第2章
小さくカラカラと音を立てて横に滑る扉の音に、大西は思わず顔をほころばせた。懐かしい、この扉――この街に移ってからはめったに見かけないが、大西の実家の家は、こういう扉だった。表に診察室があるために、玄関は必然、裏にまわされ、いつもどこか薄暗かったが、しっとりと濡れたような石畳、そして板の間の上がり口は、田舎の家に似つかわしく、大きかった。学校から帰って玄関に入ると、あの石畳に靴を脱ぎ捨てて、バタバタと板の間を走っては、奥の間にいる祖母に叱られたものだ。
「拓朗――、拓朗! 診察室に患者さんがいるのに、静かにしなさい。またおじいさんに、聴診器の音がきこえんて、しかられますよー。」
Mの後に続きながら、大西は思い出し笑いを浮かべている。玄関から漏れてくる空気は、しっとりと湿り気を含んでいた。そうそう、木造の家だけが持つ、この湿気――大西が玄関の敷居を跨ごうとすると、先に踏み込んだMが「何だ、こりゃ。」と声を上げた。
大西はふと我に返って玄関の中を見た。と、黒いタイルばりの玄関いっぱいに、空き部屋とは思えない数の靴が散らばっている。それはどう見ても、一人や二人の量には思えなかった。女性もの、男性もの、サイズも色々――中には傘立てまであって、傘が何本も入っている。玄関横の靴箱の上には、花の生けられていない花瓶が、無雑作に置かれてあった。
Mは足元まで散らばっている靴を足でジリジリとずらすと、踏み込んだものかどうか戸惑っている大西の顔を、振りかえってマジマジとみつめた。
「空き部屋じゃなかったのかい?」
大西はみつめるMに尋ねた。大西の問いにMは少し考えるぞぶりを見せてから、「いや…」とつぶやいた。
「契約では今月いっぱいだから、ギリギリまでいるつもりなんだろう。」
「じゃあ、まだ前の人が住んでるんだ。」
「そうだなあ。」
Mは足元に散らばった履物を少し中ほどに足で寄せると、大西が足を踏み入れる程度のスペースをつくってくれた。
「じゃあ、またにしようか? 前の人が出てから…」
「いや」Mは大西の言葉を遮った。「もう引っ越してる話だったんだ。明け渡しの期間に入ってて、――しょうがないな。ルーズなんだ、彼ら。」
そう言いながらMが靴を脱いで上がろうとする。そんな彼の行動に大西は度肝を抜かれて、
「オイオイ、まだ前の人が住んでるんだろう? 勝手に入っちゃあ」
「構やしないさ、別に。知らない連中でもないんだ。契約ではもう出ることになってるのに、出ない方も悪いさ。上がりなよ。」
「でも…」
大西が玄関扉のそばでモジモジしているのに、Mは臆することなくズカズカと家の中に入って行く。廊下の途中で部屋に入って見えなくなったが、すぐにMは頭をひょいと廊下の方にのぞかせた。
「大西くん。」
Mは手でオイデオイデをして、また姿をひっこめた。大西はそれでもまだ玄関の所で戸惑っていたが、Mの戻ってくる気配がないので、仕方なしに玄関に足を踏み入れた。
玄関を入ってすぐ左側に立派な靴箱がある。目の前には板張りの廊下があって、なかなか広い。その廊下には左手の壁に窓があって、ダンボールが幾つかつまれている。窓が玄関と廊下の光源になっていて、明るい。玄関の上がり口は二段になっているが、上がってすぐの右側には何かあるらしい。風呂かトイレといったところだろうか。のぞくと細い廊下がつっきっていて暗い行き詰まりにドアが見える。しかし、その細い廊下には、それ以外、右も左も壁しか見えない。
再び中から「大西くん」と呼ぶ声がするので、彼はその声にせかされて玄関を上がり、すぐの部屋をのぞいた。そして思わず、「うわぁ…」と嘆息した。玄関や廊下の荷物に勝るとも劣らずの、荷物、荷物、荷物。入ってすぐの部屋は、どうやらダイニングにキッチン、らしい。らしいというのは、キッチンの形骸ははっきりしているし、冷蔵庫や食器棚もあるのだが、どうも食事のできるような環境とは思えないのだ。ここも廊下と同じく板張りなのだが、その奥の部屋は床が一段上がっている。どうやら和室らしい。そしてその和室をのぞいてから、大西はまた「ううん…」と声を漏らした。タンスや本棚が部屋の壁を巡らせていて、実際六畳の部屋なのだろうが、ずいぶん狭い。寝室に使っている、らしい、のだが、このスペースには窮屈だろうに、布団が四つある。たたんであるのがせめてもの救いだ。
和室の奥にはもう一室あるらしく、襖の影からMの姿がのぞいた。
「すごいね。」
大西が呆れたように言うと、Mも困ったように肩をすくめて、
「一応契約してるのは一人なんだ。でも、これが貧乏劇団の主催をやってて、劇団員も行くところがないんだろう。何人か居候しているようだね。しかし…。」
「この部屋、昼でも電気つけないといけないのかい? 不経済だなあ。」
「いや、南側に窓があるんだ。本棚やら何やらで潰しちゃってるせいだろう。せっかくの家が、なくね。」
「へえ、南に窓が…。」
「いや、南向きといっても、このビルの南側のビルは、このビルよりも高くて、窓といっても明かり取りぐらいにしかならない。」
「でも殺しちゃってるよりは随分いいだろう。」
「まあね――、まあ、昼間家にいることの少ない連中だから…」
ああ、と大西は納得した。Mが「まだもう一室あるんだ。」と手招きする。その先をのぞいてみて、さらに大西は驚かされた。
「何だ」Mが大西の声に振り返った。「ここはやけにいいじゃないか。」
この部屋は先ほどとはうってかわって、南側の窓越しに文机があるばかりで、他には何もなかった。東側も南側も、壁は一面窓で仕切られていた。外側には簾がかけられてあるようだが、今は上げてある。先ほどと同じ六畳の、同じ和室とは思えないほど、明るく、すっきりと美しかった。
Mが東側の窓を開けた。
「東側はビルの屋上になってるんだ。庭がわりに使えるけど、セメントだから、熱くってね。南にビルがあるからある程度しのげるけど、夏は本当は人工芝か何か敷いた方がいいんだよ。本当に、熱くってたまったもんじゃない。」
開け放たれた窓から吹き込む風にのって、潮の香りがする。潮の香りに誘われるように、大西は窓ごしに屋上を見渡した。その屋上には北の端の物干しが見えたが、それ以外は何もなく、北東の空ばかりが見える。広さはこの家の敷地面積の半分ほどだろうか。
Mが「出るかい?」と尋ねる。窓の下に一段セメントの段があって、ここの住人のものだろう、幾つか履物があった。Mがそれをつっかけて屋上を歩き出したので、大西が、「拝借しても構わないかな。」と尋ねた。Mは振り向きもせず「構やしないさ。」と答えた。
軒下から出ると、穏やかな春の陽が降り注いだ。屋上の際に近づくと、やはり海風が強くまとわりつく。こちらのビルが少し東に長いのか、南側のビルは途中で途切れ、東の端近になるにつれて南側の景色もある程度広がった。
眼下の町並みの向こうに、遠く、海が見える。
屋上は胸の高さに壁が囲われている。その壁ぞいに立つと、東側の眺望が一八〇度開けた。
大西は海風に煽られて顔にはりついた髪を払いながら、壁にしがみついてビルの下を見下ろした。海風に思わず声を張り上げる。
「最高の穴場じゃないか。ここの景色を、ここの住人だけが独り占めしてるのかい?」
「はは、下の環境は最悪だけどね。」
「でもここは関係ない。天国みたいだ。」
「ハ…じゃあ、下は地獄かい?」
「地獄じゃないさ。下界といいなよ、下界と!」
Mは軽くハハと答えてから、アハハハと笑い始めた。その景観にすっかり快くした大西も痛快な気分で笑い始めた。
少し春霞みのかかった視界の先、ちょうど北東に、代官山が見えている。市内に住んでいても数えるほどしか行ったことはないが、確かあの山の麓には大きな稲荷神社があったはずだ。ここから見える山には、海側にまとわりつくように幹線道路が白く線を描いている。
「大学が見えないかな。」
大西は北の方角に目をやった。北上がりに少しずつ標高が上がっているため、のぞかなくても北の方の町並みは見渡せる。
「双眼鏡で探せば見えるだろう。直線ではそう遠い距離じゃないさ。市内なんだから。」
「ふん」と鼻で大西は答えた。そしてまた壁にしがみついて、下をのぞきこむと、「一番見たくない所は、ちょうど見えない仕掛けになってるってわけか。」
「のぞかなければね。」
Mの答えに大西はフフと笑った。
「いいね。」
「気に入ったかい?」
大西はやや考えてから、
「今いる人はいつ出るんだい?」
「もう出るだろう。そういう契約になってる。」
「でも契約を過ぎてるのに、まだ出ないんだろう?」
「暇がないのさ、彼らは。引っ越してる暇がね。ちょうど、公演の前か何かにぶつかっちゃって、その余裕がないんだろう。何、きみだって向こうの手続きがあるだろう。ちゃんと追い出してもらうさ。その辺は、心配しなくっていいよ。」
大西は振り返って、背を壁にもたせかけた。そうして西の空を見上げると、家の屋根と隣のビルごしに、西の空が見上げられた。
「同額だって? 今の家賃と。」大西は現在住んでいる、狭いワンルームマンションの部屋を思い浮かべた。「いいね、破格だ。気にいった。」
そう言うと、彼は屋上を家の方へと歩き始めた。
「入るよ」
大西の言葉に、Mははじかれたように彼の後を追った。
「本当かい?」
「うん、こっちに移るよ。こんな物件めったにないだろう。よく競争率があがらないね。ここなら、家族でも住めるのに。」
「うん、縁故でしか貸さないんだ。」
Mは大西を追い越して、早足で家へと歩み寄った。
「近いうちに手直しできるよう連絡させるよ。」
Mは急いで家の中に入って行った。電話か何かをかける気配だ。そんなMの後ろ姿を眺めて、大西は不思議な気分になった。やはり今日の彼は、少しはしゃいでいるような気がする。さて、何がそんなに嬉しいのかしらんとは思ったが、しかし、この眺望では誰もが浮かれる気分になるのかもしれない。
大西が軒下で履物を脱いでいると、中からMの呼ぶ声が聞えてきた。大西は慌てて部屋に上がった。と、風に洗われた部屋の空気に、ふと、何か懐かしい匂いが混じっているのに気がついた。しかし大西は匂いの主を思い出せない。
くんと鼻をかいで匂いを探す。
何だろう――?
「大西くん?」
Mが六畳の間に姿を現した。大西が目を閉じて何か探している様子なので、Mは「何?」と尋ねた。それでふと我に返った大西は、「いや」と言った。言おうかどうか迷った後、Mの怪訝な表情を見て、それから慌てて首を振った。
「何でもない。何?」
「ああ、風呂やらトイレやら、見てなかったろう。こっちだよ。」
それでMが手招きするので、大西はそれにつられて足を運んだ。奥の間は廊下にも直接通じているのだ。Mに従っていくと、やはり先ほどのぞいた玄関の脇の、細い廊下に案内された。
廊下の突き当たりを右に入ると、目の前に棚、洗面台、その横にドアがあって、そちらがトイレになっているらしい。それから奥のドアが風呂になっているという。風呂の壁の裏が、玄関というわけだ。
「回り込むなんて、手の込んだ作りだね。
「鬼門に不浄を避けたんだろう。」
「え?」
「キモンだよ。ここは南東の裏鬼門なんだ。」
「ああ…」
今時、そんなのを気にするんだと口にしようとして、大西は言葉を止めた。そして、ああ、そうか、と思いついた。
このビル自体がなかなか古い。家は何度か手入れされているのかもしれないが、建てられたのは、実は随分前なのかもしれない。
思えば、不思議な家だと思った。ビルの上に建てるのなど、建築法か何かにひっかかりやしないのだろうか。いや、それ以前に、こんな所にどうやって家を建てたのだろう。なぜ、家など建てたのだろう。
しかし誰も、まさかこんな所に家が建っているなどとは思ってもみないだろう。南のビルには、北側に窓などないし、下からはこんな家が建っているなどということはわからないだろう。建てられた経緯には少し不安が残るものの、そのミステリアスもひっくるめて、彼には非常によい物件に思えた。
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