第1章

 場所は悪いし物は古いが安くて広い物件があるということをM氏にきいたのは、つい先日のことだった。場所が悪いのは別として、物が古いのは手入れすれば何とかなるし、ビルの最上階で見晴らしもいい。話によれば、部屋が三室あってバス、トイレ、台所とそろっていながら、今大西の住んでいる所と同じ家賃だという。大西が今すんでいる所は、こざっぱりとした広いワンルームであったが、K市では築年数からしても相場の家賃だった。Mが紹介してくれようというその部屋は、K市でもF地区というから、かなり治安も悪いし、ある程度家賃が下がるのも当然であるが、それにしても三室で同額というのは、ちょっと魅力だった。大西が現在借りている部屋は、今月で契約が切れる。そして、Mが紹介してくれる部屋は、先月、前の住人の契約が切れたのだという。

「君、前から、多少古くてもいいから、もう少し広い所がいいと言ってたじゃないか。」

Mはいつものように、視線を外したまま、メガネを押さえてこう言った。Mは大学院の同じ研究室の人である。彼の研究にはマニアックな感さえあり、大西より白衣がよく似合っている。人物は悪くないのだが、このどこかよそよそしい、神経質な接し方が、時に初対面の人に警戒心を抱かせることさえあった。そんなMをものともせずにつきあいが出来るのは、この大西の、どこかひょうひょうとした、おおらかな人柄にあったかもしれない。この時も大西は、Mが前もって用意しておいてくれた、その遠い親戚がもっているという部屋のビルのある位置を、地図で見ながら、

「ふぅん、大学まで電車一本で行けるじゃないか。こりゃ、便利でいいかもしれない。」

と何げなく感心して、Mのいうままに、その場で下見の日取りまで取り付けてしまった。 しかし、当日、現場に到着して、少なからず後悔しないわけにはいかなかったのである。

 K市F地区は、人が生活する街ではなく、林立したビルの半分は、廃墟と化している。かつては貿易港で賑わった街であるが、恐慌に見舞われて以降、荒廃が著しかった。廃墟となったビルは時に浮浪者のすみかとなり、走り屋のたまり場となった。それでも地区の中央である、市営鉄道の駅近辺は、通常の町並みを覗かせていて、荒廃著しい海側と比べれば、まだみれた。ところが、地下鉄を降りて案内するMの足は、その市街を外れ、奥へ、奥へ、通常の人間などとても近寄りそうにない、陰湿なビルの谷間へと道を選んだ。大西は地下鉄駅の出口から海へと一直線に続いている通りを、異議を立てるまもなく、黙ってMの後に従って歩いた。錆びた鉄のにおいを含んだ潮の香りを感じる。まだ今は、車一台通れそうな広い通りを進んでいるから、さほど鼻にはつかない。しかし、路地裏に入り込めば、臭気が立ち込めているのではないだろうか。通りを歩く大西の鼻に、ツンとすえたにおいが消え消えにただよってくる。

 彼は空を見上げた。

 青空が狭い。

 この街は、コンクリートで塗り込められたビルの壁がせめぎあい、グレーに染められている。何もかもが、外部からの人間を拒否しているのだ。

 Mは無言のまま前を進んだが、ふいと人一人通れるか否かの狭い路地に入った。裏通りは、どうやら人の住むアパートが群れをなしているらしい。大西がついていくと、ビルの傍らに箱のような小さい、コンクリの建物があった。木戸の横に小さな窓があったが、外のにぶい光が反射するせいか、それとも中が暗すぎるのか、中がよく見えない。Mはその木戸の前に立ち、トントンと戸をたたくと、

「おじさん、おじさん、僕です。おじさん?」

Mが木戸をたたいて何度かその言葉を繰り返す。と、中からガチャリと鍵の開く音がきこえた。ギギッと音を立ててドアが開く。Mが「おじさん」と呼ぶその人は、大西にとってはかなり低い位置に、その顔を現した。いぶかしげな目つきで大西をジロリと見上げたその顔は、Mにとって、おじさんというよりは、おじいさんと呼ぶにふさわしい年齢に見えた。背は低いが堅固な体格の、色の黒い人物である。Mがこの「おじさん」に大西を示して、

「ほら、この人が連絡しておいた、大西くん。劇団の人達が借りてた部屋を借りたいっていう…。」

Mがそういうと、大西は「こ、こんにちは。」とオドオドと挨拶をした。しかし「おじさん」は会釈一つするでもなく、ドアから退き、何も言わず部屋の中へと入って行く。まるでそれが合図のようにMが中に入るので、大西もそれに続き、戸を閉めた。薄暗いが、明かりはつけられるでもなく、机と椅子、客用のソファ、書類を入れているらしい棚、それから季節外れで沈黙したストーブと、入り口とは別にドアがあった。大西は部屋の天井を見上げたが、どうも電灯がない。豆電球さえない。埃っぽい部屋は、客を招くものではなかった。「おじさん」は何も言わなかったが、Mはすべて心得た様にソファに腰を下ろした。大西が部屋の入り口で気圧されて沈黙していると、Mはあどけなく「大西くん」と自分がすわっているソファに手招く。仕方なく、彼は近づいて腰を下ろしたが、ソファは中のバネがいかれているのか、予想に反して深く沈んだ。この部屋の主は黙ってもう一つのドアへと姿を消した。大西は何か悪い予感を胸に感じたが、しかしそれを表現する言葉もみつからない。

 隣のMを見ると、何でもないような顔をしてすわっている。

 やがてまた、ドアが開く気配がした。Mは立ち上がった。「おじさん」は、右手に角封筒を持っていて、左手の中では、チャリンと鍵が音を立てた。「おじさん」が無雑作にMにそれを差し出すと、Mはそれを受け取った。それから大西に振り返り、

「じゃあ、行こうか。」

言って、口元に笑顔を見せた。

 外に出て、辺りをそっと見渡すと、ビルの窓と窓を渡した棹に、洗濯物がかけられ、はためいている。視線を感じて傍に目をやると、隣のアパートの住人らしい子供が、建物と建物のわずかな隙間に腰をうずめて、いぶかしい目つきで大西を見上げていた。彼は、思わず立ち止まって息をのんだ。粗末な格好をした子供は、薄汚く、美しい目は異様に鋭かった。しかし、その子供の他には、まるで人らしい人の気配がない。大西はこの子ネズミのようにうかがう子供の目をみつめながら、先ほどの通りへと迷いもなく進んでいく、Mの背中を追った。

 彼はMの背中を追いながら、普段からつかみ処のないこの男が、さらにわからなくなった。

 大西は、死んだ両親の代わりに、祖父の後を継ぐのが目的で医学部に入った。祖父がまだ健在であるし、指導教授に勧められたせいもあって、大学院へ進んだのだ。だから、こうした環境とはまるで縁がない。それはMも同じはずだろう。

 Mの家は元々資産家で、祖父の代で医者になった。祖父の医学への道は、道楽であると言ってもいい、とMは言ったことがある。しかし祖父の道楽は、不便な田舎の町医者として機能し、なくてはならない存在となった。父も望まれてその後を継いだ。そしてMも同じく医学の道を志したのだ。

 Mとのつきあいは、学部の三年からで、もう六年近くになる。Mも大西も、地方出身者で親元を離れているため、生活は一人だった。数少ない同輩なので、無口ではあるがつきあいもあるし、生活の話もよくした。だから、今の部屋が家賃の割には手狭に感じること、もう少し大学に近い所に越したいことなどを話していたのだ。多少変人ではあるが、六年ものつきあいになるから信用している。しかし、本当に大丈夫なのだろうか。

 彼の胸を不安が過った。

 大通りに出ると、Mは通りを渡ってビルの谷間へと彼を導く。

「あ、あの…」大西は口を開いた。「Mくん、ねえ…。」

Mは先を急いでいたようであったが、ふと大西の声に我にかえって立ち止まり、振り返った。しかしMは、おびえた大西とは対照的に、平然としている。

「あの、きみ、その…」

「何?」

Mは首を傾げた。

「その、大丈夫なんだろうか。僕は、その、こういう所初めてで…。」

そういう大西に、Mはメガネの奥からマジマジと彼の顔をみつめた。それから、そのお育ちのいい顔にニィと笑顔を浮かべて、

「何だきみ、おびえてるのか?」

「い、いや、そういうわけじゃないんだ。そういうわけじゃないんだけど…」

大西がオドオドとそう言うと、言い終わらないうちにMは高い声を上げて笑い始めた。大西は呆気にとられた。

 自分の笑われたことに驚いたのではなかった。この男が、こんなふうに笑うのを、彼は初めて見たのだ。

 Mは強く息を吐き出し、あえいだままで言葉を継いだ。

「大丈夫だよ、きみ…大西くん。きみでも、何かにおびえることがあるんだねえ。ここらは治安が悪いと言っても、たかがK市内だし、一時はひどく荒れたけど、最近はかなり整備もされて来てる。それに、事務所があるのはあそこだけど、部屋のあるのはもう少し市街なんだよ。近道で路地を歩くけど、部屋は大きい通りのそばだから、そんなに心配しなくていいよ。駅から大通りを歩けばすぐだから。」

Mはそれからまた、おかしくてたまらないというふうに、アハハと付け足した。

 「行こう」というMの促しで、彼はまた歩き始めたが、彼はさっきとは別に、何かわからない恐ろしさを感じた。

 Mが笑った。

 だいたい、この男は今日会った時から変だとは思っていたが、何か、気のせいだろうか、ウキウキとしているのではないだろうか。大西は、この男の激しい感情変化というものを見たことがない。それが、このK市F地区の荒廃した路地で、なぜあんなに楽しそうに笑うのだろう。

 Mは案外、こういう街の方が性に合うのだろうか。

 大西はMの背中をみつめながら、これがもし女ならば、「Mが大笑いした記念日」などとつけるのだろうと想像した。

 十分足らずで細い路地を抜けると、確かに大きい通りに出た。道の中央に車線があって、歩道もあり、二人は信号を渡らねばならなかった。信号待ちの歩道で、Mは斜め前にある一際高いビルを指差して、「アレだよ。」と言った。大西はMの指すのに従って、そのビルを見上げた。しかし、それは人が住むようなビルではなかった。

「え?」

大西は眉根を寄せた。それから自分が見間違えたのかと思って、Mに視線を戻した。

「どれ?」

「アレ。」

Mはもう一度指さしたが、それはどう見ても、会社事務所の入った雑居ビルにしか見えなかった。「あの…」と大西は言いかけて、信号が変わった。Mは大西の言葉をきくでもなく、先へ先へと進んでいく。キツネにつままれたような心持ちでMの後についていくと、Mはやはり先ほど指差したビルの入り口へと入って行った。

 半分解放されたビルの扉はガラスだったが、中は薄暗かった。Mはエントランスルームで立ち止まって、エレベーターの前に立つと、

「ここの屋上なんだ。」

そう言いながら、「上」へのボタンを押して、エレベーターを呼んだ。

「屋上?」

「そう、屋上に、平屋の家が建ててある。まあ、見ればわかるよ。」

エレベーターはすぐに扉を開いた。二人が乗り込もうとする時、Mはふいと隣の大きな扉を指さして、

「そこが階段室だよ。でもまあ、非常の時以外は使わない方がいいね。時間もかかるし。」

そう言ってエレベーターに乗り込んだ。

 Mは部屋は古いと言っていた。しかし、このビルもそう新しいものではあるまい。エレベーターは不安定に小さなガタガタという音を立てている。すえたような臭気はなかったが、エレベーターの中の煙草のにおいがたまらなかった。大西は煙草は吸わない。以前吸っていたが、肺ガン患者の肺摘出の手術に立ち会って以来、全く吸わなくなった。

 エレベーターは階を重ねている。途中に会社事務所があるらしいが、一度として止まらず、エレベーターは屋上へと向かった。

 屋上に到着すると、扉は開かれた。エレベーターホールがあって、下と同じように開閉式のガラス戸がある。一歩外へ出ると、煙草のにおいのかわりに、潮の香りが大西を包んだ。

「今日は東から風が吹いてるね。」

Mはそうつぶやいて、エレベーターホールから扉を抜け、屋上床へと足を進めた。

なるほど、と大西は思った。確かに、屋上の真ん中に平屋がある。見た目は少し古いが、それはなかなか立派な日本家屋だった。

 エレベーターホールの扉から、三段ほど階段を下りる。大西はエレベーターホールを出て屋上の北側から見える景色を眺めた。このビルは周囲より高いらしく、腰の辺りまでコンクリの壁があるだけで、視界を遮るものがあまりない。はきだめのような町並みを眼下に、上空は晴れ渡っている。

「今日は風が少しきついみたいだね。でもまあ屋上だから、地上よりは風はよくあたるよ。」

 大西は目を細めて、コンクリの壁に近寄ると、少し乗りだし、視線を遠く走らせた。右手をのぞきこむと海が見える。風が東ということは、海は東にあたる。このビルは、東西に長い、ということは、今見渡しているのは、北の市街だ。大学はどの辺かと探したが、よくわからなかった。そして、不幸なことにこのビルは南側に、一際高いビルがある。おそらく家の向こうの景色は東、そして北。西は屋上までエレベーターをひいてあるがために、その機械を納めた部屋が、高く遮っていた。

「大西くん。」

と、景観をはかっていた彼に、Mは声をかけた。

 Mはビルの北西の隅にある、エレベータールームに向かい合わせた玄関に立ち、大西を待っている。大西はMの元へと歩を進めた。Mはあの例の「おじさん」から受け取った鍵をズボンのポケットから取り出すと、扉の鍵穴にそれを指し込んだ。

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