緑青の海へ・第一部
咲花圭良
プロローグ
まちがえたんだ。
彼は何かに急かれるように狭い階段を駆け上がっていた。コンクリートで塗り込められた階段は、二段飛ばしで踏みしめるたびに、砂塵のザラザラとした感触が靴底に触る。踊り場にある蛍光灯は、疲れた色で彼の心を強くかき立てた。
急げ、急げ、時間がない。間に合わない――
まにあわない、早く、はやくしないと――。
体中に汗がにじんでいた。ただ一段でも多く、一階でも多く――早く――早く!
まちがえたんだ。ちがったんだ。そんなつもりはなかった。まちがえたんだ。俺のせいだろうか。俺のせいじゃない。俺のせいだろうか。俺のせいじゃない。俺の――
ガクン、と体の崩れる感触があった。
しまった、踏み損なっ――落ちる――
頭上の踊り場の蛍光灯は、明滅する――何かを知らせるように――彼は、瞬間、両手で頭をかばった。階段をすべり落ちて、それから――
ガクン、となって、軽く背中をうちつけられる感触があった。しかしそれは予想に反して、平たい。
ふと、彼は自分が、エレベーターの中にいることに気がついた。さっき頭をかばった腕の中から、うずくまったまま、その狭い個室を見上げた。それは、いつも彼が利用しているエレベーターだ。
そうだ。そうだ、エレベーターの方が速い。何で気がつかなかったんだろう。馬鹿だな、オレは、オレは――。
エレベーターの扉は閉じられたままで、動いていない。ランプは五階をさしている。
「ごかい…」
彼は立ち上がろうとして、そうつぶやくと、エレベーターはガクンと、予告もなく動き始めた。彼は上に行かなければいけない。それなにのに、エレベーターは下へ下へと下降し始めた。誰かが下で呼んでいるのか、そう思って、扉の上にあるランプを見上げる。すると、下降するエレベーターのランプは、上階へと数字を重ねている。9、10…
彼の額から、汗がしたたり落ちた。
彼は扉へと進んだ。
違う、違うだろう。上だ、上だ、上へ――。
屋上へのランプをガチャガチャと音を立てて激しく押す。しかし、反応がない。扉の上のランプをもう一度見上げると、最上階で激しく点滅している。下降する箱は、速度を増していた。点滅する最上階のランプにあわせて、室内の明かりも点滅し始めた。
彼は激しく扉をたたき始めた。
違う、違う、違うんだ――違う、違う、間違えたんだ――助けてくれ、たすけて
体がふう、と浮く感触があった。見ると、床が消えている。
落ちる――
闇――見上げると、エレベーターの箱が、明滅しながら上へと上がっているのが見える。いや、彼が、落ちているのだ。エレベーターの遠い明かりを残して、辺り一面、真っ暗な闇にかわっている。やがてエレベーターの明かりさえ見えなくなると、彼は落ちているのか、昇っているのかさえ、わからなくなった。
音もない、暗闇の宙。
彼はゆっくりと、視線を周囲にめぐらせた。
そこはあまりにも静かだった。そして何もなかった。あまりの静かさに、耳がキンと音を立てるのではないかとさえ思われた。宙をただよう、それが夜ならば、星ぐらい見えてもよさそうだと、彼はそんなことを考えた。闇――闇だと意識しているが、もしかしたら本当は、視力が失われたのではないだろうか。
死んだのだろうか。
手を見る。見える。おかしなことだ。この暗闇に、自分の体ははっきり見える。大人の手だ。オトコのテ、ダ――ホラ――
耳の奥で、鼓動の音が響いているのがきこえた。
ドク、ドク、ドク、ドク、ドク、
彼は恐ろしい不安に襲われた。不安が心の中をよぎると、心音は激しい音を立てて速度を増した。心音の速まるにつれて、体中をドクドクと鼓動の音が包み始めた。体は、頭から、速度を増して下降を始める。
これは、心臓の音か、これは、心臓の音か――? 心臓の音が、こんなに速いわけがない。心臓の音が、こんなに大きいわけがない。ガッシュ、ガッシュと激しい音――これは、違う、これは――蒸気機関の音だ。機関車の――。
うるさい、うるさい、どうにかしてくれ。うるさい――耳がつぶれる、つぶれてしまう。不安は激しい勢いを増して高まっていった。落ちるんだ。落ちる――いつ? どこへ――ガッシュガッシュという頭の割れそうな音響の中で、下降する先を彼は探ったが、頭上の向こうには闇しかない。
彼の頭の中に、脳天を地面に強く叩きつける想像がよぎった。
彼は叫んだ。顔を歪めて声を上げた。しかし、声は闇に鳴り響く機関車の音に紛れて聞こえない。だめだ、だめだ、これではだめだ。終わってしまう。つぶれてしまう。聞こえない、聞こえない、誰か――!
ふと、彼の下降は止まった。辺りは静寂を取り戻し、彼の激しい心音だけが、静かに響く。彼ははかり知れぬ視力の底に、何かが浮かび上がるように思えて、目をこらした。それは遠く、はかなく、近づくのか、未生の闇の中から浮かび上がるのか、ぼんやりと、彼の視界に映じた。
少年だった。
小学生だろうか。前髪を、額の上で美しく切り揃えて、黒髪が闇でつやつやと光っている。蝶ネクタイ、半ズボン、サスペンダー、真っ白い靴下、靴――牛革の――
少年は暗闇に、美しく立っていた。少年の立ち姿で、彼は自分が落下姿勢であることに気がついた。そして、落下はおさまったと思っていたが、その少年の位置で、なおも緩やかに沈み続けているのだということに気が付いた。
「まちがえたんだよ」
少年が口をひらいた。人形のように生気のない笑顔の口元から、真っ白な歯がこぼれている。
「まちがえたんだよ。まちがえたんだ。」
彼は、少年をじっとみつめた。少年は笑顔のまま、なおも話し続ける。
「まちがえたんだよ。まちがえたんだ、だから――」
「間違えた? 何を?」
彼は少年に問うた。しかし、少年は、彼の言葉がきこえるのか、きこえないのか、その笑顔をくずさぬまま、
「もう一度――」
とつぶやいた。
モウイチド――?
彼は少年をみつめながら、その言葉を頭の中で繰り返した。
「もう一度、何だ?」
彼は少年に問うたが、少年は笑顔を浮かべたまま、答えなかった。
「お前、誰だ。」
少年に尋ねるのと同時に、ガクンと体が揺れる感触。少年は、その人形のような笑顔を崩して、みるみる生気を帯びると、まじまじと彼の顔をみつめた。そして、次第にずれていく二人の距離をはかるように、ゆっくり、
「タクロー」
彼の体は、再び落下を始めた。しかし、それは先程のように激しいものではなかった。緩やかに、落ちて行く。少年の体が、足元から遠ざかる。遠く、遠く――
やがて、訪れる、漆黒の闇。
どこかから、また、鼓動の音が聞こえている。彼は耳を澄ました。それは、鼓動の音にも聞こえたが、海鳴りの音のようにも聞こえる。
とくん、とくん、とくん、とくん…
吸い込まれるような漆黒の闇の中で、スーッと、何かが糸をひいて上へと流れた。手を伸ばしてそれを受ける。緩やかに手のひらに溶け込んだ、それは、涙だった。糸は後から後からひいて、闇の中に光の線をひくように流れた。
海鳴りの音は、波の音へと変わった。あまりにも静かで、まるでそれまでの喧噪が嘘のように、そこは穏やかに満ちていた。
彼は自分の体が、ゴムマリのように小さくなっていくのを感じた。さっき涙を受けた手の平をそっとみつめると、指と指の間に、水掻きができている。
ああ、そうだ、と彼は思った。
ああ、そうだ、と彼は得心した。
彼はそこが、どこなのかを知っていた。そして、もうすぐ、自分の体が、この漆黒の闇に吸い込まれて、なくなるのだということを悟った。
きっと、波の音ばかりが残るのだろう。そして、何かに充たされていくのだろう。
波の音は、とくん、とくん、と告げている。
もう一度――と、彼は遠くなる意識の中で、少年の言葉を繰りかえした。
もう一度…
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