ある青年の死 ある読書家の死

水原麻以

ある青年の死

ある青年の死


ある読書家の死


村上春樹ファンを自称する青年が大学の学食で新刊を読みふけっていると、恩師に咎められた。

君はいつまで大衆文学に溺れているのか。最高学府で学ぶものとしてあまりに向上心に欠けていやしないか。


そう叱られて青年は憤慨した。「村上春樹とあなたが薦めるドストエフスキーの間にどんな断絶の大河が広がっているというのですか。

文学は文学です。何をどう受け止めて、どう解釈するかは読者の裁量に任されています。


だいたい、小説はエンターテインメントですよ。


娯楽です。しかつめらしい顔をしてページに向かうなんて作者に対して失礼じゃないですか。

彼らは手のひらサイズの遊園地でいかに読者を快楽させるかという真剣勝負を筆一本で挑んでいるんです」


すると、恩師は貧者の一灯にしがみついているお前こそ先達に対して礼を欠いている、と叩きのめした。

青年はなおも何か言いかけたが、恩師の声にかき消された。


いいか、歴史上の人物もたいていは貧しい家庭に生まれた。そこから泥水をすする生活を重ねて良書に巡り合ったんだ。

それを足掛かりにして成功した。


お前は何だ。


彼らより遥かに恵まれた境遇に育ちながら低俗極まる通俗小説に頭の先までどっぷり浸かっている。


青年も若くて健康な肺活量にものを言わせて反撃した。


そこまで言うのなら、あなたが仰るようにドストエフスキーを読んでみようじゃないですか。

だいたい、読みもしないで作品を論じるなんて、それこそが非礼ですからね。


その日のうちに青年は書店に足を運んだ。とはいえ、彼もバイトを掛け持ちする苦学生である。可処分所得を高価なハードカバーに割ける余裕はない。


「それでブックオフで済まそうってか。君らしいな」


恩師がレジの前で青年を迎撃した。それに対して青年は声を荒げた。


「何がいけないんです。書物は書物、作品は作品でしょう。器の瑕疵によって作品が損なわれることはないでしょう」

「骨の髄まで糞にまみれた敗北主義者め。いいか、文学を何だと思っている。書というものは自分の懐を痛めてこそ本気で向き合えるもんだ。よれよれになった書物を誰が真剣に紐解こうと思う」


喝破された青年は何も言い返せないまま、駅前の大型書店で文学全集のバラ売りを買った。

カラマーゾフの兄弟を上下分冊。定価五千円もしたのだ。


なぜそれを選んだかといえば、村上春樹の作品にロシア文学がしょっちゅう引用されるという恩師の先入観によるものだ。


日付が変わるころ、彼は深夜シフトで疲れ切った身体に鞭打って机に向かった。ぼやけた焦点を必死に合わせて活字を負う。

しかし、ドストエフスキーは彼にとって荷が重すぎた。文章の塊として頭は理解しているのだが、どうやってもその意味を咀嚼することができない。


「だめだ!」


とうとう彼はカラマーゾフの兄弟と四肢を布団に投げ出した。そして泥のように惰眠を貪った。


翌日、彼はそのことを洗いざらい恩師にぶちまけた。

そして、許しを乞うように助けを求めた。


すると助言が斜め上から降ってきた。


「いいか! 古典文学は蛍光灯の下で読むものじゃない!! 蝋燭やランプの下で書かれたものには同じともしびをかかげるべきだ」


まともな精神の持ち主ならば、狂ったアナクロニズムに隷従することはないのだが、不幸なことに青年はこの時から心を病んでいた。



「努力します。ありがとうございました」


彼はふらふらとホームセンターに向かい、なけなしの生活費をはたいてロウソクを買い集めた。


そして揺らめく火のもとでカラマーゾフの兄弟と格闘した。


自責と悶絶のうちに一週間が過ぎた。それでも彼は何一つ理解できないままでいた。


「僕は自分自身に絶望しました。この本は僕にとって高尚すぎます。どなたか有効活用してくださる方にあげてください」


恩師の前に現れた青年は骨と皮でできているように憔悴していた。


するとさすがにやりすぎたと反省したのか、恩師は人が変わったように優しく接した。


「まぁまぁ。私も少し言い過ぎた。今度は力を抜いて再チャレンジしてみなさい。私は自分を大した人間だと思っていない。そんな私でも文学の高みにのぼって来れたんだ。お前だっていつか……」



男は風に向かって説教を垂れていたようだが、すでに青年の姿はそこになかった。

ドサリという音がして、数秒もしないうちに誰かが悲鳴をあげ、人だかりができた。


幸か不幸か彼にはまだ息があった。薄れていく視野の隅に青年は女知人の姿を認めた。


二回生の梓だ。恋人未満でも女友達でもない。離れた席で聴講するだけの関係。



「あなた、どうしたの?!」

「僕はカラマーゾフに殺された」

彼は虫の息ながらも事情を手短に伝えた。

「カラマーゾフに責任転嫁しないで。悪いのはあの老害よ」

「いや。僕はロシア文学に殺されるんだ……」





梓は彼の遺影に花をたむけたあと、両親と向き合った。


「自分が何々をして成りあがったから、お前も成功できるはずだ!式の根性論を説く人はエリートですよ。恵まれている人がさらに高みをめざすための哲学です。文学には成功者の文学と貧者の文学と二種類あって、

前者には後者を救済する視点がすっぽり抜け落ちているんです」


彼女がまくしたてると遺族は涙をにじませた。

「でも長男はロシア文学に殺されたと……」


憤る父親に梓は必死で抗弁した。


「失礼ですが、あなた、カラマーゾフの兄弟をお読みになって? かの本にこんな一節があります。共産主義そのものは危険ではない。宗教性を帯びた共産主義ほど怖いものはない。彼らの原理は破壊的だ。

しかし、こんなくだりもあるんです。ロシアの最高刑がシベリア送り程度にとどまっているのはロシア正教が歯止めになっているからだ。さもなくば屍累々であろうと」

「なるほど……バランス感覚を欠いたあの男こそに罪があると」

「そういうことです。あの老害に一日も早く法の裁きが下るといいですね」



梓は青年に手を合わせた。


「わたしは本当に困っている人に寄り添える職業に就くわ。あの老害だけじゃなく、耳に胼胝ができるほど努力不足を指摘されてきたから。女らしくしろったって、できない子もいるのよ」




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