第8章

 小夕実の遺体は、夕方来た葬儀屋が棺に納め、家族や近しいものとともに、葬儀場へと運ばれた。街の中央を南北に縦断するメインストリートを挟んで、江村の家とは反対側の、街の南端にあるメモリアルホールは、十数年前に建築されたものだった。小夕実の通夜、葬儀ともに、そこで執り行われることになっていて、棺が自宅から移動されることになった。

 自宅でも葬儀ができないわけではないが、来賓の数と混雑を考えて、ホールで百人収容し、駐車場のある、そこで執り行われることになったのだ。

 喪主は、父親で、彼はこんな時にでも毅然としていた。大西と、祖父母は、大西自身が小夕実のいいなずけということで、通夜は親族の席に並んだ。通夜は予想したほどの参列者はなかったが、なくなったのが若い人だけあって、特に、短大の同級生や小学校からの同窓生の、すすりなきの声が小さく響いていた。

 それでも、小夕実自身、内気で人付き合いも少なかったから、それほど友人もいず、その泣き声は同じ年頃の人のそれよりは、若干小さかったかもしれなかった。

 そしてなぜか、通夜の席に母親の祥子の姿はなかった。

 あまりの悲痛で、家で寝たまま、起き上がれないらしい。

 会場に移動する前に、祥子の姿がないので、大西は江村家使用人の村瀬に祥子のことを問うてみた。すると、祥子は朝からずっと起き上がれないのだという。魂の抜け殻のようになって、時折泣いては、呆然としているのだとも。

 大西が、村瀬に、祥子を励ましに何か言えないだろうか、と問うと、彼女はうつむいたまま小さく首を横に振って、

「そっとしてさしあげるのが、一番の思いやりだと思います。」

と答えた。

 祥子は、激しい人なのかもしれない、と大西は思った。

 いや、激しい人なのだ。

 この家での確執を思い起こしただけでも、それがわかるではないか。

 大西は、どこか気の強い、でも、どこか神経質な、そんな祥子の顔を思い浮かべて、その落胆の深さを想った。

 

 その夜、親族はみなホールに残り、亡骸につきそうことになった。

 大西の祖父母は、老齢を理由に家に戻ることにしたが、大西はそのホールに残った。

 通夜が終わってからも、何人か江村の知人が弔問に訪れていて、それに江村が棺の前で応対しているというふうだった。他の親族は、ホール脇の控え室に退き、何か会話しているらしく、ホールの中にいるのは、大西と、江村の家に雇われている堺、それに、町内会の婦人が2、3人、小夕実と特に中のよかった小さい頃からの友人が数人だった。

 大西は、途中、中学高校と一緒だった大西自身の友人が弔問に訪れたが、その旧友を送ると、ずっと遺体につきそっているわけにもいかず、控え室にいる親族の輪に入る気にもなれないので、棺の前にいる江村に声をかけて、ホールの外に出た。

 ホールの外にでると、冷たい夜気がふうと押し寄せた。

 ホールの中が温かかった上に、照明を落としているので、暗闇に浮かぶ街灯が、妙に白く光って見える。時間はさきほど見た時計では、十二時少し前だった。メモリアルホールの前まで続く、二車線ではないが、車が対抗できるほどの道路の、そのなだらかな坂をメインストリートへ向かって歩いていた。

 街の、民家の明かりはほとんど消えていて、ぽつぽつと明かりのついている窓を見ながら、まだ起きている人もあるのだと、大西は思った。メインストリートまで歩いて、右に行くと駅に、それをさらにいくと、海に出る。大西はメインストリートまで出て、右に進路を選んだ。

 左に、メインストリートを山の手へと歩けば、小学校があると思ったが、この時間に小学校に行くのはなんだか不気味に思われた。恐らく、明かりは消えているし、入ることはできないだろう。真っ暗な窓が並んでいるだけで、行っても楽しくはあるまい。余計に、滅入るだけなのだ。

 幼い子供たち、不気味で暗い小学校の校舎、と連想すると、どうしても隆のことを思い出してしまう。井戸で、手招きしていたと小夕実が明かした、その隆のことを思い出してしまう。

 小夕実からもらっていた手紙の内容を、江村に話すべきなのだろうかと大西は考えた。小夕実は、何の鍵をとりにいこうと思っていたのか、大西の考えも、述べるべきだろうか、とも。

 しかし、考えてみれば、家族はもう、小夕実がそんなふうな考えに囚われていたということを知っていたのかもしれない。

 隆の死に未だにとらわれていて、何かにひどくおびえ、そして、井戸の中に、海岸の遊歩道の鍵があると思い込んでいた。

 そのことを知っていたのではなかったか。

 そうだ、だからこそ、小夕実が「鍵をとりに行ってくる」と出て行ったとき、母親の祥子は井戸へと走ったのだ。小夕実が、大西に手紙で書き送ってくるほどだから、きっと家族にも、言っていたに違いない。隆が、井戸から手招きをして、鍵をとってくれと言っている、そのことを――。

 メインストリートを歩くうちに、まばゆい光が目の前に飛び込んできた。駅近くになって、停車した最終の普通電車の明かりが辺りに撒き散らされているからだ。その列車には、大西が見ている限り、誰も乗っているようには見えなかった。と、突然、ピィーイ、と笛の音がして、プシューと電車のドアが閉まると、ガタタン、ガタタン、と大きな音を立てて動き始めた。

 光の箱が、大きな音を撒き散らしながら、南へと移動していく。

 その動く光の箱に、大西は思わず立ち止まって見とれた。

 見送った。

 暗い、景色の中を、死者さえも乗せていくように、電車は音と光をつれて、小さく遠く移動していく。

 電車はやがて山陰に消えて、辺りには静寂が戻った。

 駅のホームの鈍い明かりばかりが、あたりに光を放っている。

 大西は、来た道を振りかえった。

 ホールから、わずか五分余りの距離だった。見渡すだけで、人口千人もあるだろうか、暗い街の背後に、山が控えていて、街や山の所々にある、未だ咲かない桜が、わずかな街の明かりを照らして、静かに揺れて見える。背後から、潮を含んだゆるやかな風に髪が煽られているのに気付いて、大西は、足元をみつめた。

 どこかとても、不確かだった。

 何かとても、不確かな感覚に襲われた。

 大学と、大学病院と、研究室を往復する、ピリピリとした神経質な日常。忙しく、無機質で、感情が激しく動くことのない、そんな淡白な日常から、なぜ、いま、ここにいるのだろう。

 この夜中に、誰も通らない故郷の町で、何をしているのだろう。

 故郷の町で、夜中、こんなふうに一人出歩くことがあったろうか。

 小夕実が死んだのだ。

 それで葬式にきているのだ。

 だから――

 ただそれだけなのに、何か、とても違う世界に舞い込んだような不可思議な感覚に襲われていた。

 大西は駅横の線路を渡り、海へと向かった。

 小夕実が恐れた海だ。

 おぼれるのを恐れた水場だ。

 駅から三十メートルほども歩くと、海岸沿いを走る国道に出る。大西はその対抗車線のある道路を渡り、堤防を越え、砂浜へと顔を出した。

 海が荒れていないせいか、それほど強くない風が、彼の体に舞い込んできた。小さな波音がきこえてきていて、もちろん誰もいない。

 海は暗かった。

 空を見上げたが、月は出ていず、雲に隠れているらしい。

 ふと、突然、足元が暗くなった。振りかえると、さっきまでついていた駅の明かりが消えている。それで、国道沿いの粗末な街灯の、ぼんやりとした明かりだけが、砂浜の光源となってしまっていた。

 大西は、もう光が戻らないらしい駅の方を、少し目をこらしてみつめて、それからまた、海に目をやった。

 砂浜はそれほど広くはない。国道と砂浜を隔てた堤防から二、三十メートル、走ればすぐに、波打ち際に達する。左手に大きな堤防を隔てて漁港が見えているが、今、明かりは消えていた。

 暗い海の風景の中、ざ…ん、ざ…ん、と静かな波音ばかりが響いていた。

 大西は暗い海原をみつめていた。

 暗さで遠近がよくつかめない。

 その黒い海原をみつめながら、大西は、ふと、昔、いつだったろう、まだ、院には入っていなかったろうか、Mが話した海の色の話を思い出した。

 彼の実家も海がすぐ近くにあるらしいのだが、彼の近くの海はほとんどが暗い色に思えると言ったのだ。みんな海といえば、真っ青な美しい色を絵に描くけれど、彼の中ではいつも濃紺よりもさらに暗い色だった。でも、時折、不思議にエメラルドグリーンに見えることもあったという。

「小学校の時とか、みんな海を描く時は、きれいな青をつかうんだよね。でも、実際の海なんてあんな色であることは少ないんだよ。あれは、きっと幸福の色なんだ。夏休み、家族ででかけた海は、きっと空の色を映して、みんなの記憶の中にはそういうふうに見えるんだよ。楽しかった家族との夏の思い出、夏の海、幸福の象徴――。」

 いったい、何の会話でMとそんな話になったのか、と、思い出してみてから大西は思った。

 海の色、エメラルドグリーンと考えて行って、ふと、「緑青」という言葉を思い出した。

 緑青の色に似ているね、と。

 大西は記憶をさぐった。

 そうだ、科学反応の話から、なぜかあの時、緑青の話になったのだ。

 まだMが小学生の頃、学校のプールの金網にできた緑青を見て――…なんだったろう、続きが思い出せない。

 大西は眉間を抑えた。

 エメラルドグリーンどころか、濃紺どころか、大西の目の前に広がる海原は、漆黒以外の何ものでもない。ずぶずぶと歩いていけば、みえない何かに足をひきずられそうな、そんな色だった。

 ああ、と大西は思い出した。

 できた緑青を、憎たらしいやつのお茶にでも入れてやろうかと思ったことがある、とMが、言ったことがあったのだ。それに対し、大西は、

「へえ、何で?」

と何気なく聞き返した。

「毒があるだろう?」

その時Mがどんな顔をしていたのか、大西はちっとも思い出せない。たぶん、何か作業をしながらで、顔など見ていなかったのだろう。

「きみ、小学生で既に、そんなこと知ってたの?」

「うん、ぼくの愛読書は百科事典だったからね。」

その答えに、大西は、どんな子供時代を送ったのだろう、と、今更ながらにMの秀才ぶりというか、変人ぶりを思った。

「でも、物騒だね、憎らしいからって、毒をもろうなんて。」

茶化すように大西がそういうと、少し間があって、

「だって、子供の頃って、そういうことを思ったことはなかったかい? そっと仕返しするだけじゃなくて、密かに誰か殺せないか、とか、何も知らない相手を騙してたいへんな目に合わせてやりたい、とか。緑青は、みつけられれば、手ごろに入る毒だから――」

「緑青で人殺しができるかい?」

と大西がMの方をみて茶化すと、Mは珍しく静かに笑って首を傾けた。

「まあでも、そういう気持ちを抱いたことがわけでもないな。誰かにひどく怒られたときとか、憎たらしくって仕返ししてやりたくなった時とか。祖父の診察室の中にも薬品はあったけど、盗んだらすぐばれちゃうし。」

それで、会話が少しとぎれたのだ。その後に、Mが思い出したという感じで、

「海の色に似ている」

と言った。

「何が? 緑青が?」

と問い返すと、

「そう」

「エメラルドグリーンに見えるってことかい?」

「エメラルドグリーン? もっと汚いさ。」

それで確か、海の話へと話が移っていったのだ。あの時なんで、あんなに話がはずんだのか、Mとは、故郷の話を共にしたことは、それまであまりなかったが、話しているうちに、意外と成育環境が近いのだということに気がついた。まあ、院まで進むとなると、金もかかるし家族の理解もいるから、多少環境が似てくるのが当然かもしれない。

 そこまで思い返してみて、自分が意外にも不謹慎なことを考えているのではないかと思った。

 通夜の夜に、人殺しの話など、思い出すなんて、と。

 漆黒の海原に、空との境があいまいとして視界が定まらず、バランスを失い、気が遠くなりそうだった。

 大西は、ふと、ぼんやりとした頭で、小夕実は本当に、あの棺の中で死んでいるのだろうか、と思った。

 自分は今、夢を見ているのではないだろうか。

 だって現実感が――

と、思っていたところで、人の声がきこえたような気がして、ビクリとした。

 耳をすましたが、海と風の音しか聞えない。

 しばらくするともう一度、「大西さん」という若い女の声がきこえてきた。

 大西が振りかえると、砂浜のすぐ後方に、国道にそって並んだ街灯の逆光を受けて、喪服を着た長い髪の若い女が立っている。最初逆光なのと、暗いのとで、よく顔が見えなかったが、おぼろげに、これは見たことのある女の子だと思った。

「あの、大西さん、あたしです。坂田紀代美です。」

そういわれて、よく見ると、確かに小夕実の幼友達の、坂田紀代美だった。幼稚園からずっと一緒だった大の仲良しで、大西が大学に入る年まで何度か小夕実と一緒にいたのを見たことがある。大西が大学に通うようになってからは、帰省した時に、やはり小夕実と一緒にいるのを何度かみかけたが、最後に見たのは確か高校生だったから、通夜で見たときは、ずいぶんおとなびたものだと思った。

 小夕実は手紙の中でもよく「きよちゃん」と呼んで、彼女のことを書いていた。おそらく、小夕実が死んで、一番痛手を受けている他人は、この「きよちゃん」だろうと、大西は思った。

 この紀代美という少女は、どちらかというと目立たない存在だった。目立つ目立たない、という意味では、どこか病的で、だけど美少女だった小夕実の方が目立ったろう。今日の通夜でも、大西と同じく親族の席に並ばされていたが、終始うつむいていた。おそらくずっと泣いていたのだろう、今も、暗い中でも目がはれぼったいのがよくわかる。

 大西をじっと見上げている紀代美を見ながら、彼は、

「小夕実が」と言葉を発した。辺り障りのない言葉を選ぼうと、少し考えて、「いろいろ世話になったらしいね。いつも、手紙で教えてもらったよ。」と、言葉をついだ。

 彼女はその言葉に、はっとしたように目を見開いた。それから、無意識にだろう、うつむいて、胸のところで組んだ手を、ぎゅっと握りしめた。それから顔をあげて、

「大西さん。」

と言葉を発した。

 よく見ると、紀代美は緊張しているらしいことがわかった。それで大西も、彼女が何か話したいことがあるのだと察して、自然と緊張し、そしてたじろいだ。

「なんで帰ってこなかったんですか?」

紀代美は、詰問するような目をしていた。それで、その言葉に大西はギクリとしたが、そのことに関しては、大西にも後ろぐらいところがあったので、即座に言葉が出てこなかった。何かいい返事はないかと頭の中を探しているうちに、紀代美が、

「さゆちゃん、ずっと待ってたんです。」

と言葉をついだ。そして、紀代美の唇がわななき、言葉をつごうとした途端、目から涙がぼたぼたとこぼれた。

「なんで…!」

大きな声を吐き出して、紀代美は言葉をつまらせた。つまらせながら、彼女の感情が激しくゆさぶられるのを抑えるように、手で口を抑えると、

「あんなに待ってたのに! ずっと待ってたのに、なんで…!」

そこまで言うと、紀代美は大きくしゃくりあげた。しゃくりあげながら、話そうとする紀代美に、大西は、

「ちょ、ちょっと、紀代美ちゃん、落ちついて…。」

と、紀代美を制そうと手をのばしたが、紀代美は後じさりして大西の手から逃れた。

「なんで、帰ってこなかったんですか! さゆちゃん、ずっと待ってたんです! 毎日毎日、我慢しながら、待ってたんです。井戸から、隆ちゃんが呼んでるって、鍵をとってほしいって呼んでるって、それが消えなくて、きっと、大西さんならなんとかしてくれるって、大西さんはかしこいから、きっとなんとかしてくれるって、ずっと言ってたんです。それなのに…。」

 半分泣きながら話す紀代美の言葉に、大西はドキリとした。

 隆が鍵をとってほしいと、呼んでいる―――?

「ちょ、ちょっと、紀代美ちゃん。」

取り乱そうとする紀代美の腕を大西はつかもうとした。「いや!」とふりはらおうとする彼女の両手を何とかつかむと、

「紀代美ちゃん、ごめん、ちょ、ちょっと、落ちついて」

と声をかけた。涙顔に興奮で息を乱した彼女は、ぎいっと彼をにらみあげた。

 その目にギョッとすると、大西は思わず手を緩め、そのゆるんだ拍子に紀代美は大西の手を振り払った。

 大西自身の呼吸も乱れているので、冷静になろうと息を整えようとした。頭の中を整理するために、言葉を探しながら、

「小夕実の手紙にも」と言葉をついだ。「最後の、今月に入ってきた小夕実の手紙にも、書いてあったよ。井戸から、隆ちゃんが、あれをとってって言ってるって。ぼくは、今度のことがあるまで、それが、鍵のことだって、知らなかったんだよ。紀代美ちゃんは」

 紀代美は大西の「鍵のことだって知らなかった」という言葉をきいて、ギョッとした。大西はまた呼吸を整えようと、何度か深く息を吸い込んで、

「紀代美ちゃんは、小夕実が、井戸の中に鍵があって、それをとってくれって隆くんが呼んでるって、思ってたのを知ってたんだね? もしよければ」

そう言ったところで、紀代美は両手で口をおおい、「あああああ!」と叫んで、おおった両手で今度は頭を抱えながら、砂浜の上にかがみこんだ。

 一瞬、大西には何が起こったのかわからず、かがみこんだ紀代美の頭を上からみつめた。すると、ややあって、沈黙した紀代美の、そののどから、ひぃ―――という音が響いてくるのが聞えてきた。音はやがて嗚咽に変わり、行き場のない哀しみがその場を制した。

 その嗚咽と哀しみは、わけのわからない大西の感情まで巻き込みそうだった。つられて胸の奥をゆさぶられた彼は、こみあげそうになる哀しみをのどもとで無理矢理抑えつけた。

 おそらく、真実を知っているのだろう、目の前の紀代美を上から見下ろしながら、彼は、その前にかがみこんで、紀代美の顔をのぞきこむようにみつめた。

「紀代美ちゃん、小夕実のことで、何か知っているなら、教えてほしいんだ。ぼくには、何のことかわからないままになってるんだよ。きみさえ、良かったら、話してくれないか?」

紀代美は、大西の言葉にゆっくりと頭をもたげた。涙がまた、こぼれる。唇をかみしめた紀代美は、大西の顔をじっとみつめた。

「鍵があったんです、井戸の中に。」

紀代美は大西の顔を正視したまま、はっきりとそう言った。大西は、紀代美の心をのぞきこむようにみつめると、

「どこの? まさか、海岸通りの…」

「隆ちゃんを閉じ込めた、海岸通りにあった休憩所の鍵です。あの鍵は」言いかけた紀代美の目から、また涙がこぼれた。

「あの鍵は、さゆちゃんが、かけたんです。」

 大西は、涙のこぼれる紀代美の目を、しばらくじっとみつめていたが、「え」といって、次の言葉をつごうとすると、すかさず紀代美が、

「休憩所に隆ちゃんを閉じ込めたのは、さゆちゃんなんです。」

大西はまた、紀代美の目をみつめた。

 小夕実が―――?

 そう思って、幼い頃の小夕実と隆の姿を思い浮かべた。その母親たちと違って、とりたてて問題のない、どちらかというと、小夕実は母親の気性に似ず穏やかだったから、隆の面倒見も良かったはずだし、年近の姉として、やさしく接していたような気さえする。

 それなのに、どうして小夕実が、隆をあの休憩所に閉じ込めなければいけないのだろう。

 その疑問を抱いてから、あの事件は、事故だったのではないか、という考えが頭をよぎった。だから、小夕実を、あれほどに、苦しめて――?

「あたしとさゆちゃんが、一緒の水泳教室に通ってたのは、知ってますよね?」

紀代美が突然発した言葉に、大西は慌ててうなずいた。

「あの日も、水泳教室に行ってたんです。二人で自転車で通ってて、帰りはいつもまっすぐ帰らないで、いろんなところに寄り道してたんです。あの日も、帰りにコンビニでアイスクリームを二人で食べてて、そしたら、五時過ぎてたと思うんですけど、電話がかかってきたんです。」

「電話?」

「さゆちゃんが、お母さんにもたされてた携帯電話です。家からのだけ鳴りわけがしてあって、あの日も、三回鳴ってきれたんです。三回なって切れるのは、海岸の休憩所の鍵が閉まっていないから、おばさんの『よかったら見てきて』って、合図で」

「合図?」

「そうです。その時間に三回なってなりやんだら、閉めてきてって合図で、さゆちゃんが海岸の遊歩道からあんまり遠くにいるときは、できないって電話をかける約束になってたんです。それでその日は、さゆちゃんは、近いから行ってくるって、それで自転車に乗って、遊歩道の休憩所に」

大西には、紀代美の言わんとしていることがよく理解できなかった。

 隆の死んだ日、小夕実が母親から連絡を受けて、遊歩道にある休憩所の鍵を閉めに行った。でも、あの日の鍵は、確か役所の人間が閉めたんじゃなかったろうか。それで責任問題になって、その後に――。

「鍵は、小夕実が持ってたの?」

ふと思いついて、大西は尋ねた。それに、紀代美はうなずいて、

「マスターキーを、持ち歩いてたんです。おばさんに、持ち歩かされてたんです。」

「出先で連絡を受けた時に、かけにいけるように?」

紀代美はまたうなずいた。

「さゆちゃんは、一度だけだけど、言ってました。『あたしが休憩所に行った時は、中にはしごが入ってた。』って。『見た感じ、誰もいないから、鍵をかけてしまった』って。」

大西は、しばらく紀代美の顔をみつめていた。

 紀代美は、うつむいたまま、表情がうかがえない。大西は呆然とその顔をみつめて、それから、しゃがんだままの体勢だったのを、起こして、砂の上に膝をついた。

 暗い街の風景が、海岸沿いに走る国道のぼんやり灯る街灯の向こうに浮かんでいる。

 さっきまで気にならなかった波の音が妙に耳についた。

 ふと、小夕実の母親の、祥子の姿が脳裏に浮かんだ。

 はめたのか?

 八つの子供を、はめたのか?

 役所の人間が鍵をかけた後、もう一度あけて、隆を休憩所に入れた。

 それで、なんで娘にわざわざ閉めさせなければいけないのだ。

 閉じ込めたいなら、自分で閉めればいいではないか。

 発作を起こして苦しめたかったなら、自分で閉めればいいではないか。

 それがなぜ、小夕実に―――?

「鍵は」大西は無意識に、つぶやいていた。「小夕実の持っていた鍵は、井戸に?」

「そうです。隆ちゃんのお母さんに、さゆちゃんのお母さんが、自分が閉じ込めたんじゃないかって問い詰められたとき、お手伝いの村瀬さんに、うちのマスターキーはずっとここにありましたよね、そう言ったのをきいて、さゆちゃんは、黙って一人で、井戸に鍵を捨てに行ったって…」

「それで、小夕実は苦しんでたの? お母さんに、共犯にされてしまったから?」

「それもあるけど、さゆちゃんには、あの中にあったはしごが、頭から消えなかったみたいなんです。あの時、中にはしごがあって、壁にたてかけてあったのに、なんで、あたしは、ちゃんとかくにん、し、な、か」

その後は、紀代美の言葉がかき消えてしまった。消えたかと思うとまた、続いて、

「隆くんが死んでから、何度も何度も、取り壊されるまで、こっそりあの休憩所まで行ってたみたいなんです。でも、はしごは確かにそこにあったし、確かにあのとき、ロフトの上に隆くんはいたんです。どれだけ頭の中で繰り返しても、それはなかったことにはならなくて、起こってしまったことは、もう元通りにならなくて、さゆちゃんの中でくり返し、くり返し、何度も、何度も――『きよちゃん、隆が死んだのって、あたしのせいかしら。』って、あたしに言ったのは一度だけだけど、さゆちゃんは、隆くんが死んでから、それがずっと頭にこびりついてたんだと思います。だから…」

 大西は、ひざまずいた状態のままで、うつむいた紀代美の頭を上から眺めた。

 十二年――、小夕実の頭の中で、何度も何度もリセットされながら、それは繰り返されていたのだというのだろうか。

 それに、苦しんでいたというのだろうか。

「なんで、小夕実は、話さなかったんだ、誰にも。」

「殺人だからじゃないですか。」

大西は、ギクリとした。

「人殺しだからじゃないですか。過失でも、人殺しじゃないですか。しかも、お母さんが共犯なんですよ。お母さんが――!」

「共犯じゃなくて、主犯だろう? 祥子さんは一体なんだってそんなことを!」

「お母さんをかばうのは当然じゃないですか! それに、誰が――、誰が主犯とか、共犯とか、そういう問題じゃないんです。さゆちゃんが、鍵をかけてしまった。そして隆くんが死んで二度と戻らなくなってしまった! それだけなんです。それだけが、事実なんです! 大西さん!」

紀代美はしゃがんだ姿勢からひざまずき、泣きながら大西にすがりついてきた。

「なんで帰ってこなかったんです。なんで、帰ってこなかったんですか! さゆちゃんあんなに、帰ってほしいって言ってたでしょう! あたしじゃだめなんです。なんで、帰ってこなかったんですか、大西さん! あんなに帰ってきてほしいって、さゆちゃんのたった一つのお願いだったんだから、言うこときいてもよかったでしょう? なんで――!」

紀代美はすがりついた大西の体から、砂の上に声を上げて泣き崩れた。

 ちがう。

 大西は混乱しそうだった。

 ちがう。

 知らなかったんだ。

 いや、違う――そういう問題か?

 そういう問題じゃないだろう? 誰――祥子さんが――小夕実に鍵を、かけさせたんだ。隆を閉じ込めて、発作を――起こさせて隆が死んで、その休憩所の鍵を、井戸に―――。

 隆が、あの休憩所で発作を起こさなくてもよかったのに―――あの子が、あの休憩所に入りたいと思わなければよかったのに―――小夕実が、休憩所の鍵をかける前に、中をきちんと確認すればよかったのに―――なんで―――

 なんで確認しなかったんだ、小夕実―――。

 祥子さんも、隆を死なせなくてすんだのに―――隆も、死ななくてすんだのに―――小夕実も、十二年間も苦しまなくてすんだのに―――後悔しなくてもよかったのに―――

 小夕実も死ななくてもよかった――――。

 もう、すんでしまったことなのだ。

 すべて、終わってしまったことなのだ。

 すべて―――。

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