第3章

 玄関先で、大西は呆れ返った。鍵を開けて入ったのはいいけれど、玄関の中は、またしても靴の山である。

「オイオイ、もう明け渡されてるはずじゃなかったのかよ。」

彼はドッサリ、抱えていたダンボールを降ろした。それから困惑したように溜め息をついた。

 昨日まで住んでいた部屋は今日中に明け渡さねばならなくなったので、彼は引っ越しを今日中にすませたいと、その旨、Mを通じて管理人に伝えたのである。Mの話では、昨日までに前の住居人が出て、クリーニングも何もかもすんでいるはずであった。今日はさぞかし美しい部屋が拝めるのであろうと半分楽しみにしていたのが、それが扉を開けた途端にこうである。

「どうしたんだい。」

エレベーター室から大西の荷物を抱えてきたMは、玄関先で途方に暮れる彼に気づいて声をかけた。それで大西があごをくい、と玄関の中に向けるので、それに従ってMも中をのぞくと、「あーあ」と声を上げた。

「仕様がないな、連中。一体どうなってるんだ。」

それからまた、彼はズカズカと家の中に踏み込んだ。大西が後ろ姿を見つめていると、Mは部屋に入り、「ああ」と声を上げた。

 大西が玄関扉を開けたまま、壁に背をもたせかけて中の様子に聞き耳を立てていると、どうやら今日は家の中に誰がいるらしい。奥の方まで踏み込んでMが何か言っているのが聞こえるが、よく聞き取れない。Mの闖入によって家の中がザワザワとうごめき始めたのはわかるが、その気配はここまで伝わってこない。それでMと誰かの言い争うような声が聞こえてきたが、ふいにその声が止まると、ドカドカと足音がして、くたびれたTシャツにヨレヨレの半ズボンをはいた見たこともない男が、一番奥の部屋から廊下に姿を現した。男はいかにも寝起きという顔のグシャグシャの髪で、頭をかきながら玄関の方にやってくると、

「大西さん?」

と尋ねた。

 大西がドギマギしながら男の顔を凝視すると、男は、

「サカシロです。はじめまして。」

そう言って右手を差し出した。大西はつられて右手を差し出すと、男はにっこりと笑って、握手をした。それから大きなあくびをもらすと、

「失礼。今日までに出なきゃいけなかったそうですね。申し訳ない。」

サカシロと名乗る男がそう言うと、Mがダイニングの部屋から姿を現して、

「何だ、ちっとも荷物を動かせる準備が出来てないじゃないか。」

Mは幾分立腹気味でサカシロにつめよった。

「申し訳ない、今、次の公演の準備に入ったとこなんだ。荷物を作らなきゃと思いながら、全然その暇がなくってね。」

「なくってねって…彼はもう今日引っ越しなんだ。」

サカシロは、ああ、と得心すると、大西の顔をみて、

「それは申し訳ない。じゃあもう荷物も…。」

聞かれて大西が、

「ええ、下まで運んで来てますよ。」

「何ですか、引っ越し屋か何か頼まれて?」

「いえ、二トントラックを借りたんです。Mくんが手伝ってくれると言うので…。」

男は大西の言葉に、へえ、と関心してから、横にいるMの顔をジロジロと見た。Mが「何だ?」という風に眉をひそめたので、男はいやみに笑って、

「きみでも、そんなことするんだね。珍しい。」

その言葉でMの顔色が俄に曇った。が、男は構わず大西に、

「わかった、じゃあこうしよう。我々はこれから我々の荷物を運び出す。そして君の荷物を乗せてきたトラックに乗せて、稽古場まで持っていく。どうだ?」

「そりゃ、それでも別に構いませんけど…」

「よし、商談成立。おーい、みんな!」

サカシロは家の中に向かって叫んだ。

「引っ越しだあ。荷物をつくれー。」

家の中でバタバタと物音が聞こえてくる。するとダイニングから女が一人飛び出して来て、Mをチラと見やると、乱れた長い髪をかき上げて、大西の方に視線を投げて、

「ああ、ええと、誰?」

「あ、大西です。」

「ああ、大西さん、よろしく。あたしエノキと言います。エノキミドリ、よろしくね。」

そう言って大西に握手を求めると、にっこり笑って、それから玄関の外へと出て行った。姿が見えなくなると、しばらくして、家の外からガタガタと物音が聞こえてきた。また一時あってそのエノキという女は、ダンボールの束を抱えて、玄関の所へ帰ってきた。

 女は顔に化粧気もなく、今起きたという様子だが、若いのに、長い髪に半分隠された顔をのぞくと、艶やかな美人だった。

 大西とMは、しばらくの間、玄関で中の喧噪を聞いていたが、大西が大きな溜め息をつくと、靴を脱いで、

「仕方がない、手伝おう。」

「おい、いいよ。きみがそんなことしなくったって。」

「だって、ここにいても仕方ないじゃないか。手が一つでも多い方が、はかどるだろう。」

 大西が中に入ると、中はまるで戦場のような有り様だった。先程のエノキという女の他に、サカシロと、後男が三人…。

 大西がエノキという女に「手伝うよ」と声をかけると、女はにっこり笑って、「じゃあ、サカシロさんと一緒に、奥の部屋の押し入れの中のものを箱詰めして下さい。」と言った。それで奥の部屋に入っていくと、サカシロは押し入れの中のものを、悠長に煙草を吸いながら箱に入れている。大西が「手伝います」というと、彼は、おお、と受けた。

「何? きみはMくんとはどういう関係?」

「ああ、大学でずっと一緒だったんですよ。今一緒に院の方にいて」

「ふーん。」と男はうなづいた。男は不精髭に邪魔されて老けて見えるが、よくよく見ると、さほど齢のいっているようにも見えない。大西たちより二、三上といったところだろうか。

「Mくんとは、仲がいいんですか。」

大西にそう聞かれて、男はくわえ煙草のまま鼻でふんと笑った。

「仲がいい、ねえ…」

「僕はこういうお知り合いがいるとは知りませんでしたよ。」

そこで男はまたふんと笑った。

「僕も彼にきみのようなお友達がいるとは知りませんでした。」

男の声が皮肉まじりに聞こえる。どういう知り合いか尋ねるのもためらわれて、

「彼はよくここに出入りするんですか。」

「たまにね。」

「へえ、何をしに来るんです?」

「さあ、飯を食いに来たり、ただ話に来たり…。劇団の方にもたまに顔を見せるよ。そうだ…。」

サカシロは立ち上がった。それから隣りの部屋に入って行くと、何か紙きれを持って帰って来た。

「上げるよ。」

男が差し出したものを見ると、それはチケットだった。大きく『夢の女』と書かれている。

「え? これ…」

「今度の公演のチケットなんだ。まだ半月以上先だけど、よかったら見に来てよ。」

「え、でも…」

「何?」

「あ。お代は…」

「いらないよ。今日迷惑かけた、お詫び。」

「でも…」

「何?」

「貧乏なんでしょ?」

大西がそう言うと、彼は吹き出した。大声で快活にゲラゲラと笑うと、いかにも苦しいというふうに、あえぎながら、

「初めて会ったあんたに、そんなこと言われると思わなかったなあ。」

「すいません。」

「いや、いいよ。」

隣りから、先程のエノキの「サカシロさーん、ちゃんと荷造りしてるのぉ?」という声が聞こえてくる。サカシロは、悪い悪いと声を返すと、

「Mが何を言ったか知らんが、なりはこんなんでも、そんな貧乏ってわけじゃないんだ。一応業界じゃあ名も知れてんだぜ、オレ。ファンもいるしね。」

男はにっこり笑った。

 ふと、Mの呼ぶ声がして男は立ち上がろうとした。すると、大西に手を伸ばし、彼の頬をチョイチョイとつついて笑った。

「かわいいね。いつもこんなの?」

大西は自分でカッと頬が紅くなるのがわかった。「かわいい」という代名詞は、「幼い」と言われたようにも聞こえる。彼は言い返す言葉もなく黙って座っていたが、その場をとりつくろうように荷造りを始めようとした。と、手の中のチケットに気が付いて、裏を見る。「脚本、演出、監督、坂城春樹、出演、坂城春樹、榎木碧、柳沼哲…」

 昼に荷造りを始めて夕方になるころ、彼らの荷物がようやく片付いて、大西の荷物が入った。彼らの荷物は玄関付近にほうり出してあるので、これから下まで運ばなければいけない。彼らの荷物の量に比べれば、ワンルームにいた大西の荷物は微量だった。

 下に運ぶ食器だなを二人かかえてエレベーター待ちしている間、坂城に、

「これから、行く所は決まってるんですか?」

尋ねると、彼は、

「いや」と答えた。「ひとまず、稽古場に運ぶよ。それからだ。」

大西は少しモジモジしながら、

「何でここ、出て行くんです?」

と尋ねると、坂城は大西の意を察したのか、

「追い出されるんだ。」

そう言った。

「え?」

「ウソだよ。」言ってハハと笑うと、「いいかげん、もっとでっかい所借りなきゃいけないと思ってたんだ。なかなか踏ん切りつかなくてね。一応今月いっぱいって言ったものの、とても忙しくて次をみつけるどころじゃなかったんだ。」

チンという音がして、エレベーターが開くと、Mといつかの管理人が現れた。Mが坂城に、

「彼が鍵をまだ回収してないというんだ。ほかにも、次の連絡先をきいておきたいって。」

「ああ」と坂城が言うと、彼はズボンのポケットから鍵を取り出して、Mに差し出した。

「連絡先は、劇団の稽古場でつながるよ。適当にやっといて。」

大西と二人、荷物と共に乗り込んで、閉まろうとするエレベーターごしに、Mが、

「大西くん、大工とクリーニングは明日以降になるけど、いいかい?」

そう声をかけた。

「かまわないよ。」

答えたところで自動的にドアが閉まった。

「きみも興味があったら来るといい。」

そう言って、彼はズボンのポケットから財布を取り出すと、中から名刺を抜いて大西に渡した。名刺を見ると、右下の隅に劇団の事務所と稽古場の住所が書かれてある。同じ市内でも、C地区だ。

「じゃあ、ここからは少し遠かったでしょう。」

「もっと遠いやつもいるよ。通うのが面倒くさくなると、みんなうちに止まるんだ。今日の連中みたいにね。何、みんな家族みたいなもんだから、遠慮なしさ。」

「Mも…」

「ん?」

「いや、じゃあ、Mも寂しくなるでしょうね。ここにみなさんがいなくなったら。」

「ハハ、どうかなあ。」

「お目当ての女性でもいたのかなあ。」

「ハ! あいつが?」

「変ですか。」

大西の問いに、彼は笑った顔を改めて、

「いや…」

そう言って、うつむいた。

「きみはいないのかい?」

「え?」

「そういう女性だよ。」

「ああ…」

大西は口ごもらせた。それから、少しうつむいて、

「田舎にね。」

「へえ、それは」

「幼なじみなんですよ。いいなづけで」

「かわいい子かい?」

「かわいい子ですよ。」

坂城は笑った。

「言うね。」

「でも、」大西は困ったように視線を落とした。「昔の話ししかしないんです。いつもいつも、まるで、時が止まったみたいに。」

チンと音がしてエレベーターが着くと、扉が開いた。二人は食器棚を運び出しながら、

「時にきみ、幽霊は好きかい?」

「え?」

「幽霊だよ。」

ビルの外で、劇団員たちがトラックに荷物を積み込んでいる。その中の一人が坂城に、

「坂城さん、分けて運ばなきゃ、とても無理ですよ。」

「ああ、じゃあ、一度行った方がいいかな。」

「そうしますか。」

「出るんですか?」

坂城と団員の話しているわきから、大西が尋ねた。

「出るんですか、あの部屋に。」

大西の問いに、坂城がクスリと笑うと、

「そう、とびきりの美人がね。」

「ええ?」

「ウソだよ。今度の公演が、そういう話なんだ。」

「ああ…」

「見においで。」

彼は意味ありげな視線を大西に送った。

「夢を見せてあげる。」

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