第10章
祥子は、式の始まる少し前に会場に姿を現した。
しかし、大西自体が仮眠室で式の直前まで眠っていて、もう始まるというときに起こされて席についたので、祥子と話をするどころか、隣の席にすわった祖父とさえ話す時間がなかった。
大西も親族席だったが、祥子とは同じ列で少し離れてすわったために、その姿もよくはうかがえなかった。どうもうなだれて、ぼうっといるように見えた。和装の喪服で、髪も結いあげていたが、しゃんとしたところがなく、ただそこに座らされているという感じだった。
昨日の夜中、会場に戻っても祥子の姿はなく、朝方大西が浜から帰った後もその姿をみかけなかったから、やはり昨日の夜は自宅にいたのかもしれない。
しかし自宅の明かりは、玄関横にある和室のろうそくを除いては、すべて消えているようだったから、もしかしたらその和室のろうそく番をしていたのは、彼女だったのかもしれない。あるいは、事件の夜からろくに睡眠をとっていなかったろうから、自室で眠っていたのかもしれない。祥子の憔悴ぶりを見たら、亡くした子の母親でも、通夜の夜に娘の遺体に付き添わず、睡眠をとっていても許されるように思われた。
葬儀はつつがなく行われたが、葬儀が終わって棺を閉めるときになっても、誰も祥子に話し掛けなかった。
話し掛けられるような雰囲気ではなかった。
祥子だけではない、昨日の夜、大西を責めた紀代美でさえ、うなだれて、誰とも言葉を交わそうとはしなかった。
棺を閉める前に、棺の中に花を入れたが、一斉にすすり泣きが起こったものの、ほとんど言葉が交わされることもなかった。その、別れの時でさえ、大西は美しく死に化粧をした小夕実の顔をみつめながら、事件の真相ばかりを考えていた。棺が閉じられても、その棺を一緒に抱えて車に移しても、大西はそのことばかりを考えていた。
会場を出るときに、祥子は手伝いの村瀬に肩を抱かれるように付き添われ、誰にも話し掛けられず、自ら話し掛けることもなく、黙って付き添われるままに、火葬場へ向かう車へと乗り込んでいた。
そして、火葬場でも、祥子は話さなかった。
解決されそうにない真相と、鎮痛すぎる一行の空気に、大西は時折めまいを起こしそうになった。現実から遠く離されて、足が地面を踏みしめている実感がなかった。
なんと静かで、なんと日常から遠く離れた葬儀だろう。
何かが、おかしくないか、と、火葬場で荼毘にふされる小夕実の棺を見送っても、大西は思っていた。
こんな、いろんな解決されないものを遺したまま、小夕実の体が消えてしまうのは、おかしくないだろうか。
小夕実自身は、それでいいのだろうか。
その二十年間のうちの半分以上を占めた苦痛から、死んだぐらいで解放されるのだろうか。
彼女の魂をとらえて離さなかった弟の死は、このまま、何もなかったことになってしまうのだろうか。
本当に、それでいいのだろうか。
なんだか大西には、火葬場で小夕実の棺と最後のお別れをしてから、小夕実もまた、隆のように、死なないような感覚に襲われた。小夕実もまた、弟と一緒に、あの、必要のない鍵を探し続けるような気がしてならなかった。
遺体を入れた棺を見送って、しばらく待たされた後、一行が炉の前に集まった。ガクンと音を立ててそれが開かれ、中から引き出された板の上に、灰にまみれた小夕実の白い骨を見ても、その、もう人の形をとどめない頭蓋骨を眺めても、焼けた亡骸のにおいをかいでも、彼女は死んではいないように思われた。
救われないのだ、魂は、肉体が滅びても。
死とともにやってくるはずの、ゼロになるという感覚は、今の大西には現実的ではなかった。医療現場で何度かでくわしたはずなのに、心電図がゼロになったときに迎える別離は、ここではまったく別物なのだ。
小夕実は死んだのか。
本当に死ぬのか。
とらえどころのない「死」を目前にして、大西はいわれのない焦燥感に襲われた。
ダメなのだ。
それではダメなのだ。
このままではダメなのだ。
その理由が、ダメと思う大西本人にもはっきりと把握できなかった。弟の隆の死にとらわれ、その苦痛の生から解き放たれたはずの小夕実は、もういない。隆と小夕実を死においやったかもしれない祥子の罪さえ、もう証拠さえ残らず、この世のどこにも存在しないのだ。
いや、存在する必要さえ、ないのかもしれない。
では、何が、ダメなのか。
しかし、ダメでないとしてしまったなら、大西のこの胸の中にどっしりと残った感触を、どうしたらいいのだろう。もうすべて終わってしまったことなのかもしれない。取り返しのつかないことなのかもしれない。それでも、それは確かめなければいけないことなのだ。
必ず、確かめなかればいけないことなのだ。
なぜ、隆は死んだのか。
何が本当に、小夕実を苦しめたのか。
結局、お骨拾いが終わると、祥子は親族と会話をまったく交わさずに自宅へと帰ってしまった。昼前に始まった葬儀なのに、元の葬儀場へと送られて家へと歩き出したとき、すでに夕刻の四時を回ろうとしていた。日暮れも早く、少し祥子の元に行くことを躊躇したが、明日中には戻らなければいけないことから、今、いかなければいけないと思った。
家に着くとすぐ、部屋に入って小夕実からもらった最後の手紙を手に取ると、また階下に降りて、祖母に「ちょっと江村さんのところに挨拶に行ってきます。」と言って、家を後にした。祖母は出る間際に、「あちらもお疲れだろうから、明日の朝にしたら?」と声をかけたのだが、明日に延びるとまた今夜眠れない夜をすごしそうだということもあり、また、明日行って祥子と話ができないということもありえるし、それなら今日まず行ってみようと思った。今日行ってだめなら、それなら明日の午前中でもいい。それでも、その二回のチャンスでさえどうにもならないかもしれなかった。
とにかく行ってみなければいけない。
今、この機会を逃せば、もしかしたら二度と真相を確かめられないかもしれない。
大西は足早に、昨日の夜中に歩いた江村の家へと道のりを急いだ。
何かを考えるのはよそう、と思った。
余計なことを考えると、躊躇してしまうから。
尋ねるのが怖くなってしまうから。
それでも、家が近づくと、次第に胸の高まりが激しくなって、緊張感が増していった。
なるべく、余計なことを考えないようにしなければ、気負うと、会話というのはそれだけでしくじることもある。研究の報告会をするときも、学会で発表するときも、いつだってそうだ。落ち着かないと、自分の思ったこと、考えたことの半分も口にできない。声がうわずって、何を言っているのかわかならなくなる。だから、その場の空気を読みながら、自分の言うべきことをきちんと述べなければいけない。
そこまで考えると、大西は、学会にいる研究者や院生の顔を思い浮かべ、今日の祥子の顔を思い浮かべて、比較するほどのものかと思った。
大家とはいえ、一家の主婦と、百戦錬磨のあの連中と―――自分の能力評価と権力を競い合う、陰惨で華やかな世界に生きるあの連中と、祥子と――――。
そう思いついて、大西は少し気持ちが楽になったような気がした。
江村の家に近づきながら、質問すべきことを考えていた。
祥子が、小夕実がこだわっていた井戸の中にあるという鍵の存在を知っていたのかということ、その鍵が招いた悲劇は、一体誰のせいなのか――――。
家並の中から、江村の家のひときわ大きな屋根が見えた。
心臓が大きく「どくん」と音を立てる。
空はそろそろ、日暮れの色をかもし出していた。この町は、東側が海、西側に山をひかえているので、日暮れが通常よりも半時ほど早い。どこか明るくにじんだ景色の中で、大西の鼓動の音はいや増していった。進める足や手が、しびれている。緊張がいやましていくのに従って、足早に歩いているせいもあるのか、呼吸がしだいに荒くなっていった。耳に、呼吸の音が低く響いてくる。
はっ…、はっ…、はっ…、はっ………
なぜか、江村の家に着くと玄関が開け放たれていた。それなのに、家の周囲に誰も人がいなかったから、もしかしたら誰か葬列の人を見送った後なのかもしれない。大西は門の前の階段をのぼって、門をくぐり、玄関の前の石畳を歩いて、玄関の中に足を踏み入れ、家の中に向かって声をかけた。すると、しばらくして手伝いの村瀬が、はい、と言って現れた。大西の顔をみとめると、「あら、拓朗さん」と言って近づいてきた。大西は、
「その、祥子おばさんにご挨拶できなかったので、明日にしようかとも思ったのですが、ぼくは明日早くあちらに戻らないといけないものですから、お疲れかとも思ったのですが…」
そういうと、村瀬は立ち止まり、少しためらった様子を見せた。大西は言葉をついで、
「あの、祥子おばさんはお休みですか?」
いうと、
「いえ、起きていらっしゃいます。しばらくお待ちいただけますか?」
大西はうなずいた。年々、「祥子おばさん」という言い方には抵抗を感じていた。祥子はまだ、四十二、三で、おまけに比較的若く感じるから、大西から「おばさん」という言葉を使うのは、年々おかしく感じていたのだ。でも、ほかに呼びようもない、許婚の親だからといって「お母さん」と呼ぶには早く、「祥子さん」というにはなれなれしく、「奥さん」というにはあまりに他人行儀だった。
待たされている間に、大きな家そのもののもつ、どっしりとした空気のせいか、それとも家や周囲の景色があまりに落ち着いた春の夕時であるためか、さっきの激しい鼓動も息も、いつのまにか落ち着いていた。玄関の中で、石畳の上にたちながら、開け放たれた玄関の向こうの景色を見下ろすと、まるで何もなかったような穏やかなたたずまいを見せている。
中学生の頃だったか、学生の頃、まだ小夕実と許婚の約束が交わされる前だった。確か祥子に本か何かを借りにきたことがあったのだ。学校の帰りだったろうか、確かこんな景色のときだ。まだ「おばさん」と呼ぶのに何も抵抗を感じなくて、あの頃は、自分も子供で、祥子に「女」を感じることなどなかった。いつからだろう、祥子に小夕実の「母」ではなく、「女」を見るようになったのは―――許婚の小夕実を見ながら、それを通り越して、祥子に、「女」を見るようになった―――それは――――
「拓朗さん。」
村瀬の声で、ドキリとして我に返った。
「お会いになれるそうです。おあがりくださいまし。」
大西はホッとした。玄関を上がるとき、後ろを見ながら、「最初から開けっ放しだったんですけど、閉めなくていいんですか?」と尋ねると、ああ、私が後で閉めますから、と村瀬は口早に返した。
中央の廊下をつっきって、奥手にある階段を昇る。昇りながら、村瀬は、
「ずいぶん気落ちなさっていて、お嬢さんが亡くなってからずっと伏せってばかりいらっしゃったんです。さきほども横になってお休みだったので、おそらくそのままでいらっしゃると思いますよ。」
そういいながら階段を先に歩き、二階の廊下を西に歩いて、奥から二つ目の、夫婦の寝室の前の扉まで大西を導いた。扉を二度ノックすると、中から声がきこえたらしく、「失礼いたします」といってドアを開けた。
南に向いた明るい部屋なので、扉を開いた途端にパッと視界が開けた。でも、廊下が家の中ほどにあるから余計そう感じるだけで、二つある窓にはレースのカーテンが引かれてあったし、南に面しているわりには明るいという部屋でもなかった。
十畳ほどの洋間の中ほどに、夫婦のベッドが二つ、南の窓に頭を向ける格好で並べておかれてあって、部屋の西端にある入り口から見て奥が空、手前に祥子がいた。祥子は、ベッドの中でさっきまで横になっていたという風情で、体は起こしてそこにすわっていた。
顔の表情は、葬式や火葬場で見せたほどの、呆然としたものではなかった。むしろ、今の方が毅然とした顔をしている。それはいつもの、この家で奥様然としている祥子だった。
「ごめんなさい、さっきまで気分がすぐれなくて横になっていたものだから。この格好でいいかしら。」
祥子は軽く微笑までたたえてそう言った。どうも、寝巻きにガウンを羽織っているらしい。ガウンは厚手のものなので、普段着とさして変わらないように思われた。
「いえ、ぼくも前もって電話してくればよかったのですが」
大西は便宜的にそう返した。
村瀬はベッドの横にある、二客椅子を向かい合わせたテーブルの、奥手の椅子をベッドの脇に寄せた。「どうぞ」といって大西を促すと、大西は軽く頭を下げてその木製の椅子に腰をおろした。自然、祥子から少し見下ろされるような格好になるのがいやだった。が、そのままの姿勢で祥子に面すると、祥子が、
「明日あちらにお戻りになるのですって?」
と声をかけてきた。そうするうちに村瀬も頭を下げて部屋を出て行ってしまったので、結局部屋には二人きりになってしまった。
「ええ、研究室はそう長くあけられませんので。友人に頼みっぱなしにしてきたこともありますし。」
祥子は「そう」とだけ返事をした。短い沈黙に大西がギョッとして、慌てて、
「このたびは」
と言葉を継いだ。
「すぐに、お悔やみを言わなければいけないと思っていたのですが、おばさんになかなかお会いできなくて。」
自分でもなんて便宜的な言葉だろうと思った。でも仕方ないのだ。まさか、いきなり要点に切り込むわけにもいかない。
「いいえ、私も伏せっていたものですから、結局誰とも、満足にご挨拶できなくて」
祥子の語尾が次第に小さくなっていく。ふと、大西は横から祥子を見上げながら、何かおかしくないか、と思った。窓に背を向けて逆光になっているから、顔が影になっているせいだろうか。それとも、疲れが激しく出ているせいだろうか。どこか、雰囲気がおかしいような気がする。
「拓朗さん?」
祥子の声で、大西は我にかえった。そして、改めて祥子の顔を見た。目鼻立ちのすっと通った、美しい顔だった。艶な、それでいて理知を秘めた、そんな顔だった。こんな田舎町に引っ込まずとも、あの都会にいれば、もっと別の幸せもあったろうに。
「いえ」彼は無意識に言葉を継いでいた。
「仕方ありませんよ、こういうときは、誰だって…」
「そう? でも、私気がついたら、誰ともご挨拶していなかったように思うのよ。あの日、小夕実が…」
「小夕実が?」
「そう、小夕実が、鍵を取りにいったって聞いて、井戸に探しに向かったときから、私、どうしたのかしら、よく、何も、覚えていなくて…」
「井戸に、鍵を?」
大西は震え上がりそうになった。緊張で体がこわばるのを、歯を食いしばることで必死に抑えた。
「ぼくは…」
何を言おうとしたのか、そういいかけたとき、部屋の扉がノックされた。祥子が「はい」と返事をすると、村瀬の顔がのぞいた。「失礼いたします」と扉が開くと、紅茶の香りが部屋中に満ちた。温かくて心地よいその香りは、彼女が手の上に乗せた盆から漂っている。
村瀬は大西の前のテーブルまで歩みよると、皿を二枚並べ、その上にそれぞれカップをおいて、ポットから紅茶を注いだ。一つのカップをテーブルに乗せたまま、大西の前に差し出すと、砂糖つぼとミルクやレモンの入った皿を並べた。大西がそれに対して頭を下げると、村瀬は、もう一つのカップをベッドの上の祥子に差し出した。祥子がありがとう、と言葉を返すと、村瀬は何も言わず、静かに盆だけをもって部屋を出て行った。
「どうぞ」という祥子の言葉に、大西は言われるままに砂糖とレモンを入れて、それを飲んだ。その温かくて優しい感触が、のどをすぎて体を潤していくと、体の中の緊張感が少し解けたような気がした。紅茶が温かく感じるということは、自分の体は自分が知らない間に冷えていたのだろうか。
彼は紅茶のカップを手の中で包んで、そのぬくもりを確かめると、一度テーブルの上に戻した。
大西は、左手で皿を受けてカップに口をつける祥子を見つめながら、いつも、確か、この家ではコーヒーか紅茶かのどちらかが出てくるということを思い出した。いつも今のように村瀬が、何ごともないかのように運んできては、何ごともないかのように去っていく。それなのに、今日は何か特別の出来事のようにさえ思えた。どうも、空気がおかしいのだ。この家に漂う、空気が何か―――
オ…カシクナイ、カ?
それは、娘を亡くした家だからだろうか。ただ、それだけの理由なのだろうか。
大西は、カップを一度皿の上に受けた祥子を見て、話の糸口を探した。このままでは、何も切り出せないまま、終わってしまう。外の暮色は、ますます濃くなるばかりで、大西はあせりを感じ始めた。
「手紙を―――」
喪服のままだった上着のポケットから、小夕実から送られた最後の手紙を取り出した。
「小夕実から、受け取った最後の手紙なんです。」
「小夕実から?」
「ええ、お読みになりますか?」
「よろしいの?」
「ええ。」
大西はそういいながら、手渡す手が震えないように、細心の注意をはらい、それを差し出した。祥子は手に乗せていた紅茶のカップを、大西とは反対側にある小さなサイドボードの上にのせて、手紙を受け取ると、封筒から便箋を取り出し、静かに目で文字をたどり始めた。
しばらくして祥子は、手紙をみつめながら体をまるめて、凝視しながら文字をたどり始めた。手にした両手に力が入って、小刻みに震えているのがわかる。小さな声で「サカイ」というのが聞き取れた。
その祥子の姿をみつめながら、大西は、「ぼくには」と言葉を切り出した。
「ぼくには、小夕実のいう、井戸の前で隆くんが、アレをとってと言っているといった、アレの意味がわからなかったんです。でも、それは、鍵だったんですね。」
大西はそう言ったが、祥子の返事はなかった。ただ、彼女は背中をまるめて、手紙を凝視している。その、見開いた目が恐ろしいほどだった。大西は祥子の表情をみながら、
「鍵は、遊歩道に昔あった、休憩所の鍵ですね? 小夕実はなぜ、休憩所の鍵が井戸の中にあると思って、それを隆くんがとってほしいと、呼んでいると思ったんです?」
祥子の体がビクリと動いた。それでも、言葉をつがれる気配はなく、大西は言葉を続けた。
「昨日の夜」大西は息を飲んだ。「坂田紀代美くんから、話をきいたんです。隆くんがなくなったとき、休憩所の鍵を閉めてしまったのは、小夕実だったそうですね。それも、中に隆くんがいるのに気がつかなくて、誤ってしめてしまった。」
彼は言葉を続けながら、じっと祥子の反応を待った。しかし、彼女はまったく、その手紙を両手で持ち、凝視した不自然な姿勢のまま何も言わなかった。大西の言葉はきいているらしいので、彼はそのまま言葉を続けた。
「小夕実はおばさんと約束をしていて、持っていた携帯電話が二度なったら、五時の段階で役所の人間が休憩所の鍵を閉めていないということなので、閉めに行くことになっていた。」
見ていると、祥子は凝視した目を一度閉じた。そして、視線を落とした格好で、手紙を持った手を布団の上に落とすと、姿勢を元のごとく正した。
「でも、僕が、きいた話によると、五時に役所の人間は施錠したんです。施錠したにもかかわらず、なぜあなたは小夕実に施錠していないと連絡をしたんです? しかも、その後その施錠した当の役場の人間は、この町を追われるように出て行きましたよね。でも、隆くんを閉じ込めたのは、閉じ込めさせたのは、本当は、あなたでしょう?」
祥子は、姿勢を正して静かなまま、何も答えなかった。何も答えない、静かな彼女に、震えだしそうなのは大西の方だった。両膝の上でつくった拳を、さらに強く握ることでそれを必死で押さえ込もうとした。
詰問しているのは、彼だった。おびえるのならば、それは祥子の方でなければいけない。
彼が震えてはいけない。
「五時に役場の人間が施錠して、その後、あなたが、あそこの鍵をあけて、隆くんを連れ込んだのではないですか。それから、あなたはそこを離れて、しばらくしてから、小夕実に鍵をかけさせた。結果として、隆くんは中で発作を起こし、死んでしまった。小夕実は、中を確認しないで、隆くんを死なせてしまったことを、ずっと後悔していた。違いますか?」
祥子は、大西の問いに、ゆっくりと顔をこちらに向けた。それから、静かに微笑むと、少し首を傾け、懐かしそうな笑みを浮かべて、「隆は」と言葉を発した。
「あの子は、かわいらしい子でしたねえ。あの、女の息子でしたのに、人なつっこくて、愛嬌があって、本当にかわいらしい坊ちゃんでした。私はあの女と同様、憎らしくてたまらなかったのに、誰にでもなついて。そりゃ、私があの親子を嫌っていることなど、あの子は知りませんでしたから、私にも何の含みもなく、『おばちゃん、おばちゃん』って。」
ウフフと声をたてて笑った。
「あの子は人なつこいのと同じくらい、好奇心の旺盛な子で、あの遊歩道の休憩所の屋根裏にもよく登りたがっていましたよ。母親によくせがんでは、のぼらせてほしいって頼んでましたっけ。そう、あんな屋根裏にのぼって、何が楽しいっていうんでしょうね。子供心というのは、わからないものですよね。」
まるで思い出しながら、というふうに、祥子は右手の人差し指と中指を唇にあてた。目を泳がせながら、
「そう、それで、あの子があんまりせがんで、かわいそうだったから、私、のぼらせてさしあげたんですよ、あの子を。」
大西の中で、激しく心臓が鼓動を打ちはじめた。
やはりそうだった。この女だった、という思いが、頭の中をかけめぐる。
それで、小夕実は―――、小夕実はどんなふうに関わりを持っていたのだろう、あの子は―――
「それで小夕実は?」大西は自分の声が震えているのがわかった。暮色が強くなって、祥子の顔がうかがえづらくなっている。それでも彼女の顔をみつめながら、「小夕実は、何をしたんです。気づかず、鍵をかけてしまっただけですか?」
「小夕実…」
「そうです、小夕実です。」
「小夕実、あの子。そう、あの子は―――。私が連れ出したのがわかると、あの女、またひどくつっかかってくると思って、小夕実が連れ出したことにすればいいと思ったんだわ。それで、あの子にいつものように携帯に電話をかけたのよ。私きっと」祥子の目が大きく見開いて、唇がぶるぶると震えたかと思うと、ぼたぼたと涙がこぼれた。「きっと、小夕実が隆に気づいて、連れて戻ってくれると思ったんだわ。」
大西の脳裏に、昨日の紀代美との会話がよぎった。
―――さゆちゃんは、一度だけだけど、言ってました。『あたしが休憩所に行った時は、中にはしごが入ってた。』って。『見た感じ、誰もいないから、鍵をかけてしまった』って。―――あの中にあったはしごが、頭から消えなかったみたいなんです。あの時、中にははしごがあって、壁にたてかけてあったのに、なんで、あたしは、ちゃんとかくにん、し、な、か―――隆くんが死んでから、何度も何度も、取り壊されるまで、こっそりあの休憩所まで行ってたみたいなんです。でも、はしごは確かにそこにあったし、確かにあのとき、ロフトの上に隆くんはいたんです。どれだけ頭の中で繰り返しても、それはなかったことにはならなくて、起こってしまったことは、もう元通りにならなくて、さゆちゃんの中でくり返し、くり返し、何度も――『きよちゃん、隆が死んだのって、あたしのせいかしら。』って、あたしに言ったのは一度だけだけど、さゆちゃんは、隆くんが死んでから、それがずっと頭の中にこびりついていたんだと思います。
「連れて戻ってくると思ったのに、連れて戻ってこなかったのよ、あの子。でも、まだ、小夕実が戻らないうちに、あの女、隆がいないのに気づいて、大騒ぎしはじめて、まさかそんなこと言い出せなくなってしまった。そう、困ればいいと思ったわ。ちょっと困らせてやろう、とは思ったのよ、あの女。本当に、邪魔で、邪魔で、仕方がなかった。」
大西は、口がぶるると震え、立ち上がった。息を飲んで、「隆くんが」と声を発したが、声がうわずって、しかも大きくなっている。「隆くんが死んだのは、誰のせいなんです?」
祥子はそんな大西の様子に、小刻みに震え始めた。「ごめんなさい」両手で口を覆った。ぼろぼろと涙をこぼしながら、「ごめんなさい、死なせるつもりなんて、なかったのよ。ただ」
「でも、隆くんは死んだじゃないですか。し、死な、死ねばいいって、思ったんじゃないですか。最初から、そのつもりで」
祥子は、大西の言葉に、彼を見あげ、一瞬言葉を失った。それから、
「死ねばいい? そう、あの子がいなければ、もっとあの女、追い出しやすいのに、とは思ったことはあるわ。でも、あのときは、本当に、死なせるつもりなんてなかったのよ。なんで、あの子、死んだのかしら。小夕実が、気づいてもよかったはずなのに、小夕実も、気づかなくて、隆も、発作なんて、起こさなくてもよかったはずなのに、あの日に限って、発作が起きるなんて」
「小夕実のせいなんですか? 小夕実一人が悪くて、あなたは悪くないって言うんですか。それで、小夕実は今までずっと苦しんでたって言うんですか。苦しんで、井戸に落ちて」
大西の声は震えていた。部屋の中がずいぶん暗い。その分、二人の声と息遣いの方がはっきりとききとれるほどだった。
「そもそも、あなたがそんなことしなければ、――死ねばいいって、隆くんがいなければいいって思ってたから、そんなことしたんじゃないですか? 思ってなければ、そんなことがうまく運ぶなんて信じられない。そんな、そんなに、隆くんの母親が邪魔だったんですか。そんなに出て行かせたかったんですか。なぜです? そんなに、この家の妻の座がほしかったんですか。おじさんと結婚するのは自分のはずだったのに、彼女が邪魔で、そんなに、そんなにこの家の財産がほしかったんですか。人を死なせてまで、そんな」
大西は、自分の声と、祥子の静かさに、はっと我に返った。それから、興奮して言いすぎて、しまった、と思った。しまった、と、唇をかんだ。瞬間、「アッハッハッハッハ」という鋭く大きな笑い声が、祥子の口から漏れていた。
目の前の祥子は、腹を抱えて、大きな声で笑っている。爆笑に近かった。大西には、嘲笑が入っているようにさえ思われた。ひきつったような笑いがしばらく続いたあと、その笑いがおさまりかけたところで、仁王立ちになった大西の顔を見上げた。暗い中、さきほどまで笑っていた顔が嘘のように真顔になって、
「拓朗さん、あなた、バカではないの?」
その言葉に、彼は意味もなくカッとなった。「バカ」という言葉そのものではない。祥子の、その嘲りを含んだ言葉そのものに、自分の何かを汚されたような気がしたのだ。
祥子は、掛け布団の上においた、小夕実の手紙を手にとっていた。それから、拓朗の方に向き直ると、
「ごめんなさい、部屋の明かりをつけてくださる? 暗い中で二人でいると、変なふうにいぶかられてしまいかねませんから。」
そう言葉を足した。その言葉に、いわれるまま、扉の横まで歩いていくと、スゥイッチに手をあてて部屋の明かりをつけた。ぱっと部屋の中が明るくなると、大西はまぶしそうに目を細めた。
「ありがとう」と祥子はいい、彼女はもう一度小夕実の手紙に目を移した。大西はその場に立ち尽くしたままだったので、祥子は「お座りになったら」と大西に声をかけた。促されるままに祥子の前の、さっき大西がすわっていた椅子に戻って腰をおろすと、
「ねえ、拓朗さん、この小夕実の書いた最後の手紙、こんな短い手紙の中に『助けて』って何回、書いています? 『拓朗、助けて。なんで助けに来てくれないの? この手紙を出したら、今度こそ拓朗は助けにきてくれる。そう思いながら、手紙を出します。』」
彼女が読み上げたのは、手紙の最後の文面だった。それを読み上げてから、祥子が大西に視線を戻すと、
「ねえ、なんで、戻っていらっしゃらなかったんです、拓朗さん。」
大西の胸に、ぐっと重いものがのしかかった。心臓に、激しい負担――胸がしめつけられうように、苦しい――
「なんで戻っていらっしゃらなかったんです、拓朗さん。小夕実はこんなに、懇願しているではありませんか。こんなに、あなたに戻ってきてって――そう、こんな手紙を書くずっと前から、お願いしていたじゃありませんか。あなたに、戻ってきてほしいって。それなのに、どうして、あなたは戻ってこなかったのかしら。」
「それは…」
「研究と、小夕実と、どちらが大事だったのかしら、拓朗さん。どうせうちに養子に入るはずなのだから、本当に学位なんて必要なのかしら、と私、常々思っておりましたのよ。いいえ、小夕実がああだったのだから、学位はまたの機会に譲るということもできたはずなのに。それとも」祥子の口調がきつくなった「小夕実がそれほど大事でなかったなら、きっぱりと許婚の縁を切っていただければよかったんです。」
小夕実の手紙を元の通りに折りたたんで、それから、彼女は封筒の中にしまった。
「どちらにも欲を出して、自分を通した。あなたがそうだったからって、あたしまで、一緒だと思わないでくださいな、拓朗さん。」
膝の上に作った握りこぶしに、じわりと汗をかくのを感じた。こぶしに入った力が強すぎて、腕がぶるぶると震えている。
違うと言いたかった。
大きな声で、ちがう、と言いたかった。
それなのに、彼の胸にずしんとのしかかった重いものが、それを言うのを拒ませた。黙ったまますわっている彼に、祥子は小夕実の最後の手紙を、受け取るように差し出した。彼はされるままに受け取り、ポケットにしまいこみながら、何か言葉を探していた。
胸に何か、重いものがのしかかると同時に、自分を汚されたような、激しい怒りも感じていた。そもそも、どうして、この女に、こんなふうに汚されなくてはいけないのだ。
こんな女に―――
「小夕実がかわいそうですよ、こんな人をずっと待っていたなんて。」
大西はびくりとした。激しい怒りが飛び出しそうになるのを必死で抑えて、叫びだしそうになる声を、のどの奥で殺した。やっと彼女に聞こえるか、聞こえないかの声で、
「隆くんと小夕実を死なせた、張本人のくせに」
と言葉を継いだ。
そのとき、大西はうつむいていたので、祥子の顔は見ていなかった。ただ、彼女の雰囲気から、彼女をひどく傷つけたのであろうことは想像できた。しかし、大西は言葉を止められないまま、祥子を見ずに立ち上がった。
「ぼくは、このまま、警察に行きますよ。みなさんに話して、あなたの犯した罪を、洗いざらい話してきます。そして、隆君の事件で冤罪になった役場の職員に、江村さんから謝罪してもらいますよ。」
大西はドアに向かって歩きだした。
「拓朗さん」
後ろから、りんとした声で呼びかけるのがきこえる。
「拓朗さん、お待ちなさい、どうして、そんなことなさるんです。」
彼は、祥子の言葉をきかずに去ろうとした。今更、何をいいわけしようというのか。このまま、このドアを抜けて、真実を話しにいかなければいけないのだ。まずは、この話をきかせてくれた紀代美に、それから―――
「拓朗さん、そんなことしたって、無駄でございますよ。だってみなさん、もう、とうの昔に、ご存知でいらっしゃいますもの。」
大西はドアノブに手をかけて、立ち止まった。
ノブに手をかけたまま、ゆっくりと振り返ると、祥子は真顔でベッドの上にすわっている。
「なんですって?」
「もうみなさん、ご存知だと言っているんです。」
大西は、祥子の言葉に考えをめぐらせた。
「何を言ってるんです。誰が、何を知ってるっていうんです?」
「今あなたがここで話したことは、みなさんすべてご存知でいらっしゃるというのです。警察も、主人も、村瀬も、役場の人間も、そうそう、あなたのおじいさまも、みなさん、とうの昔にご存知じでいらっしゃいますよ。私が休憩所に隆を連れ出したことも、休憩所の鍵を小夕実がかけてしまったことも、すべて――いまさら、何を話しにいくとおっしゃるの? 拓朗さん。」
拓朗は耳を疑って、じっくりと祥子の顔を眺めた。しかし、そこからは、嘘もごまかしの気配も、みじんも感じられない。
ドアノブにかけた手を離し、彼は、静かにドアに背を預けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます