第6章
この前、小夕実に会ったのはいつだったろう。
確か今年の正月だったのではなかったか。
暮れの二十九日に実家に向かい、新年の三日にはこちらに戻ってきた。正月に、小夕実の家に新年の挨拶に行った時、彼女はどうだったろう。
いつもと変わらないようにしか記憶していない。
あの、豪華な、暖炉まである洋風の客間で、小夕実はこまごまと家人を手伝っていた。短大に通っていて、今年卒業だけれども、特にこれといった職にもつかず、家で花嫁修行をするのだと、そんなことを父親が話していた。
その日、小夕実が大西の家に訪ねて来たので、部屋で二人で少しだけ話をしたが、――というより、小夕実は普段からあまりしゃべらなかったが、大西に、いつものように、「いつ帰ってくるの?」とだけ尋ねた。
彼女はつややかな黒髪を肩のところで美しく切りそろえ、年頃らしく美しかった。大西は、うつむいた彼女のまつげに目をやりながら、この子も今年の春でもう二十歳になるのだと思った。小夕実がもう少し大西の年に近かったら、とっくに籍を入れて、二人で暮らしながら院生生活を送っていたかもしれない。夏に帰省したとき、院はあと何年か、と父親に尋ねられ、二年です、と答えると、じゃあそれが終わってからでもじゅうぶんいいだろう、と言われた。
「なあ、小夕実」
父親が声をかけると、小夕実はしばらく言いためらって、
「もっと早く帰ってきてほしいです。」
と小さな声で答えた。
父親は、その大きな体で磊落に笑うと、
「いいねえ、拓朗くん。小夕実は拓朗くんとの結婚を待ちきれないようだよ。」
と愉快そうに言い放った。
違うのだ。
小夕実は、そんなことで大西を待っているのではないのだ。
正月にあった時も、そうだった。小夕実は、大西が二年後にしか帰ってこないと知っているのに、必ず「いつ帰ってくるの?」と尋ねる。それは裏を返せば「早く帰ってきて」ということだった。何を置いても、とりあえず、本当は彼女のために、帰ってきてほしいのだ。しかし小夕実は、大西が彼女をそう思わないように、彼女自身も大西に恋情を抱いているわけではない。ただ、兄にそれを求めるように、何か「救い」を求めているのだ。
大西は、その質問にうんざりしていた。はっきりと、態度にも出ていたと思う。
それでも大西は一度、彼女が高校を卒業する後に、「こっちに来るかい?」と誘ったことがある。でも、小夕実は首を横に振って、「お父さんが許すはずないもん。」とそう言った。
その家で、小夕実の弟が亡くなってから、最早一人しかいなくなった後継ぎを、彼の家族はもう、不慮の事故で失うわけにはいかなかった。それは、失うわけにはいかないというより、むしろ、失うことを恐れているふうだった。
口に出しては誰も言わない。
しかし、言葉で表されなくても、それははっきりと感じられた。
恐れているのだ。
あの家では、小夕実が井戸に現れる幽霊を恐れるように、何かをひどく恐れていると、大西は感じずにはいられなかった。
考えてみれば、そういう空気を醸し出すのは当然と言えなくもない家族でもあった。
小夕実の家――江村家は、妻を二回迎えているが、小夕実の母親は、江村氏が一人目の妻を迎える以前から、江村の愛人だった。いや、恋人だったのだ。
江村が大学時代からつきあっていた同級生で、大学が終わってからもつきあいが続き、結婚するのしないのと親とやりあっている間に、子供が先に出来た。子供ができたのだから、結婚を許せと迫ったが、「生むなら生ませればよい、ただし」と先代は言ったのだという。先代が決めた相手がいるから、そちらの方と話を進めてくれなければ困る、と言い張ったのだ。
どう考えても前近代的な発想だった。
が、その頃着手していた大規模な事業拡大に、どうしても必要なその家の融資が必要なのだ、というのである。
その時この国は恐ろしい好景気で、途方もない夢をみていた。
その夢に酔いしれ、一人間の恋愛など認めるような気勢でもなかったのも、確かである。
恋など、すぐに消える夢なのだから、と言い張って、親は江村に他の結婚を迫ったのだ。
また、時代も時代だったから、身ごもった恋人も、「私、いいわ」と言った。子供を産んで、私一人で育てる、堕ろしたくないもの、といって結局堕胎が可能な月も過ぎてしまい、子供が生まれた。
それが、小夕実だった。
ところが生まれてしまったものは仕方がない、といって先代も認知を許したものの、結局江村氏は親の勧めた結婚をせざるをえなくなり、結婚をする。そして、小夕実の弟の隆が生まれ、好景気が終焉を迎える。
つまり、バブルがはじけたのだ。
先代の見た夢も、夢でしかなかった。
江村はそれを理由に、態度を大きくし、小夕実の母親で恋人だった祥子と、小夕実を家にいれた。祥子は籍に入らず、妻は籍に入ったまま、二人の女が同居するという奇妙な自体となった。妻の家も不況のために、事業を大幅に縮小していかねばならず、出戻るには家での肩身も狭い、ということもあったが、何にもまして、妻にも意地があった。決して身をひくことはせず、隆がいて、後継ぎである以上、家に残ると頑として譲らなかったのだ。
ところが、隆が死んだのだ。
もともと、父の江村氏に似ず隆は腺病質な子供だった。というより、周囲の環境がそうさせていたのかもしれない。小児喘息を患って、臆病なところがあった。
ただ、好奇心だけが強かった。
事件は、その好奇心が招いたといってもよかった。
大学からの帰り、夜なのに妙に明るいと思った。
地下鉄の明かりも、こんなに明るかっただろうか、と、ふと大西は思った。
地下鉄の改札を出る時、改札にいる駅員と目があったが、だからといってそれ以上何もあるはずもなく、地下から階段を上がり、駅を出た。駅を出て、そのまま一番大きな通りの歩道を歩くと、すぐに自宅ビルがある。ビル入り口まで足早に歩くと、ドアの鍵穴に鍵をさしこみ、開け、エレベーターホールへと歩き、ボタンを押した。ドアはすぐに開き、そのまま中に乗り込むと、「閉」ボタンを押して、屋上行きのボタンを押した。
エレベーターは間もなく到着し、ドアが開く。
ホールが暗かった。
ドアが後ろ手に閉まると、大西はほっとした。
あまりの気だるさに、彼はしばらくそこに立ち止まる。
暗いエレベーターホールの中に、街のあかりがうっすらと漏れてくる。
ふと、出てくる前、Mが一人きりで使っていた研究室の暗さを思い浮かべた。
研究室を出てくるとき、大西はMに何と言っただろうか。
「近所の子が死んだんだ。」
確か最初はそんなことを言った。それでMは、何と言葉を返しただろうか。彼の反応に気をとめていなかったせいか、それがちっとも思い出せない。でも確か、彼が「そんなに仲の良かった子なのかい?」と問うてきたので、「いいなずけなんだ。」と、そう答えたような気がする。
それでMは、後はぼくがどうにでもしとくし、きみ急いで帰った方がいいんじゃないか? というようなことを言っていたような気がする。
Mにしては気のきいたことを言ったもんだ、と、ふと大西は思ったが、大西のその時の様子が、彼にそう言わせたのかもしれなかった。
エレベーターホールを出るガラス戸の取っ手をもち、暗い中にどこかから映る街明かりを見ながら、思わず、涙が頬をしたたった。
取っ手を持ちながら背中を丸めてうつむいたが、奥歯をかみ締め、あふれそうになるのを堪えた。
はあ、っと息を吐き出す。
ここで泣いたら、あまりに惨めだ。ここで泣いたら、ここから動けなくなってしまう。
床に落ちた涙の滴をみつめて、彼は顔を上げた。そして、勢いをつけてエレベーターホールのドアを開けると、足早に階段を降りて、玄関へとたどりついた。
暗い中、扉の前に膝をつき、肩から提げた鞄を床において中をさぐると、なんとか玄関の鍵をみつけだした。膝をついたまま、わななく手で鍵穴に鍵を指し込んだ。
奥歯でかみ締めているはずなのに、次から次へと涙がこぼれてくる。頬が温かい、でも、手は冷たい。ついている膝も。
あえぎそうになって、また必死でこらえた。
鍵を開けると、中に入り込んで扉を閉めた。そのまま震える手で鍵をかけると、ドンと足音を立てて床に上がり、廊下を歩いてキッチンのある食堂へと足を踏み入れた。
キッチンを入るとすぐ、電話機の横にたてかけてある画面に手を当てた。
暗い部屋の中にモニターがホウと青白く灯って、「おかえりなさい」と文字が表示された。
大西は初期画面が表れると、留守音声が録音されているかチェックしたが、音声録音は一件、残り二件は受信相手の番号のみが残されていた。夕方二回の音声なしが祖父からのもので、最初の一件を再生してみる。すると大家から、「大家です。鍵を付け替えさせていただきますのでよろしくお願いいたします。なお、昼間の作業ですので、お留守中でしたらご足労ですが×××」
そういって、つけかえる予定日時を告げている。
再生を続けながら、モニターのメール受信に指を置いた。モデムの動作する音がして、間もなくメールの到着音がなった。メールは一通のみ、送信者は祖父、送信時間を見ると、ついさっき発信されたものだった。頬の涙を拭いとりながら開いてみると、白い便箋様の背景に活字の文字が表れ、大西はモニタ前のいすに腰を下ろして、それを読み始めた。
「拓朗へ
小夕実の死亡原因について以下報告する。
直接の死因は溺死。井戸に落ちる際、壁面に右側頭部を強打し、意識消失したものとみられる。
溺没への抵抗は見られなかった。
死亡時刻、本日午後8時30分頃。
午後7時15分頃、井戸からの引き上げ作業が終了した。その際に、まだ息はあったと作業をした青年団の青年は証言しているが、救急隊員が手当てしたときは既に呼吸停止、救急車の中で蘇生措置を行ったそうだが、こちらに運ばれてきた時は心停止していた。そのまま処置を施したが、午後8時30分、死亡を確認した。
小夕実がいなくなっているのに気がついたのは夕食時のことである。
手伝いの村瀬さんによると、小夕実と6時少し前に玄関ですれ違い、その際、「鍵をとりにいってくる」と言って、靴をはいて外へと出て行った。薄着だったので、さほど遠くに行ったものとも思わなかったが、夕食時に家中のどこにもいないことを発見した。祥子さんが思い立って井戸のところに行ってみると、普段閉じられていたそれが開かれていて、小夕実が落ちたらしいことがわかった。遺書もなく、靴も脱ぎ捨てていなかったことから、自殺ではなく事故であろうと判断した。」
大西の目から涙が滴り落ちた。空いた左手でわななきそうになる唇を抑えながら、画面をスクロールさせた。
「通夜は明日、午後7時から、告別式はあさって、午後1時からとなっている。あさっては小夕実の二十歳の誕生日、まさかこのようなことになるとは、夢にも思わず、お前の衝撃もいかばかりとは思うものの、何卒気を強くもって、式に望んでもらいたいと思う。
では帰宅を待つ。
祖父より」
大西の目から涙があふれんばかりに出て来た。
暗い部屋の中で画面をそのままみつめながら、動けない。
小夕実の家、庭の隅にある、古くて大きい井戸。生活水としてはもうほとんど使っていないけれども、庭の水遣りなどには時々使っている、あの大きな井戸。
弟の幽霊が現れるから、といって、恐がってほとんど近寄らなかった小夕実が、なぜその時に限って近づいたのだろう。
大西は、あふれ出る哀しみに、何とかしなければいけないと思った。
涙をとめるとか、なぜ小夕実が鍵を取りに行くといって井戸で死んでいたのかとか、そういうことを考えなければいけないのに、さっきから浮かぶものと言えば、井戸から小夕実を呼ぶ弟・隆の姿と、「鍵」という言葉だけだった。
井戸で一体、何があったというのか。
どれだけ考えても、その解答は出てきそうになかった。小夕実が何かの鍵をとりにいった。そして、井戸で小夕実は事故死した。井戸には隆の幽霊が現れて小夕実を手招きしていると言っていた。じゃあ、隆が呼んで殺したのか? しかし、隆の死んだのは、海岸公園の休憩所じゃないか。
じゃあ、なぜ小夕実は鍵を取りに行くといって、井戸で死んだのだ。
どれだけ考えても、解答は出てきそうになかった。ただ、確実にわかっているのは、大西が、小夕実の言葉をきいて、早く田舎に帰っていれば、小夕実は死ななくてすんだかもしれない、という可能性だ。しかもそれはただの事故じゃない、確かにそれは、何か原因があった、まるで憑かれたように、彼女の心の中に巣食った、あの世からの手招き―――。
小夕実はなぜ、大西に帰ってきてほしい、と言っていた?
気がついていたじゃないか、あの子はどこかおかしいって。
年々それがひどくなるって。
気がついていたじゃないか、それなのに、なぜほったらかしにした?
知ってたじゃないか。それなのに、なぜほったらかしにしたんだ。
それが、疎ましいとさえ思った。
「どうして…」
大西はいすに腰をかけたまま、両手で頭をおおった。
江村小夕実の弟、隆が死亡したのは、十二年前、小夕実が八つの夏だった。大西はまだ中学生だったことを記憶している。
新鮮な魚介類を観光の名物にした大西の故郷で、それ以外に客を慰めるものは夏の海水浴が終わってしまえば何ものもなかったから、その観光客の退屈しのぎにと作ったのが、海岸沿いの遊歩道だった。町が大金をつぎ込んで海岸沿いに道をひき、広く海を臨める高台に展望台を設置して整備したのはもう二十年も前のことで、その後ハイキングコースも兼ねた遊歩道に生まれ変わった。冬はさておき、海の景色を見るには絶好で、観光客にも評判が良かった。
その遊歩道の途中に、缶ジュースの自動販売機を設置した無人の休憩所が幾つかあった。
ログハウスで四畳半ほどの小さなもので、販売機が中に一台、木製の長椅子が四つ、それでいっぱいだった。
問題の休憩所は、表が海に面していて、そちら側の半分にロフトのような屋根裏がついていた。その屋根裏には、はしごを立てかけると上れるようになっていたのだが、普段は外していて、地元の人間でもない限りそんなところには上がらないし、そんなものがあることも知らない。
倉庫としてわずかにものが置いてある以外、海側に面した壁に丸い小さな小窓がはめ込まれているだけで、とりたてて面白くもない場所なのだが、なぜか子供たちは、暗くて狭い場所、秘密の隠れ家を望むためか、意味もなくそこに上がっては、子供らしい遊びを楽しんだ。
上がっていることを大人にみつかると、落ちたら危ないとか、火遊びをして燃えたらたいへんだ、とかの理由で怒られるので、隠れてこっそりと上る場合が多かったが、子供たち同士でも、幼稚園児以下にはそこに上がることを禁止していた。
危ないからだ。
ところが、五つになる隆は、外にあるはしごの場所を知っていて、一人でそこに上ったのだ。
それがそもそもの間違いだった。
元々小児喘息だった隆は、その休憩所の屋根裏に上がり、疲れてそのまま眠りこけてしまったらしい。目が覚めてみると、日も暮れて真っ暗で、誰もいないために発作が起きた。しかし、それを助ける人もなく、その苦しさにのたうつうちに屋根裏から誤って落下したらしく、激しい打撲を受けた後が幾つかあった。
死因は喘息性発作による窒息死であった。母親が日暮れて帰らないことに気付き、青年団と町の有志で町中を一斉捜索し、夜になって休憩所の床に倒れているのを発見した。発見された時は既に虫の息で、蘇生措置を施したが、熱が高く、翌未明、意識不明のまま息をひきとった。
そもそも、その休憩所は町の管理で、午後五時に役場の人間が施錠することになっていた。施錠しないと、走り屋などが来て、夜溜まり場にするからだ。が、夏時間、そんなに早く閉めるのでは、観光客にも申し訳ない、ということで、遊歩道に客のいる場合に限って、五時には施錠せず、小夕実の家のものが、午後七時に施錠に回っていた。もちろん、午後五時段階で客がいなければ、施錠するし、平日には大方五時に施錠された。隆が侵入したその日は、役場の人間が回った五時の段階で人がいず、そのまま鍵をかけて帰ったのだという。
おそらく、五時に施錠する前に隆が侵入し、そこで眠りこけ、役場の人間が気付かずに鍵をかけた、ということだろうと、警察は判断した。
しかし、その巡回した当の役場の人間は、上に子供がいたならはしごがロフト部分にかけられていそうなものだが、かけられていなかった、だから施錠したのであって、子供は自分が巡回した時はいなかった、と言い張った。
隆が青年団に発見された時、ロフトに上るはしごは休憩所内にあった。が、はしごそのものはロフトとは反対側の壁に立てかけられていた。おそらく隆が誤って反対側に倒してしまったのだろうということになったのだが、やはり、巡回に回った役場の人間は、5時の段階で、中にはしごはなかったです、と言い張って譲らなかった。
巡回した役場の人間の言葉が正しいことになると、隆は、施錠した五時以降、鍵をあけて、自分ではしごを持ちこんだということになる。確かに、あの家にはガレージや車の鍵と並べて、遊歩道休憩所のスペアキーがかけられていたから、それは有り得ない話でもない。
でも、家人の話では、隆はお昼を食べてから、友達の家に遊びに行った後、一度も家には帰ってきていない、ということであった。
しかしそれは、小さな子供のこと、親の目を盗んで家に入り、鍵を持ち出すなんてことは容易だろう、ということで片付けられた。
ところが、それにどうしても合点のいかない人がいた。
隆の母親だった。
あの子は親に内緒で鍵を持ち出すなんて、そんな思いきったことをする子ではない、と。まして、一人でそんな屋根裏に上るなんてことを平気でするような子ではない、とも言った。
結局、青年団が隆を発見した時は、休憩所入り口のガラス戸は施錠されていたから、五時に施錠した時、はしごはやはりあって、巡回の役人も見落としただけではないか、ということになり、話を重ねるうちに巡回した役人の記憶もあやふやになって、なんだかそんな気もしてきたと証言するようになってしまった。
結局事件は、「事故以上の証拠は何も発見されない」ということで、捜査が打ちきられた。
しかし、誰も口にはしなかったが、この事件は陰謀ではないかと密かに思い、噂されたのだ。その主として一番疑われたのは、実は小夕実の母親、祥子だった。そして誰よりもそれを疑ったのは、隆の母親だった。
隆さえいなくなれば、その母親も公然と追い出せるのだ。
でも、たとえ誰かがつれ込んだとして、その屋根裏で、隆が眠りこけることも、発作を起こすことも、果たして予測できただろうか。
町の役人も結果的に施錠し、子供のいることを見過ごしてしまったが、子供が静かに眠り込んでいることまで予想するのはまず無理だろう、ということで、父親の江村氏も訴えず、特に過失にも問われなかった。
その事件を思い起こすにつけ、小夕実の井戸に現れる幽霊や、鍵は、どういう関係があったのだろうと思わずにはいられない。
大西は小夕実の話をきくたびに、いつもその関係が全くつかめなかった。幼い弟をなくしたショックの大きさから、いつまでもこだわるのかとも思ったが、思春期を過ぎて理解する年になっても、その状況は改善されようともせず、かえって悪くなる一方だった。
部屋の中の明かりをつけようと思ったが、どうしてもそんな気分にはなれず、明かりはつけないまま、服を着替えた。着替え終わると、大西は一番奥の部屋まで歩いて行き、窓を開けた。窓の外のすだれを上げると、外へ顔を出した。
濡れた後の頬に、外の風が乾いた感じを起こさせる。
屋上の手すりの際から、暗闇にぼんやりと街の明かりが光って見えている。その明かりがどこか、大西を呼んでいるように感じて、窓枠から屋上へと足を踏み出した。
つっかけをはいて、北のビル側面へと歩いて行く。セメントの手すりに腕をかけて、ビル北側の街をのぞいた。
目の前は七階建てのビル、どこにも明かりはついていなかった。メイン通りに面しているはずなのに、どうもくたびれた感じのするビルだと思った。もちろん、屋上には家なんてないし、屋上に人が入れるのかどうかさえ疑問だった。
それでも、このメイン通りのビルはまだ見られるほうだった。このビルの裏側には、この街の所々にある貧民街があるのだ。差別用語になるとかで、決して「貧民街」とは言われない。でも、K市F地区の裏通りといえば、たいがい誰でもそう思った。
元々この街は、情報産業が栄えた1990年代後半から、時代の中枢とも言うべき繁栄を見せた。ところが、わずか数年後の2000年代初頭、情報産業は、ネット産業の急激すぎた発達の限界と、インターネットプロバイダを要しない技術革新から、米A社の株が急落、その反動でナスダック株の急落と、関連産業株も一気に下落した。米国と関連の深いこの国も多大な影響を受け、情報産業株が急落、世界恐慌へと転ずるかと懸念されたが、既に右肩さがりだった情報産業の米経済によるこうした衝撃は、前もって予測可能な下落だったため、相当な痛手を残しながらも恐慌への歯止めは出来た。
しかし元々この国の抱えた借金は相当なものである上に、迫り来る高齢化社会と、駄目押しにその「痛手」が到来したため、経済は混乱を極め、そこに、2000年代中盤にさしかかって、地球温暖化の進行が、人類そのものの生存をおびやかすまでに陥り、CO2削減に極めて非協力的だったこの国は、先進国の一つとして代償を負わされる羽目になる。
職のあるもの、ないもの、資産投資や倒産する会社の増大などの影響で、貧富の差が極端になった。中には生活するのに一番安全な職業は農林漁業だとまで言われ、情報を手に入れるだけなら都会にいる必要もないと、都会から地方への流出傾向まで見られ出した。
それでも都会に残らなければならない人たちが、最後に流れ着くのがどこかというと、このF地区の裏通りのようなところなのだ。情報産業の墓場のようなこの土地は、忌み嫌って会社が入りたがらない上に、地代も急激に下落したため、自然とそういう結果になった。新進産業であったために、選ばれた土地が比較的都心から遠いせいもあったのだろう。
家賃が極端に低いかわりに、身の安全は自分で守らなければいけないし、さらに一歩奥に踏み込めば、業務許可の下りていない私娼の巣窟となっているらしい。誰だったか、冗談紛れに、「アイ・ティーの街ではなく、イットの街だな。」と言ってみせたことさえあった。
そんな人の通りも、十階建てビル屋上からはまるでうかがえない。声さえ聞えない。
どこかぼやけた明るい街の視界が目の前に広がるだけで、北東に位置している代官山が、黒く大きくそびえて見えた。空が薄く曇っているために、月は、出ていないし、星も、見えない。
吹き上げる風が冷たく、せつなかった。
大西は屋上の手すりに腕をのせたまま、体を預けると、涙跡で頬がバリバリと乾いている感触がたまらなくて、手の甲でちょっと拭ってみた。が、それよりも頬に当てた自分の手で頬の意外な冷たさにギクリとし、自分の泣いたためにのぼせた頭と体に気がついた。
手すりから体を離して、いなかに、帰る準備をしなくてはいけない、と思った。
黒い、喪服を鞄に入れて、それから…。
もう、泣くのはよそうと思うのに、また涙が落ちてくる。大西はそんな自分が、おかしいと思った。
自分はそんなに、小夕実を愛したろうか。
小夕実を、大事と思ったろうか。
人間とはよくわからない、案外、でたらめなものかもしれない。
自分でそうかと思ったら、違っていたり、違っていると思ったら、実はそうだったり…。
でも、本当に大切と思っていたなら、あの小夕実からきた手紙にもっと真摯に答えていたのではないだろうか。
あの子は、これだけ整備され発達した通信機器をいやがって、いつも手紙で寄越した。誤って誰に手紙の内容が流れ、家人の誰に読まれるともしれないから、通信機器はいやなのだという。
秘密を、彼女は大西にだけ伝えようとしていたのかもしれない。
はたして、その「秘密」は、本当にこの世に存在したのだろうか。
彼女が心の中で勝手に作り上げたものではなかったのか。
大西は、窓から奥の部屋へと入った。奥の部屋にたたずんで、小夕実から送られた手紙のありかを頭の中で探った。
それは、この部屋の、押し入れの中に閉まってあったのだ。
ふと、坂城は引越しの日、かわいいね、といって、あの押し入れの前で彼の頬をつついたことが頭を過ぎった。
つい一昨日のことだ。
一人無意識に恥じながら、彼は押し入れの前まで歩いて行った。襖を開けたが、やはりこの暗闇の中では探せないことに気付いて、電気スタンドを取りに行く。
電気スタンドの明かりで押入れの中を照らすと、書類の整理棚へと手を伸ばした。二段目のひきだしに、私信を入れておいたはずなのだ。
彼は引き出しごと引きぬくと、それを自分の前に置き、来る度に読んでは適当に放り込んだ、乱雑な手紙の束をごっそりとつかみ出すと、電気スタンドの明かりにさらした。
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