戦乱の足音
第七話
眠れぬ夜を樹上で過ごした後、カナタスが目を覚ましたのは丸一日が経った後だった。ルシアの背に乗って木を降りてから、カナタスの記憶は曖昧になる。夜明け前の青く澄んだ景色が美しかったことは覚えている。無事だったレオンの馬のヴァレリオが誇らしそうに三人を出迎えてくれた記憶もある。しかしそれ以降はどうやっても思い出すことができなかった。 カナタスが完全に意識を取り戻した場所は岩山にできた洞穴の中で、少し離れたところでレオンと少女の姿のルシアが何かを話し込んでおり、洞穴の入り口付近ではヴァレリオが主人を忠実に見守っていた。カナタスが上半身を起こした拍子にかけてあった外套が滑り落ち、その音に気付いてレオンがこちらを振り向いた。
「お目覚めですか、殿下。具合はいかがです」
よく寝たからなんともない、と答えると、レオンは心底安堵したように息をついた。その後ろから座ったままのルシアが声をかけてくる。
「まったく手のかかる子供だな。熱など出しおって。薬草の知識のある私がいたからいいようなものの」
カナタスは自分の額に手を当てたが、特段熱いと感じるような温度ではなかった。どうやら自覚のないうちに身体の方が限界を迎えてしまっていたらしい。ルシアが案内した洞穴にレオンがカナタスを運び込み、ふたりで一日看病してくれたようだった。カナタスが素直に礼を言うと、レオンはいつも通り礼には及びませんと謙遜し、ルシアの方は満足げに頷いた
「さてお前、これからどうするつもりなんだ? いつまでもここに隠れているわけにもいかなかろう? 連中はいつ戻ってくるか分からんし、ここもいつ見つかってもおかしくはないのだし」
ルシアの青い瞳に正面から見つめられ、カナタスは思わず口ごもった。覚醒したばかりの頭はいまだ正しく現状を把握できておらず、カナタス自身、自分がそれを拒んでいることを知っていた。休息を取り、身体は回復したからといって、ここ数日で受けた心の傷の方はそう簡単に治るものではなかった。
「……カナタス様」
見かねたレオンが横から助け舟を出してくれる。
「ひとまず食事をしましょう。食べられそうですか。といっても、今はこれしかないのですが……」
レオンが差し出したのは、手のひらに収まるくらいの大きさの太陽の色をした果実だった。
「奴らがどこにいるか分からんのでは火も使えないからな。それは私の好物だ。特別に分けてやろう」
ルシアが得意げにそう言い、果実の下側に親指を入れて皮を剥き始めた。甘酸っぱい香りが洞穴の中に広がり、一瞬カナタスはエメラルダの港町を思い出した。多分、これに似たものがあの町の店のどこかにあったのだろう。
分厚い外側の皮を剥くと、中には水分を多く含んだ実がいくつか、ひとつずつ薄皮に包まれて輪を作っていた。ルシアがそれを一房ずつ口に運ぶのを、カナタスとレオンが真似る。芳香以上に強い酸味と甘さが、半分靄がかかったようだったカナタスの思考を晴らした。
「……美味しい」
思わず呟くと、銀髪の少女がぱっと顔を上げ、そうだろうと嬉しそうに笑った。
「まだあるぞ。そのへんに自生しているからな」
ルシアは気前よくその果実をカナタスとレオンに三つずつ渡し、自分も二つ目の皮むきに取り掛かった。
それでどうするんだ、とルシアが再び問いを発したのは、カナタスとレオンが渡された三つのうち二つまでを食べ終えたところだった。さすがに逃げを打つわけにもいかず、カナタスはいまだ受け入れがたい現実を直視しようと試みた。
「父上は亡くなって、叔父上が俺を罠にかけ、ソフィスと俺を……、そうだ、ソフィスは。ソフィステスはどうなったんだ、レオン!」
「落ち着いてください殿下」
レオンの声は取り乱してはいなかったが、だからといって完全に落ち着いてもいなかった。レオンは苦々しさを声に滲ませながらそっと答えた。
「おそらく、ソフィスは無事でしょう。彼は黙って捕えられているような男ではありません。力は騎士たちほどありませんが頭はおそろしく回ります。必ず脱出しているはずですから、そこはあまり心配なさらずともよろしいかと」
カナタスも渋々頷いた。分からないことは心配しても仕方がないのは十分に分かっているはずだった。
「……俺のせいで、ソフィスまで酷い目に……、レオンだって」
レオンがまっすぐカナタスの目を見つめた。
「カナタス様のせいでは断じてありません。どうかご自分を責めないでください」
「そうだぞ」
ルシアの声が不意に割って入った。
「今は自分を責めている時ではない。そんな暇があったら現状の打開策を考えるべきだ」
レオンがルシアの方を見て何か言いかけたが、カナタスはそれより早く問いかけた。
「レオン。俺は捕まっていたから、あの夜以降のことはよく分からない。あのあと城の中がどうなったのか教えてほしい」 橙色の髪の騎士は一瞬意外そうにカナタスを見つめた。
「実は謹慎処分を受けていたので全貌は把握できてはいませんが、分かる範囲で情報を整理してみましょう」
彼は近くに転がっていた石をいくつか拾い集め、並べ始めた。
「ガントス陛下のご存命中、この国の政治の勢力がふたつに分かれていたのはご存じですね」
カナタスは頷いた。城を離れても貴族たちの勢力図には無関心ではいられなかった。どの家がどの陣営に属するかは、政治の場を越えて学園の中の関係にまで深く浸透していたからだ。
レオンは大きな石をひとつ取り、カナタスの側に置いた。ルシアが立ち上がり、興味深げにレオンの描く勢力図が見える位置に座り直した。石で模した岩場の盤面を三人で囲む形が出来上がる。
「こちらをガントス様とします。ガントス様の政策も殿下は知っておられますね」
「ああ。貴族の特権を小さく、平民の権利を大きくするものだろう」
ルシアが行儀悪く足を組みながら肩を竦めた。
「あの王は最期まで己の理想を貫いたわけだな。それは恨まれるだろうな」
「でも、父上は平民には人気があったんだ。エメラルダの街の人たちも父上は良い国王だっていつも言っていた」
思わず学園でのことを口にし、一瞬どきりとしたが、レオンはもちろんそれについてどうとも言わなかった。そもそも平民に関する話が嫌いだったのはモルガンだったのだから、心配したり焦ったりする必要はないのだと、カナタスは自分に言い聞かせる。
「ですが、貴族……、特に大貴族には評判が悪かった。当然といえば当然ですね。それまで誰にも奪われたり差し出したりしなくてよかった財産を、自分たちの代で差し出せと言われたのですから」
ふん、とルシアが鼻を鳴らす。
「納税の話は何もガントス王の治世からではない。その父親のエルガトスが始めたことではないか」
「しかし、三年に一度、財政状況に応じて納めればよかったものを、毎年にしたのはガントス陛下ですから……、反発は一層強くなってしまいました」
式典に参列した時に、貴族たちが溜息を吐いていたのを思い出す。彼らは世間話のように顔を合わせればこう言ったものだった。昔はもっと盛大だったのに、今はこんなに質素になってしまった、と。
カナタスの祖父の時代の頃から、王国の財政状況は傾きつつあった。度重なる反乱の鎮圧や浪費によって厳しくなった台所事情を立て直すため、祖父のエルガトス、そして父ガントスは、財産を溜め込んでいる貴族からは財産を削り、一方で平民から取り立てる税の中でも重すぎるものを廃止し、人が土地を自由に行き来できる環境を整えることに力を注いできた。ふたりの努力の甲斐あって都市は活気づき、結果として王国内の経済と財政状況は回復しつつあったのだった。
「ガントス様と、ガントス様に味方する貴族たち、たとえばカルリオン伯爵や、今は亡きシェーンブルク伯爵のような方々が一つ目の勢力です」
大きな石の周りに小さな石をいくつか置いてから、レオンは同じくらい大きな石を手に取った。
「もうひとつはご存じの通り、モルガン様とその周りの大貴族たちです。彼らはガントス陛下のやり方に渋々従いつつも反発していました」
盤面に見立てた平らな岩の上にふたつの石のまとまりが並ぶ。レオンはその中から、ガントス王に見立てた大きな石を取った。
「しかしガントス王陛下は崩御なされた……。つまり、均衡は崩れたのです。城に残されたミナネス様ではガントス様の代わりになるにはまだ荷が重すぎるでしょう」
レオンは残してあった石の中でいちばん滑らかな形の小さなものを選んで、盤の中に置いた。
「城を脱出する際に協力的な姿勢を示してくださった方もいます。カルリオン伯爵はモルガン様にはつかないでしょう」
勢力図の中の、ガントス側に置いてあった石のひとつがモルガンの石から離される。しかし、ミナネスの石は逆に、モルガンの方へ近付けられた。
「ガントス王が亡くなられて一番得をするのはモルガン様です。おそらく、モルガン様はミナネス様を陰で操るつもりでしょう。それが一番、反発が少ないでしょうから」
カナタスは黙って目を伏せた。モルガンはカナタスには冷たかったが、ミナネスにはそれなりに叔父らしい対応をしていた。それがこんなことのためだったとでもいうのだろうか。
「……姉上は、それで幸せになれるんだろうか」
レオンは答えなかったが、代わりにルシアが言った。
「ミナネス王女がどんな人間かによるだろうな。あるいはモルガン……、グリーンレイク卿のことだな? そいつがお前の姉を操って何をしたいか」
「操るって……」
カナタスは思わず顔を顰める。フェンザムンの歴史を紐解けば、そんなことは何世代も前から繰り返されてきたはずだった。誰かが誰かを操った、傀儡だった、と書かれている記述はいくらでも目にした。しかしそれが現実に、自分の親しい人物の間で起こるなどと、カナタスにはどうしても思えなかったのだ。
「まだ分からんのか、カナタス。おまえは叔父に嵌められて殺されかけていたのだぞ。そのうち国中が血眼になってお前の首を探し求めるようになる。お前が生まれたのはそういうところなのだ。最初からそうだったのだ。おまえが知らなかっただけだ」
「白き竜、それ以上は……」
止めに入ったレオンの方へルシアが向き直った。
「お前もお前だ。フェンザムン最強の騎士が聞いて呆れる。今甘やかしてもこいつ自身のためにならん。王子を生き残らせたいなら子供扱いはやめろ。もう子供でいられる時間は終わったのだ」
ルシアはそれだけ告げると、外を見てくると言って穴の外へ出ていってしまった。
カナタスはその後ろ姿を見送って、呟いていた。
「叔父上が望むフェンザムンはどんな国なんだろう」
レオンは小石を弄びながら、低い声で言う。
「モルガン様はガントス様のやり方がお好きではないようでした。ガントス様に反発した貴族がモルガン様についていることを考えれば……、フェンザムンは貴族の国に戻るのではないかと思います」
「それは、貴族が納めている税を、前のように平民が払うということか?」
「そうかもしれません。ガントス陛下のおかげで平民が手にしたものはたくさんあったはずです。教育、治安の維持、経済の安定……。そういうものが失われていくとすれば、それは……、個人的な感想を述べさせていただけるなら、とても残念なことだと思います」
今では遠く離れてしまった、フォートレス学園のことを思った。あそこには、貴族だけでなく平民の子供たちもいた。昔は貴族だけしか学べなかった学園は、ガントスの治世で学費さえ払えれば誰でも受け入れるようになったという。リートが利用していた、優秀な成績を収めれば学費を免除する制度も、ガントスの政策あってのことだった。
「俺は、姉上が何を考えているのか分からない。叔父上に同意するのかもしれない。でも、俺は姉上に笑っていてほしいんだ。叔父上が姉上を悲しませるようなことをするのなら、黙ってはおけない。それを確かめるまで死ぬわけにはいかない。それに……、叔父上のやり方がみんなを不幸にするのなら、俺はそれを許せないと思う」
そんな理由でもついてきてくれるか、と訊くと、レオンは真剣な顔でカナタスを見つめた。
「そんな理由ではありません、殿下。命を賭けるに足る理由です」
レオンがそう言った時、入口の方からルシアの声がした。
「覚悟は決まったか? ではさっさと策を練るとしよう」
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