第7章

「たくさんさせられた習い事のなかで、水泳教室が一番好きだった。

 水の中にいると、宇宙空間にいるみたいに気持ちよかったから。

 でも、おぼれるのが怖くなったの。

 自分ではすっごく上手になったつもりだった。

 泳ぐたびにタイムも上がったし、先生も「国体めざせるんじゃないか」って言ってくれたの。

 でも、水が怖くなってから、全然、だめになっちゃった。

 足がつったらどうしよう、プールの排水溝にはさまったらどうしよう。

 ほら、そんな事件ってあったじゃない。

 やめるとき、お母さんはどうしたの、ってきいたわ。先生も。

 水が怖くなったって言ったのよ。

 どうしても続けられないって。

 そうしたら、それはしょうがないわねえ、って、やめてもいいって言ってくれたの。

 だからやめたの。

 あんなに楽しかったのに、ちょっと遠かったけど、ちゃんと通ってたのに。 

 プールをみるたび、その哀しさがこみあげてきて仕方がなかった。

 拓朗、早く帰ってきてね。

 自転車で、またあの水泳教室に通いたいな。

 拓朗が一緒だったら、きっとおぼれないような気がする。

 水の中は気持ち良かった。

 すごく自由だった。」

「中学の時、月に一度地域清掃があった。

 海岸の遊歩道が怖いから、遊歩道には回さないでくださいって先生にお願いしたの。

 だって遊歩道って、のぞくと絶壁になってて、落ちると体に岩の先がささりそうだったから。

 串刺しみたいになるのを想像して、よくぞっとしたわ。

 みんなどうしてあんなところに平気で行けるのかしら。

 大きな風がふいて、よろめいただけで落ちてしまう。

 だから怖いの、先生、他に回してくださいってお願いした。

 出席番号から行くと、私の班はそこの清掃にあたるはずだったから、町長の権力を利用してはずしてもらったんだって、女の子たちが言ってた。

 他の子は怖くないのかしら。

 あたしはとっても怖かった。

 なんであんな怖いところに行けるんだろう。

 落ちたらどうするんだろう。

 思いきって、そういうと、ばっかじゃないって言われたのよ。

 そうすると、きよちゃんが横から出てきて、さゆにはあそこに悪い思い出があるからいきたくないんだって言うのよ。

 悪い思い出って何のことかしら。

 違うって言ってもきよちゃんは、いいのよ、さゆちゃん、大丈夫、無理しなくても、あたしはわかってるからって言うの。

 きよちゃんも、串刺しになるところを想像するのかしら。

 その気持ちをわかって嘘をついてくれるのかしら。

 きよちゃんは大好き。

 小学校の時からいつもあたしのことかばってくれる。

 拓朗も好き。きよちゃんの次くらいに。

 拓朗は、帰ってきてほしいのに帰ってきてくれないから、ちょっと嫌い。

 そんなに汚い街が、そんなにいいの?

 あたしはその街嫌いだな。電車が地面の下を走るなんて、普通じゃないわ。」

 大西は、特急電車の座席に腰掛けて、幾つか持ってきた小夕実の手紙を読んでいた。半島の東海岸に沿って敷かれた線路のために、午前中は太陽の光がまともに入ってくる。朝早い座席指定特急で、通勤電車とは反対の方向に進むため、客はほとんどなく、大西がすわっている車両には彼以外、前方の座席に一人いるだけだった。

 喪服で旅をするのはどうかと思われて、上だけ着替えればいいように、普通のスーツを来て喪服は持参したが、これだけ人が少ないのなら最初から着てきても良かったかもしれない。

 南に向かって走る電車の、左側座席では、午前中の陽がまともにさしこむので、よほど右側に移ろうかと思ったが、窓のスクリーンを下ろすにとどめた。海岸の景色を楽しむために、自然と南行きの列車は左側の座席が当てられるようになっているのだろうが、景色を楽しむために窓を大きく作ってあるので、余計に陽の光がまぶしくさしこむのだ。

 スクリーンは下ろしたが、それでも幾分視界はチカチカとする。そんな中で、大西は小夕実の手紙を読み返していた。寝不足なため、白い紙は余計目に染みる。

 彼女の手紙は、向こうにいるときに時々きいた話の内容とあまり変わりない文面ばかりだった。

 どこかピンとのずれたような、だけど何かがおかしい、そんな文面だった。

 ところが、深刻になるのは、つい先日送られてきた手紙の内容だ。これは明らかに、他のものと違っている。

 違っているのに、見落とした。

 見過ごした。

 ―――見ないふりをした。

 確かあの頃Mが、――新しい下宿先――今の下宿先の話を出した頃だった。おまけに研究報告書類をまとめなくてはいけない時期で、そうだ、何かとゴタゴタととり込んでいたのだ。

 でも、見落とすような文面だろうか。

 頭にこびりついて、浮かんできては、それを何度も振り払ったではないか。

 小夕実の手紙はこんな内容だった。

「拓朗へ

 どうしよう、拓朗。

 うちの庭の端にある井戸、あそこから、隆が呼んでるの。

 今月に入ってからずっと、南側の窓のカーテンを開けたら、隆があたしの部屋の窓を見上げてて、そして、手で、おいでおいでをしているのよ。

 それで、南の窓のカーテンをいつも閉めっぱなしにしておいたら、堺が、「お嬢さん、せっかく春らしくなって天気もいいのに、何でカーテンを閉めっぱなしにしておくんです?」って、余計なこというの。

 堺は時々、わかってるくせにわかってないような口をきくから嫌い。

 お父さんもお母さんも黙って何も言わないのに、どうしてあれはいつもあんな口きくのかしら。 

 あたし、それっきり、南のカーテンを開けてないの。

 でも、隆が見えるのよ。

 呼んでるの。

 カーテン閉めてるのに、呼んでるのがわかるのよ。

 声が聞えるの。

 「お姉ちゃん、とって」って。

 「あれをとって開けて」って言うのよ。

 「でないとぼく、大きくなれないよ、大人になれないよ」って、言うのよ。

 呼んでるのよ。

 ずっと呼んでるの。

 あの晩の苦しそうな顔で、ずっとあたしのこと呼んでるのよ。

 あたしたくさんある水場でも、うちの井戸が一番嫌い。

 あんな使ってもない井戸、なんでいつまでもおいてあったのかしら。

 なんでいつまでも、おいてあるのかしら。

 隆はいつ見ても苦しそう。

 真っ白は顔をして、どうしてあんなに苦しそうなのかしら。

 もう死んだのに。

 もう苦しくないはずなのに。

 どうしていつまでもあんな苦しそうな顔をしているのかしら。

 拓朗、助けて。

 なんで助けに来てくれないの?

 この手紙を出したら、今度こそ拓朗は助けにきてくれる。

 そう思いながら、手紙を出します。

 小夕実」

 「あれをとってきて」

 「あれ」とは、つまり、「鍵」のことだったのだ。

 なぜか小夕実の中で、たぶん隆が死んだ海岸沿いにある休憩所の鍵は、その井戸の中にあるということになっているのだ。

 隆を閉じ込めたのは、役所の人間だった。

 うっかり、中にいるのを確認せずに施錠してしまった。いわば、過失に近い事故だった。

 しかも直接の死因は、鍵を施錠したことではない。中で発作が起こったことだ。

 それなのに、なぜ小夕実は、死んだ弟にいつまでも苦しめられているのだろう。

 二人しかいない姉弟で、自分だけが生き残ってしまった罪悪感が作りあげた、妄想だろうか。

 生き残ってしまった上に、自分が家の後を継ぐことになってしまったから?

 隆の母親を結果的に追い出すことになってしまったから?

 大学に入って間もない頃、大西は、図書館に通っては心理学の本を幾つか読んでみた。しかし、精神病に該当するような重い症状でもなければ、神経症というわけでもなさそうだった。

 全く検討がつかない。

 素人考えで頭をめぐらせるより、いっそのこと、精神科の医師に小夕実を見せてはどうだろうと思ったこともある。

 それが、黙ってするうちにはいいかもしれない。しかし、そんなことをしているとわかってしまったら、江村家の連中に何と言われるか…。

 内容よりも、まだまだ対面を重んじる町なのだ。小夕実の両親も、大西の祖父母も、精神科医に見せるということに、さほど抵抗のないほどの学力もある。しかし、そこから先が問題なのだ。

 小夕実がおかしいと言って医師に見せたことがわかったら、世間では、結局その非が母親の祥子や、おかしな結婚の仕方をした江村に向くだけでなく、なんだかんだといって、結局は隆の呪いじゃないのか、あの事故はやはり祥子がやったのではないか、そんな噂が飛び交うことは、容易に想像できた。

 挙句の果てに、江村の家自体が呪われてるだの、代々人の上に財を成して権力を手に入れた家だからと陰口を叩かれるに決まっている。

 幸い、小夕実は傍目には、少し変わった神経質な子供、という程度で通っていた。

 特に勉強ができないわけでもなく、まして顔立ちは母親の祥子に似て美しかったから、そこまでひどくなっているとは、近しい人間以外誰も知らない。

 拓朗自身、あと二年待ってほしいと思った。

 小夕実ももう少し成長したら、まだ何とかなるだろう――

 そう、期待したせいもあった。

 しかし、それは、小夕実をそれほどに苦しめていたのだろうか。

 小夕実の中ではずっと、弟を死なせた海岸の休憩所の鍵は、なぜか、井戸の中にあったのだ。

 それが彼女を苦しめていた。

 弟の死が彼女を苦しめていた。

 自分を殺さねばならないほど、ひどく―――。

 特急電車から、普通列車に乗り換えて20分ほどで、大西の故郷の町についた。駅は国道をはさんで海より、ささやかな市街の中央にあり、大西の家である「大西医院」から、歩いて七、八分の距離だった。東側に海を臨み、漁港と、一部砂浜が海水浴場となっている。街の背後には山をひかえ、どちらかというと、山に囲まれて、東側だけが海に向いているという地形だった。

 大西は駅を出ると、故郷の景色を見上げた。山の中腹や街の所々にある桜が、開花の準備を始めているらしく、濃い色の幹をつぼみがピンクに染めあげていた。潮のにおいを含んだ湿り気のある風が、大西を取り囲む。

 桜が間近いというのに、少しも、楽しくない帰郷だった。

 さほど広くない中央道から狭い路地に入り、自宅を目指した。大西医院の表からは入らず、裏に回って玄関の方から入った。

 門から入ると小さな庭の中の石畳を経て、玄関がある。もう古い家で、いいかげん建て替えた方がいいのだが、面倒で、あちこち修理しながら、何年も経ってしまった。

 門を入ってすぐのところに植えてある早咲きの桜が、鮮やかに映えている。

 大西は庭の中の石畳を行って、ガラガラと玄関の扉を横に引いた。

 扉を開けるとシンと静まり返っている。靴を脱いで上がると、鞄を玄関の脇に置いて祖父母の姿を探すために玄関から廊下をまっすぐ歩いた。足音をききつけたのか、奥の食堂から、祖母が現れた。

 洋装の喪服だった。

「ただいま」

背の低い祖母が、拓朗を見上げた。ふくよかな体、ふくよかな顔に、小さな目が、拓朗の顔をじっとみつめている。

「おかえり。おじいさんと、午前の診察が終わったら、江村さんのところに行くという話をしてたんだけどね」

「え、病院開けてるの?」

「だって、うちの不幸じゃないし、まだ病人の多い時期だからって、おじいさんが今日の午前は開けようっていって、開けているのよ。明日はどっちにしたって休診なんで、今日の夜診だけは休もうって言ってね。」

そう祖母の言葉をきくと、大西は廊下から診察室の扉へと向かった。扉をノックして、板張りの診察室に入ると、ついたての陰から中をのぞいた。

 客用のソファの向こうの空間に、診察をする場所があって、ベットの横にある机の前に祖父が白衣姿で腰かけていた。前に患者はいないらしく、そういえば、受け付けの時間がそろそろ終わる頃だと思った。受け付け時間といっても、町医者だから、そんなに厳密でもなければ、急患は無条件で受け入れる。

「おじいちゃん」

と大西は声をかけた。

 老医師は、大西の声に気がついて顔をあげた。老眼鏡をかけた顔で振り向くと、「どれ」と言いながら、握っていたペンをペン立てに射して立ち上がった。

 ゆっくりと歩いて近づいてくる。すこしゆったりした体が重そうだった。歩くと少しきしむ板の上を、スリッパの音が響く。大西の前で立ち止まると、右手を伸ばして彼の頬に手をあて、診察するように彼の顔を見た。

 それから手を離すと、診察机に歩いていく。大西もそれに従った。

「今日開けてると思わなかった。」

大西がそういうと、祖父は振りかえった。が、小さくため息をついただけで、それについては何も言わず、

「お父さんとお母さんに挨拶してきたか?」

と尋ねた。

 その問いに、大西はドキっとして、

「いえ、まだです。」

「挨拶してきなさい。話はそれからだ。」

と言われた。

 大西は祖父の白衣に包まれた背中をみつめ、少しの間そこでためらっていたが、振りかえって診察室を出た。廊下を行くと、途中心配そうにみつめる祖母と目があったが、声をかけることもなく、玄関横の仏間へと歩いて行った。

 部屋の扉を開ける。

 相変わらず暗い部屋だった。診察室が道に面した南向きに作っているので、どうしても一階の私室は暗くならざるを得ない。畳部屋で四畳半と八畳の続き間になっていて、仏壇のある東の八畳に、かろうじて大きな窓があるので若干救われている。

 大西は床の間の横にある仏壇の前の座布団に腰を下ろすと、線香に火をつけ、金をならして手をあわせた。

 仏壇の中央に、両親の戒名が並べてある。

 その戒名を眺めながら、大西はなぜか心臓がきゅうと引き締まるのを感じた。

 何かが変なのだ。

 いや、決まったようないつものことをしているだけなのだ。でも、当たり前でない出来事の中で、当たり前のことをしている奇異さ――不可思議さ――それがなぜか、大西に「変な感覚」をもたらした。

 サユミが死んだのではなかったか――?

 大西は思わず身震いした。

 手で口元をおさえると、その湧き上がってくる震えを抑え、立ちあがった。

 仏間から廊下に出て診察室へとひき返す。診察室に入ると、祖父は手を洗ってタオルで拭っているところだった。診察机の前のイスに腰掛けながら、いつも患者にすわらせるイスに、すわるように促した。

 大西は促されるままに祖父の前にすわると、祖父は、

「小夕実の通夜は今晩七時から、葬儀は明日一時からになっている。密葬の後、すぐ初七日の予定なので、お前は明日の初七日までは残りなさい。そうだな、予定が許すのなら明後日向こうに帰るのがよかろう。」

 鼓動の音が激しくなった。

 激しくなるのと同時に、祖父のあまりに静かすぎるのが不思議だった。その内容と静かさの隔たりに、大西は混乱さえ起こしそうになった。

 二の句が継げないでいるのに、祖父は彼の言葉を待っている風情だった。ゆったりと、背もたれにもたれて、老医師は、妙に落ち着き払っている。

 祖父が医師だからか、それとも自分が、動揺しすぎているのか。

 大西は混乱の中で、急いで次の言葉を探した。探して、出てきたのは、「小夕実の死亡原因は」という言葉だった。

 祖父はその言葉をきくと、大西の背後にある受け付けの方にちょっと目をやった。立ちあがり、歩いて中をうかがいにいくと、受け付けの看護婦と何かしゃべってから、戻ってきて、

「急性心停止だ。」

そう言った。

「え」と大西は顔を上げた。すると立ったまま横にいる祖父の目とぶつかる。それでも祖父の目は静かな色を保っていた。

「急性心停止ですか? いつ?」

「たぶん、水中に溺没したときだろう。」

「だって、え、メールには」

「お前がここに来るまで誰と連絡をとるともしれないので、メールではそう書いたが、反射による急性心停止だ。」

 誰と連絡をとるともしれない? 大西は頭の中で祖父の言葉を繰り返した。

「ここに運ばれてきたとき、すでに背面に死斑が出ていたから、井戸から引き上げられたとき死んでいたはずだった。ところがひきあげた青年団が、井戸の中から『まだ息があるらしい』と言ってしまった。そして、青年団から引き渡された消防隊員が、その場で蘇生術を行った。救急車に乗せて蘇生作業を行ったらしいが、考えてみればうちまで背負ってきた方が早かった。生存の可能性があったなら、の話だが。蘇生術はわしもした。死亡確認時刻は午後八時三十分頃としているが、実際は七時頃のはずで」

祖父が考えるように言葉を止めたので、大西は反射的に、

「おじいさん」

と言葉を発した。すると、祖父は考え込むようにふせた目を上げた。

「なに、なんだって言うんですか。そんな、ちょ、直接の死因が溺死ってメールに書いて、書いてあって、なんでここでは違うっていうんです? どっちだって死んだことには変わりはないのに」

「メールは誰に読まれるとも知れないし」

「そういう問題じゃなくて」

「青年団が祥子さんを見て思わずついたウソを、本当にするためだよ。」

大西は膝の上にこぶしを握り締めていた。握った手の中に汗をかいているせいか、妙に熱く感じられる。大西には、祖父が言わんとすることを理解できなかった。青年団のウソを隠すために、どうして死亡原因を変えなければいけないのだろう。

 そんな大西の疑問を察したかのように、祖父は口を開いた。

「青年団がかけつけて作業に入るのが、思ったより遅くなったとかで、ついた時祥子さんが半狂乱だったらしい。それを見て井戸の中に入った青年団の青年は、思わず叫んでしまった。『息がまだあるようです。』」

「ウソならウソでいいじゃないですか。別に死亡原因を変えなくても」

「青年団がかけつけて作業が遅れたと言ったろう。」

「だからなんなんですか。」

大西はイライラと大きな声を出しそうになった。

 一体祖父は何が言いたいのだろう。どうして、こんな話を今しなければいけないのだろう。

 帰ったのだから、早く、小夕実の家にいって、小夕実に会って、弔辞を――。

「また、隆の時のように、町から追い出される人間を作りたくないんだよ。」

大西は「え」と顔を上げた。

「隆の時は、鍵をかけてしまった役所の人間と家族が追い出されるように町から出て行った。不況の最中に慣れない土地に行って、ろくなことはなかったろう。おまけにあれは、冤罪だった。彼のせいでは、ないじゃないか。それでもいられなくしたんだ、江村は――。問題は、事実ではない、原因でもない、亡くしたものの怒りをぶつけられる人間、それが必要だっただけだ。今回は、状況が状況でウソをついてしまった。死にまつわるウソは、憎しみに変わる。わしはこれ以上、ゆがんだ恨みを受ける人間を、作りたくないんだ。」

祖父はため息をつきながら、イスに腰掛けた。

「もし、これから弔辞を言いに言き、小夕実の遺体を見たら、お前は点検せずにおれないだろう、しゃべらないではおれないだろう。その時、口がすべっても、事実が出てきてもいけない。いいか、みんな必死で手をつくした。小夕実も生きようと必死だった。でも、小夕実は逝ってしまった。ほんの小さな差だ。間に合わなかったんじゃない、小夕実は、どちらにしても、死んでいた。母親という生き物は」老医師はそう言いながら息を吐き、ゆっくりと机に肘をついて、体を寄せた。どこか遠くをみつめるように視線を投げると、「もしも、ということを考えてしまう。たとえ、即死であったと診断を受けても、蘇生を続けても無駄であったと言われても、もしも、それでも即刻ひきあげて蘇生を施していたら、もしも、あと一分早かったら、この子は、生きていたかもしれない。」

「だからウソを通すんですか? 憎しみを生まないために?」

「普通の人間なら許すところ、あの家には権力がある。祥子さんは――」

 祖父はそこで言葉を切った。大西が祖父の顔をみつめていると、祖父はしばらく遠くに視線を投げていたが、ふと、大西に視線を戻して、

「そういうことにしておいてくれないか。」

祖父は姿勢を正した。白髪をオールバックにした髪が、老人に威厳を感じさせた。大西からみれば祖父はただの町医者だったが、この町での発言力はなぜか大きかった。そして、祖父は珍しく、孫に話しているのではなく、医師である大西に話しかけているらしかった。

「この小さな町で、ゆがんだ恨みを買っては、生きてゆけないからね。」

祖父は立ちあがった。

「それでなくても、人間関係というのは難しい。」

祖父は時計を見ながら、診察室の出口へと向かった。家へと入る扉の前のついたてでふと振り返って、

「着替えなさい、弔問に行こう。」

 その顔は、優しい、いつもの祖父の顔へと戻っていた。

 大西は黒いスーツに着替えた。黒のネクタイをしめて、祖母と一緒に家中の鍵をかけると、外に出、江村宅へと向かった。山手に向かって五分ほど歩くと、江村の家がある。

 歩きながら、大西は、何とうららかで平和な景色であろうと思った。生暖かい風がふいて、もう春なのだということを感じた。

 祖父母と並んで歩きながら、三人ともろくに口をきかなかった。元々、さほど話をする家族でもなかったが、会話をしてはならない、というのが、本当だったかもしれない。

 事実大西も、歩きながらさっき祖父からきかされた話ばかりを考えていた。

 「溺死」なのだ。

 引き上げたときには、まだ息があった、と、青年団の青年は言ってしまった。

 大西の頭に、小夕実の母親、祥子の顔が浮かぶ。

 祥子は、そんな咄嗟の嘘も許せない人間だろうか。

 大西は、前を歩く、祖父の白い頭をみつめながら、何かつかみきれない不思議なものを、祖父そのものに感じた。

 そんなことを考えているうちに、大きな家の前で立ち止まった。

 門構えから威厳がある。

 門の扉の中央、上の方に、「忌」と紙が貼られていて、いつもなら閉じられている横開きの門が、今日は開け放たれていた。

 大西は家を見上げた。

 後ろに邸宅がそびえているという感じだ。南である左側に庭を構え、右側に倉がある。

 門前から見上げたところ、二階の正面が、小夕実の部屋だった。

 女の子の部屋だから、もっと中ほどの部屋にすればよいものをあの部屋にしているのは、小夕実が他の部屋をいやがったかららしい。

 今ならわかる。小夕実の部屋は、東西に長い家の、一番東、あれより西の部屋に行くと、井戸が近くなるのだ。

 南に庭園を構える、その庭の一番西の隅に、井戸があった。

 大西は、祖父母と共に門をくぐった。玄関口で中に向かって声をかけると、この家の手伝いの村瀬が出てきて、「この度は…」とお互い言い合った。

 村瀬が「おあがりください」とスリッパに手を差し出す。

 村瀬に案内されるままに、玄関のすぐ脇にある、一階の二間続きの和室へと導かれて行った。蝋燭の光が一番に目に入った。奥手の六畳の和室に、白い布団に頭を北向きに寝かされた遺体がある。その前に、大き目の座布団が敷かれている。取り囲むように客用の座布団が並べられていて、その部屋にはなぜか誰もいなかった。

 祖父母と一緒に遺体の前にすわると、祖父が顔にかけられた白い布をめくった。

 生前と、少しも変わらぬ小夕実の顔――いや、生前と比べると、何か体にまとったしがらみを拭いとったような、そんな美しささえあった。

 こんなに色が白かったろうか?

 こんなに髪は黒かったろうか?

 顔の骨格がはっきりと見えて、今にも動き出しそうだった。死化粧のせいもあるだろう、それにしては、抜け殻にしては、あまりにも、瑞々しい――。

 大西の目から、涙が滴った。

 正座して、握り締めておいた膝の上に、パタリ、パタリと音を立てて、滴は小さく、弾けた。

 鍵を――。

 鍵を、探しにいったのか? 小夕実――。

 大西は、奥歯で涙をこらえた。

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