第5章

 劇団から地下鉄を経て帰ってくると、既に十一時を過ぎていた。

 その日は、劇の練習を見学するだけで終わってしまった。どうも場面場面のチェックをするのが目的だったようで、同じシーンばかりが舞台の上で何度も繰り返された。

 調整室の十青は舞台に向かって機具を操りながら、この劇団での自分の身分を説明した。

 彼は、劇団所属ではなく、エンジニアとして別の会社から派遣されている。劇団公演がないときは、スタジオに入って舞台音響のエンジニアとして会社で働いていたり、別の公演の応援にいったりしている、などということである。

「でも坂城さんとこが一番やりやすいよ。」

と十青は言った。坂城の劇団は、大きな劇団の中から若手劇団として切り離され、主に若手を育てるために作られた劇団なのだ。だから、メンバーも他の劇団と違って随分若い。十青自身が派遣されたのも、その若さのせいでもあったが、演出家も役者もエンジニアもみんな若いだけあって、気がおける分、とてもやりやすいのだそうだ。

 それに何より、パワーが違うと言った。

 偉い役者さんたちのいる劇団と違って、青い分、上昇欲が格別なのだという。

 目の前の機械に向かいながら熱っぽく話す青年に、つられて大西の胸まで熱くなった。

 十青は専門学校を出た後、現在の会社に入社し、三年目ということだから、大西より少し年下なのだ。劇団員はほとんど二十歳代で、大西とほぼ同年代と言える。

 彼は、同じような年回りで、こんなふうに熱っぽい集団を知らなかった。自身、こんなふうに熱っぽく、何かを語ったこともなかった。

 大学も研究室も病院も、どこかいつも冷めていた。エリート集団なのだから、当然といえば当然なのかもしれないけれど、どこか皆、白衣の白さのように、病院の壁のように、とても、冷たい。大学の時と違って、勘違いした人種も、国家試験通過の目標に燃える学生もいなくなり、院にあがって本当のエリート集団の底辺に位置付けられてしまった今、そんな周りの環境に、気後れさえ感じるし、多少のコンプレックスさえ感じた。Mのように、開き直っていられる男が、かえって羨ましかった。

 そんな環境であの田舎を思い浮かべると、余計自分が惨めに思えた。

 旧態然とした、あの独特の雰囲気が、今いる世界と比べると、とても自分を低く小さくしてしまう。

 それが、彼にはたまらなく嫌だった。

 

 彼は部屋のあるビルの玄関前に立った。

 平日の夜十一時から朝六時までと、それから休日は、玄関ドアがオートロックになるため、屋上の家の鍵とは別に、この入り口の鍵も手渡されていた。

 玄関のガラスから中をのぞきこむと、入り口付近の明かりは消されていて、エレベーターホールのにぶい明かりだけがついている。地下鉄をでてから、夜ふけてことさらしみる冷気から早く逃れようと、彼は玄関ホールの鍵を開けた。

 中に入り、ドアが閉まると独りでに鍵はカチャンとかけられた。

 そのオートロックをみつめながら、坂城が昨日、ひっこしの後に言った、「鍵」のことを思い出した。思い出しながら、「ホラ、セキュリティは完璧じゃないか」などと思う。ビル自体が古いといっても、こういうものはつけかえられ進化している。エレベーターホールの天井をチラリと見上げ、防犯ビデオも確認した。

 何も、心配する必要はないのだ。

 エレベーターを待って、エレベーターに乗り込むと、行き先ボタンを押した。

 エレベーター扉の上にあるランプをみつめながら、どうもこのエレベーターの照明は、日が暮れると特に気落ちしていけないと思った。この、室内に立ちこめる煙草の残り香も、いけないのかもしれない。

 エレベーターを降りると、屋上エレベーターホールの電気は消えていた。後ろのエレベーターの暗い明かりのみで、これといった電気もない。しまった、こればかりは手動なのだ、と思い、電気をつけようかとも思ったが、立ち止まる時間はわずかなのだと気付いて、ホールのドアまで行くとドアを開けた。

 潮の香を含んだ風が、途端に彼の鼻腔をついた。

 上空をゆく、夜の冷たい空気が、とても清浄に感じられた。大西は思わず、空を見上げる。濃紺の広がりの中に、星はぽつぽつと輝き、町の明かりが、空の底辺をぼんやりと明るくしている。

 ああ、すてきだ、と彼は目を細めた。

 風の音ばかり、静かで、リンとはりつめて、とても、気持ちがいい。

 この町にも、こんなところはあったのだ。

 大西はうつむいて、息をついた。

 階段を降りて玄関まで歩く。模様いりのスリガラスの戸に映る家の中は真っ暗だったが、目もそろそろ慣れてきていた。探知式の照明を置いたらいいのだと思いながら、錠に鍵を入れ、扉を開け、中に入った。

 そのまま、後ろ手に玄関の扉を閉める。夕方西日が入るせいか、家の中は暖かく、大西の冷えた体をぬくもりが包んだ。

 家の中は風もなく、しんとしている。誰もいるはずもなく、声を発する必要もなかった。

 大西は右手で胸をおさえた。

 暖かい空気の中にいると、服の中にまだ、外の冷気が残っていることを感じた。そして、胸のうちが意外と、劇団に行ったせいで高潮していたことも。

 熱い思いには縁がない。

 時折胸躍らせても、気がつけばいつも現実なのだ。

 いけない。

 いけない、いけない、こんなに急激に気持ちを上げたり下げたりしては――こんなに急激に、体温を上げたり下げたりしては――心が、不安定になってしまう、不安定になって――ゆらゆらとして―――

 胸を押さえる彼の目に、涙がにじんだ。

 目の前の廊下は暗闇で、誰もいない。外を吹く風が、時折、家をギシリときしませるぐらいで、家の中はシンと静まりかえっていた。

 涙をこらえようとして、鼻を押さえると、その鼻は意外にも冷たかった。頬は温かいのに、鼻は冷たくて、何だか変だと思った。

 何が哀しいのだろう。

 何か、泣くようなことがあるだろうか。

 思いがけなく、ホトリ、と落ちた涙に驚いて、手の甲でぬぐうと、子供の頃祖父がよく言った、「男は泣くもんじゃない」という言葉が祖父の顔と共によみがえり、大西はフーッと吹き出した。

 そうだ、

 大西は玄関で靴を脱いだ。

 そうだったよな、男は、泣くもんじゃないんだ。

 玄関を上がって、

「いいよ、誰も見てないから。」

そう言って、廊下を歩いた。部屋は暗いまま、明かりもつけなかった。その方が、心が落ち着くからだ。

 

 女が現れたのは、その夜だった。

 彼が寝室に使っている奥の間で寝ていると、フサリ、と、布の落ちる音でふと意識が昇った。

 女の腕の触る感触で、彼はギクリとした。それから、女の柔らかい肌の感触が、自分の体に触るので、大西は慌てて目を開けようとした。が、体が動かない、ということに、その時気がついた。

 意識ははっきりしているのに、けだるさに体がいうことをきかない。

 金縛り――一瞬大西は疑った。

 おまけに自分は裸になっているらしい。

 女の上半身が、大西の上半身に乗るのを感じたかと思うと、柔らかい唇の感触が彼の唇にあたった。

 女の唇は彼の唇をこじあけて、中に舌を入れ、大西の舌を求めた。

 なぜ、その時そんなことが起こっているのか、彼にはさっぱりわからなかった。

 ここはどこだろう、という疑問が、頭の中に過る。

 夢――現実――ゆ、め――いまじっさいおこっていること?

 大西は大急ぎで頭の中をめぐらせた。

 めぐらせる間もなく、女の体は大西に乗りかかった。柔らかい肌の、暖かい感触、乳房の弾力に、大西の体はたまらず、もうだめになっていた。

 声を出したいのに、声が出ず、自分の息の音ばかりが耳元に聞えてくる。

 女は大西の首筋に口づけた。

 それは、とても激しいように感じた。柔らかくてあたたかい肉塊が、大西の上で微妙にずれていく――彼には、女の体の形が想像できた。胸がぴたりとあてられているのがわかる。

 昨日の夢の、フロ場での舌の感触がよぎって、彼はギクリとした。

 と、女の体は大西を離れ、体を舌で味わいはじめた。

 あたたかい、ねっとりとした肉の感触が、首から胸、胸元へと移っていく。

 大西はたまらない――体を動かしたいのに、動かすことができない。歯が浮きそうだった。目を、――せめて目を開けたかった。でも、それさえひどく重労働に感じた。女は、大西のわき腹から、下腹部へと舌をはわせていた。

 大西は激しく期待した。

 声を上げそうだった。でも、体が縛られたようになって声が出ない。

 女の舌が、大西の期待に答えるかのように、根元へとつけた。

 丹念に、女の唇と舌が、大西をつかんでいた。

 のぼる、のぼる、のぼりつめる――彼は、せめて目をあけようと、意識を集中した。と、ふいに、薄目が開いた。

 部屋は暗かった。

 一瞬、そこは見覚えのない部屋だと思った。が、すぐに引っ越したことを思い出した。だが、目を開いても、体が動かせないので、女の存在を確認できない。でも体は、確かに女の存在を感じていた。

 何とかして体を動かそうと試みた時、激しい快感が大西を襲い始めた。

 どうしよう、どうしようという言葉が、頭の中でぐるぐると回り始める。

 背中が、シーツの濡れた感触をべっとりと感じている。

 苦痛だった。

 体が動かせないために、余計に。

 苦痛、苦痛で、――――――

 

 朝日のまぶしさで目が覚めた。

 昨日は真っ暗なまま、ろくに明かりもつけずに寝てしまったので、簾を上げていたことを忘れていたらしい。今はまだいいけれども、夏に向けて南の窓にカーテンをひかなければいけないと、ぼんやりした頭でそう考えた。

 ふと、大西は我に返った。

 大急ぎで置きあがって、上にかけていた布団をめくって自分の体を見た。

 夢――?

 夢だろうか。あんな生々しい夢があるだろうか。夢――夢、いや――

 大西は上体の置きあがった姿勢のまま、めくった布団を元に戻して、その上に両腕を置くと、フ――と息をついた。

 夢、かもしれない。夢で感触だけ残っていて――大西は両手で頭を抱えた。参ったな、と、指の腹をイライラと頭皮になでつける。

 立ち上がって、窓まで歩いて行った。

 下ろし忘れた簾のところから、外の光をみつめる。部屋の隅に置いてある文机の上の時計を見ると、七時半を過ぎていた。彼はサッシの鍵を時、カラカラと窓を開けて、体を外に出した。

 朝の空気は新鮮で冷たく、思わず大西は身を縮めた。空は晴れやかな青、地上の音がボ――ッと、音にならぬ音でかすかに響く、といった感じで聞えていた。もう、ラッシュは始まっているのだろうか。――そうだ、そういえば、ここはメインストリートの真上なのだと思い出だした。開け放して寝ると、車のクラクションでもなれば、その音に目を覚まされるのかもしれない。

 窓枠の敷居に腰かけて、ビル屋上のへりから、陽の昇りかけた東の空を、目を細めてみつめながら、そうだ、昨日の夢は、昨日、坂本十青にきいた、奇妙な「夢の女」の話――あのせいかもしれないと思った。とびきりの美女だというのに、顔が見えなかったけれど、とびきりの美女が現れるときいて、その期待感が、あんな奇妙にリアルな夢を見せたのかもしれない。

 突然、大西は立ちあがった。

 奥の間から、廊下へと抜け、玄関へと走って行く。玄関の扉を両手でつかんで勢いよく開いてみようとしたが、ガシャンと詰まる感触が返ってきた。

 鍵はかけられている。

 そういえば、昨日は掃除の人が入っているはずだと思って振りかえると、心なしか家の中が清浄になっている気がした。もう終わったんだろうか、まだ続くんだろうか、と考えながら、でも、清掃員が夜中にあんなことをするはずもないように思われた。

 男女が逆なら話もわかるけれども――。

 大西はやはり、昨日の夜の出来事は夢と思うことにした。

 いや、夢と思うしかないのだ。

 ふと、坂城が書いた脚本の、『夢の女』も、そんなことをするのだろうかと興味が走った。が、想像をめぐらせている自分を恥じて、慌てて首を振った。

 大西は、玄関の冷たい石畳から廊下の板の間に足を運びながら、今日のスケジュールを頭の中にめぐらせた。

 昼前に家を出て、午後から研究室――今日はインターネット上で他大学、他分野と共同で進めている研究の報告会がある。夕方から夜診に入って、帰宅。出かける前に、忘れている引越しの手続きをしようと思い当たる。今日は、清掃の人達にも会えるかもしれな。 

 廊下の真中で、彼は大きくのびをした。

 どの部屋も日のよく入る、落ちついたいい家だと、清涼感にますます満足した。

 

 先生、今日どうされたんですか、という言葉で、彼は我に返った。

 診察室の机の前にすわって、さっき出て行った患者のカルテを書いているところだった。振りかえると、若い看護婦がすわっている大西の後ろに立って、彼に話しかけていたのだ。

 看護婦は、彼の真後ろに立っていた。壁で幾つかに仕切られた診察室の奥は通路になっていて、それぞれ行き来できるようになっている。壁際に、棚と窓があり、窓には既にブラインドが下されていた。

「え? どうって?」

 大西は彼女の、苦笑いした顔をみつめてそう言った。看護婦の唇は、笑った歯ならびがきれいに映える。大西よりは二、三年上、もう中堅になってしまっているこの看護婦は、口元の美しい女だと改めて彼は思った。

「だって、いつもと何か違いますよ。何かいいことあったんですか?」

 火曜日の夕方なせいか、外来がいつもより少なく、定時に終われそうだと思っていた。ちょうど人が途切れた時で、ふと大西にそんなことを話しかけたのだ。

「いや、特に、特に何もないけれど――そうかな、ボク、今日そんなに変ですか?」

「変ってわけじゃないですけど、どこかいつもと違います。」

「いつもと違うって?」

「ホラ、そんなふうに。」

え、と大西はびくりとした。

「いつもだったら、そんな突っ込み入れませんよ。」

「え、そう、ですか?」

大西は彼女の言葉に少し考えた。 

 いつもと、違うだろうか。どこか、違うだろうか。そう考えて、ふと、

「引っ越したせいかな。」

「引っ越されたんですか?」

「うん、Mくんの紹介で。」

「M先生の紹介で?」

それで看護婦の顔に不安の影が過ったので、大西は困ったように笑った。

「今日もう、終わりですか。」

大西はカルテを書き終えると、看護婦にそれを渡した。

「ええ、そのようです。ええ。」

看護婦の答えに時計を見ると、もうすぐ八時半といったところだった。

 大西は立ちあがると、もう一度、

「え、でも、ぼく今日そんなに変ですか?」

と尋ねた。

 立ち上がった大西を、看護婦は見上げながら、困ったように笑った。その、困ったような笑い方の、目が笑っていない。何かもの言いたげな目なのに、彼女は笑みを浮かべただけで何も言わず、言葉を飲み込んだように見えた。

 次の言葉を継ごうとして、瞬間ギクリとする。

「変なんじゃありません。ただいつもより、機嫌がよろしいようだから。」

彼女はそう言葉を継いで、「今の人が最後か、確認してきますね。」と、足早に診察室から出て行った。

 大西は看護婦の行く手を見守ると、イスに腰をあずけて、「まさか」と思いなおした。

 看護婦が、昨日の夢を、知るはずがないのだ。

 なぜ、昨日の夢にそうこだわるのだろう。リアルに残り過ぎたからだろうか。確かに腑に落ちないこともたくさんあるけれども、夢としか説明できないじゃないか。

 それでも、腑に落ちないリアルな夢だからこそ、心にやましさを生むような、変な感触でもある。

 大西は横に首を振った。

 彼は両膝にそれぞれ手を置いて、今日の診察を思い返してみた。

 今日、ボクの何がいけなかったのだろう、と、考え始めた。診察にミスがあれば、「機嫌がいい」なんて言わないだろうし、とすれば、良すぎたんだろうか。ボクはそんなにウキウキしていただろうか。

 いつも通りのような気もするのに、何がいけないのだろう。

 思い返して考えてみるが、それらしいことは出てこない。と、看護婦が帰って来て、ドアを開けて入ってくると「さっきの方で終了だそうです」と彼に報告した。「お疲れ様です」の声に、大西は彼女を見上げながら、「お疲れ様です」と返した。

 その時、女がチラリと投げた視線に、大西はギクリとした。

 やはり顔は笑っていて、さっき言葉を飲み込んだ時と同じ表情だった。

 彼はドギマギして、それから、手で口を抑えた。

 看護婦はそれきり一度診察室を出ていってしまったが、大西はそのまま動けなかった。 

 大西は耳を済ました。時計の音と、診察室のどこかから、まだ医師が残っているのか、小さくペンの走るような音が聞えている。

 大西は看護婦が戻ってくる気配のないことを確認すると、立ちあがった。

 うつむいた、耳と首が、ひどくほてっている。

 腰が浮きそうな感触に、思わず奥歯をかみ締めた。

 看護婦が帰ってくるまでに、研究室に移動しようと思った。そうだ、今日のネット報告会の結果レポートをまとめておかないといけない。メールだって来ているだろう。研究室にはたぶん、まだMが残っている。時間が許せば、引越し後の報告が出来るかもしれない。

 集中しよう。研究に集中しよう。

 大西は診察室のドアを出た。廊下は、外科の外来患者のためか、まだ電気がつけられていた。待合室の薄暗い明かりが、何人か残っている患者の表情も手伝って、気だるく見える。彼はそこから逃げるように、大学研究棟の研究室へと向かった。

 どうしたんだろう、本当に。

 ボクは昨日から変だ。

 いや、一昨日の夜から変なのだ。あの、甘い香をかいだ、あの夜から、何か、感覚がおかしい。気を、つけないと、すぐ、に、自分の中の何かが、壊れてしまうかもしれない。

 早く――早く――。

 彼は、時間にせかされているわけでもないのに、足早に歩いた。研究室と、Mの顔を思い浮かべながら、暗い渡り廊下を歩いた。暗い階段を上った。会う人にも、呼びとめられぬように――。

 

 研究室の扉を開けると、部屋の明かりを消して、デスクの明かりだけでMがだらしない格好で書類を眺めてすわっていた。机の上のパソコンは、スクリーンセーバーになっていて、ラインが三角形を形作りながらグルグルと回っている。

 Mは大西が入ってくると、「おかえり」と声をかけた。

「今日少なかったの?」

とMが尋ねる。

「え、うん。そう。」

言いながら、彼は研究室の壁にかかっている時計を見上げた。

「鳴ってたよ。」

と、Mが書類を見ながら言った。

「え? 何が?」

「ケータイ。結構しつこくなってたから、よっぽど出ようかと思ったんだけど。」

「あ、ありがとう。」

 そう言って、Mの隣の自分の机まで行き、机の上に置いて行った鞄に手をかけた。

「ケータイなんて鳴らす人いるんだね。」

「いや、端末接続用のPHSだよ。誰だろ、緊急の時以外鳴らさないでって」

言って、大西はギクリとした。それから慌てて鞄の中を探ると、端末のノートパソコンを取り出し、そこからPHSを抜き取った。受信履歴をめくってみる。一、二、三、…全部田舎の実家からの番号だ。

 大西はパソコンに、もう一度PHSを差し込み、窓際によってパソコンを開いた。ただならぬ様子にMは姿勢を正して大西の動きをみつめる。メールボタンを押しながら、窓を開けると、ややあって、接続が完了する。メール受信の心地よい音が鳴ると、受信したメールを開けてみる。

 送信者は祖父になっている。短い、言葉。

「小夕実、危篤。すぐ帰れ。」

大西は、一読で意味が理解できなかった。

 サユミ、キトク、スグ、カエレ。

 脳裏に、小夕実の顔がよぎる。彼女はいつも、セーラー服姿で、彼の脳裏に現れるのだ。五つ年下の彼のいいなづけはどこかいつも生気のない顔をしていて――。

 彼はそのまま、また端末からPHSを引きぬいた。番号を押そうとしたところで、Mが、

「オイ、オイ、大西君待てよ。」

と慌てて声をかけた。

「駄目だよ、ピッチでも研究棟で使うのはちょっとまずいよ。なんだよ、電話使えばいいじゃないか。」

「電話?」

「あ、そうか、もう交換終わってるんだっけ。じゃあ、公衆電話、給湯室の横にあったろう?」

言われて、大西は鞄からサイフを抜き取ると、急いで研究室を出て行った。廊下を走って棟中央にある公衆電話にかけよると、震える手で受話器をはずし、カードを財布から抜き取って、公衆電話にさしこんだ。

 ガチャガチャと音を立ててボタンを押す。

 電話の中の呼び出し音が遠い。息が荒いのに自分でも気がついて、その音が邪魔だった。

 小夕実に、体の病気なんて、なかった。

 もし、そんなことになったとすれば、事故か自殺か――。

 電話の向こうがベルに答えた。

「もしもし?」

彼がそう声をかけると、

「拓朗?」

という、祖母の声が帰ってきた。

 でも祖母は、すぐに言葉を継がない。大西の、受話器を握る手が汗をかきはじめた。

「小夕実が」

そう言葉を発するのに、祖母の言葉がきこえてこない。

「ばあちゃん、小夕実は、小夕実が危篤って、」

妙に息の沈んだ気配が、電話の向こうから伝わってくる。

「拓朗、たくろう、落ちついてきいてね。」

「落ちついてるよ。いいから、どうしたの?」

「急なことだけれどもね。」言って、祖母の言葉に泣き声が混じった。声はしばらく途切れて、その次の言葉を待っていると、やはり、泣き声で、

「小夕実ちゃんね、亡くなったのよ。」

言葉が途切れたのは、今度は大西だった。

 途端に、激しい最悪感が、彼の胸を締めた。

 電話の向こうで、何かやりとりする音がきこえた。受話器の向こうで人の気配が途絶えて、すぐに、「拓朗か」という声がきこえてきた。

「忙しいとは思うがな、今晩はもう電車もないだろうから、明日にでも帰ってきて来れるか? 明日通夜で、明後日が葬式と決まった。わかったな?」

「ちょ、ちょっと、じいちゃん、」言いながら彼は首を振った。「なん、なんで? 小夕実なん、で、げ、原因は? だってさっきは危篤って」

そこで、祖父の、言葉を飲み込むような気配を感じた。

「井戸に落ちた。」

「井戸?」

「小夕実ちゃんの家の庭にある、井戸に落ちた。発見した時は、まだ、意識があったそうだが、」

「なんでそんなとこに」

大西の脳裏に、小夕実が言っていた、井戸から呼んでいるという、弟の姿が浮かんだ。

「鍵をとりに行くと手伝いの人に言って、それから食事の時間にもなって帰ってこないんで、小夕実ちゃんのお母さんが井戸に走って行って、その時はもう」

 鍵――――?

 事故? 自殺? と尋ねようとした。が、祖父は町に一つしかない医者なのだ。電話の向こうの状況をとっさに悟り、今はそれを確認する時ではないと気がついた。

「拓朗、わかったな? 帰って来れるか?」

祖父の声で我に返った。

「わ、わかった。明日、帰るよ。」

それだけいうと、ゆっくりと、受話器を置いた。

 受話器をかけて、左手にひどい重さが残っているのに気がついた。少し身じろぎすると、ガクガクと体がぎこちない。

 頭の中に、汗をかいている。

 ガシャン、とカードが音を立てて吐き出された。「カードをお取り下さい」と、公衆電話がしゃべる。吐き出されたカードを抜き取り、思わず公衆電話に体をもたせかけた。

 何、か、違わないか?

 彼は目を見開いたまま、動かなかった。

 これは、何かの、間違いじゃないのか――?

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