第11章
ドアに背を預けたまま、大西が祥子の顔をみつめると、祥子は相変わらずきょとん、とした顔をしていた。
大西の表情を見て、何かを察したのか、祥子はふっと吹き出した。ク―――ッと笑いをこらえるような声を漏らすと、また、アッハッハッハッハと笑い始めた。
「まさか、あなた、拓朗さん、あなた、もしかして、何もご存知なかったんですか?」
祥子のその言葉に、大西は、頭の中に汗がしたたるのを感じた。
「誰しも、みな、ご存知じゃないですか。この町では公然の秘密なのに、本当に、それを、ご存知なかったんですか?」
祥子は笑いながら話している。大西はふと、もしかしたら祥子が自分の罪をごまかすために、そんなことを言い出しているのではないかと疑った。
だいたい、考えてみればいい。小夕実が何に苦しんで、どうしてあんな憂鬱な少女だったのか。みんな知っていれば善処のしようがあったではないか。江村氏も、精神科医にかからせるなりしただろう。原因がはっきりとわかっているのなら、治療のほどこしようもあったのだ。
大西の鼓動は、激しく高鳴っていた。高鳴りながら、
「何言ってるんです。」と言葉を継いだ。「何を言ってるんです。それじゃあ、みんな、役場の人間が冤罪をかけられたのを知っていて、そのまま放置したっていうんですか? 小夕実が、あんなに苦しんでるのを知っていて、それでも、その原因を知ったまま、放置したって言うんですか? そんなばかな」
「そうですよ。」
祥子はきっぱりとそう言った。そしてまた笑みがちに、
「そう。皆さん、とうの昔からご存知なんですよ。どこまでご存知なのかは私も知りませんけどね、私が隆をあの小屋に連れ込んだことと、あそこに隆を小夕実が閉じ込めてしまって、そして隆が死んでしまった、ということは、みなさんご存知でいらっしゃいますよ。ご存知でいらっしゃるから、本当のことはいつまでたっても表に出てこないで、上手に隠し通されてきたのじゃないですか。」
うつむいて、笑いながら話す祥子の目から、涙がこぼれていた。それでも祥子はまだ、笑っている。その姿が、大西にはとても演技と思われなかった。祥子のその姿は、語っている内容を疑いようもなかったが、語っている内容そのものは、大西には信じがたいものだった。
「じゃあ」大西の声が上ずっている。「じゃあ、あの休憩所の鍵をかけたという役場の人は、冤罪のまま町を追い出されたんですか? 小夕実は、みんなにその罪を知られたまま、誰にも助けられなかったんですか。なんでそんなこと」
「たとえ過失であっても、この家から犯罪者を出すわけにはいかないからですよ。この町は――この家は、どんな罪を犯しても、罪を犯したことが許されない。私は、罪を償うことさえ許されない、飼い殺しのまま」
「あなたが知っていたなら、あなたがわかっていたなら、あなたが、あなたが言えばよかったことじゃないですか。そしたら、小夕実だって」
「だって」祥子は、涙で顔が汚れているのに、姿勢を起しながら大西の顔をじっとみつめた。目が、光って見える。
「だって、あの女を、追い出してくれるって言ったんですもの。」
「あの女?」
大西は口に出した途端、隆の母親のことだと思った。
「私が、あの小屋に隆を連れて行ったといったら、きみ、この家にいられなくなるよ、と言ったのよ。でも、私さえ黙っていれば、家の体面も保てるし、あの女ももうこの家にいる必要もないからって、はっきりとは言わなかったけれど、江村が」
大西の口の中で、歯がガクガクと音を立て始めた。
ウソだ、と心の中で叫んでいたが、声にはならなかった。頭の中に、江村の顔が浮かぶ。それは、どこまでも温和そうな、笑みをたたえた男の顔だった。確かに、特に男前とはいえなかったが、女好きされそうな、ムードのある男だった。幼い頃から彼を見てきた大西には、そんなことを言うような「おじさん」にはとても見えなかった。
「誰がいけなかったのかしら―――何がいけなかった」
祥子の声でふと、大西は我に返った。
「あの女がいけなかったのよ。」
大西は、これ以上の話をきくことは自分の限界だと思った。なのに祥子は、そのまま話し続ける。声が、大きくなって、目が、目が涙でぬれて光っている。恐ろしい形相だった。彼は、声も出なかった。汗がじんわりと背中ににじんで、その場に倒れこみそうなのに―――それを必死でこらえた。
「あの女が、つまらない我をはらなければ、こんなことにはならなかったのよ! だいたい、知ってたのよ? 江村には、私がいるって知ってたのに、それなのに、づかづかとこの家に入り込んできたのよ。知ってて、普通入りこんでこないでしょう? 何なのよ、あの女! それでも、それでも、入ってきた、あの女、くだらない、最後にこの家にこなければ、こんな目にもあわなかったのに、といってやったら、なんて言ったと思う? 『だって、ほしかったんですもの』ですって。あんな虫も殺さないような顔をして、『だってほしかったんですもの』ですって。どこぞの政治家のパーティーに出席して、江村に一目ぼれしたのですって。お話が来たから、天にも昇る心地で、お嫁の話を進めてもらったの、ですって。アッハッハッハッハッハッハ!」
祥子は笑いとばした後で、細い泣き声をあげながら、両手で顔を覆った。部屋の中に、とてつもない哀しみが立ち込める。大西は、その哀しみに包まれながら、自然と落ち着きを取り戻していくと、この女は、何を基準に生きているのだろう、と思った。大西には、理解できない世界だった。自分で選んでおきながら、この祥子の、後悔と憎しみは何だろう。この、隆の母親に対する憎しみが、隆を殺し、小夕実を殺したのだろうか。
一体なんなのだ。
「それでも」と泣き声をこらえながら、祥子は言葉を継いだ。「それでも、隆が生まれなければ、私、江村を許していたわ。」
大西は、頭の後ろから、すーっと血の気が引いていくのを感じた。祥子につられて、気持ちを高ぶらせすぎたのだ。激しい目まいで床に叩き落とされる前に、何とか自分を取り戻さなければいけない。
そもそも、ここに自分は一体何をしに来たのだろう。
小夕実が死んだのは、隆が死んだのは、一体誰のせいかと、尋ねにきたのではなかったか。
そうだ。それで、この「家」が、祥子を黙らせ、祥子の「憎しみ」が、結果として事件を隠蔽させたのだ。隠蔽された結果事件は明るみにならず、小夕実は―――、
「でも」大西は言葉を探した。「あなたが、真実を知っていたあなたが、あの後、小夕実を救おうとしたかどうか、というのは、別問題で」
そこまで言った後、自分はどうなんだ、という言葉が大西の脳裏に返ってきて、彼の言葉を止めた。
姿勢を正しながら、「わかりました。」と言った。何がわかったのだろう、と彼自身が思った。「ぼくが知りたかったことを、話してくださって、ありがとうございます。すべて、もうどうしようもなくて、本当に、僕自身も、もう―――」
自分自身どうだというのだろう、と思いながら、やはり、その答えさえ、思いつかなかった。
すべて、終わってしまったことなのだ―――、それだけは、確かにわかる。とりかえしのつかないことなのだ、ということ、それだけは、確かにわかる。でも、わかったところで、一体何になるというのだ。
目の前の祥子は、相変わらずベットの上に座ったまま、涙に汚れた顔で大西をみつめている。
「ぼくは、もう、失礼します。明日、朝、あちらに戻ります。また帰ってきましたら、ご挨拶にうかがいます。どうか、おばさんも」大西は目を見開いた。また、気が遠くなりそうになる。「おばさんも、す、すぐには無理だと、思いますが、気を、しっかりもって、健康には、どうか、気をつけて」
気が遠くなりそうになりながら、祥子の「ありがとう」という言葉だけきちんと聞き取った。その言葉を聞き取ると、幾分かほっとして、
「じゃあ、ぼく、これ、で、しつ、れい、し、ます。」
言いながら、ドアを開けた。中をろくに見ずに、頭をさげて、部屋を出た。
廊下は、おそらく大西のために、明かりがつけられていた。気がつけば、体中に汗をかいている。握り締めた手の中も、額も、シャツの中も。歩みだすと、体がガクガクといっているのがわかった。我もつかめぬ心地で、階段へと廊下を歩き出したが、ふとまた自分を失いそうになり、それから、ゆっくりと、さっきいた部屋のドアを振り返った。
オレは一体、何をしにきたのだろう。
オレは一体、あの部屋で何をしていたのだろう。
それでも、頭の中で、家まで帰らねばならないのだ、ということだけはわかっていた。家の中央にある階段まで歩みより、下をのぞくと、上を見上げていた村瀬と目が合った。
「拓朗さん、お帰りですか?」
村瀬の顔をみて、少しほっとする。
「ええ」
「お話はお済みですか。」
「はい、お邪魔しました。あの…」
大西はなぜか、自分の汗ばんだ体を村瀬にさとられるのがいやで、階段の上から降りずに村瀬に話し掛けた。すると村瀬の方から階段を上がってきたので、どぎまぎしながら、
「江村のおじさんは、今いらっしゃるんですか?」
と尋ねた。村瀬は階段を上がりながら、「いえ」と言葉を継いだ。「お客様を送りにいってらっしゃいますので、今日は遅くおなりだと思いますが」
「明日は。」
「明日はどうなさるともきいておりません。朝お電話いただければお会いできるかもしれませんが」と村瀬が間近まで階段であがってきたと思ったら、おもむろに先ほどの寝室のドアが開いた。大西がギョッとする。寝巻きにガウン姿の祥子が姿を現すと、振り返って言葉もなく祥子を見ていた彼と目があった。祥子はにこやかに、
「あら、拓朗さん、今お帰りですの?」
と尋ねた。
「え、ええ」と何とか返事をしたが、それはいやみだろうか、と思う間もなく、祥子の口がゆっくりと動いて、
「さゆみ――っ?」
と大きな声で叫んだ。それから、廊下を東の方に向いて歩きはじめた。大西の横を通過しながら、
「さゆみ――、拓朗さんがお帰りになるそうよ――。あなた、どうしたの、お見送りもしないで。」
と、東端の部屋に向かって話しかけている。汗ばんだ大西の体から、またどっと汗が出るのを感じた。
「さゆみ―――っ?」
祥子のその叫びで、大西は階段を駆け下りた。
大西は、叫んだ、叫び続けたその声は、声になっていなかった。口を大きく開けて、叫び続けているのに、声が出ない。階段を駆け下り、一階の廊下を走りぬけ、玄関に達して靴をはこうとしたところで、何者かに体をつかまれた。振り返ると、村瀬だった。
「拓朗さん、拓朗さん」そういうだけで、村瀬の息は激しく弾んでいる。「奥様は、奥様は」息が弾む中で、村瀬の目は潤んでいた。彼女は両手で大西の両腕をつかむと、彼を見上げ、「奥様は、混乱していらっしゃる、だけなのです。おくさまは、こんらん、して、いらっしゃる、だけなのです。あまりに、いろんなことがありすぎて、たから、こん、らん」
村瀬ははあはあと大きく息をあげ、声がつまった。息があがっているのは、大西も同じだった。「あなたも」ショックで混乱する頭で、大西は言葉を吐いた。「あなたも、小夕実を殺したのか、あなたも―――!」
そういうと、村瀬はギョッとして、大西の体から手を離した。
「いいえ!」
大きく首を横に振った。
「いいえ! お嬢様は、誤って、井戸に落ちてしまわれたのです。お嬢様は!」
大西は、村瀬の返事をきき、自分の言ってしまった言葉にギョッとした。すると、大急ぎで玄関を駆け出すと、一散に、逃げるように、江村の家を後にした。
ちがう―――――
頭の中で、叫んでいた。
ちがう――――、ち、が、う…
寒さに思わず、大西は目を覚ました。
部屋の中は、真っ暗で、いつ寝たのかも覚えていない。ぼんやりとした意識の中で、目の前に、というより、頭の上に、部屋のドアがあるらしいことはわかった。目が慣れてくるに従って、部屋の窓にカーテンがひかれておらず、外の明かりが部屋の中に差し込んでいるのがわかった。
板張りの感触が、背広の下から伝わってくる。
汗をかいていたのに、その汗を拭かずに、帰るなり床の上に寝転んだから、余計に寒かったのだ。
大西は、寒さに耐えられず、立ち上がって部屋の明かりをつけた。けだるくて体にこたえる。
時計は九時少し前だった。
ただでさえ、長く留守にしている自分の部屋なので、少しも生活感がない。八畳の部屋にはベッドの上に、祖母が帰ってくる前日に用意しておいてくれた布団が乗っているだけだ。その布団も、結局昨日の夜は使っていない。その整頓された、人の感触のない部屋が、大西をことさら寒く感じさせた。
何よりも、先に風呂に入って体を温めなければ、たちどころに風邪をひいてしまうと思った。医者の不養生という言葉と、診察室の情景が頭をよぎる。彼は、持参したかばんの中から下着を出し、タンスから寝巻きを取り出しながら、明日はもうあそこに帰るのだと思った。
白くて、明るい印象ばかりが、頭の中に浮かんでくる。
幸福でもなく、ちっともゆったりした空間でもないのに、今はなぜか、あの場所の方が平和にさえ思えてくる。
乾いた、清潔な、いつもの、場所。そこで、ほとんど無味乾燥に、当り障りのない、時には事務的な、動作と会話を進める、あの場所が、とてつもなく気楽な空間に思えた。
人の感情の絡まない世界は、なんと、ラク、なのだろう。
大西は着替えをもって部屋のドアを開けると、廊下に出た。すぐ目の前にある階段を下りながら、そういえば眠っている自分に、何度か祖母が声をかけにきたことを、ぼんやりと思い出した。ご飯はどうするのか、お風呂はどうするのか、と、いったようなものだった。
その問いに、ドアごしに「要らない」と辞退し続けたような気がする。
魂がすべて飛び出してしまうようなショックと哀しみが、体の中から溢れ出して、大西は口を大きく開けてあえぎながら、でも声にはならないで、とめどなく涙を流し続けた。
もう、何も考えられなかった。ただ、感情の塊がそこにあって、それが抜け出さんとするばかりで、他には何も残っていなかった。
正常な思考をすること自体無理だったのかもしれない。
階段を下りきると、食堂のドアがあって、ドアに刷りガラスがついているが、中の明かりは消えていた。階段から玄関の方をのぞいても、廊下も玄関の明かりも消えてしまって、階段の明かりがなければ真っ暗だ。
祖父母はもう、自分の部屋に戻ってしまったらしい。
大西は、階段から向かって一番遠いドアを開けて、脱衣室に入った。着替えをかごにいれ、よれよれになった喪服とカッターシャツを脱ぎ捨て、裸になると、浴室に入り、とるものとりあえず浴槽のふたを開けた。勢い洗面器をとって体にお湯をかけると、じゃぽんとお湯の中に入った。湯沸しのボタンを押して、温度をあげる操作をする。湯の中につかると、体の中から冷気が出て行くようで身震いした
次第に温まっていく体に、やっと人心地がついた気分になる。
大西は浴槽の中、両手にお湯を救って顔を洗うと、体を浴槽に預けて、大きく天井を仰いだ。
体のしんから、温まっていく。
すると、予期せず目から、ほろほろと涙があふれて、こぼれ落ちてきた。
彼は慌てて体を起こすと、両手で顔を覆った。
浴槽の中で中腰になって、歯をくいしばり、必死になって涙をこらえたが、とめどなく、後から後からあふれてくる。
何が哀しいのか、自分でもわからなかった。
何が哀しいのか、言葉にさえならなかった。
もう、いい年だろう、と思うのに、こんなに泣いてはいけないと思うのに、どうしても、後から後から涙がこぼれてくる。
元々、彼は涙もろいのかもしれなかった。それでも、哀しいときは、影に隠れて泣く努力はしていた。
泣いてはいけないのか。
泣きたいのだ。
自分の影がかかった湯のおもてをみつめながら、ふと、「きみ、医者には向いてないんじゃないか」という言葉が頭をよぎった。
Mの言葉だ。
まだ、医師国家試験に通って間もないころ、確か若い母親の臨終に立ち会ったことがある。隣でなきじゃくる子供の哀しみに、自分も覚えていないはずの、親を亡くしたときの過去がシンクロして、涙をこらえきれず病室を出たことがあったのだ。そのときMはいなかったはずなのに、どうやら看護婦の誰かにまた聞きしたらしい。大西の境遇を思えば、そのMの言葉も冷たかったかもしれないし、あるいは、MにはMなりの「そんなことで医者が続けられるのか」という励ましの言葉だったのかもしれない。
「倫理的には確かにきみの優しさだとか、必要なものかもしれないけどね。なんだかんだいって、現場は戦場だと思うし。」
ほとんど表情も変えず話すMの顔を見つめ返しながら、耳が熱くなるのを感じた。看護婦には、隠し通せたつもりでいたのに、誰にもばれないでいたはずなのに、という思いもあったし、自分のもろさを見透かされた、という思いもあったのかもしれない。
いや、もろいつもりはなかった。
幼い頃から親なしに今日まで生きてきたのだ。
でも、それではだめなのだろうか。
その程度では、いけないのだろうか。
ではMは、と大西は思った。
あの男はこれまで、どれだけの苦痛と、どれだけの苦難を乗り越えてきたというのだろう。
母親は亡くしたらしいが、父親はいることだし、田舎の資産家の、つまりはお坊ちゃんではないか。ぬくぬくと育ってきたお坊ちゃんに、一体どこまで、何が、わかるというのか。
大西は、また、浴槽に体を預けた。
世界はどこもしがらみばかり、少しも自由になれず、両手で覆った目頭が、じんわりと、熱くなった。
風呂からあがり、脱衣場で寝巻きを着けながら、隆の死因について考えていた。
隆があの休憩所に閉じ込められ、そこで「喘息の発作を起こして死亡した」、という事実は、おそらく、あの事件の何をごまかしても、街の人間には間違いないと思っているだろう。しかし、祖父が小夕実の死亡原因を書き換えた事実からして、本当に喘息の発作で亡くなったのだろうかと思う。
死因がどうであろうと、あの休憩所のロフト部分に隆はあがり、結果閉じ込められて死んだ事実に、変わりはないかもしれない。しかし、祖父の、小夕実の死に関する行為そのものと、隆の死までの経緯が腑におちなかった。
大西はスリッパをはき、脱衣場を廊下に出ると、廊下の寒さに一瞬身震いを覚え、上着を羽織った。
廊下を少し歩いて、診察室へのドアを開けた。中が真っ暗なまま、「非常口」ランプの緑色の明かりをてがかりに、診察室をさらに奥へと進んで行った。いつもたてかけてあるつい立てを過ぎると、手探りで壁際の明かりのスイッチを探した。
明かりをつける。
夜の寒さの中であるせいか、どこか冷たい印象があった。
大西は、過去のカルテはどこだろう、と、ゆっくりと目を配った。
普通の棚や引き出しの中に置くはずがない。まして、受付の棚には置かれていないだろう。とすると、もし十二年前のそのカルテが残されているとして、一番考えられるのは、祖父がいつも診察するときにすわる椅子、その背後にある鍵のかかるロッカー、その中ではないだろうか。
大西はロッカーに歩みより、扉をひいてみた。
案の定鍵はかけられたままだ。
それでも、鍵はどこかにあるかもしれない。
机の中か、それとも祖父が持ち歩いているのか。
大西は試しに、診察の時に使う机の引き出しをひいてみた。
しかし鍵らしいものは見当たらない。
一番上のひきだしから、次の引き出しに移ろうとしたとき、診察室のドアが開く音が聞こえた。
「何をしている。」
大西の鍵を探す手がとまった。
ゆっくり、頭だけ振り返ると、声の主は祖父だった。
大西は机の引き出しを閉めると、きちんと祖父の方に向きなおして、
「カルテを探してたんです。」
落ち着いた口調でそう言った。
「カルテ?」
「江村隆のものです。十二年前の、死亡時のものを。」
「そんなものをどうする。」
大西は向き合った祖父の目をじっとみつめた。
「喘息で亡くなったにしては、発作から死亡までの時間が短すぎるので、もしかしたら、隆くんの時も、死因を差し替えたのではないかと思ったんです。」
祖父は、ゆっくりと歩みながらこちらに近づいてくる。上背があって、威厳がある祖父に、負けるのではないかと思った。それでも大西には、もう何があっても怖くないような、どんな言葉が出てきてもひるまないような、そんな決心があった。
祖父は、大西の少し手前で立ち止まった。そして、「死因?」と小さく口にすると、
「なぜ死因を差し替える必要があるんだね?」
と尋ねた。
「わかりません。」
大西がそういうと、祖父はふふ、と笑って、
「じゃあ、本当の死因はなんだと思うんだ。」
そうきかれて、大西は少し考えたあと、
「頭部打撲による脳挫傷、もしくは、内臓破裂。」
「前者だ。」
即答されて、大西は言葉もなく祖父をみつめた。
祖父は大西を見つめ返している。診察室の中は、まわりに音もないためか、田舎町にふさわしく、あまりに静かだった。
「なぜですか。」
「なぜ?」
問い返しながら祖父は、大西に近づくと、大西の横にあった椅子に手をかけた。
「おじいさんには、医者としての倫理観とか、そういうものがないんですか。」
祖父は椅子に腰をおろした。
「あるから、書き換えたんじゃないか。」
倫理観があるから、死因を書き換えた? 脳挫傷から、喘息の発作に?
「拓朗」祖父は大西に呼びかけた。「こんな小さな町医者は、時として、社会のバランスを崩さないために、ウソが必要なときだってあるんだよ。お前も」言って祖父は座りなおした。「覚えておくといい。」
「理由はなんです?」
大西は尋ねた。
「死因を変えた理由は、今度はなんです? それも、誰かのウソをごまかすためですか?」
祖父は少し考えるそぶりをした。十二年前のことでも、詐称した内容ならきちんと覚えているだろう。なぜ自分がそうしたのかも。何のために、それが必要だったのかも。
「隆は、確かに、喘息の発作も起していた。苦しくてのたうちまわったんだろう、落下して、下の椅子の角に頭をぶつけた。喘息で死んだことにすれば、あそこに閉じ込めてしまった人間一人の責任でいい。でも」祖父はゆっくりとした口調で話し続けた。「たとえば、なぜ隆があの休憩所の屋根裏にあがったのか、誰がその好奇心に火をつけたのか、そういうことまで考えていくと、あの屋根裏に上がることをしていた小学生全員を、しらみつぶしに江村が調べなくてはならなくなる。」
大西は、そうしゃべる祖父の顔を改めてみつめた。でも、どうみてもまじめにしゃべっているらしい。彼はふ、と笑いを鼻から漏らすと、
「なに、何言ってるんですか。そんな、小学生が、あそこにのぼっていたことなんて、あそこで小学生たちが遊んでいたことなんて、関係ないじゃないですか。そん、そんな、おじさんが、その子供たちを調べてどうするんです? 何か、罰でも与えるんですか?」
「そうだ。」
「子供のすることでしょう? どんな遊びをしたって、やつらの自由じゃないですか。」
「そうはいかないだろう。子供たちがあそこで遊んでいなければ、隆もあそこに上ったりはしなかったろう。それに」と祖父はそこで一度言葉を切った。それから、「あの家には、権力がある。」と低い声で言った。
「権力があるからって、偶然起こった事故にまで、直接関係ないのに、罰を与えるんですか? 一体どこまで権利があって、どんな罰を与えるっていうんです。」
「何も。」
「え?」
「何もしないよ。こんな小さな町では、権力がある、それだけで、何もしなくても、罰せられる。あそこの子供があの遊びをしていたために、隆が死んだ、それが知らされただけで、空気が、町中の冷たい視線が、彼らをとらえて、彼らを裁く。言葉にならない暴力を、お前は知っているか。」
大西の脳裏に、今日祥子からきかされた言葉がよぎった。
私は、罪を償うことさえ許されない、飼い殺しのまま―――
「子供だけですめばいい。ところが隆の母親の憎しみが、まだまだ責任の所在を探すだろう。挙句の果てに、あの小屋を建てた建築業者や、企画した役所のものにまで名前が及ぶかもしれない。でも、中に、閉じ込められたことによって隆が発作を起こし、それで死亡したならば、それは鍵をかけた人間一人の責任ですむ。」
「でも、じゃあ、同じことでしょう。死因を変えたからって。」
「喘息発作と落下の打撃による脳挫傷では、母親の衝撃がまるで違う。憎しみの強さと矛先が、まるで違うじゃないか。」
祖父はきっぱりとした口調で、言い切った。大西は若干ひるみながらも、
「その鍵をかけた犯人が、実は自分の娘でもですか?」
祖父は顔をあげた。
「その鍵をかけたのが、自分の家の娘ならどうなんですか? 自分の家の娘なら、それ以上誰にも責任は問いませんよね。死因も変える必要はなかったし、よその人間まで巻き添えにする必要もなかったんじゃないですか? 小夕実も―――」
「拓朗」
「小夕実がしたことなら、よその人間の誰にも迷惑かけないでしょう。それに、自分の家の中のことだけですんだはずで、あの子もあんなに苦しまなくてすんだことなのに、今回の事件も」
「拓朗、お前」祖父の声に大西は我に返った。祖父を改めて見ると、祖父は驚いたような顔をしている。その顔のまま、「知っていたのか?」と言葉を続けた。
大西は自分で、自分の顔がゆがむのがわかった。泣き出しそうになる目を固く閉じて、握りしめた自分の両手で顔を覆った。
泣き出しそうになる声をのどの奥で殺して、なんでなんです、と言葉を切り出した。
言葉にならず、もう一度「何でなんです。」と続けると、はあ、と息をはいて、
「小夕実は一体、なんだったんです。そんな…」
「拓朗、いつ」
「昨日の夜、小夕実の友人の、紀代美さんから。」
こらえたのに、それでも涙が頬を伝った。腕でそれをぬぐいとりながら、大きく息を吐いて、しゃくりあげた。そんな大西に、祖父は、「そうか。」とつぶやいた。
「江村はな」と祖父は切り出した。「あの、二人の妻が、どうしようもない弱点だった。弱点なら弱点で、祥子さんを追い返すとか、裁判で調停をするなりができたらよかったんだが、それすらもできなかった。ほかのことは出来る男なのに、そういうことには全く疎い。はっきりしないままずるずるとあの状態に踏み込んで、いつのまにか身動きがとれなくなった。祥子が連れ込んで小夕実が鍵をかけたことが世間に知れたら、また自分の失態が表ざたになる。ただ、表沙汰になるだけならいい、でも、今度は人の命がかかっている。」
「だから何なんですか。表沙汰になったらなったで、両方の妻が出て行って、すっきりしてよかったじゃないですか。」
「表沙汰にならず、妻が一人になるだけなら、誰も傷つかない。問題もない。」
「でもそれは、表面的な問題でしょう?」
「そう」祖父は思わずうなずいた。そして「でもあのとき我々は」と続けた。「あのとき我々は、精一杯の状態だったんだよ。できるなら、誰も傷つけず、できるだけ、不幸を最小限に止めて、あの場を乗り切りたかった。チャンスがあればと、ずっと、あの家の、あのおかしな状態を、解消したいと思ってた。そしてあのとき、あれがチャンスだと思ったんだよ。」
「チャンス? 隆くんの母親を追い出すための?」
「いや」祖父は大西の目をみつめていた。「どちらでもよかった。」
大西は涙でぼんやりとした視界の中で、エゴだという言葉が浮かんだ。と同時に、なぜ、そんな処置がとられたのかというのを、やっと、理解できたような気がした。
何のことはない、早い話が、江村の二人の妻をどうにかしたかったのだ。
江村にとって、この町にとって、それが醜聞か、あるいは弱点だったからか。
そこに、隆死亡の「チャンス」が来たのだ。
確かにできるだけ、人は傷つけなかったろうし、不幸も最小限に抑えることができただろう。
結局当時、この事件を片付けた人間たちの頭にあったのは、「江村の家の妻を一人にする」それだったのだ。先代に結婚を反対されたが結局押しかけた、妻になるはずだった女と、その子供が、二人で、後から来た本妻の子供を過失で死なせてしまった。そんな状況では、死なされた母親も留まることはできず、死なせた親子も留まることはできなかったろう。しかも祥子たち二人が原因であれば、過失致死で隆の母親が裁判を起こし、事態は泥沼化したかもしれない。ならば、と、二人の罪を隠蔽し、子供を亡くした女が家を去り、祥子と後継ぎになる小夕実を残したのだ。
しかし、場当たりに選んだ解決方法は、次第に小夕実にひずみを生んだ。ひずみは小夕実を殺し、結果として、江村の家は――。
それは、十二年かけて、逃れたはずの不幸の結末を見ただけではないのか。
女たちも、人間ではないのか。
この扱いはどうだ。
一体、江村は、何様なのだ。
しかし大西は、何も言葉を発しなかった。もう何を言っても無駄なことで、誰をなじっても、何を後悔しても、すべて終わってしまったことなのだ。
祖父は立ち上がった。
それから、涙を流している大西の肩に手をおくと、
「疲れたろう、とにかく、休みなさい。」
言いながら、診察室の扉へと歩いていった。つい立ての向こうの明かりは消しているので、まだ暗い中に「非常口」の緑色が光って見える。ドアの向こうも明かりはないから、ドアの影へと消えていくとき、まるで闇に吸い込まれるように見えた。
大西は、診察室に立ったまま、顔を両手で覆って泣いた。
声も立てずに泣いた。
家を出たのは朝の八時少しすぎだった。
江村には挨拶せずに、祖父ともろくに口をきかずに家を後にした。
祖母の、四十九日は帰れそうにないかしら、との問いに、まだわからないよ、とだけ答えた。
もういいかげん、頭を切り替えなければいけない。この現実をひきずっていたら、明日からの勤務や研究に影響が出るだろう。電車にのったら、そこで、故郷はいったん切り捨てなければいけないのだ。
大西は、駅へと、町のメインストリートを朝日の方角に向かって歩いていた。
なんだかとてもまぶしい。
駅へと向かう途中で、通学途中の小学生の集団とすれ違った。この先に、大西も通った小学校があるから、そこへ向かっているのだろう。黒いランドセルや、赤いランドセル、黄色い帽子は朝日の中で、さわやかで、まぶしくて、大西の胸を大きく揺らした。
もう哀しみの事実は、頭の中で形を保っていないはずなのに、なぜかまぶたを熱くする。
まだどこか、自分はおかしい。
何かが完全に、戻りきれていないのだ。
駅へと入ると、朝のピークは過ぎているらしかった。町の外へと通勤通学している場合、八時代にこの駅にいてはもう遅いのだ。大西も高校生の時は、朝七時半ごろの電車に乗って通っていた。電車はすべて各駅停車で、一時間に四本。あと五分で次の電車が来るというところだったので、きっぷの自動販売機で特急電車の指定席つきの乗車券を買った。
大西は指定席つきの乗車券を、二つしかない自動改札のうちの一つに通そうとして、ふと、その切符をみつめた。特急停車駅で乗り換えて、その駅の出発時間が八時四十二分になっている。特急電車は確か、一時間に一本ではなかったろうか。
大西は、腕時計を見た。
次の電車が来るまで後二分弱、改札口の前に立ち止まる大西の横を、スーツ姿の男性がよけながらイライラと通り過ぎて、彼は改札の前からよけた。
それから、きっぷの自動販売機まで戻ると、画面の案内に従って次の特急電車の時間を検索する。やはりちょうど一時間後だったので、大西は一度買った切符を販売機に差し込んで、列車変更のボタンを押した。一時間後のものに買いなおすと、彼は鞄をそばにあったロッカーに放り込み、それから駅を後にして、歩き始めた。
なぜか鼓動が激しく音を立てている。
自分でもなぜ、それを確かめたいのかわからなかった。そこにいって、何があるわけでもないのに、何もないのに、どうしても行かずにはすまなかった。
今いっておかなければ、きっとずっと、ひきずって、やり残したもののようにずっと頭の中に残ってしまうことだろう。だから、ここでその始末をつけておきたかったのだ。
彼は時計を見ながら、あの海岸沿いの遊歩道へと道を歩いた。
おそらく、祥子が五歳の子供を連れて歩いたのなら、今の自分よりもっと時間がかかっただろう。役所の人間が、中に人がいないことを確認してしめたといったのなら、祥子は五時過ぎに一度閉められた鍵を開けたはずなのだ。それは五時を過ぎてから休憩所に到着したはずで、すると、五時を過ぎてコンビニの前でアイスクリームを食べていた小夕実に祥子が電話をかけたのはいつだったろう。
祥子が電話をかけるのなら、それは家に帰ってからだろうか。
案外彼女も携帯電話を持っていて、帰る道すがらだったかもしれない。祥子が休憩所に隆をいれ、その場を離れて小夕実に電話をかけた。小夕実が到着するまで、どれほどの時間だったろう。彼女らがいただろうコンビニの前から、自転車で走ってきても、十分足らずなのではないだろうか。仮に十五分かかったとして、おそらく隆が閉じ込められるまでの時間は二十分程度ではないだろうか。仮に三十分かかったとしても、その間に子供が待ちくたびれて寝るだろうか。
祥子に殺意がなかったのなら、彼女は隆に何か声をかけていったろう。その後、小夕実がやってきて、隆を下ろしてやるはずだった。小夕実は気づかなかったが、その時、隆は、実際その時眠っていなくて、小夕実に声をかけたのではないだろうか。
本当に過失なのだろうか。
小夕実には、全く悪意はなかったのだろうか。
大西は考えながら、住宅街を抜けて海岸沿いに走る国道を海側へと渡り、案内標識にしたがって遊歩道のなだらかな坂をのぼっていった。
この坂を登りきると、比較的高い位置から海を見渡すことができる。
遊歩道にそってめぐらされた柵も丸太様の柵でおしゃれに出来ている。柵の向こうは海が控えていて、遊歩道の坂の向こうは断崖絶壁ではなく、草の生えたなだらかな斜面が海へと落ちていた。
問題の休憩所は、こちら側からのぼって一番手前にあったはずだ。今は取り壊されて、その跡もないらしい。大西は自分の記憶を頼りに、休憩所のあった位置をたどった。あそこは、坂もつきて、断崖の見える場所だった。背後は山で、なだらかに整備した上に、植樹してあったはずだ。あの場所からしばらく道が直線になっていたはずで、その先の道は、山に沿って曲がっていた。
大西は覚えのある景色で、足を止めた。
しかしそこにはやはり、休憩所はなく、まだつぼみの固い大きな桜の木があった。樹齢は十年か十五年か、その周囲だけが広く、まるで桜がそこに居座るために用意された土地のようになっている。
大西は海から吹き上げる風に背を向けて、その桜の木を見上げた。
当日はおそらく、夏の日暮れ時で、こんなにさわやかな春の日差しではなかったろう。彼は遊歩道の舗装された道を基準に、おそらくこのあたりに休憩所があったろうと見当をつけて、桜の木を見上げた。
確か外から見ると、見上げたあたりに小さな丸い小窓があった。開けられないはめ込み式のもので、早い話がただのロフトの明り取りだったのだ。当時まだ中学生だった大西は一度だけ上がってみたことがあったが、まるで小鳥の巣のように外がのぞけたように思う。暗いロフトの床の上から、目の前に小さく、遠く海がのぞけたが、のぞく前ほど、のぞいたときにはドキドキしないものだった。
そして、ドアがあったのはこのあたりだろうか。半分がまるごと二枚式のドアで、鍵は、確か合わせのところに差しんでかけるようになっていたのだ。
あの日、このドアの位置へと、ロフトの上から、隆は鍵を閉められて、慌てて、ここをのぞいたりしなかったろうか。
声を、かけはしなかったろうか。
「おおい。」
大西は小さく声を出してみた。
「おおい。」
今度は大きな声でいってみた。
「おおい!」
叫んで、それから後ろの海を振り返った。
海風が彼の髪をかきあげる。それよりも、海はあんなに穏やかなのに、空はこんなに晴れているのに、この耳をおおう海鳴りの音は―――こんなに海鳴りが耳に響いて、声を包んでは、ロフトの中からは叫んでも、小夕実の耳には届かない。これに風がふいて、木が揺れていれば、さらに声は届かないだろう。
大西の目の前に、午前中の陽をうけた、穏やかな海原が広がっている。空も、海も大きく広がり、障害物も何もないから、心も晴れんばかりの視界だった。
彼は呆然とした。
自分は一体何をしているのだろうと。
何のためにここに、何を確かめにきたのだろうと。
たとえ小夕実が、殺意があってその鍵を閉じたとして、その結果にどれほどの変わりがあろうか――いや、その前に、あの子は紀代美にきちんと言ったじゃないか。「あの時、中にはしごがあって、壁にたてかけてあったのに、なんで、あたしはちゃんと」
確認しなかったのか、と。
なぜ、ロフトにのぼるときに使うはしごが、壁側にたてかけてあったのか、ロフト側にたてかけると見えにくかったからか、誤って壁がわに倒れたのか、それとも、小夕実が来る前に隆が自分で下りては危ないから離しておいたのかは、わからない。だけど、もうこれ以上戻らない時に縛られた、決して裁かれないあの人たちの、その原因となった出来事を語るのに、どうして彼女らがウソをつく必要があるだろうか。
そこにウソを探したとして、一体何になるというのか。
一体自分は、何を探していたのか。
大西は、きっとそこに、ドアがあったろう場所に、顔を両手で覆ってひざまずき、うずくまった。
彼は期待したのだ。
どこかに、この、苦痛の抜け道があるのではないか、と。
あったことが、なかったことにはならないのか、と。
小夕実の命をひきとめる、最後のたずなを、自分が握っていたのに、つかみそこなった、その罪から、どうにかして逃げ切れるのではないか、と。
彼は、声を殺して泣いた。
許しを請うて泣いた。
きっと、祥子と小夕実の犯してしまった過失を、特に、小夕実の小さな小さな過失を、隠蔽してしまった町の連中は、「鍵をかけたくらいで」としか思っていなかったろう。ところがどうだ。
この胸に、深く刻みこまれた、いのちの重さはどうだ。
永遠に、心の中に打ち込まれた、罪悪感のくさびは、どうだ。
彼は握り締めた拳を地面について、顔をあげた。顔をあげながら、小夕実が何度も何度も繰り返しただろう、あのドアごしに見た、壁にたてかけられたはしごの光景を思い浮かべた。
「まちがえたんだ。」
大西はまた、歯をくいしばった。
いくらも選択肢のあった迷路で、わざわざよってたかって、最悪の選択をたどりながら、一人の少女を地獄に落としたのだ。
落として、生き長らえさせた。
この、軽々しい命の扱いをどうしようか。
どの道も、それは最良の選択のはずだった。でもそれは、それぞれの中で最良の選択だっただけで、小夕実にとっては最良の選択ではなかったのだ。
彼自身も――――。
うっとおしかった。
あの憂鬱な少女が、うっとおしくてならなかった。
いつ帰ってくるの、という言葉がいつも、うっとおしくてならなかった。
でも、心の病とどこかで気づいていたなら、無理矢理でも田舎からひきとって、治療を受けさせればよかったのではないか。
伴侶と決めた女じゃないか。
共に生きるはずの、半身ではないか。オレが救ってやらなければ、他にいったい誰が救うのだ。
まちがえたんだ。
たとえ結末がそうなるつもりはなかったとしても、まちがえたことに変わりはない。
まちがえたのに、訂正がきかない。まちがえたのに、裁かれもしない。彼は永遠に、小夕実の死を繰り返すのだ。小夕実は死んだのに、もう一度、繰り返し、この胸の、なかで、あの悪夢ばかりが、生き続ける。
なんという、報いだろう―――。
昼過ぎには、家に戻れた。
けだるい町のけだるい建物、今の自分にはとても、お似合いに思える。
昼間だけあって家のあるビルの扉は、開け放たれていた。一応郵便物をチェックするのに、ポストまで行き、鍵をあけ、中を開いてみた。
前のマンションから転送されてきたものが一通と、ちらし、それに、何かメモが入っているらしい。何気なくメモを開けると、乱雑な男の字で、「新しい鍵」と書き出されていた。大西は心臓が止まるような衝撃につつまれ、それから、震えながら口を手で覆った。体からしとど汗がふきだしている。震えながら、続きの文章に目を通したが、意味が頭に入ってこない。最後に管理人である老人の名前があって、もう一度落ち着いて文章を読み返すと、「新しい鍵につけかえましたので、お帰りになりましたら管理人室までご足労願います。」と書かれていた。
がくがくと震えながら、涙と一緒に、侮りとも嘲りともつかない笑いが漏れていた。
救われるときが来るのだろうか、と笑いの中で考える。
考えると同時に、自分が突き落としておいて、どうして自分が救われるのだろう、と、思い直した。
誰も知らない絶望を抱え続けて、さらに、いつものように、この生を送らなければいけない。
傷なのだろうか。
それは一体、誰の痛みなのだろうか。
彼は、鞄の中にポストの中のものを仕舞うと、もう一度ビルの入り口へと引き返した。管理人室に、鍵を受け取りに行くために―――。
その夜、女は現れた。
かけられた鍵、もう大西と管理人以外、誰にも開けられないはずの鍵がかかっているのに、女はうつつの実体を保ち、大西に迫った。
そして大西は、癒しともつかぬその快感の中で、それは夢なのだと思った。
もう現実には見ていけないものを、彼は夢で補っているのだと思った。
なんと自虐的な夢なのだろう。
自虐的な夢に、大西は目から涙がこぼれるのを感じた。とめどなく流れる涙に、女はその涙をぬぐい、優しく口づけたような気さえする。
一体オレは、なぜこんな女を夢みているのか。
一体オレは「女」に、何を、映しているのか―――。
第1部 ――「鍵」―― 完
(1997年 プロローグ~第3章、※ホームページ掲載は2000年9月
2000年9月~10月 第4~5章 2001年1~6月 第6章~第11章 ホームページにて連載)
緑青の海へ・第一部 咲花圭良 @sakihanakiyora
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。緑青の海へ・第一部の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます