アーバナイトの長い夜

 デイトンさんは、ガスマスクの下を通して食事する僕に面食らっていたようだが、特に何も言ってこなかった。彼はそれよりも重要なことを僕に求めていたからだ。それは、取扱商品の分析と売り上げ予測を算出するというもので、とりあえず明日、最初のパンチカードを渡すのだが、単に商品データのパンチカードを分類してソートするだけなので、進捗としては、まだまだ序章に過ぎないのだった。

 辺りはすっかり暗くなっていた。が、もう一仕事しなくてはならない。ガスマスクの吸収缶の詰め替えは、気分転換のために後で行うことにした。

 僕は再び自室に籠った。黒鉛の棒をガスマスクの革越しに鼻と上唇(?)の間に挟んで、真っ新なパンチカードを睨みつけた。それから、等間隔に穴の空いた真鍮のガイド器を持ってきて、パンチカードの上に置いた。黒鉛を手にとって、お目当ての場所に突き立てると、そのお尻をと叩いて、ドットを打った。

 この作業は熱中できる。分からない人からすれば、ただの黒い棒を叩いているだけに見えるかもしれない。けれども頭の中では、命令と命令が使うデータの組を上手いこと動かして目的を達成するという、パズルを解いているような感じなのだ。

 どれだけの時間が経ったのかわからない。一つの目的を達成するまでの命令のまとまりに対するデータを記したパンチカードの束を文脈コンテキストと呼ぶならば、僕は今、二つ目の文脈を打ち終えたところだった。

 伸びをして、首を鳴らした。一旦席を立って、部屋の外に出る。吸収缶の詰め替えをする前に、紅茶でも淹れようか、と思った時だ。

 玄関ドアが乱暴にノックされていることに気づいた。

「きみ、俺だよ! 入れてくれんかね?」

 アーバナイトが夜に訪ねてくるのはそんなに珍しいことではない。お互いの家は徒歩で20分くらいの距離だ。

 僕は彼を玄関先に迎え入れた。

「やけに大きな荷物を持って、どうしたの」

「大事な用があってきた。ちょっと、きみの部屋を借りるぜ」

 彼は荷物を受け取ろうとする僕の手をいきなり振り切って、短い廊下を走り、僕の作業部屋の中に入った。それから、大きな音を立てて戸を閉めると、内側から鍵をかけてしまった。

 僕は彼が何をしているのかよく分からなかったので、とにかく部屋の前に立ち、ノックをして話しかけた。

「一体、何をしにきたの」

 僕はガスマスクとドアという二つの遮蔽物を越えるように喋らなければならなかった。そして、それはひどく疲れることだった。

「ちょっと待て、ちょっとだよ、きみ。たぶんそれで済むことだ。椅子を使うぜ」

「椅子はどうぞご勝手に」

「まず最初に言っておくがね、俺は『納得』するまで絶対にここから出ない。何日でも立て篭もってやるよ。飯は調達してきてるし、小便は窓からすれば構わんだろう?」

 大荷物の中には食料が入っていた、ということだろうか。

「いや、構うけども。パンチカードは汚さないでほしい」

「分かってる。迷惑をかけに来たんじゃないんだぜ。こちとら大真面目さ。なんかずっと落ち着かない気分でね。滑りやすい床の上をずっと歩いてるみたいなね。こんなのは、親父の手伝いでオイルを挿しに 、初めて蒸気汎用機関G-P エンジンの中に入ったとき以来なんだぜ、きみ。だから、俺も一人の蒸気汎用機関士エンジニアとしてだな、きみらドット打ちプログラマがよく言うやつ、前と後ろ、いや、右と左だっけ? を、比べるみたいな? 難しくて良くわかんねえが、とにかく、頭の中でそれをやってみることにした。そうしたら、ちょっぴり見えてきたんだよ。すごいと思わんかね?」

 僕は返す言葉もなく、単に相槌を打った。一体何を納得させればいいというのか、まだ分からなかったからだ。

「ステューよ、それが何かといえばだね、俺は、きみがラゲッドに来ることになって最初は嬉しかったんだが、俺たち兄弟みたいなもんだし、悪友たちあいつらとも一緒につるめば今より楽しいだろうって思ってたんだよ。実際そうだったしね。けれど、ここ数日間で、だんだんと、こりゃなんか違うみたいな気がしてきていたんだな。きみと違って、俺は頭が悪いから、それがどういうことなのかまで分かるほどの、素晴らしいドットを頭の中で打つことはできなかった。未だに、はっきりとは良く分かっておらんのだ。しかし、原因はここにある、違うかね?」

「僕には分からないよ。だって、きみのことでしょう?」

「いや、待て、俺のことじゃない。たぶん、きみのことなんだ。今、分かったかもしれない。きみが一体、なぜ、ラゲッド・スクールを選んだのかっていうことなんだ」

「それは、おじさんに、お金を使わせたくないからで……」

「そんなこと、気にする必要は全く無いだろう。きみの親父さんはだな、最後、うちの親父に、きみのために使ってくれといってお金を託したんだ。うちの親父も頑固で頭が悪いし、それ以外に使おうなんて、思いつきもしやしねえよ。つまり、きみの親父さんがうちの親父に託したお金は、全部きみのもんだ。きみが自由にすべきものだ。だから、授業料をケチってラゲッド・ スクールに通う必要なんて一ミリもないんだな。ドット打ちプログラマに必要な勉強をしたほうが、きみの親父さんも喜びそうなもんだろう。この俺ですらそう考えるんだから、察しのいいきみなら、当然、そんなことは百も承知のはずなのに、そんな愚かな理由を言うなんて、らしくないんじゃないかね、きみ」

「本当に、僕は、おじさんがパパから受け取ったお金は、アービーやおばさんや、おじさんのために使われるべきだと思ってるんだ。もし、僕がなにか大変なことになったとしたら、そのときはちょっと使ってもらうのはありがたいと思うけれど、でも、お金を使わなくて済むようなところでわざわざ使ってもらう必要なんてないんだ。パパが僕に残してくれたのは、お金だけじゃない。喫緊のデイトンさんの案件もそうだし、他にも山ほど仕事が残されてる。僕にはその報酬で十分なんだよ。生きていける」

「うちの親父を信用していいのかね? ばかだし、頭でも打ったりして、きみの親父さんのことなんてすっかり忘れちまって、きみがやっぱり使いたいと思った時には、すでに酒代に全部消えているかもしれねえだろう?」

「何言ってるんだ。おじさんのことはアービーが一番よく知ってるじゃないか。僕はね、本当は大人が信用できるかなんて、真面目に考えたことなんてないんだ。大人は汚いだの、いやらしいだの、アービーに愚痴ったことは何回もあるかもしれないけど。でも、おじさんは好きさ。世話になったし、ずっと信頼してる。きみにそっくりで、わかりやすいしね」

「そっくりなんて不名誉はいらないな。それにしても、全然納得できねえよ。仮にきみが本当のことを言ってたとしても、ラゲッド・スクールに居ていい理由になるとは思えんがね。だんだんと分かりかけてきたが、俺は単に、きみに機関学校エンジン・スクールに行って欲しいのかもしれん。そりゃ、俺にはできんことだからね」

 僕は返答に困った。何も思いつかず、僕はドアに背中をつけて、そのままずるずると座り込んだ。納得させるには転校するしかないということなのだろうか?

 しばらく黙っていると、アーバナイトが口を開いた。

「どうした、きみ、だんまりじゃないか。紅茶でも淹れてきたらどうかね? 心配しなくても、俺はずっとここにいる。『納得』が得られるまで、外には絶対に出ないからな」

「分かった。アービーも飲む?」

「いらない、小便が近くなる」

 期待していた断りの言葉ではなかった。僕が紅茶を渡すにはドアを開けなければならないのだから、それを警戒すると思っていた。

 僕は台所に入り、テーブルに置いていた水のボトルを開けて、指先に一滴垂らした。それを勝手口から出た先にある蒸気発電機の上蓋に飛ばす。弾けるような音を立てて水滴が消えた。

 ケトルに水を注ぎ、発電機の上に置いた。沸騰を待っている間に輸入物の茶かごに茶葉を入れた。どちらもママのお気に入りだった。それでも湯が沸くまで時間があったので、ついでに炉の中の燃料と、タンクの水量を確認したが、問題はなさそうだった。

 湯が沸いてケトルに茶かごを放り込んで待っているとき、突然、怒鳴り声が聞こえてきた。

「うるせえぞ、クソ親父! これは俺たちの問題だ。首を突っ込むんじゃねえ! そもそもお前がちゃんとしてりゃ、こんなことにはなってないんだぜ、大人だろうが! ええ?」

 僕は慌てて自室の前に戻った。

 アーバナイトと彼の父親が、言い争いしていたのだった。

「おじさん」

「勝手に入ってきてすまんね、ステュー。呼んでも出ないから、入ってしまったのだ。危ないから鍵は閉めておきなさい」

「いいか、親父。お前のせいで、俺が今ここにいるんだってことをよく覚えとけ! 昨日も言ったけどな、お前がちゃんとステューを説得しないから、今、俺が部屋から出られないんだぞ!」

「意味のわからんこと言ってんじゃない、この兵六玉が! ラゲッド・スクールに決めたのはステューの意志だ。それを尊重せんで、何を尊重しろというのかね?」

「意志だの尊重だのってな、難しい言葉を使って俺を騙くらかそうったって、そうはいかねえぜ! 今の親父は俺以上におつむが足りてねえ。一つも頼りにならん。この問題は、俺が、ここで、解決する」

 僕はどうしていいかわからず、紅茶が濃くなりすぎることを思い出し、台所に戻った。手が震えていて、マグに紅茶を注ぐのに慎重を要した。それから僕はマグを持って戻り、彼らが静まることを願った。

 流石の彼らでも、人の家で狼藉を働くのは憚られるのか、ドアを叩いたり、地団駄を踏んだりすることはなかった。そしてそれが、彼らが早めに落ち着きを取り戻す要因になったことは間違いない。

「すまんね、ステュー」おじさんが言った。「迷惑をかけるが、しばらく付き合ってやってくれ。あいつの残した家のドアを壊すわけにもいかねえしな。俺と一緒で、こいつもこうなっちゃ頑として聞かねえのさ。何か困ったことがあったら言ってくれよ。すぐに助けになるから」

 僕は紅茶をこぼしそうになったので、廊下の隅に置いた。

「おじさん、大丈夫です。話すだけですから」

「ここにいなくて大丈夫かい?」

「親父は帰れ!」

「お前には訊いてない!」

 おじさんは怒鳴った後、僕の方を向いて申し訳なさそうに表情を歪めた。

「大丈夫です。何かあったら、僕がすぐ伝えに走りますから」

「わかった、わかった」と、おじさんは言った。「鍵はかけておきなさい」

 僕はおじさんを玄関先まで見送った。彼は玄関ドアの前をうろうろして、アーバナイトをほじくり出すための悔悛の秘跡を編み出そうとしているみたいだったが、それも諦めて家を出て行った。

 僕はすっかり疲れ果ててしまった感じがして、自室のドアを背もたれにして床に座り込んだ。紅茶の入ったマグを手繰り寄せて、両手で覆うようして持ち上げた。

「なんだって、あんな酷いことを。アービーは、僕が機関学校エンジン・スクールに行けば納得するの?」

「でけえ声を出したのは謝るぜ。しかし、そのおかげで、考えが整理できた気がするんだな。例えば、親父がきみのことを本当に想って、きみが機関学校エンジン・スクールに入っていたとするだろう。そしたら、この、もどかしいみたいな感じは無かったのかってね。想像してみたが、どうも、あまり変わらないような気がするんだ。でも、今よりはずっとましになるような気もする。どう思うかね?」

「きみは僕の部屋に篭りたいだけなのか?」

「まさか。俺は、ここ数日、ほぼ毎日きみの姿を見ていたからではないかと、そう言っているんだぜ。やっぱり、ただ一つ、気になってるんだ。俺はまあ、そういうのは、人の勝手だと思ってるから、突っ込んで訊いたりしなかったし、あまり重要だとは思ってなかったんだ。……きみ、なんで、まだガスマスクなんてしてるのかね?」

「え、何でって……」僕は口籠もった。突然、学校からガスマスクに話題が移ったからだった。

 僕は真実を告げるか迷った。この傍迷惑な体質に関しては、まだ誰にも喋っていないのだ。彼にそれを教えたとして、理解されるかどうかもわからない。

 しばらく黙っているうちに、顔が火を吹くみたいに熱くなってきた。瘴気収応者ミアズミストだって?

 僕はぬるくなった紅茶をすすり、床に置き、またすする。ドア越しの難物をなんとかするためには、言うしかないのだろう。

「そ、それは、僕が、瘴気収応者ミアズミストだから……」

「なんだそりゃ。聞いたことがないな。それはつまり、どういうものなのかね?」

 僕は笑われて一蹴されるとばかり思っていたので、深掘りされるのは想定外のことだった。説明しようとして、しばらくしてしまう。

「あの黒い空の、あの悪い空気を体に蓄えて、それで、その空気を吐き出し続けるようになってしまった、とても危険な人のことだよ。だからガスマスクをして、外部に吐き出さないようにしている。 つもりなんだ

「今でも悪い空気を出してるのかね、きみ? それはちょっと変だと思わんか。法律が変わって、何でもかんでも燃やして放出するのが禁止になって、空気は良くなった。ならば、良くなった空気を蓄えて吐き出し続けるはずだぜ」

 思わぬ反論を受け、僕の言にもちょっと熱がこもる。

「じゃあ違うんだ。僕が、僕こそが、あの黒い空の悪い空気そのものなんだ。だからガスマスクをして、みんながその悪影響を受けないようにしている。それが瘴気収応者ミアズミストなんだ!」

「ふうん。なるほどな。もっと早くそういうことは教えてくれよ。というか、堂々と名乗っちまえばいいだろうが。俺だって、自分で勝手にアーバナイト都会人って言って回ってるしな!」

 アーバナイトが豪快に笑った。

 彼は呆れもせず、嘘だと断じることもしなかったのだった。

「名乗るなんて……」

「もし、きみが、ガスマスクを外したらどうなるんだ?」

「アービー、きみは死んでしまう」

「やってみろよ」

「いやだ」

「ふむ。きみはそれで誰かを殺してしまったのかね? だから心を痛めてるのかね?」

 僕は言い返す言葉を探した。自分の考えた設定を次々と付け足していくのは、疲れた頭には困難なことだった。

 紅茶を飲み干してマグを床に転がした時、僕は茶かごの連想から、ママのことを思い出した。先に肺病を患ったのは彼女だ。苦しそうな咳をして、たまに喉を切って血痰を吐いた。やがて寝たきりになって、上半身を起こすだけでも息切れしていた。パパはママのベッドの横で仕事をした。もはや、パンチカードに穴を開けることはできなくなっていたから、僕がママの代わりにその作業をした。ママが亡くなったとき、既にパパも同じように咳をしていた。

「僕だ……。やっぱり、僕のせいで、パパとママが死んだんだ」

「つまり、きみは、きみの瘴気収応者ミアズミストというやつのせいで、親御さんたちが死んだと思ってるわけだな」

「そうだよ。だからガスマスクは外せない。誰の前でも」

「いや、ちょっと待ってくれ。そんなことはありえねえよ。きみらの仲の良さは知ってたし、もしきみが原因だとしたら、普通は死ぬ前にぶん殴るとか、メシ抜きにするとか、そういうことをするだろう。たぶん、うちの親父とお袋なら絶対そうしてる。わからんかね? 俺はきみのお袋さんが亡くなって、その後、親父さんまで亡くなって、その時期のきみのことも知ってるけれど、ぶん殴られたりなんかしてなかったはずだ。きみは、もしかすると、俺が思っていたより、ずっと思い込みが激しいのかもな。俺だってそれくらいわかるぜ。きみのご両親はだな、あの黒い空で肺病になったかもしれんが、それはきみが悪いわけじゃない」

「アービー、同じことを繰り返し言ってるだけみたいに聞こえる」

「俺はな、うまいこと説明するのが苦手なんだよ、きみ。つまりだ、きみのご両親は、きみが悪いとは微塵も考えてなかったってことだ。それがつまり、きみが原因というわけではなかった、ということにはならんのか? どうなのかね?」

「ならないよ」

「ふん。だとしてもだ。俺は今、自分が一番『納得』できそうなことを発見したぜ。なあ、きみ、取れよ、ガスマスク」

「いやだよ…… きみは、し、死にたいのか」

 僕は汗でベトベトになった手を、ズボンに擦り付けた。床に置いたカップを拾い、空気を飲むことで落ち着こうとした。

「俺は死ぬのかもしれん。きみの話によれば、それは有り得るんだろう。だが、俺はそれよりも『納得』を優先するぜ。俺が死んだら納得するし、死ななかったら納得する。どっちに転んでも完璧な結果が待ってる、そんな気がするんだ。いいから、ガスマスクを取ってみろよ、きみ」

 僕には、アーバナイトがどこまで本気で言っているのかわからなかった。今ここでマスクを外し、本当に彼が肺病になってしまったら。逆説的に、僕のせいでパパとママは死んだことになる。瘴気収応者ミアズミストと設定した僕のせいで二人が死んだので無ければ、この世に、どうして、こんなやるせないことがあるだろう?

 ガスマスクを外して瘴気ミアズマを解放したら彼が死ぬなんてこと、本気で思ってるわけじゃない。でも、なぜか、彼には死んでほしくないという気持ちばかりが募る。

 アーバナイトは、こんな僕のちんぷんかんぷんな世迷言に付き合って、命を張ってみようと言うのだから。

「分かった。外してみる」

 僕は手を頭の後ろに回した。バイザーから三方向に伸びたバンドに付いているスナップを一つずつ外そうとした。二つはすぐに外せたが、真ん中のスナップは硬くて、手汗で滑ったこともあって少し手間取った。落ちそうになるマスクを押さえる。そして、左顎から首の後ろを回って右顎に繋ぎ留めてある、ある最後のスナップを引き剥がした。

「外したか?」

「外したよ」と言って、僕はマグに被せるみたいにしてガスマスクを床に置いた。

 深呼吸をする。ドアの前でもがき苦しみ始めるアーバナイトの姿……は、無さそうだった。

「なんともないぜ、きみ。やっぱりな、俺の見立て通りだ」

「見立て通り?」

「俺が考えた通り、今の悪く無い空気を溜めて吐き出しているから、俺は死ななかったと、そういうことのはずだぜ」

「僕は、きみが死なないことなんて、知ってたんだ。だって、瘴気収応者ミアズミストなんて、僕が考えたでたらめなんだから。本当は無いんだよ」

「本当は無い? しかし、きみ、ずっとガスマスクをしていたのは、そういうことだったんではないのかね? だが、それがそもそも無いというのは、つまり……? 頭がこんがらがってきた。けれど、俺は納得できた気がするんだ。こう、ブーツの裏がきちんと床に張り付いてる感じになったというか、背負ってた重いものを全部下ろしたみたいな。深く考えすぎると、また変な泥沼にはまって、そわそわすることになりそうだがね、俺は、今、自分で思った疑問を自分で考えて、解決できたんだ。これがまさに『納得』さ。だから、ほら、最後にその証拠を見せて欲しい。きみ、ドアを開けてみな。鍵はかかってねえからさ。実は、紅茶を淹れにいった時、外してたんだ。で、俺が納得する前に、もしきみが開けちまったら、思い切りぶん殴ってやろうと決めてたわけ。それも、アリだったろ?」

 外してしまえばあっけない。空気を吸うときの抵抗が無くなって、声も張り上げずに済む。自らの声で耳鳴りがするようなこともない。

「いや、それはナシだよ。あと、僕がガスマスクをしてた理由、人に言うのもナシね。そもそもガスマスクは吸い込まないようにするためのものだし」

「どうしてかね?」

「……恥ずかしいから」

 アービーが椅子を動かした音がしたので、僕はドアノブに手をかけた。本当に鍵はかかっておらず、簡単に押し開けることができた。ドアの先に、椅子をこちらに向けて、足を組んでふんぞり返っている彼の姿があった。

「ああ、きみ、ステューよ、本当に、本当に久しぶりだな。きみ、その美しい顔を、俺はようやく見ることができた。空は晴れたのだ!」

「あのね、気障な言葉を使ったりして、ナンパの練習台にするのはやめてくれ」

「だってきみ、うちのおふくろを思い出してみろ。あれを相手に練習できるかね?」

「どう答えても気まずくなる質問をしないでよ」僕は肩をすくめ、ため息を吐く。「ところで、明日デイトンさんに渡す予定のパンチカード、まだできてないんだけど、当然手伝ってくれるよね?」

「ん? 俺は『納得』できたから帰るぜ」

「きみが籠城するから、一つも作業できなかったんだけど?」

 アーバナイトが舌打ちをする。だがそれは、あまりにもわざとらしく見えた。

「しかたねえや」

 僕の部屋は、一人で作業できるくらいのスペースしかなかった。だからパパとママの作業部屋に移動した。

 向かい合ってテーブルにつき、僕の方には真っ新なパンチカードと提供してもらった資料一式を、アービーのほうにはドット記入済みのパンチカードとパンチャーを置いた。

「じゃ、こうやって穴を開けたら裏返して積んでいって。順番がばらばらになると、後で困るからね」

「いいのか? 俺はたぶん、確実に間違えるぜ」

「なんとでもなるよ」

 そして、一夜の長い作業が始まった。

 最初は縮み上がって恐る恐る作業していた彼も、だんだん小慣れてきて、僕がドットを打つよりも早く穴を開けられるようになっていた。

 とんとん、ぱちぱち、小さい頃から耳にしてきた音がする。

 作業が終わった時には、もうすっかり朝になっていた。彼が居ても居なくても、きっと、僕は徹夜をしていたことだろう。

 けれども、窓の外の景色は違っていたはずだ。

 裸眼の空は、思っていたよりもずっと、晴れているように見える。

「お疲れさま」

「お疲れさん」

 僕はデイトンさんに引き渡すパンチカードと、調整用の真っ新なカードを整理して、ショルダーバッグに詰め込み、テーブルの上を整理した。

 その後二人分の紅茶を淹れ、アービーがどこかの店かからくすねてきた、かぴかぴのパイにかじりついた。

「僕、ラゲッド・スクールに通い続けるよ」

「また俺に立て籠って欲しいのかね?」

「そういうんじゃない。なぜなら、きみがいるからさ」

 アービーが、怪訝な顔をこちらに向ける。

「次世代の蒸気汎用機関G-P エンジンを作ろう。もし許してくれるなら、パパのお金はそれに充てたい。アイデアもあるしね。ストア領域を拡張して、街みたいに住所をつけた場所を用意するんだ。命令のパンチカードでその住所を使えば、命令のデータ用のパンチカードは必要なくなるかも、」

「待ちたまえ。そんなことを教えてくれても、俺にゃ難しくて分かんねえよ。けどさ、だったら、俺も親父と仲直りしねえとな。馬鹿なことももうやめだ。最後に部品を組み上げて、石炭を放り込み、オイルを挿すのは、俺の仕事。そういうことなんだろ? ねえ、きみ」

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アーバナイトの長い夜 志々見 九愛(ここあ) @qirxf4sjm

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