第五話
ソフィスこと、ソフィステス・アネモスは獄中で大いに腹を立てていた。子供の頃、父を亡くし、下級貴族として平民よりも質素な暮らしをしていた彼の母が貯蓄を切り詰め、書物の読みすぎで目を悪くした息子のために買ってくれた眼鏡をとられた時、彼は首謀者を捕まえて顔の形が変わるまで殴った。王立大学では身分の差を理由に論文が不当な評価を受けた際、彼は公開討論を開いて教授を言い負かした。一見物静かに見える彼の内側では激しい嵐が渦巻いていて、時としてそれが言葉や行動として表層に出てきては周囲を驚かせたものだったが、今回はそれらの比ではなかった。ソフィスが怒っているのは不当に監禁されていることにではない。尋問が長すぎることにでもない。彼が何よりも一番腹を立てていたのは、この国の上層部が法を犯したことだった。
王を
ソフィスは正義を信じていたし、フェンザムン王国が法を守るものだと思っていた。少なくともガントス王の治世下ではそうだった。だからこそ、不正な評価をした重鎮と揉めて学会を追放されていたソフィスは、自分を見出してくれたガントス王に従い、現在の職についたのだった。そしてソフィスは、正義を重んじるがゆえに、そうでない者の不意打ちには弱かった。年齢を重ねて経験を積み、法と秩序を犯そうとする者たちと繰り返し対峙することができていれば、今回のことは事前に防げたかもしれない、少なくともカナタス王子だけは守ることができたかもしれない、とソフィスは思う。運命の荒波にうまく乗るには彼は少々若すぎた。
しかし、起きてしまった出来事に対し、若輩者だからといって言い訳が立つわけではない。襲い来る魔の手には今あるもので抗うしかないのだ。
〈お前たちが法を破ったのなら、私がここで従う道理もありません〉
フェンザムンの祖であるエルディン王の時代に使われていた古い言葉でそう言った時、誰かが独房の前に立ったのに気が付いた。交代の兵士だろうか、それとも移送の時刻が変わったのか。しかし、それにしては気配が静かすぎる。まるでわざと消しているようだ。
扉の向こうに立った何者かは、低く抑えた声でこう言った。
〈あるお方からの言伝です。『獅子は発った。あなたも思うようにせよ、私は味方をする』と〉
ソフィスは目を瞠った。扉の向こうの人物が発したのは、ソフィスの独語と同じ古い言葉だったからだ。古典の言葉は、習った者でなければ分からない。
〈どなたの使いですか〉
ソフィスが問いかけると、まだ若そうな声が再び聞こえた。
〈シェーンブルクの友です〉
ソフィスは驚愕し、思わず手で口元を押さえた。扉の向こうの声は「ご武運を」と短く告げると、音もなく去っていった。
シェーンブルクとは、フェンザムンの西方にあるシェーンブルク領のかつての主の名であった。最後の当主は王家の血を引く貴族の娘と婚姻を結び、つい十年ほど前まで王家の親族で構成される『十貴族』に名を連ねていた。しかし十年前、彼は王都フェンデントでの会議期間中に不可解な死を遂げた。この事件は当時彼と対立していたモルガンの陰謀ではないかとも囁かれたが、結局調査は宮廷魔術師預かりとなり、詳細は公表されることなく人々の記憶からも忘れ去られてしまった。シェーンブルク家その後、は謀反の疑いありとして潰されたとも、残された妻子は自害したとも伝えられているが、真相は不明である。
そんな不穏な噂のつきまとう名をわざわざ出してきたということは、言伝の主はモルガンに対して反発を抱く人物、ということになる。条件にあてはまる人物には心当たりがあった。ガントスの施策に賛同し、シェーンブルク領主と親しかった人物となれば、エルナン・カルリオン伯爵だろう。彼はフェンザムン東部の沿岸を統治する、力のある貴族だった。
もはやこれ以上待つ必要もないだろう。ソフィスは意を決し、奥歯の隙間に隠していた小さな丸薬を飲み込んだ。それは有事の際の脱出プランの一つで、事件が起こるはるか以前から用意していたものだった。ほどなくして全身に痺れが走り、眩暈と耳鳴りがして、ソフィスは床に倒れ込んだ。物音を聞きつけた兵士が入ってくる。
「なんだ!? おい、誰か医者を呼んで来い!」
薄れていく意識の中でソフィスは密かにほくそ笑んだ。連れて来るなら、この国一番の名医を連れて来るといい。そういう人物となら、知恵比べも悪くない――。
再び目を覚ました時、ソフィスは検死台の上に寝かされていた。今は他に死体もないようで、隣の台には何もなかった。身体の異常はなくなっており、薬の効果は切れている。ソフィスはしばらくそのまま台の上に横になっていた。生きながら解剖の危機だったことも今の彼にはさして問題にならない。ソフィスの調合した『仮死状態になる薬』は計算通りの効果を発揮し、医者にも魔術師にも死んでいるとしか思えないほどの出来だったということを、この部屋が証明していたからだ。
やがて扉が開き、検死を行うために医者が入ってきた。ソフィスは医者が解剖道具を置き、ソフィスに背を向けた瞬間を狙って素早く身を起こし、医師の首に腕を巻きつけて絞め落とした。レオンに教えてもらった技のひとつだ。気絶した医師を放り出し、ポケットの鍵を奪うと、ソフィスは廊下へ滑り出た。
数時間後、意識を失っていた医師は、警備隊や魔術師たちに死体が動いたと報告し、城内の死体を探し回った人々は、どうやらそれが本当であることを知った。モルガンとラミューは自分たちが選んだ
城を抜け出し、馬を一頭奪ったソフィスは、一路西を目指して駆けていた。彼にはこの国がこれから進もうとしている道と、カナタス王子が生存するための唯一の道が見えていた。そして、その道を切り拓くことが自分の役目であることも理解していた。そのためには、彼はどうしてもフェンザムンの中央を流れる大河、『安息の川』を越えて西部の領主たちに会わねばならなかった。
「頼みましたよ、レオン――」
彼は上手くやるだろう。こんな場面ではへまなどしないだろう。だから自分も上手くやらねばならない。彼がその剣で道を拓くように、自分は知性と言葉とで活路を拓くのだ。
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