こじらせステュー
僕が俗にいう「ラゲッド・スクール堕ち」してからというもの、教室に入るといつも、後方の席を取るようにしている。一番後ろになるのが最良ではあるとはいえ、寄宿舎住みの連中や勉強熱心な人らが、怠惰な僕よりも随分と早く来て、なんの哲学もなく後ろの席を取ったりすることもあるから、心の平静のためにも、半分より後ろに座れればいいくらいに考えるようにしているのだった。
今日は一番後ろ、それも右端を取ることができた。おんぼろ机(といってもこの学校全体がひどく古いのでその中では新しいほう)に掘り込まれたメリー・クリスマスの落書きが、その席であることの証左である。初めて見たけれど。
僕は一つ大きな欠伸をし、首を鳴らした。雨の日だからか、触れるもの全てが湿っているように感じる。
授業が始まるまで、まだ少し時間がありそうだった。
内職でもするかと思い、足元に置いていたショルダーバッグの中から、パンチカード(バベッジ規格3.0)のデック一束と専用のパンチャーを取り出して机の上に置いた。そして、まず、
そうしてどんどん穴を開けていると、いきなり後ろから肩を揺さぶられてパンチャーを落としてしまった。中に溜まっているかすが散らずに済んだのは幸運だった。
「きみ、今日も大袈裟かね!」と、悪びれもせずに言う犯人はアーバナイトだった。「ガスマスクの新入りステューくん!」
彼とは幼なじみだった。同じ屋根の下で勉強するようになったのはラゲッド堕ちしてからのことだが、僕らの関係性に何も変化は無かった。彼は相変わらず粗暴でデリカシーの無い大男だし、僕はいつも通りにこんな感じなのだから。
「おはよう。ちょっと危ないんじゃない」
「きみ、ステューよ。いまさらガスマスクなんてしてるから、気付かんのだ。俺はかなり体格の良い方だぜ?」
「集中しすぎてただけだよ」
「その作業は単調すぎて気の散りみしかないのではなかったかね」
「それより、その口元の傷はどうしたの?」
「ああ、これね。昨日、親父と喧嘩しただけさ。義手の方でぶん殴られたが、こっちも一発入れてやった」
「ほどほどにしときなよ……」
「大したこたねえさ。じゃあ、後で」
僕は話をはぐらかして、彼を追い払った。
確かに僕は全面タイプの防塵機能付き防毒ガスマスクを装着しているけれども、さりとて人の気配に鈍くなるみたいな不便を愛する人間、というわけではない。そして彼の言うとおり、あれが僕の最も苦手とする単純作業であるのも事実だ。パパとママがそうであったように、打つ人と穴を開ける人は別々にした方が良いに決まっている。
続々とクラスメイトが教室に入ってくる。年齢層はバラバラ。大半がぼろをまとった姿の、チャリティー・スクールにも教会にも行けない貧しき弾かれ者たちだった。一部、ベストにジャケット、ついでにフラットキャップまでしているような連中もいるが、それはさっきのアーバナイトみたいに素行が悪くて流刑に処された堕ち人ばかりなのだ。誰であれ、服を盗めば一丁前の格好ができるものである。
堕ちて日の浅い僕は、もしかするとまだこの場に相応しくなくて、彼らからすると孤高、ないしは異端なのかもしれなかった。けれども、ガスマスクをしているのは衆愚からの分立が目的なのではなく、僕の傍迷惑な体質、
壮年の牧師が生徒に紛れて入って来た。頭から吊るすタイプの片眼鏡をかけており、痩せっぽちで、どこかみすぼらしい。手に持っている祈祷書か何かは、手垢で随分と汚れている。
彼は矢継ぎ早に挨拶を振り撒きながら、教室の一番前に立ってこちらを向いた。
「はい、では先週のおさらいからですが」
まだ座っていない生徒もいるのに、牧師が喋り始める。
この学校にはロクな教員がいない。きっとこの人も例外ではないのだろう。誰も彼も上から目線で、我々に教育という施しを与えんとやってきている。それが彼ら大人たちの対外的なステータスとして、いやらしい働きをするわけだ。
僕らにとって幸いなのは、登校が義務では無いということ。仕事があるなら途中で帰ってもいい。別に来なくても。そもそも授業料はタダだし、年齢に関係なく惨めで汚い見捨てられた人間であることが入学の条件なのだ。
授業が始まるとすぐ、僕は新しい知識にありつけないことを知った。だから、一番前の席で食い入るように教師を見つめているアーバナイトを眺めることにしたのだ。彼が、神の観念やその恩寵に対して興味があるなんてのは、ぶったまげて意外なことに思えたからだ。
いや、牧師の口が上手いだけなのかもしれない。この教室の荒廃的な無知の有様に臆することなく、やさしく、わかりやすい言葉で喋り続けている。
アーバナイトを見飽きた僕は、うちの下駄箱に積み上げているガスマスク用の吸収缶のうち、使えるものが残り一つになったことを思い出した。まだ半分以上、穴を開けなければいけないパンチカードが残っているのに、帰ったら必ず詰め替え作業をしなくてはならない。そうしなければ、明日、通学のロコモービル・バスに乗れなくなるどころか、家を出ることさえ自制せざるを得なくなる。これが
けれども、もし今、反社会的な暴漢が、あの気弱そうな牧師を破壊せんとドアを破って入ってきたのなら、僕はその前に躍り出て、躊躇なくマスクを外すだろう。すると暴漢は、次第に肺に違和感を覚え始め、喀血し、その場に倒れる。僕は被害を最小限にするため、浅い呼吸でマスクを付け直すのだ。
「そこのマスクをしているきみ。おい、一番後ろのきみだ」牧師が言った。「マスクで隠れていますが、きみは知っているふうな顔をしているでしょう?」
彼は僕が上の空で空想をめぐらせていることに気づいたらしい。
「はい、以前、別のところで教わりました」
「なるほど。私のいない時に、私の代わりとして、彼らからの質問に答えてあげられますね? もちろん、今日の内容についてのみですが」
「先生のように上手く解説できませんよ」
「構いません。そうすることが大事なのです。ところで、そのマスクを外しませんか? 空は晴れました。不便なだけでしょう」
「これは外せません」
「そうですか。無理にという話ではありませんし。よろしい、よろしい」
一瞬面倒なことになるかと思ったが、それきりで解放されたので一安心だった。
しかし、ガスマスクのせいで大声を張り上げなくてはならず、耳がキンキンしているし、アーバナイトが詰問中ずっと、多様なおちゃらけ顔をこっちに向けて笑わせようとしてきたせいで、頬骨の下あたりが攣りそうだ。中途半端な笑顔で眉毛を上下に動かすのは、今後禁じ手としたい。
その後、知らない教師が二人指導に加わったが、知ってる内容であることに変わりはなかった。退屈であればあるほど、非現実的な空想が頭に浮かんでくる。
僕は
ラゲッド・スクールなだけあって、時間割もかなり適当だ。生徒の食いつきが良すぎたり、逆に理解度が低すぎたりすると、終わりまでの時間が伸び縮みするらしい。
で、さっきの授業は随分伸びた。昼下がりになってようやく終わったところで、空腹に包まれた教室内は、いよいよ
次の授業が始まるまで、パンチカードに穴を開けるか、それとももう帰ってしまうか、どうしようか考えていると、アーバナイトが悪友たちを引き連れて僕の前に現れた。
「きみ、この後どうするのかね? 俺は次のコマが終わったら帰るつもりだぜ。顔も見たくねえが、親父の手伝いがある」
「今日はやることも多いし、そろそろ帰ろうかなって考えてたとこ」
「じゃあその前に、今からこいつらとメシを調達に行くけど、一緒に来るかね?」
「そりゃいいね。でも、僕がどれだけ鈍臭いか知ってるよね」
「もちろん。俺たちが失敗したら、まず間違いなく、きみが犠牲になる。むしろ、そのために連れていくんだな」
「ひどいことを言いやがる」と僕は笑った。「遠慮しとくよ。その役目を全うできる自信がない。万が一捕まったときに、拷問に耐えられず友達を売るような真似なんかしたくないからね」
「オーケー。じゃあ、またな」
「ありがとう」
彼らを見送り、僕は荷物をまとめた。廊下は雨漏りでところどころ水が溜まっていて、年少の生徒がばちゃばちゃやって遊んでいたりした。
外に出ると、雨はすでに止んでいた。校門(というかほとんど玄関ポーチだが)前にあるデール
汽車をぎゅっと圧縮して後ろ前にしたみたいなロコモービル・バスの操舵車両が見えてきた。客車を四台牽引しており、それらは太い車輪付きのカゴに椅子を乗せたみたいな感じで、幌がつけられているので、雨の日も問題なく使えることになっている。実際は、正面や横から雨が吹き込んでくるので、あまり快適ではない。一台につき座れるのは四人だが、もっと詰め込まれることも当然ある。
運転士に手を上げて合図すると、減速して僕の前を徐行する。蒸気の独特な匂いがする。ざっと客車を見比べて、席の空いている一番後ろの客車に乗り込んだ。
乗り心地はひどく悪い。ぬかるんだ道を進んでいるから、大きな窪みがあったりするのだろう。パンチカードを出して作業しようと思ったが、あまりに揺れるので断念した。
ガスマスクのバイザー越しにぼんやり前を見ている。膝には使い古した革のショルダーバッグを乗せて。
太っちょのおばさんが新しく乗ってきて、僕の隣に座った。香水の匂いをぷんぷんさせていそうだが、ガスマスクのおかげで何も感じない。
彼女はいきなり僕に話しかけてきた。外側に座っているから、逃げ場は無かった。
「まだそんな大げさなマスクをして、目まで覆って。あんた、空が見えていないのかい?」
「見えていますよ、マダム。だから帰りに吸収材を買わないといけないんです」
「もう買い足さなくていいんだよ。呼吸だって苦しいだろう? 周りを見てみなさい。誰もマスクなんてしちゃいないんだから。心配なら丸高な襟付きの服を着て口元を覆ってみてもいいし、スカーフを巻いたっていい。あたしゃこの通り、なんもしてないけどね」
「考えてみます」と僕は答えた。
お喋りなやつだな、と思う。
誰しも口々に、もう空気は綺麗になったのだと言う。だからマスクを外しなさいと。
確かに、ゴーグルをしなくても目が痛くならないし、外から家に入ってくる悪臭はすっかり消えた。
けれど、空を見よ。
一日中どんよりした灰色に染まっていて、雲すら判別がつかない。我らの天気は、曇りと雨に加えて申し訳程度の雪しかないのである。物心がついた頃、十年以上前の当時、そんなことでは断じてなかった。思い出の中には、パパとママと、快晴があり、天気雨があり、虹があった。
ド田舎のこの辺ですらこうなのだから、都市部では今もまだ黒い空の下、悪臭が立ち込めていて、濁りに濁った生活用水が流れているに違いない。
「考えるってあんた————」
ガスマスクを外して、本当にいいのですか。マダムも死にたくはないでしょう。
まだ構想段階ではあるが、次代のバベッジ規格4.0(?)では、パンチカードの粒度が十倍以上細かくなるらしい。そうなると、もはや黒鉛を使って手でドットを打つのも難しくなるので、パンチャーと一体になったドット打ち機を使わないといけなくなるみたいだ。一人でやってる僕にとっては手間が減るから嬉しい話ではあるのだが、パパとママが分業していた作業が古き良き時代のやり方となってしまうのは、少し寂しい感じもする。
パンチカードが細かくなるのだから、次世代の
「まだまだ、どうなるか、わからないな」
「あたしゃね、わからない、なんてことはないよ、あんた。同じ過ちを繰り返すわけがないんだからね、分かってるんだよ。何度も言うけどね、もはや空は晴れていく一方さ」
僕の独り言が、おばさんの説教と奇跡の噛み合いを見せたらしい。おかげさまで考えていたことが、全部さっぱり消えてしまった。
べらべら喋り続けるおばさんの声は、別に不快ではなかった。独特の抑揚があって、音量がもう少し小さければ、ロコモービル・バスの揺れと合わせて気持ちよく眠ることもできたかもしれない。
もしかしたらママも、このおばさんみたいに声が掠れ始めていたのかもしれない。でもそれは想像しても詮無いことだ。
僕はおばさんに「すみません」と言い、前の座席の背もたれにくっついている伝声管に顔を近づけた。
この漏斗みたいな真鍮は銅の管と繋がっていて、幌の真上から連結具を伝って運転席まで伸びている。声を届けてくれるのだ。
僕は送話口の蓋を開けて、喋りかけた。
「次で降ります」
「はい、次の駅で徐行します」との返事が、雑音の中でかすかに聞こえてきた。
僕は蓋を閉めて、再び深く座席に腰掛けた。車内が一度大きく揺れ、おばさんと肩がぶつかる。
「いいかい、もう吸収材の詰め替えなんてしなくていいんだよ。心配な人のためのもっとシンプルなマスクだってあるんだから、どうしてもと言うなら、そっちを買えばよろしい」
特に返事はしない。頷くだけだ。
そろそろバス駅だ。今日のロコモービル・バスは、往路も復路も当たりだった。乗ってから降りるまできちんと走り続けたからだ。こういう道のぬかるんだ日には止まることも多い。ひどい時は一旦降りて、乗客みんなで押す羽目になったりする。
減速が始まったのでおばさんに席を立ってもらい、軽く別れの言葉を告げた。乗客は一期一会、明日また再会するということもないだろう。
降りたら少し歩く必要がある。今朝、ブーツを履いてきて正解だった。
道を往くロコモービルが、もし泥を跳ねても平気なように道の外側を歩いた。それは一緒に降りた数人も同じだった。水たまりがあると後ろを見て、車両が来ていないことを確認してから進むのだ。
これは杞憂かもしれない。こんな田舎で、バス以外のロコモービルが通るのは結構なレアケースなのだ。そもそも私有している人さえほとんど見かけない。購入できれば一つのステータスにはなるし、これから増えてくるのかもしれないけれど。
帰宅すると、僕はすぐに自室に籠った。
帰路で吸収材を仕入れるついでに買った小さなパンをかじりながら、パンチカードに穴を開ける作業を再開する。手元にある分を終えると、夕方くらいになった。
それから、少し離れたところにあるデイトンさんの邸宅にお邪魔した。明日引き渡す予定のパンチカードの件で最後の確認をしたかったし、ついでに夕飯までごちそうになれたら、なんてことを考えたからだった。
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