第9章

 いつまで見ていても、目の前の海は黒いままだったし、空も、明るくなる気配はなかった。何度か、国道を車が走りぬけたのも知っている。紀代美が、さっきまでそばにいたのも知っている。大西は、砂浜に腰を下ろしたまま、一向動こうとはしなかった。

 何を考えるでもなかった。

 海に何を探すでもなかった。

 ただ、そこにすわって、そこに存在しているだけだった。

 海からふく風がきついと思うたびに、こんなところにただすわっていてはいけない、と、ふと考えるのだが、いけないと思うのに、何をしていいのかよくわからなかった。

 メモリアルホールに帰る気にもなれない。

 大西の家に帰る気にもなれない。

 かといって、何をしたらいいのだろう。

 海をみつめる自分の目にひどい気だるさを感じて、彼は自分の目頭を抑えた。そのついでに腕時計を国道沿いの街灯の明かりにさらして見ると、午前1時半を少し回ったところで、ふと、日の出まであと何時間あるのだろう、などと考えた。

 意味もなく街の方を振りかえったが、夜中でしんとしているのみ、何も動き出しそうな気配はなかった。

 小夕実は――――と。

 棺の中で――――と。

大西はそう、考えを引き寄せながら、棺の中の彼女を想像した。

 死んでいるのだ。

 死んでいるのだ。井戸に落ちて、溺死した。

 溺死した、と思ったとたんに、祖父の顔がよぎった。診察室での昼間の祖父の顔がよぎってから、ああ、そうだ、急性心停止なのだ、と思い返した。

 思い返してから、どちらでも同じではないかと、ふと笑った。

 死因が違うからといって、死んだという事実にどう違いがあるのだ。一人の人間のウソを本当にするために、わざわざ死因を変えるのもナンセンスだと思ったが、変えたことにこだわる必要もないではないか。 

 誰が小夕実を殺したのだろう。

 大西は考えながら、自分でなんとのろい思考だろうと思った。こんなことを思い返すのに、どうしてこんなにノロノロしてしまうのだろう、と。

 小夕実は殺されたのではないのだ。事故で、井戸に、落ちて―――。

 大西は、意味もなく愕然とし、そして、身震いした。

 なぜ井戸に落ちたのか。それは、隆を閉じ込めた休憩所の鍵を取りにいくためだ。隆を閉じ込めた休憩所の鍵を開けてくれと、隆が呼んだ。彼女は、その弟の声にしたがって、鍵をとりにいった。

 海岸の休憩所に鍵をかけて閉じ込めたのは小夕実だったが、その策謀を思いついたのは、母親の、祥子で―――。

 鍵をかけただけの小夕実があれだけ苦しんだのに、母親の祥子は平気だったのだろうか。

 そういえば、祖父は祥子のことについておかしなことを言っていた。

 青年団のついたウソを本当にしておかなければ、祥子が―――祥子がどうだと祖父は言ったのだろう。死にまつわるウソは、憎しみに変わるといわなかったか? 祥子が、かつて、死にまつわるウソで憎しみを抱いたのか――いや、違う、死んだのは―――

 大西はイライラした。どうして考えがこうもまともに運ばないのだろう。

 もし誰かが死んで、あの家で憎しみを抱いたものがいたとしたなら、それは隆の母親ではないか。隆が死んで、誰がウソをつき、母親が憎しみを抱いたのだろう。

 祥子が、隆を閉じ込めていないとウソをついた。

 ウソをついたのだが、今日の今日まで証拠はなかった。閉じ込めてしまったのは、役場の人間だと思っている。だから、証拠のウソを、ウソと誰も知らない。小夕実と紀代美以外、誰も知らないのだ。

 隆の母親が、彼の死にまつわりウソをつかれて、誰に恨みを―――

 ふと、今日の昼、死因を変えたといった祖父の顔が、頭をよぎった。

 まさか――――!

 大西は思わず、口を手でおった。

 今回のことが始めてではなかったのか―――?

 いや、死因を変えたところで、結果に変わりはないではないか。死んだことに変わりないのだ。祖父が殺したわけではあるまいし。

 行き当たって、大西はぞっとした。

 医療ミスの言葉さえ頭によぎったが、まさかと思い返した。

 確かに、休憩所の中で、隆が小児喘息の発作を起こした。発作を起こして窒息死したということは、―――待てよ、夕方の5時過ぎに閉じ込めて、発見されたのはいつだったろう、その晩のうちではなかったろうか。未明に息をひきとったときいたような…。発見された時刻から察するに措置は、間にあったはずではないだろうか。おそらく運びこまれたのは祖父の元で、小児喘息の初期治療でそんなに誤ったことをするとも考えられない。まして、喘息の発作で死に到るなんて、乳児ならまだしも、十代ならまだしも、隆は5歳で、いや、その場合だってじゅうぶん考えられるけれども、それ以前からきちんと治療はしていたはずだし、もちろん、発見されたときは青年団や母親も周囲にいただろうから、喘息の症状は出ていたのだろう、でも、窒息死なら、死亡までの経過時間が長すぎるし、喘息の発作で死んだにしては、今度は短か過ぎやしないか?

 いや、やはり医療ミスか。

 医療ミスと考えてもいい。しかし、あの祖父に限って、そんな失敗をするだろうか。それとも身内のひいき目だろうか。でも、そう、医療ミスと考えるよりも、今回のことを考えれば、隆は、別の原因で死んだのではなかろうか。

 一番考えられやすいのは、状況からして、転落による、打撲、もしくは内出血、もしくは―――。

 医療ミスではないとして、祖父に死因を変えさせた、その原因は何だったのだろう。

 事故死、司法解剖、警察、と順に頭をよぎったが、大西が知る12年前の情報では、これ以上のことはつかめそうになかった。

 大西はイライラと立ちあがった。

 振りかえり、砂浜を国道に向かって歩きはじめた。

 祖父は今、寝ているだろうか?

 大西はもう一度時計を見た。2時少し前だ。何かあるときは起きている。でもたいがい就寝している時間だ。しかし、通夜の後帰ったのが遅かったから、もしかしたら起きているかもしれない。

 一体何が、小夕実をあれほどまでに苦しめたのだろう。本当に、弟の死だけで、あんなに苦しんだのだろうか。

 まさか、小夕実が一緒にロフトに上って突き落としたわけでもあるまい。そう、でも、隆が、5時前に休憩所に閉じ込められたと断定されたのは、中にいた隆自身が鍵を持っていなかったからだし、確か祥子自身にもアリバイがあったからだった。誰かが、鍵を持っていた誰かが中に隆を招き入れ、そのまま放置して―――小夕実が? まさか!

 そんな、親友にウソをつくなんて、だいそれた真似が、あの子にできるだろうか。

 いや、その前に、殺人なんてだいそれたことが、あの子にできただろうか。

 紀代美はウソをついていない。

 大西は、街灯の明かりばかりで暗い、静かな街の中を、ただひたすらに自宅に向かって歩いた。

 あの話をしたとき、確かに紀代美は大西を責めたし、嘆きも本物だった。そして、紀代美は、あの後何と言って去っただろうか。大西が何を言ってもうわの空だったので、確か、式場に戻りますとだけ言って、砂浜を去ったのではなかったか。

 紀代美の話を元にすると、祥子が企んで、知らずに小夕実が協力させられたことになっている。鍵を閉めるときに、中に人がいるのに気付かなくて、閉めてしまった、その鍵を、祥子が隆の母親にずっと家にいたと話しているのをきいて、井戸の中に捨てた。そして、捨てた鍵を拾ってくれと隆が呼ぶので、それで今度の事故が―――。

 でも、考えてみろ、母親が、自分の子供を犯罪の道具に使うだろうか。しかも、道具に使うにしても、これでははめたも同じではないか。祥子は苦しむ我が子を見ながら、なんとも思わなかったのだろうか。罪悪感のカケラさえ、感じなかったのか。

 罪悪感のカケラさえ――――。

 大西は、医院である自分の家に到着すると、玄関に入る気になれなくて、医院の入り口のある方へとまわった。入り口の方は、玄関と違って、まだ車がようよう対抗できるほどの広さがある。大西は、少し下がって家を見上げた。

 真っ暗だった。

 誰も起きている気配はなかった。

 そうだ、祖父母ともに老齢なのだ。よほどのことがない限り、こんな時間まで起きているなんて―――。

 大西は、暗い自分の家を見上げながら、自分の家ではないような気がした。目の前には、医院の診察室がある。歩いていくと、医院の入り口がある。入り口は道から一歩踏み込んだ位置になっていて、暗かった。試しに近寄って扉に手をかけてみたが、やはり鍵はかけられていた。

 祖父をたたき起こしてまで、聞きただす内容なのだろうか、と大西は考えた。

 ただの、憶測で、ただの、考えすぎだったら?

 いや、その前に、祖父に隆のことを問いただすのであれば、さっき紀代美にきいたことも順に説明せねばならない。もし隆の死に問題なく、祖父が、この事実を知らなかったのならどうする。

 わざわざ、祥子と小夕実の犯罪を暴くことになるのであれば、どうする。

 大西は、はやる胸をおさえて、しばらく道の真中で家を見上げながらたじろいていたが、そのはやる心を進行方向に向けて、歩き出した。

 どうする。

 このまま進んでどうする。

 家に帰ることもせず、式場に帰ることもせず、また、海に戻るか? 海で、時間をつぶすのか?

 大西は時計を見た。時計を見たが、文字が見えなくて、街灯の明かりまで歩いてみた。二時十五分頃に見えて、結局どこかで落ち着かなければいけないと思った。

 が、この道をまっすぐ進めば、江村の家に出る。

 祥子がいる、と思って、瞬間、大西はドキリとした。

 式場にいるのでなく、彼女は、家にいるのだ。

 寝ているのだろうか、それとも、家で、喪に服しているのだろうか。

 母親というものは、子供がなくなったなら、一日でも多くその棺のそばにいたいものではないのだろうか。それとも、それは親を知らない大西の、勘ぐりなのだろうか。

 もし、祥子が小夕実を犯罪に巻き込んだのであれば、祥子は小夕実を愛さなかったからだろうか。それとも、小夕実は犯罪に荷担させられるなど、気付かないと思ったのだろうか。

 このまま歩けば、確かに江村の家にいける。祥子が起きていれば、問いただすこともできる。

 隆を死においやったのは、あなたなのか、と。

 そのために、そのせいで、娘が死んだ、そのことをあなたは知っていたのか、と。

 そこまで考えて、ふと、この母親は確か、小夕実が鍵を取ってくるといって出ていって、誰にも尋ねず井戸にまで行き当てた人ではなかったろうか。と、すると、母親は、経過はどうあれ、小夕実が、井戸に鍵を捨てたことを知っていたのだ。それが、隆を閉じ込めた休憩所の鍵だと知っていたかどうかは別として――いや、小夕実の異常に気付いていたなら、隆を閉じ込めた鍵だと知っていただろう。それこそが、彼女を苦しめた原因だったし、彼女の言動から、それ以外の原因の、なにものをも引き出すことはできないのだから。

 祥子は何を思ったのだろう。

 何を思ったのだろう。

 彼女はこの十二年間、どう娘を見、あの事件を振りかえっていたのだろうか。

 大西は、祥子の姿を思い浮かべ、そして、逡巡し、立ち止まった。

 祥子という人間と対面する気後れもそこにはあったが、何より今、大西がしようとしていることは、十二年前の事件を暴き立て、彼女を責めることなのだ。

 それを、今娘を失ったばかりで途方にくれている母親に対してすることだろうか。

 いや、と大西は思い返した。

 もし隆が死んだのが祥子のせいならば、彼女は間違いなく犯罪者なのだ。その犯罪者に、どうして遠慮がいるだろう。まして、小夕実を苦しめ、彼女を死なせてしまった原因は、祥子にあるではないか。

 大西は、暗い、街灯がポツリポツリと続く道の真中で呆然とした。

 どちらなのだ。

 どうすればいいのだ。

 何かを暴き立てて、傷跡を残すくらいなら、それなら、引き返すか? 何も知らなかった、何も気付かなかったことにすれば、気がすむことなのだ。心に、大きなわだかまりを残すことになるけれども、どちらにせよ、亡くした命は戻らないのだし、自分に、暴き立てるだけの義務があるわけでなし、現に、今の今まで知らなかった。中途半端な情報で途切れた犯罪、知っているのは、江村の家と、それから、紀代美と自分と――。

 大西は振りかえった。来た道を戻ろうとして、小夕実の顔が浮かんで、カッとした。

 慌ててまた振りかえり、その道を走り始めた。

 何て難しい、と、心で叫ぶ。

 ナンテムズカシイ―――――――。

 しかし残念ながら、行きついた江村の家は、門灯が灯されているだけで、家のどこにも明かりはついていなかった。大西は走ってきたはずむ息で家を見上げながら、祥子や家人は眠っているのだろうか、と思ったが、通夜の晩に母親が眠るのかと、また疑った。

 自分が式場を出てから、既に二時間以上経っているし、もしかしたら式場に行ったのかもしれない。そうだ、娘の棺につきそっていたいものだろう、とさっき思ったのは、この自分じゃないか。

 閉じられた屋根のある大きな木の門に手をかけてみると、やはり容易にそれは開いた。大西は中に踏み込み、その門の内側の石畳から少しだけのぞける、二間続きの和室の方をうかがってみた。しかし、そこから縁側の端の窓だけ少し見えて、部屋の奥の方にあるらしい蝋燭の明かりが、ぼんやり窓ガラスに映っている。

 本人はいなくても、蝋燭の明かりは絶やさないのだと、手伝いである村瀬の律儀な顔を思い浮かべた。

 大西はそのまま、門や玄関を間に挟んで反対側の庭に視線を移すと、そちらの方に歩いて行った。

 井戸があるのだ。

 庭の隅に、井戸があるのだ。

 門から庭の方へと歩いて行った。

 竹で作られた小さな門を開け、草木の囲いの中に入ると、見事な日本庭園が広がった。前面は芝生であるが、奥は石で囲いをして段をつくり、見事な庭木で埋め尽されていた。一定の暗さになると灯る自動照明が、その見事な庭園を浮かび上がらせている。

 大西は庭園の奥に隠されたようにある井戸へと、歩いて行った。

 歩いていく途中、家の建物に目をやったが、中は真っ暗な上にカーテンがきっちりとひかれていて、何も見えない。ガラス窓に、ライトアップされた庭が映し出されていて、大西の姿もそこに浮かび上がっていた。

 大西はその窓ガラスに浮かび上がった庭の情景を見つめ、それから二階の、おそらく祥子の部屋のあるだろうあたりを見つめた。

 二階の明かりもやはり、すべて消えている。

 大西はそのまま、庭の植木の段を仕切って作られた、井戸への細い道におかれた飛び石を伝って、そって井戸へと歩いて行った。

 大きな構えの井戸は、きっと大人なら悠々と入れる広さだ。囲いも腰のあたりまであって、容易に落ちるのものでもない。ほとんど使っていないのに、見栄えだけは美しく飾っている。以前と変わらず、上に板をおき、その上に竹で編んだすだれを被せていた。そばの地面を見ると、花と菓子が手向けられていて、線香のたかれた後があった。

 恐ろしげな様子など、微塵も感じられない井戸なのだ。それなのに、小夕実はひどく恐れた。

 大西は、井戸に近づくと、すだれをずらし板をもちあげ、中をのぞきこんだ。

 当然だが、真っ暗で何も見えなかった。

 ただ、下の方で水がゆらめく気配がある。

 この距離で、いったいどうやって、あの下に落とした鍵を拾うことができるだろう。確か普段は、必要なときに小さな釣る瓶落としを投げ落として水をひきあげていたはずだが、それも使い勝手が分かるものでないと上手に使えないはずだから、確か担当の堺しか使っていなかったろう。小夕実はどうやって、この井戸からその小さな鍵をひきあげるつもりだったのだろう。

 大西は井戸の位置から、庭の植木ごしに家を見返った。

 それからもう一度、井戸の中へと目をやると、あんなに怖がったこの井戸に、なぜその日に限って彼女は来たのだろう、と思った。

 小夕実の幻の中にいた隆に言われるままに、鍵を拾ってやろうと思ったのだろうか。

 手を伸ばせば、あるいは下に下りれば、鍵をとれるとでも思ったのだろうか。

 よもやそこに、十二年前のまま、形をとどめて鍵が存在するとは、とても考えられなかった。仮に、何かの方法で鍵を引き上げたとして、開けるべき鍵穴は既に存在しない。建物さえ、取り壊されて今はもう、ないのだ。

 大西はすだれと板を下ろして、元のごとく井戸にふたをした。井戸の元におかれた花に少し目をやると、一人ごちた。

「鍵とはなんだ」

 考えれば、もう役に立たないものなのだ。それなのに、なぜ「鍵」なのだろう。

 大西は庭を斜めに走る飛び石にそって、元の芝生へと引き返した。

 と、植木を囲む石段が終わるところで、暗い中ライトアップした庭の移る窓ガラスに、自分の姿が映るのを見とめた。この位置からなら井戸も見えそうで――

 白い、手が―――。

 大西はハッとして、井戸を振り返った。

 小さな、白い手が、手招きしている。蒼白な顔をした、五才の子供が、備えられた花のそばに立って、呆然と、手招きを―――――。

「わあああああ―――!」

 大西は、叫び声をあげ、逃げるように芝生の上に転がり落ちた。「あ、」と体勢を立てなおしてまた声をあげようし、井戸を見ると、誰もいない。

 井戸のそばには、誰もいない。

 彼は動揺を抑えきれず、激しい息のまま井戸の方をみつめた。

 しかし、静寂ばかりで、何もない。

 一瞬のことに、体じゅうに汗をかいた。口に手をやると、ガクガクという。

 なんだ、今のは。

 ナンダ、イマノハ。

 幻か? 小夕実の見た、幻か。

 それをなぜ、大西までが見なくてはならないのだ。

 鍵など必要ない、あったとしても、何も役には立たないのだ。何を求めている。

 その井戸に立って、何を求めている。

 彼は、芝生の上を、足をガクガクとさせながら立ちあがった。後ろを振り返らずに、窓ガラスさえ見ないように、逃げるように、江村の家を後にした。

 

 肩を叩かれて我にかえった。はっとして見上げると、江村だった。

「ちょっと控え室で横になって仮眠をとったらどうだろう。寝ておかないと、あとが持たないよ。」

大西は、式場ホールの座席にすわったまま、少しウトウトとしたらしい。江村の家からあの後、ビクビクしながらまっすぐにこのホールに返ってきたのだ。後ろさえ振りかえらず、どこも見ないで。とりあえずこの夜中でも、式場に帰れば誰かいる、そう思って帰って来た。

 幻でも、あまりに恐怖だった。

 いや、幻とは思えなかった。得体の知れないものは、実体のあるもの、ないものを問わず恐怖になる。

 それは、何をするかわからないからだ。

 人がたくさんいれば、安心だと思って、大西は一直線にこの式場に帰ってきたのだった。

「今何時ですか。」

大西が尋ねた。

「5時半を少し回ったところだよ。他の人の食事時間に眠っておけばいいから。私もそうしようと思ってね。」

そう言いながら、江村は大西のそばを離れた。

 時間を尋ねたが、大西自身も時計を見てみた。やはり、5時半を少し回ったところだった。

 もう夜が明けただろうかと、彼は立ちあがった。

 寝不足のせいか、ショックのせいか、体がひどく重い。

 ホールをの扉を開けてロビーに出ると、うすぼんやりとした明かりが差し込んでいる。どうやら、まだ夜が明けていないようだが、夜明けは近いらしい。

 大西はホッとした。

 ロビーの外に視線を移すと、入り口のガラス戸を押し開けた。

 まだ、夜は明けていないが、清涼な空気が彼の体をまとう。昨晩の出来事とは裏腹、すがすがしい早朝だった。

 東の空は明るかった。

 彼はその空を見上げながら、入り口の前の階段を下り、早朝の街へと足を踏み出した。

 ずっと、東の空をうかがいながら歩いた。メインストリートまで早足で出ると、そのまま海へと道を選んだ。どこかで新聞配達か牛乳配達かわからぬが、車の音がきこえている。駅の横を通ると、朝一番の電車を迎えるために駅員が出勤しているのか、人の気配がした。国道を抜け、砂浜へとおりる。

 夜はまだ明けていなかった。

 ぼんやりとした朝焼けが広がっている。水平線に太陽は表れていないが、間もなくだろう。

 大西はギクリとした。

 そして、ああ、と目を閉じた。

 潮風と、潮のにおいと、ザ…ンと響く波の音、海原と、朝の光と―――

 日は一日で生まれ変わるのに、なぜ続くのだろう、悪夢が―――

 なぜ――――。

 大西は目を開いた。

 砂浜も海原も、朝の光につつまれている。さわやかで、鮮やかで、こんなに美しいのに、どうだ――――。

 目から、ぼたぼたと涙がこぼれた。

 手の甲でその涙を乱雑にぬぐうと、はあと息をはいて、拭ったその手で静かに、太陽に向かって手を合わせた。

 救われたい―――。

 何から、どう、救われたいのか、それさえもはっきりとはしない。でも大西は、今、救われたいと思った。何が苦しいのだろう、ただ、心の中にあるわだかまりが、はっきりと言葉を持たず大西の中で重い石のように腰を下ろしている。

 祈ってどうにかなるのか。

 祈って、何が解決するのか。

 そんな理屈さえ役に立たないほど、今彼は祈らずにはおられなかった。

 救われたいと――――。

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