そうだな、とルシアが笑った。ぽかんとふたりの顔を眺めていると、レオンは瞳を輝かせながら言った。
「いま殿下は自由なのです。何を為すのも、どこへ行くのも、ご自分で決めることができるのです。殿下を縛るものはもう何もない。殿下が全てを失うのと引き換えに手にされたのは、自由と未来への可能性です」
「……つまり、おまえは、俺に、叔父上をどうにかできる可能性があると、その望みがあると言いたいのか」
レオンの表情は、剣の稽古でレオンに負け越して悔しがるカナタスを励ます時と同じものだった。おまえに勝てる日なんて来るものかといじけるたび、彼は、カナタスを立ち上がらせて言ったものだ。俺はそう信じています、と。
「モルガン様のことだけではありません。殿下が願われることのすべてを成し遂げることができると、俺は信じています。それに殿下はおひとりではありません。微力ではありますが、レオナルド・カルディナーレはどこまでもお供いたします。ソフィスも同じことを言うでしょう。それに――」
レオンは傍らの少女に目を向けた。銀髪の少女は片目を瞑り、約束だからな、と前置いた。
「このわたしがおまえの味方になってやると言っているのだ。フェンザムンの歴史の中で追放された王子は数多くいるが、竜が味方になった王子はおまえただひとりだ」
小さく笑うと、ルシアはふんとそっぽを向いた。レオンは安堵したように微笑んだ。
「殿下。味方など、いなければ作ればよいのです。モルガン様の――、グリーンレイク派の貴族たちの数は多いかもしれませんが、この国にいるのは彼らだけではありません。極端ではありますが、フェンザムンの、貴族以外のすべてが殿下の味方になったとしたら、この事態をひっくり返すことも可能なのです」
「俺に、できるだろうか、そんなことが……」
誰かを味方につけたり、利用したり、そんな駆け引きが得意な方だとは思わなかった。学園の中でも権力関係はあった。誰がどこの派閥で、自分や自分の家はどこにつくか、という駆け引きだ。カナタスはそれを一歩引いたところで見ていた。
ルシアが立ち上がり、青い瞳でカナタスをまっすぐ見つめた。人の眼では決して持ち得ぬ、全てを見通す光がカナタスを貫いた。
「できるかどうかで言えば、おそらくおまえにはできない。おまえは優しすぎるし、素直すぎる。部下の手を借りてさえ敵も殺せぬ甘ったれだ。でもそれは、おまえがそのように育てられたからだ。今までのおまえには誰かを傷つけたり誰かから奪ったりする必要がなかったのだ。これから先、何を選ぼうと幾多の困難がおまえを襲い、おまえを闇の中へと押し流そうとするだろう。だがわたしはおまえにあえて問おう」
竜は静かに訊いた。
「やるか、やらないか。どちらだ?」
このまま全てを放棄して、王子だったことも忘れて、この国のどこか片隅で静かに暮らすこともできるかもしれない、と思う。しかし、王子だったことを忘れることはできても、姉や父を忘れることはできないだろう。父を失いただひとり城に残された姉の身を案じ、今日立ち上がらなかった自分を責め、いつ見つかって殺されるとも知れぬ日々に怯えながら生涯暮らすのと、川の向こうへ行き運命に抗うのとは、結果的に同じように困難なのではないか。苦しみの種類が違うだけで、苦しむことに変わりはないのではないか――。
振り上げられた剣と、名も知らぬ、自分を殺そうとした男の顔を思い出す。自分は無力だ。あの夜と同じように、襲い来る力に抗う術を持ってはいない。同じ力に翻弄される誰かを救い出す術もない。この世界ははじめからそういうところで、自分はただ、それを知らなかっただけだ。知らなくていいように、みんなが守っていてくれただけだったのだ。
「考えたんだ。もし、姉上と俺が逆だったらって。姉上が俺みたいに殺されかけていて、その時俺は何もできなかったとしたら、俺は自分で自分を許せない。姉上は今城にいるけど、いつ俺みたいな目に遭うか分からない。そんなのは嫌だ。父上を殺した人のところに姉上を置いてはおけない。姉上を取り返すために川を渡らなければいけないなら、俺はそうする。生き延びて、みんなを幸せにする手段がそれしかないなら、俺は、やる」
よかろう、とルシアは言った。決まりですね、とレオンが言う。後になってカナタスは、『カナタス王の回顧録』にこの時のことをこう記している。
『自分は何も知らなかった。だから大それた決断ができたのだ。これから得るもの、失うもの、犯す罪、手にする功績、そのどれをも知らなかったがゆえに。若き日の私は、ようやく見出した希望に心を躍らせていた。自由と可能性とは確かに光であった。しかしそれは、責任と喪失という影と切り離せないものでもあったのだ』
三人はわずかな荷物をまとめ、洞穴の外で律義に待っていてくれたヴァレリオを連れて森を歩いた。追手の気配はなかったが、なるべく音を立てないように静かに歩き、街道を大きく避けて夜間に移動した。西へ向かうにあたり、三人は計画を練った。
安息の川までの街道には必ず見張りがいるはずなので、大きな道を避けて森の中を北西に移動し、北側から『死の大地』へ入り、そこで川を渡るのが一番安全だろう、とルシアは主張した。『死の大地』とは人もよりつかぬ、黒く枯れた木々と濁った沼の続く一帯で、伝説によればエルディンとスルトが争った場所で、巨人の呪いのゆえに草一本生えないのだと言われていた。
「主要な渡し場には見張りが置かれるはずだ。奴らもまさかわたしたちが『死の大地』から渡るとは思うまい」
「でも、『死の大地』って呪われた場所なんだろう? そんなところを通って平気なのか?」
カナタスが訊ねると、ルシアは平然と言った。
「あんなものはただの汚い沼地だ。水を飲まないことと、傷口に泥を入れないことに気を付けておけばいい。草木が育たないのは事実だからな」
カナタスとレオンは顔を見合わせた。
「ルシア、それより、昨日みたいに背中に乗せて飛んでくれたらずっと早いんじゃないか? 昼間は目立つけど、夜なら人目にもつかないし、叔父上たちだって俺たちが空を飛ぶことなんて想像もしないはずだろう?」
しかし彼女は、どこか苦々しい表情で首を振った。
「わたしはそんなに長い距離は飛べない」
カナタスは再びレオンと顔を見合わせ、その案を破棄してルシアの案を詰めることにした。
「渡ってしまえばこちらのものです。向こうの領主に保護してもらうのが最適でしょう。できれば親フェンザムン派の、そうですね……、ラインベルクかフォイエルラントあたりがいいでしょう」
それに、とレオンは付け足した。
「ソフィスは俺よりずっと頭の回る男です。今頃安息の川を渡っている頃でしょう。彼が何らかの形で行き先を示すはずです。まずはソフィスと合流を果たすのを目標とするのがよいかと」
「わかった」
三人は頷き、そうして洞穴を出て、長く厳しい旅を始めたのだった。
フェンザムン~漆黒と深淵~ フェンザムン委員会 @fenthemun
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