第4章

 奥の部屋で大西が一人、荷物の片付けをしていると、玄関の方で坂城の呼ぶ声がきこえた。廊下に出てみると、西日が斜めに指し込んで、薄暗い玄関の上がり口に坂城は一人で立って大西の出てくるのを待っている様子だった。

 坂城はどうやら、借りていたトラックの返却について尋ねるつもりだったらしい。大西が二十四時間レンタルの分だから明日大学に出る時に、早い目に家を出て返すつもりだというと、坂城はついでだから今日今から返しておくよと申し出た。

「料金はもう払っちゃってるんだろう?」

と、今日会ったばかりなのに友達にでも言うような口調で尋ねるので、大西も思わず、

「うん、でも、坂城さんが返しに行くの、場所わかるかな?」

と返した。

「わかるわかる。もうこの街はオレの庭みたいなもんだからね。」

坂城が言って、ちょっと両肩をすくめると、

「燃料くらい、オレがいれなきゃね。」

ニッと笑った。

 「ああ、それから」と言いながら、坂城はズボンの後ろポケットに手をつっこんだ。何か引きぬくようなしぐさをしたが、その手をふと止めて、大西の顔を改めて見た。何かいいためらうような様子を見せたので、大西が「何?」と問うと、

「いや、スペアキーなんだ。でも渡す必要ないかもな。」

「ああ、うん、持ってるよ。」

「いや、そういうんじゃなくて…。」

坂城は思わずはにかんだ。

「劇団員が何人かスペア持ってんだ。だから、鍵自体つけかえた方がいいよな。」

「あ、そうなんだ。」

坂城に言われて、大西は改めて玄関の鍵穴を見た。戸の合わせ目に埋め込まれた、その鍵を換えるということは、シリンダー自体を入れ換えなければいけないのかもしれない。ちょっと金がかかりそうだと大西は思ったが、スペアは大家が持っているものだし、大家が換えるものだろう、と思いついた。

「じゃあ、あの、管理人のおじさんにお願いしとくよ。部屋の掃除とかで明日も来るそうだから。」

大西がそう言うと、坂城はポケットの中に握り締めていた鍵を、そのまま出さずに、右手だけをひきぬいた。

「ま、鍵なんて役に立たんかもしれんしな。」

といって両手を広げ、こちらにパッと手の平を向けてみせた。その芝居がかったような動きで、大西はははじめて坂城が舞台の人だということに気がついた。体も長身でがっしりしている上に、手も肉厚で大きな手だ。今はぼさぼさの頭だけど、よく見たら男前だし、きっともてるのだろう、と、大西はぼんやり坂城を眺めながら、

「うん、こんな屋上に家があるなんて、誰も思わないよ。」

そう言うと、坂城はまたはにかんで、

「まあ、エレベーターのボタンはあることだから、中には来る奴もいるかもしれないだろうけど。」

「今までに、来た人いました?」

「さあ、オレ昼間はあんまりいないし、夜は大所帯だし、盗られて困るもんなんてねえしな。」

「でも盗みに入る人がいるとしても、そういう人は閉めても開けられますし、強盗は鍵を開けて入るなんて丁寧なことしませんから、結局同じでしょう。どっちにしたって下の玄関ホールにセキュリティのカメラがあったから、大丈夫でしょう。」

大西がにこやかにそう言うと、坂城は一瞬ポカンと口を開け、大西にみとれた。それからゆっくりと口を大きく開けると、せきを切ったように大きな声で「ワーッハッハッハッハ」と笑った。

 突然笑われたのに大西が度肝を抜かれて見ていると、坂城は「ハアハア、アハッ、アハッ」と必死で笑いをこらえながら、

「おン前、面白いなあ。出身はどこだ? この近くじゃねえな?」

「はあ、はい。I県です。何ですか? 面白いですか?」

「お前Mと同じ年だよな? カマトトぶってんじゃねえよなあ? しかし、何年? 8年ぐらいいんじゃないの? それでよくそんなんでいられたなあ。大学の優等生組って、みんなそんなんか?」

「優等生組」という言葉に、大西は少しカチンときた。さっきも「かわいいね」と言われたばかりなのだ。

「何、何ですか、僕、何か悪いこと言いました」

「いや、悪い悪い。悪気はねえんだ。そうだな、あんたなら災難の方がよけて通るよ。」と、そこで「いや」と大きな声で遮って、「あんた面白いよ。よかったら、きみも是非僕らの劇団に遊びに来たまえ。」

「え、来たまえ、って、ボク演劇は…。」

「来たまえ、つっても、団員になれってことじゃねえよ。団員にとっちゃ、いろんな世界の人間と知り合いになることも、勉強のうちなんだ。いろんな人生演じなきゃなんねえからな。」

 ついさっきまで笑っていた坂城が、もっともらしい顔でそんなことを言うので、大西はホケッとしてその顔をみつめた。そんな大西の反応に、坂城はニカッと笑うと、

「おう、じゃあ、おれそろそろ行くわ。今日は悪かったな。」

坂城の言葉に大西はハタと我に返った。

「え、あ、あがってお茶でも飲んでってください。」

「いやいやいやいや、大西くん、大西くん。」

坂城はニコニコしながら両手でバンバンと大西の両肩を叩いた。

「これ以上迷惑はかけられないよ。」

そう言いながら、ワーッハッハッハッハともう一度笑った。

「いや、迷惑だなんて。」

大西がそう言うと、坂城は玄関の扉まで体をひいて、扉に右手をかけた。

「うん、いや、そろそろ劇団の方に戻らなきゃ、稽古始まるんだ。」

「え? 今からですか?」

玄関扉のガラスにはすでに暮色がかかっていた。

「そう今からよ~ん。研究生とか、学生のやつ多くってね。公演の前は昼と夜の大方二回にわけて稽古すんの。舞台の遠しは大方夜かな。でもま、あんま昼夜カンケーねー商売だけどね。」

「え、じゃあ、車返すのは」

そう大西が体を乗り出すと、坂城は左手の平をこちらに向けて

「いいいい、これぐらいさせてよ。」

「え?」

「うん、じゃあ、劇団にも遊びにおいでよ。忙しいか知らんけど。大方誰かいるから、時間は気にしなくていいよ。」

「え、ああ、ありがとうございます。」

坂城はじゃあね、とこちらに左手をもう一度上げると、扉を抜けてスルリと出て行ってしまった。

 何か嵐の去ったあとのような気分に襲われながら、面白い人だ、と思いながらも、大西はキツネにつままれたような気分になる。坂城の出て行った扉をみつめて、頭をかきながら、奥の部屋へと戻った。

 部屋は明日掃除が入るということなので、家具などは固定せず、家具の中身は各部屋の中央においておくことにした。本類はすべて、キッチンと、屋上に出て行ける六畳間との真中の部屋の六畳間に置くことに決めて、その屋上に出て行ける「奥の部屋」は、坂城が使っていたのにならって、小さな文机だけを置くことにし、寝室として使うことに決めた。

 コンビニエンスストアで買ってきた弁当で夕食をすませると、奥の部屋にお茶を持ち込んで一息ついた。前の家がワンルームだったので、照明機具を一つしか持っていなかった。この家は、キッチンには元々ついていたが、他の照明はなかった。それで作業の必要な中の部屋に前の家から持ってきたものをつけたが、奥の部屋には照明がなかった。仕方がないから中の部屋の襖を全部あけて明かりを差しこませてみたが、やはり少し心もとない。

 そういえば、坂城の荷物を運び出す時、この部屋に元から照明機具はあったろうか、などと思いついて、大西は天井の差し込みを見上げた。

 それから思い立って、中の間から机で使う電気スタンドを持ってきて、奥の間でつけてみた。

「いいじゃないか。」

大西は一人でそう言ってみて、中の間の電気を消しに行った。

 奥の間に戻って来ながら、やはり電気スタンドじゃあ、ちょっと風情がないな、などとも思った。こういう部屋はムードランプなんかが似合うのだ、と思って、ちょっと嬉しそうに笑ってみる。

 奥の間は東側が南の半間を残して窓なので、朝日がすごいだろう。日が暮れて今はよくわからないが、外は簾が下りているらしい。大西は窓の所に立っていって、窓を開けてみた。

 ふと身を縮める。

 まだ夜は冷え込む日が多いのだ。

 昼間汗をかいたせいもあって、空気がことさら冷たく感じた。

 かがんで、窓の外のすだれをあげて頭を出すと、潮の香をほのかに感じた。

 屋上が光もないのに明るいと思って、すだれをささえた低い姿勢のまま空をのぞきこむと、月が出ていた。満月には今少しと行ったところだろうか。東に海をのぞんでいるせいか、空が広く、雲の行き来するのさえはっきりと見て取れる。その月に照らし出された雲も、空の色も、大西にはとても美しく感ぜられた。

 こんな月夜は、田舎を思い出すのだ。

 この街は、窓を開けるとどこからともなく、音にならない騒音が響いている感じがする。静寂とは少し違った、この街で生まれ育った人には想像もつかない静けさが、大西の故郷にはあったのだ。今窓を開けて、音は確かにどこかから響いているのだけれど、この空と、月と、潮の香が、故郷の静けさを思い起こさせた。

 しかし美しいばかりで、人間の心そのものが美しいというわけではないかもしれない。

 サユミ―――

 小夕実。小夕実は、大西の年下のおさななじみだった。大西が十五の年、いいなずけとして約束していたのだと祖父に教えられた。小夕実は現町長の一人娘、前町長の孫娘にあたる。大西の故郷の町は、選挙制があったって、一番の実力者が長につく、そんな古い慣習から逃れられない町でもあった。

 海辺の町で、漁業とその海の幸を求めてくる観光で成り立つ町なのだ。

 近辺には医者といえば大西の家しかなく、後を継ぐものがなければ町の人はずいぶん心細くて不便を強いられることになる。大西の進路は、もう本人も家族も、強い志しを持つ持たない以前から決まっているようなものだった。

 それが、小夕実と結婚するとなれば、医者を継ぐだけでなく、小夕実の家も継がなければいけないということなのだ。大学院に進学したのも、どちらかというと、そうした、婚家への手土産代わりに学位をとるという意味があった。小さな町の実力者は、それ以上発展する必要もない。その土地で家を守るにふさわしいだけの人間であれば、それでいいのだ。後を継ぎに入る人間に、名誉欲など要らない、独占欲なども要らない、一番求められたのは、「温厚な性質」、そしてなにがしかの「格」だった。

 それを大西はすべて承知しているつもりだったが、心のどこかで小さな小さな反抗心もあった。だから、忙しいのを理由に、故郷にはめったに帰らなかった。小夕実は、大西の帰ってくるのをずっと待っていたし、手紙もよく寄越した。

 小夕実は、どこかおかしいのだ。

 それが、年々ひどくなるように感じる。

 送ってくる手紙の文章もしっかりしているし、傍目から見れば何の問題もないように思える。しかし、彼女は、どこかが、何かがおかしいのだ。

 いつも、かつてのある時を境に、そこまで記憶を遡らせては、それ以後の話ばかりをする。繰り返し、繰り返し、記憶を確認するかのように。でも、決してそれ以上は遡らず、遡ろうとすると何かにおびえたように黙ってしまう。それが、弟の死んだ頃だと気付くのに、そう時間はかからなかった。海岸通りに町が観光用の遊覧歩道を設置していたが、そこには恐がって近寄らない。町長管理のその小屋で、弟が喘息の発作を起こし、手遅れになって死んだからだ。

 小夕実には恐いものがたくさんあった。

 秋の月夜に行われる、稲荷山の稲荷祭りも彼女は恐がった。親父さんの立場上、出なければいけないよというのに、恐がって出てこない。それから彼女の家、庭の隅にある井戸も、恐がって近寄らなかった。

 しかし最近の手紙に、おかしなことが書いてあった。大西はいつものことだと思って過ごそうとしたが、どうも気になって忘れられない。

 井戸から弟が、手招きして呼んでいる姿が見えるのだという。

 小夕実は神経が過敏で、もしかしたらそういうものが見える性質があるのかもしれなかった。でも、どうして井戸から呼ぶのだろう。弟は、海岸沿いの小屋で死んだのだ。もし小夕実に見えないものが見えるのだとしても、そんなところからどうして弟が呼ぶのだろう。

 小夕実はどうして、そんな使ってもいない井戸にこだわるのだろう。

 「早く帰ってきて」と、彼女の手紙にはいつも連綿と書き連ねられていた。しかし、大西には、未来も、自分自身の処遇も、故郷も、そして何よりも小夕実自身が、わずらわしかった。小夕実は、見るからに繊細な少女だった。元々父親の愛人だった母の器量を継いで、人並み以上に美しいけれど、影の薄い少女だった。大西自身は、どこか艶なところがある、小夕実の母に、幼い頃憧れを抱いたことはあったが、小夕実に何かを思うことはなかった。ただ妹のように、「かわいい」と思うだけだった。

 それは、恋ではなかった。

 かつても、今も、そして、これからも、変わることはないだろう。

 彼は外気で体の芯まで冷えてくるのを感じ、簾をおろし窓を閉めた。

 文机の前に行って、腰を降ろし、さっき入れたお茶に口をつけてみると、ぬるくなっていた。彼はかまわずそれを飲むと、ぬるいそれに体の冷えをことさらに感じて、風呂に入らねばいけないと思った。玄関の横にある風呂を思い浮かべながら、そうだ、あの風呂など、本当は薪をくべながら炊けば風情があるのに、などと思いついた。

 でも、こんな屋上で薪をくべて炊いたら大変なことになるだろう。火事など起こってはどこにも逃げられない、誰も消せない。たいへんだ。

 第一、入りながら誰が薪をくべるのだ。誰が薪を用意するのだ。

 大西はその労力を想像して、思わずクククと堪え笑いをした。

「一人で風情を味わうのもたいへんだ」

 大きなあくびをする。

 昼間の疲れと、外気で冷された体が室温で温められたせいか、ひどい眠気が大西を襲った。眠気に襲われながら、誰か、薪をくべてくれる人がいたらいいのだ、と思った。そしたら、そういう風呂もできないわけでもない。

 ウトウトとしながら、部屋のどこかから香気の漂うのを感じた。

 ああ、そうだ、と大西は思いながら、この家に最初やって来た日、ふとかいだ香を思い出した。

 どこか甘い香、これは、何のにおいだろう。

 まるで、母のにおいをかぐような、どこか甘ったるい気分にさせる、そんな心地よいにおいだった。

 でも、大西は母の香を知らない。

 彼の物心つく前に、他界してしまったのだ。

 ―――

 彼は風呂の湯船につかりながら、廊下を足音が、過るのをきいた。足音は一度通りすぎて、脱衣場へと入ってくる。風呂の扉の前まで来て立ち止まると、女の涼しい声で、「だんなさん」と言うのがきこえた。

「だんなさん、お湯かげんはどう?」

そう言うので、彼は、

「いい湯加減だよ、ありがとう。」

と答えた。

 すると、ややあって、風呂の扉が開いた。

 女の髪は長く、裸で、前をタオルで隠していた。少しはにかんだ様子で、風呂場に足を入れると、桶をとって湯船に入れ、ザザーッと体を湯で流した。

 女は立ちあがった。

 彼女は湯船に足を入れ、彼の前に体を沈めると、気持ちよさそうに、

「本当、いいお湯かげんだ」

と微笑んだ。

 彼は、女の微笑む白い歯をみつめて、その口へと唇を押し当てた。女の体に手を回すと、浴槽が手に触れるので、女を少し抱え上げた。

 それから乳房へと視線を落としていった。

 白くて豊かなそれは、微かに上気して、甘い香につつまれているのではないかと思われた。口をつけてみると、旨そうで、彼は舌を出してつぶらな先端に強く押し当てた。

 女は「あ」と声を上げ、体を軽くのけぞらせた。

 彼はそれでも、味わいつづけた。

 ああ、ああ、なんと、旨い。まことに旨い。

 思いながら、女の体を抱き寄せると、女はまた体を揺らした。

 舌の先で味わう果実、そしてまた、唇に当たる「やわらかさ」が、たまらない。

 素敵だ。

 湯船が、女が揺れるたびに、さざなみを打ってピチャピチャと音を立てる。

 ああ、ステキだ。

 男は女を抱き寄せて、馥郁たる香に恍惚とした。

 とても、ステキだ。

 

 翌日、大西が大学の研究室から廊下に出ようとドアを開けたところで、大学病院の夜診に出勤してきたMとはちあわせた。大西が先に「やあ」と声をかけると、Mが「やあ」と返した。

「昨日は無事済んだかい?」

尋ねたのはMだった。Mは研究室に用事があって、昨日は先に帰ってしまったので、その後のことは知らないのだ。

「うん。今日掃除の人が入るって言ってたよ。修理したらよさそうな部分があったら、二、三日余計にかかるかもしれないって。」

「ああ、そう。」

Mはうつむきがちな姿勢のまま、左手で目がねを上げた。カジュアルなスーツを着てネクタイをしているのに、カッターシャツがよれよれでネクタイもくたびれているので、全体、どこかだらしない感じがする。だいたい左肩に背負っているリュックもいけない。

 相変わらずのMを大西がみつめていると、Mが、

「坂城は何か失礼なこと言わなかったかい?」

そう尋ねた。

「何か失礼なことって?」

「いや、あの男、人自体は悪くないんだが、言うべきでないことまでしゃべっちゃうんだ。だから…。」

そう言われて、大西は「かわいいね」という台詞を思い浮かべた。その上「優等生組」という言葉も思い浮かべた。でも確かに人は悪くないというMの言葉も本当だ、と、クスリと笑うと、

「うん、別にたいしたことはなかったよ。それより、車返しに行ってくれたよ。燃料も入れておいてくれるって。」

「ああ、そう。うん、そう。」言いながらMはうなずいて、それからハッと顔を上げると、

「何言ってるんだ、それぐらいのことして当然だよ。あんなギリギリまでいすわって、引越しの手伝いまでさせて。」

Mが少しばかり憤慨した様子で語気を荒くしたので、大西はアハハと笑って、

「でも、今度の公演のチケットもくれたし、劇団にも遊びにおいでって言ってたよ。ちょっとおおらかなだけで、悪い人には見えないよ。」

大西が明るくそういうので、Mは彼の顔を不思議そうにみつめた。

「え、行くのかい? 劇団。」

「うん、まあ、暇な時にでも…。」

「そう。」

それでMの言葉が途切れた。大西は少し考えてから、

「きみはよく行くの?」

「え?」

「劇団だよ。稽古とか、見学に行くのかい?」

Mはまっすぐに大西に向き直って、大西をみつめた。うつむいて、口の端をちょっと吊り上げるように笑うと、首を横に振った。

「公演を話の種に見にいく程度だよ。あと、打ち上げに出たり、かな。稽古までは見に行かない。」

Mの私生活を、そういえば大西は知らない。大西はふと、大学以外のMがどんなふうだったりするのかとちょっと気になって、想像してみようとしたところで、

「行ってみたければ、行ってみたらいいよ。正面から見る以外の舞台裏とか、見せてくれるし。」

「今日行っていいかな。」

「え?」

「今日行っていいかな。ちょうど今日開いてるんだ。」

「あ、ああ、好きにするといいよ。どうせ、彼ら、夜中まで劇団にいることが多いんだし。」

言って、Mは左腕を上げて時計を見た。その動作に大西が、

「ああ、ごめん、引きとめて。」

と慌てて謝ると、

「ああ、うん。じゃあもうボク行くよ。家の方で何か不都合なことがあったら言ってよ。またボクの方から言っておくから。」

「ありがとう。」

そうしてMは研究室の中に入っていった。

 特に今日劇団に行く予定にしていたわけでもなかった。しかし今日は偶然、夕方から開いているし、いつ予定が埋まってこんな日が来るともしれない、このチャンスのうちに。

 大学以外のMが、他所でどんな顔をしているのだろうということは、大西にはたいへん興味深かった。

 大西は――六年ほぼ毎日のように顔を合わせている大西に限ったことではない、おそらく大学病院の同じ医局の連中も、教授も、同じ院生も、学部の学生も、Mの「研究室の顔」しか知らないのだ。考えてみれば不思議なことだけれども、有り得ないこともないのも不思議な世界だとも思った。Mは、外に出ると、にっかり笑ってみせたりするのだ。劇団員と談笑してみたりするのだ。目当ての女性だっているかもしれない。そして、おそらくそうした「外の顔」を知るのは、劇団員に訪ねてみるのが一番わかりやすいに違いあるまい。

 謎の男の背景を探るのは、病原体を発見することと同じくらい、エキセントリックなことに、大西には思えた。

 

 坂城のくれた名刺の裏に印刷された劇団までの地図と、住所を頼りに地下鉄を乗り換えて最寄駅に着くと、駅にある地図でもう一度確認して、劇団が使用している劇場目指して歩いた。

 駅から外に出た時には日もすっかり暮れていて、空には夕べより少し丸くなった月が出ていた。住宅街の中を歩いていたが、街灯や家の明かりよりも、月明かりで影が出来ている。風は少し肌寒く、地下鉄の暖房にあてられていたせいもあって、どこか心地よかった。

 駅から少し歩いて、ようやく劇場に到着した。建物と明かりですぐにそれと知れる。入り口の扉を押してみると、意外と容易に開いた。

 でも劇場周辺の照明は明るかったが、玄関ホールもロビーの明かりも消えている。客席のドアの隙間から明かりが漏れているのが見えて、そこではじめて、突然来て良かったんだろうかと、ドキリとした。せめて駅からでも電話を入れるべきだったろうか。そうだ、普通、遊びにおいでと言われて翌日来るなんてことしないよな、などと考え始めた。

 入っていって迷惑全開だったらどうしよう、と色々考えたが、来てしまった運賃と時間を考えたら、ここから引き返すのもためらわれた。客席のドアからは、薄明かりが漏れている。耳をつけて耳をすますと、坂城の何か言う声がきこえてきた。

 あ、そうだ。ちょっとのぞいて、邪魔そうだったら帰ろうと思いついて、ちょっとドキドキしながらドアを開けた。そういえば、劇場に入るのなんて、大学の教養でとった鑑賞会以来だと思った。そう思うと、キラキラとした美しい照明と、ふかふかとした椅子の感触が頭を過った。あの時、大西はヒーリング音楽というのを聞きに言ったのだ。そんなことを思い浮かべながらドアを開けると、中の客席は暗く、前方舞台が明るかった。舞台の上では誰も演技しているようには見えず、客席前方で何人かが集まってしゃべっているように見える。

 暗い中から来て、空間が目の前にひろがったせいか、ふと、気持ちが高ぶるのを感じると、客席前方で話していた人の中で大西に気付いた人があった。その人と目があって、大西がドギマギすると、その人がすわっている男に声をかけ、男が振り返った。

 男は立ち上がった。

 坂城だ。

「よう、よく来たな。」

その言葉と、声の調子で大西はホッとした。

「すいません、突然。」

「いやいやいや、昨日は悪かった。」

言いながら、坂城が近づいてくる。

「車ちゃんと返しといたし。」

近づいてくる坂城を見ながら、暗いところだと昨日よりもよりでかい男に見えると思った。大西も男としては小さい方ではないが、坂城は鍛えている分大きく見えるのだろう。

 坂城は、少し手前でとまって、右手をちょっとあげ、それを頭の後ろに回してカリカリとやると、客席前方をチラッと見て、大西に返った。

「すまん、ちょっと今、とりこんでんだ。あー、えー、そこの金魚鉢にさ」いいながら、客席後方の調整室を指差した。「トーセーってやついるから、ちょっとそいつの相手とかして待っててくれる?」

「あ、いや、前置きもなく来た僕も悪いんだし。」

大西がそう言うと、坂城はまた気が抜けたようにはにかんだ。それからポンポンと大西の肩をたたくと、調整室の方に振り返って、大声で、

「おう、トーセー、ちょっとお客さんの相手頼むわ。」

そう声をかけた。大西に向き直ると、ドアを指差して、

「そのホールに出て左側に『調整室』って書いたドアがあるから、そこから入って待ってて。悪いね。」

言うと、坂城はこちらに手をあげて、人の中に戻って行く。言われるままに大西はドアを出た。ホールに出て調整室のドアを探すと、すぐにみつかった。ドアをノックして、中から声が聞えたような気がしてドアを開ける。と、中はほぼ真っ暗だった。

 小さな光が幾つもある機材の前にすわって、青年がこちらの方に手を上げた。

「こんにちは。」

と大西が声をかけると、中の青年は、「どうぞ。」と答えた。

 ロビーからの階段を二段ほど上がり、調整室の中に入った。ドアを閉めて足を踏み出すと、青年は椅子から体を乗り出して右手を差し出した。大西がその手に答えると、

「やあ、よろしく。オレ坂本十青ってんだ。トーセーでいいよ。」

「あ、えー、大西といいます。あの、えー、M…くんと同じ研究室の」

「ああ、Mさん、Mさんね。へー、Mさんと同じ? え? 研究室? じゃあ、あんたもお医者さんなの?」

「ええ、まあ一応。」

「へー、すごいなー。あ、どうぞ。」

十青はそう言って、大西の横にあるパイプイスを進めた。

「いや、そんなすごかないよ。ちょっと勉強すれば、誰だっていけるんだ。」

「カー、オレなんて勉強できない人間には、そういうこと言うやつ、わっかんねーなー。」

言って、十青は「アッハッハ」と快活に笑った。

「ああ、でもあんたMさんと言うこと違うね。Mさんは『まあね』ってんだぜ。『まあね。』。で、終わり。」

ハハ、と大西は笑った。Mらしい答えだ。

「悪い人じゃないんだけどねー、どうも胡散臭いというか、何考えてるかわからんていうか。」

ハハハと大西は笑った。同じじゃないか。

「あ、あんた何で今日来たの? Mのおつかいか何か?」

「いや、ぼく、昨日坂城さんの家の後に入ったんです。で、劇団に遊びにおいでって言われたんで」

「ああ、そうなんだ。あの、ビルの屋上にあるおうちでしょ? ちょっと古めかしい」

「そうです。」

「へー、あそこ入ったの。へー。」

言って、十青は口に手を当てた。さっきから暗くて顔がよく見えなかったが、線一本抜くと全部が崩れてしまいそうな、ユニークな顔をしていた。人好きのする、優しい顔といえば優しい顔かもしれない。目がずっと笑っているように見えるので、ずっと笑ってるんだろうかと疑問に思って大西はその目をことさら注視した。

「出るんだろう?」

「え?」

「とびきりの美人。」

「は?」

「なんだ、きいてねえの?」

二人の間にやや間があって、それからふと十青が、「あ、練習始まるみたいだ。」と正面を向いて、本をばさばさやり始めた。

「え、ちょ、ちょっと待ってください。出るんですか? でも昨日、坂城さんは、ウソだよって。」

「や、オレ、ちょー、忙しいし」

そう言いながら十青は集中しているフリをした。が、

「いや、知らん。出るかもって話だけ。あそこ泊った人で見たってのがいるだけ。みんな夢かもしれないって言ってるし。」

「夢?」

「そう。夜中にね、オレは榎木さんからきいた話だけど、榎木さん知ってる?」

「主演女優の人」

「そうそう。キッチンに立って、水でも飲もうと思ったら、廊下をね、知らないきれいな、浴衣姿の髪の長い女の人が通るんだって。でも普通そんなん見たら変に思うじゃない。でも見た人はみんな変に思わないで、寝にいっちゃうの。で、気がついたら、いつも朝なんだ。」

「あ、朝なんですか?」

「そう、らしいよ。」

「その女の人って」言いかけて、大西はドキリとした。

 昨日の夢―――。

 大西は一人でカッとなって、膝に置いた手をぎゅっと握り締めた。

 昨日の夢、すべては覚えていないけれど、でも、あの、リアルな舌の感触だけは、なぜか、確かに覚えていた。

 大西は思わず手に口を当てようとすると、その様子を見た十青が、

「何? 何か思い当たることでもあったの?」

大西はハッとした。それから「いや」と言って首を振ると、大急ぎで次の言葉を探して、

「でも、何も害はないんだろう? ああしてずっといたぐらいなんだから。」

「うん、害はないみたいだね。今度の芝居のヒントにもなったくらいらしいし。『夢の女』って。演ってても、誰も何もないし。」

十青は前に向き直って答えた。

 舞台ではどうやら稽古に入るらしい。機材の横にスピーカーがあるようで、十青はボリュームを上げた。舞台の声をひろっているのだろうか、ガチャガチャと声がきこえてくる。

「『この世で一番恐いのは――』からか、クライマックスだね。『この世で一番恐いのは、目に見えないものでもなんでもないさ。一番恐いのは、生きているその、人の心だよ。』――ふん?」

 十青が脚本を棒読みするのを横で聞きながら、その台詞になぜか、彼は見たこともない、夜、小夕実がおびえるという、井戸から手招きする子供の幽霊を思い浮かべた。

 小夕実―――小夕実の心細い面影が過った。

 あの夢の女を思い浮かべたところなのに、次は小夕実かと、自分に少し呆れた。

 夢は心を映すという。

 大西の心に、あの女を映すなら、小夕実の心に映ったのは何なのだろう。

 夢とまぼろしは、とてもよく似ている。それは、まぼろしなのか、夢なのか、それとも現実なのか。

 女のリアルな豊玉の感触を思い起こして、思わず大西は奥歯をかみ締めた。

 調整室の透明なガラスの向こうでは、稽古が始まっている。機材の小さな明かりがあるだけの暗い調整室の中から、暗い客席を通して舞台を眺めると、その明かりすら、まぼろしのように見えた。

 この世のものではない、まるで、夢でもみているかのように―――。

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