ブレイバーン倫理学
(注)「バーンブレイバーン」に関するネタバレが含まれています
「バーンブレイバーン」主人公のアオ・イサミは、作品冒頭で優秀なパイロットであることが示されている。いくつかの国が合同演習しているようであり、その機体を見事に操縦している。だが、突然見たことのない敵が現れたことにより、状況が一変する。イサミは実戦に怯え、誰も敵に対抗できない状況になるのである。
もちろんこれで物語が終わるわけはないのだが、ここに一つの示唆がある。各国の優秀な人材がそろっている場でも、未知の敵には打ち勝てなかった。「人類の力を越えた何か」が求められる場面なのだ。
そこに現れたのが正体不明の巨大ロボット、ブレイバーンである。彼には意志があり、イサミを操縦室に迎えることにこだわっている。彼らの間に、きちんとした討論はない。ブレイバーンがイサミを指名する理由は不明であるし、求める役割もわからない。そして何より、人類にとってブレイバーンは、「突如現れた敵のほうに似ている」のである。敵か味方かわからない段階で、すぐに協力の決断をするのは困難である。
宇宙からやってきた者に、倫理的な態度を求めるべきかはわからない。しかし後にわかるように、ブレイバーンは倫理的に振舞える存在でもあった。性格からそのようにしか振舞えなかったという見方もできるが、あえて彼が「世界のため」「イサミのため」強引な態度を取ったとしたら。それをどのように解釈したらよいだろうか。
この作品は一話から、「コミュニケーション」というものが非常に重要な要素となっている。多くの国から軍人・自衛隊員が集合しており、そこでは円滑なコミュニケーションが求められる。イサミとスミスは、演習では非常にいい関係のように見える。だが、自らの感情を戸惑いなく表現するスミスに対して、イサミはどこか内に秘めた感じで、取り繕っているようである。
平和な時間が長く続けば、二人の関係は良好に構築されていったかもしれない。しかし敵の襲来は、そのような猶予を与えない。「ゆったりとしたコミュニケーションの時間」が取れない場合、「緊急の関係」が優先されるのである。スミスはイサミと友情を育むことも、ヒーローになりたいという願望を叶えることもできない。
だが、ここに新たなコミュニケーションの対象が現れる。ルルである。彼女も宇宙由来の何かのようだが、最初は「ガガピー」としか言わない。人間との会話はできず、行動も自由である。しかしスミスには懐いており、片時も離れようとしない。彼女は話が進むごとに言葉を覚え、人間の大人に近付いていく。コミュニケーションの能力も発達していくのである。最初は被害にあってばかりだったイサミも、対等に付き合う対象となっていく。ルルは倫理的にも成長していく存在と言えるだろう。
では、敵はどうか。敵はデスドライヴズと呼ばれており、金属の生命体であるらしい。彼らは死を求めており、それぞれが特徴的な欲望を有している。地球人とのコミュニケーションも可能なようだが、基本それを望んではいないようである。彼らは傲慢であり、自らの目的を果たすことに執着している。しかしスペルビアだけは、彼らとの対話を重ねていく。ルルを取り返すのが主目的ではあるのだが、そのために適切なコミュニケーションを取るのである。彼がルルを搭乗させるためにも、ルルとのコミュニケーションを良好にし、思いをつなぐ必要があった。敵もまた、成長を遂げる可能性のある存在だったのだ。
ブレイバーン、イサミ、スペルビア、ルルの四人は、親友のように同じ時間を楽しむ関係にまでなっていく。緊急時には強引であったり幼かったりしたコミュニケーションが、適切な形になっていくのである。
では、「中庸」という観点からはどうだろうか。アリストテレスは「恐怖と平然に関しては勇敢がその中庸である」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』p.73)と述べる。勇気に関して、ありすぎてもなさ過ぎてもいけない。勇敢であるとは、中間のちょうど良い状態なのである。登場人物の名前からもタイトルからも、「勇気」が作品の根底となるテーマであることは明白である。そして「勇気爆発」という言葉は、勇気の「過剰」を求めているようにも読み取れる。
果たしてブレイバーンは中庸を求めず、過剰な勇敢さを求めているのだろうか。これに対しては、二つの解釈ができると考える。
一つは、過度な勇気、「無謀」が求められる状態であったということだ。地球側の先鋭部隊が集まる地においても、宇宙から襲来した敵には対処できなかった。圧倒的な力、倫理観のない敵と対峙するには、無謀ともいえる過剰な勇気が必要だったのかもしれない。
もう一つは、そもそも勇気が足りなかった可能性である。イサミは優秀ではあるが、臆病である描写がいくつかある。マイナスだったイサミの勇気を少しずつ育てる余裕なく、勇気の爆発によって「中庸に至らせる」必要があったのではないか。
イサミを元気づけるため、ブレイバーンは彼を皆の集まるパブに連れて行く。彼は適切なコミュニケーションの方法を知っており、時間をかけて勇敢に至るのを待つ場合もあるのである。しかし戦場では、イサミの成長をじっくりと待つ時間はない。勇気の「熟達」ではなく、「爆発」が必要なのである。
敵は皆欲望に対して偏執的で、その意味では「過剰」を体現したかのような存在である。行き過ぎた欲望に対抗できるのは適切さなのか、それとも過剰さなのか。ブレイバーンはその点を考えさせるヒーローでもある。
「正義のヒーロー」としてのブレイバーンはどうとらえることができるだろうか。敵に対して対応するのが最初は軍であるように、正義のために武力を以って戦うことは平等に課せられた義務ではない。戦闘に向かない者までもが戦うことを平等に強いられても、良い結果は得られない。「正義の配分」の考え方では、義務・権利・恩賞などは、能力や業績に比例して配分される。物語における「正義のヒーロー」は、絶大な力を持つため、強力な敵に対してその力を振るうことが求められる。多くのヒーローは、突出した正義の心ではなく、突出した能力によって正義のヒーローへと導かれる。
しかし、ブレイバーンは正義のヒーローを目指し、そのために力を欲した。彼は他者よりも重い義務を負うことを、力を得る前から「欲していた」と言える。彼には、正義のために戦うことへの葛藤は存在しない。悩み、戸惑い、恐れ、そういった「正義のために乗り越えるもの」は、全てイサミが抱えることになる。
イサミはブレイバーンとは対称的に、他者よりも大きな義務をすぐに受け入れることができない。大きな義務の求められる根拠が「ブレイバーンがそう望むから」である以上、もちろんすぐに納得できようはずもない。しかし他の人々は、正義としてのブレイバーンを受け入れている。彼らにとって、他に選択肢がないのである。
大きな力を持った者に正義の心がない場合、人々は困ることになる。配分を徹底した社会ならば強制も可能だろうが、「能力があるのだから人々のために戦え」という姿勢はなかなか取れるものではない。「バーンブレイバーン」は、「力あるヒーローが強い正義への憧れも持っていたパターン」と言える。そして多くの物語にあるような、正義の味方として成長していくのは「勇気の足りない」イサミであり、イサミが自らの役割を受け入れ、いかに「勇気を爆発させるか」がこの物語の肝であると感じる。
その言動の奇怪さから見失いがちだが、ブレイバーンは身も心も正義のヒーローである。そして彼は、イサミと共に戦うことでより強くなる。イサミは決して悪ではないが、自らの役割を決められずにいる。物語では、「完ぺきではない世界線の未来」もあったことが示唆される。人類が戦う相手は敵だけではなく、時間でもある。コミュニケーションの時間。決断する時間。行動のための時間。無理やりにでも、我がままにでも正義の味方は限られた時間の中で戦わねばならない。これはそういう物語ではないか。
一見すると、イサミ以外はブレイバーンやルルをすんなりと受け入れ、地球外生命も平等に受け止めているようである。しかしブレイバーンは敵と戦うための兵器、道具である。むしろブレイバーンに対してはあからさまな嫌悪感を抱いてもおかしくないところを、勝利という目的のために我慢しているようでもある。イサミだけが、「ただただうざいブレイバーン」を対等な存在として認めたうえでのあからさまな嫌悪という態度をとっていると言えるかもしれない。
ルルもまた、幼児のような対応をされている。攻撃能力は大人並みで、スミスやイサミは痛い目にも遭っている。それでも許されるのは、彼女が「対等に扱われていない」からではないだろうか。しかし後に、彼女の「ガガピー」は一つの言語であることがわかる。多くの人間が彼女を「幼児語を喋るような存在」と受け止めていただろうが、それは地球人を基準にした解釈だったのである。
デスドライヴズもまた、過剰な欲望を原動力にしているように人間には感じられるが、彼らにとってはそれが普通なのかもしれない。征服などの目的で戦争をする地球人のことが、彼らには奇異に映るかもしれない。
だが、分かり合えないからと言って分かり合うために時間をかける余裕はない。「戦い」は実際にあり、人類の存亡がかかっているのである。この作品では、「地球人基準でしか計れない倫理的関係性の可能性」と、「倫理的関係性を築いていられない可能性」が示されている。人類すべての平等を重視し、人間以外にまでその関係性を広げていこうとしている現代人にとって、倫理的関係性を持てない知的生命体の存在は混乱の原因となるだろう。
「爆発させる勇気」の中には、敵は敵として諦める、倫理的関係性は築けないと「諦める勇気」も含まれているのかもしれない。そのあきらめは振り返れば、大きく間違っているかもしれない。例えば、もっと穏やかに接触してくる、悪意ある宇宙人がやってくるかもしれない。もっと人間に近く、単純に征服を目指す宇宙人がやってくるかもしれない。そのような存在を目の前にしたとき、私たちが振舞うべき態度はどのようなものになるか全くわからない。それを乗り越えていく勇気が必要なのだ。過剰なぐらいに必要かもしれないのだ。
引用・参照
アニメ
CygamesPictures 「バーンブレイバーン」(2024)
書籍
アリストテレス・高田三郎訳『ニコマコス倫理学(上)』岩波文庫、1971年
Habermas, Jurgen “Der philosophische Diskurs der Moderne”(Suhrkamp, Frankfurt am Main, 1985)
Rawls,John “A Theory of Justice” (Harvard University Press, 1971, revised ed., 1999).
妖精が見えない日に考えること(創作エッセイ) 清水らくは @shimizurakuha
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