第六話
鉄格子の上に麻の布を張り、物々しい雰囲気を隠した馬車の荷台の隅に、カナタスは身を縮めてじっとしていた。乗っていたのはカナタスだけで、この移送自体も臨時便の扱いのようだったが、他に囚人がいなかったからといってカナタスの気分は少しも晴れなかった。
身に覚えのない罪を押し付けられ、書いたこともない手紙を証拠だと言われても、カナタスは偽の自白などしなかったが、手足に取り付けられた鉄の輪と、そこから伸びる鎖を見ると、本当に悪いことをしたような錯覚に陥るのには気が滅入った。そして、カナタスが無実であろうとなかろうと、そういうものがつけられていること自体、周囲の人々には罪人として映るのだということが余計に彼を疲弊させた。
乗り心地の悪い馬車のせいで眠ることもできず、今が何日かも分からないまま、カナタスは自らを押し流していく運命の濁流に翻弄されていた。
異変に気が付いたのは、周囲が静かになってからだった。城を出てから長いこと、馬車は大きな街道を進んでいたから、他の通行人たちの声や家畜の鳴き声でいつも賑やかだった。時間が経つにつれそれらの声は少しずつ小さくなり、寂れた道に入ったことをカナタスは察していた。辺りが暗くなったところで、馬車は不意に停止した。今夜はここで休むのだろうか、と思ったが、それにしては静かすぎる。いくら寂れているとはいえ、少しくらいは他の旅人たちもいるだろうと不審に思ったカナタスが布の隙間を覗こうとした時、唐突に粗野な声が静寂を破って飛び込んできた。
「そこの馬車の奴、荷と金目の物を置いてきな!」
隙間から外を見ると、馬に跨り継ぎ接ぎの服を着た大男が仲間を従え、馬車の方に剣を向けているところだった。囚人を移送している馬車を襲撃するなんて、とカナタスが賊に同情しかけた次の瞬間、不可解な出来事が起こった。馬車の御者とその周囲を囲んで護衛をしていた兵士たちは、抵抗することなく盗賊たちに道を開けたのだ。盗賊たちも、御者や兵士たちの身に着けている物には何の興味も示さず、まっすぐ馬車の荷台の方へやってきた。それどころか、御者はカナタスが閉じ込められている檻の鍵を盗賊の男に投げ渡したのだった。
何が起きたのか理解できず、鍵を開けて入ってきた男に引きずり出されるまま馬車を降りたカナタスは、呆然と盗賊を眺めていた。
「恨みはないが、死んでくれよ王子サマ」
剣が振り上げられ、ようやくカナタスは自分が殺されようとしていることに気が付いた。剣が月光を反射し、死神の鎌のようにカナタス目掛けて落ちてくる。カナタスは咄嗟に身を躱し、一撃目で存在を消されることを避けた。しかし、彼の幸運はそこでおしまいだった。長く伸びる鎖に足をとられ、無様に転んだカナタスは、次の一撃は逃れられないことを悟らざるを得なかった。刃が振り下ろされる刹那の間に、彼は死の輝きを放つ銀色の光と、それを手にして嗜虐的に笑う男と、その様子を無感動に見守っている人々とを見た。
「――」
自分がその瞬間に何を思ったのかは分からなかった。この不条理に対しての怒りか、自分を脅かす者への恐怖か、こんな状況に陥ってしまった自分への不甲斐なさか、あるいはその全てか。とにかく彼は叫んだ。というより、吼えたに近かった。カナタス・フェンザミアは、生まれてはじめて思うままに声を上げた。
その声に重なるように、変化は起きた。
「殿下! ご無事ですか!」
頭上で火花が弾け、鉄のぶつかる鈍い音が響き渡った。盗賊風の男は突然割り込んできた力に押され、後ろに下がった。その拍子にできた隙間に闖入者が滑り込み、カナタスの盾となるように立った。
「到着が遅れて申し訳ありません殿下! しかし俺が来たからにはもう大丈夫です。このレオナルド・カルディナーレ、命に代えても殿下をお守り致します!」
その場にいた人々に驚愕と恐怖が炎の燃え広がるように走った。レオンはただの騎士ではないし、もちろんカナタスの剣術指南役というわけでもなかった。彼はフェンザムンが誇る不敗の剣士であり、文字通り一騎当千の騎士だった。
「くそ……! なぜ……、異変があれば早馬を飛ばすようにと……」
護衛長が低い声で呻く。レオンは鼻で笑いながら、俺たちの速さに追いつけるもんかよ、と笑った。そして自分が対峙していた男に向き直った。
「どうした? 来ないなら俺から行くぞ」
男の喉が引き攣り、声が漏れる。しかしレオンは容赦などしなかった。
「我が主に刃を向けた罪、命を以て償え!」
中空に銀の弧が描かれるのに遅れて不規則な赤が散り、男が倒れる。見ていた者たちから悲鳴が上がり、怯む気配がした。
「次は誰だ……?」
レオンがゆらりと彼らに向き直り、赤く濡れた剣を構える。レオン、と呼んだ声は掠れていて、誰にも届かなかった。
「一人じゃダメだ、全員で畳みかけろ! お前たちも!」
護衛長が自らを鼓舞するように怒声を張り上げ、兵士も盗賊も入り乱れてレオンに向かって複数人で襲い掛かってきた。レオンは動じることなく隙の多い順にひとりずつ無力化していった。
「レオン!」
敵勢が半分ほどになったところで、相手の方が一旦退いた。カナタスはレオンのマントを掴んで言った。
「レオン、殺さないでくれ! 彼らは命令でやらされているに過ぎない国民なんだ。自分の国の人たちを傷つけたくない」
無敵の騎士はなんとも形容しがたい表情を作り、何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言うことはなかった。視界の端で再び体勢を整え直した兵士と盗賊たちが襲ってきたからだ。
「分かりました。命令に従います」
レオンはそれだけ言うと、まっすぐに敵の正面に躍り出て、傷の一つもつけられない兵士たちに構わず一番後ろにいた護衛の長に襲い掛かった。レオンは彼の剣と兜を弾き飛ばし、捕まえて剣を突きつけると、鍵を出せ、と低い声で言った。
護衛長は裏返った声を上げると、自分の馬に括りつけられた荷を指さした。
「出せ。お前らは動くな。動いたらお前らの上官の首と胴体を切り離してやる」
レオンは低い声で周囲を威圧しながら鍵を取り出させ、そのままカナタスを拘束する鉄の輪を外させた。そしてカナタスを自分の馬に乗せると、人質を突き飛ばして自分も馬に飛び乗った。
「行きますよ殿下! しっかり掴まっててくださいね!」
レオンが馬を走らせると同時に、馬車の方からは一斉に矢が射かけられた。カナタスは思わず目を瞑ってレオンの腰にしがみつく。しかし、雨のように降り注ぐ矢はカナタスたちには当たらず、虚しく地面に突き立っただけだった。レオンは街道を一気に抜けて、森の中に飛び込んだ。
「二人乗りでは逃げ切れませんから、一晩は徒歩です。この森に隠れてあいつらをやり過ごします。お疲れでしょうが今夜だけは我慢してください」
カナタスは思わず背後を振り返ったが、松明の明かりも人の気配もまだはるか遠くで、察知することはできなかった。
追手の存在に気が付いたのは、あまりに何も起こらなかったために追われていると考えるのは杞憂だったのではないかと思い始めてしばらくたった後のことだった。レオンがカナタスを大木の陰に引き込み、一方で黒い馬を背の高い茂みの陰に隠した。追手たちは小枝や落ち葉を無遠慮に踏みしめてすぐ目の前を歩いていったが、幸いカナタス達を見つけることなく遠ざかっていった。
安堵の溜息を吐いたレオンは、何かに気が付いたように周囲を見回した。それに倣ったカナタスは、水の流れる音を聞いた。
「水場がありますね。今のうちに汲んでおきましょう」
レオンは馬の手綱を引いたまま慎重に水音のする方へ近付いていき、カナタスを呼んだ。レオンが発見したのは、森の中に湧いている大きな泉だった。泉の真上はそこだけ木々の枝葉が切り取られたように星空が広がっている。
カナタスが水面に手をつけた瞬間、泉の中央が光った。初めそれは水に映った月だろうと思っていた。しかし、丸い空にあるのは星ばかりで月はない。なんだろう、と目を凝らしているうちに光はますます強くなり、一瞬、目も開けていられないほどの強い光が放たれた後、急に収束してもとの闇に戻った。
レオンがカナタスを背に回して立ち、剣の柄に手をかける。カナタスは視界に浮かんでいる極彩色の靄を追い払おうと瞬きを繰り返した。
「お前も大変だな、騎士よ」
不意に光が放たれた方から声がした。レオンが剣を抜いて息を詰める。待って、とカナタスは声を上げた。
「守るべき王子がそのように甘くては、苦労するだろう」
「何者だ」
レオンが警戒を解かず、低い声で問いかける傍らで、カナタスは不可思議なものを見つめるように目の前の光景を眺めた。泉の光の発生源に現れたのは、ひとりの少女だった。星の光を編んだような銀色の髪と、夜の闇の中でも爛々と光る青い瞳が彼女の存在を際立たせている。歳の頃は十一、二歳だろうか。少女は見た目に似合わず堅い言葉でこう名乗った。
「我が名はルシア。竜の一族の末裔だ」
彼女が一歩近付くたび、レオンはカナタスを背中で押すようにして後ろに下がる。
「そう警戒するな。ガントス王との古き盟約により、彼の王の子を救いに来たのだ」
「根拠は」
短いが重く鋭い声で訊ねるレオンに動じることもなく、ルシアと名乗った少女は肩を竦めた。
「少なくとも敵であるなら、あの光でお前たちの視界が封じられているうちに殺しただろうな」
なるほど、とレオンが頷き、警戒を解きかけた時、ルシアの方が何か聞きつけたように周囲に視線を巡らせた。
「ついでにもう一つ、味方である証拠を見せてやる。ふたりとも私の背に乗れ」
言葉の意味を訊ねる前に、少女の身体が輝き出し、急に大きくなった。泉の中、先ほどまで少女がいた位置に現れたのは、人二人が乗ってもまだ乗れそうなほど大きな生き物だった。二対の青い翼はコウモリの羽に似て、前足には鉤爪がついている。翼と同じ色の青いたてがみが優雅に揺れ、人の姿だった時と同じ色の大きな瞳がカナタス達を見つめた。全身を硬い白銀の鱗で覆われた翼のある蜥蜴、とでも表現すればいいのだろうか、その生き物は確かに『竜』だった。二人が呆気にとられていると、遠くの方で人の声がした。
「驚かせてすまぬな。おまえの主人を少し借りる。良い子で待っていてくれ」
竜は傍らにいた黒馬ヴァレリオにそう語りかけ、カナタス達に鋭い視線を向けた。早くしろ、と言わんばかりの態度に圧され、ふたりは慌てて竜の背中によじ登った。
「逃れるなら空がいちばんだ」
ルシアはそう言うと、二、三度大きく羽ばたき、泉の真上に開いた木々の穴を抜けて夜の大空へ舞い上がった。竜の周囲では激しい風が巻き上がり、しがみついている人間を吹き飛ばさんとする。ルシアが方向転換した拍子に身体が浮き上がり、飛ばされかけたカナタスを、レオンが上から押さえつけた。
竜はその翼で夜空を滑り、泉の地点よりもっと深い森の中にある高く大きな針葉樹の上に二人を下ろすと、再び人間の姿に戻って同じ枝に舞い降りた。
「一晩ここにいれば奴らも諦めて一旦は帰るだろう」
ルシアはそう言って木の枝に腰掛けた。カナタスもそれにならって腰を下ろそうとして、やめた。今が夜でよかった。昼間だったら下を見て高さが分かってしまっただろう。
「レオン、でも馬は……」
彼はまだ現実感のない様子で答えた。
「ヴァレリオは賢い馬だから大丈夫です。見つかっても上手く追っ手を撒いて戻ってくるでしょう」
「なんだ、それならよかった」
カナタスがひとつ安堵したところで、傍らのルシアが不機嫌そうに声を上げた。
「カナタスと言ったか、王子。お前、王子のくせに随分甘ったれだな」
無遠慮な物言いに思わず顔を顰めたが、ルシアは構わず続けた。
「誰のせいでこうなったと思っている? あの場でそこの騎士が全員を打ち倒していれば、お前たちは夜中に木の上に逃れたりしなくてよかったのだ。城への連絡ももっと遅くなっただろう。お前が敵に中途半端な情けをかけたせいで、お前とその騎士は不利な立場に立たされるぞ」
「で、でも、彼らはフェンザムンの国民だ。俺個人を恨んでいるわけでもない、ただ命令されてやったに過ぎない人たちだ」
ルシアが露骨に呆れたように溜息を吐き、次の言葉を浴びせかけようとしたのを、レオンが制した。
「古の銀の竜よ。今夜のところはそれまでにしてはいただけませんか。カナタス殿下はお疲れです。疲れた時に難しいことを考えられるほど、人間は強い生き物ではないのです」
竜の少女は端正な顔を顰めて鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「主君が主君なら、臣下も臣下だ。私が協力したところでガントス王は浮かばれぬかもな」
呆れられてしまったレオンは、しかし気分を害した風もなく、きっぱりと言い切った。
「大丈夫です。カナタス様はこのまま敵に倒されて終わるようなお方ではありません」
カナタスはその言葉を、フェンザムンの空にかかった三本の環とその向こうの星を眺めながら聞いていた。果たして自分は、これからどうすればいいのか、皆目見当もつかなかった。
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