染めたところと余白

真花

染めたところと余白

 太陽が地平線にうずまるのを嫌がって、あかい汗を照らしている。その汗が空の全てに広がる、いや逆、夜闇がの髄に向かって染めなそうとして、いずれ抗いも虚しく一色いっしきに落ちるだろう。

「ジミヘンと夏目漱石の共通点って、分かりますか?」

 仕事終わりの電車、横並びに座った先輩と、車窓の向こうの終わりかけの夕陽。

「何だろう。私、夏目漱石はいっぱい読んだけど、ジミヘンは聴いたことないからなぁ」

 マスクをして生活するのが当たり前になってもう五年、先輩の素顔はもう思い出せない、彼女の顔は髪と眼と声だけ。でも眼と声があれば表情は分かる。知らないだけで興味がない訳ではない、顔。

「それはですね、ジミヘンって、今聴いてもすごいはすごいんですけど、そんな伝説のギターなのかな、って感じなんですよ」

「伝説なんだ」

「でもすごく感じない理由があるんです。それは、ディストーションを始めとした今じゃ普通になっているエフェクターを初めて使ったり、今じゃ当たり前になっている奏法を最初にやったりしたんです。それまではこの世になかったものを最初にやって、彼以降のギタリストは押し並べてその影響を受けている」

 先輩の頷きが何かを掴んだ色をして来た。でも俺はそれを言われる前に続ける。

「つまり、彼より後世に生まれている俺は、彼の影響が浸透した後の世界しか知らない。だから、オリジナルであるジミヘンのギターを聴いても、ふーん、となってしまうんです。だって、彼の作った世界の内側に最初からいるんですから」

「夏目漱石は口語体での小説の草分けで、だから現代の小説家は皆その子孫みたいなもの」

 俺は深く激しく頷く。マスクがズレるから手で戻す。俺は加速する。

「そうなんです。その人以降の全員が影響を受けていて、当然の前提になっている。それがこの二人です」

「分かった、君もそうなりたいんでしょ?」

 全霊のyesを伝えようとした、その手前に、槍を刺すようにおじさんが割って入って来た。

「君たち、ちょっとは進化しなさい」

 俺達の前に立って睥睨しながらはっきりと彼は言い捨てて、停車した扉からプイと出て行った。打ち上げ直後の花火が分厚い鉄板でその進路を遮られた、鈍い音を立てて転がり落ちる。それでも俺は残り火で先輩に囁く。

「世界を変えたいんです、小説で」

 先輩はにっこり微笑むと頷いて、でも俺達はそこから何も喋れなかった。おじさんに言葉を投げ付けられたからじゃなくて、おじさん以外の全ての人々に「進化してない奴」という眼で見られている、たくさんの針の弾丸を浴びせられている、先輩も同じだろう。進化していれば俺達のような行動を取る筈がない。進化していなければ非国民、いや非人類。話に夢中になる直前まで注意していたのに。

 俺達は静かに、進化した人間らしく、駅で別れた。


 乗り換えた電車、溜め息が降り積もったような空間、座席の全員がいじっているスマホはガジェットじゃなくて沈黙を貼り付けるための口の蓋、マスクの上からする蓋。後ろの人に押されるように中程で、吊り革に優しく手を掛けて視線を上げる、中吊り広告。

『学生運動発「進化運動」、その実態の全て』

『「進化運動」は最早、世界人類の基礎か』

 週刊誌も何も、話題が一緒なのはどの時代でも同じだろうけど、コロナが始まってからその画一性に拍車が掛かった。コロナ感染、ワクチン、変異株、集団免疫の破綻、リワクチン、イタチごっこの始まりと続報に次ぐ続報、どこを切ってもそればかりが出て来る。こちらから探せば他の話、ジミヘンとか、だっていくらでもネットには転がっているのに、向こうから来るのは金太郎飴より酷い、ちくわだ。同じで、中身がない。

「そう言う意味では、『進化運動』は中身を提供したのかも知れないな」

 広告にいたそれが、ここに溜まっているのと同じもので、置き去りにして俺は降車する。


 家に着いて、マスクを外す。空気が美味しいのはマスクがないせいだろうか、それとも、マスクがなくても生息が許される区域に入ったからだろうか。

「おかえり」

 ルッコが居間から迎えて、俺は「ただいま」と言いながら手洗いうがいに向かう。鏡に映っているのは確かに俺で、でもここの外で会う全ての人はこの顔を知らない。だったらどっちが俺のアイコンなのか、マスク付きがそうだ。でもルッコにだけは俺は素顔。いつか素顔を知っていることが家族という関係の特徴になるのかな。恋人はセックスをする前にはきっと顔を晒すだろう、多分俺の知らない、二度目の初めましてがそこで生じて、悲恋が生まれる。マスクがどれだけ蔓延はびこっても顔の要らない世界にはきっとならない。また隠す必要のない時代が来る、だけどもう少し急ぎ足で来て欲しい。

「キヨって『進化運動』やってるの?」

「俺はしないよ」

 ルッコがパチクリしてから、ニターっと笑う。

「やっぱりそうなんだ。テレビでやっててさ、でも、行動としては何も変わらないよね?」

 ルッコは俺よりもその運動からの距離が遠いのだろう、それに、テレビを見ても運動の言っていることは分かっても、それが何故流行っているのかは分からない。ネットならもう少し情報が手に入るけど、見分ける力がないと詳しい嘘を覚えるだけになる。

 俺はソファに腰掛けて、通りがてら手に取ったマグカップの液体を飲む。

「これコーヒーじゃん」

 しかめっ面の俺をルッコが嗤う。

「匂いで分かるでしょ?」

 俺は水を注ぎに台所に向かう。裸足の足裏がペタペタと気持ちいい。

「コロナになって、人がストレスを感じたことって何か分かる?」

 ルッコはダイニングの椅子に座って、両腕で頬杖を三角に付きながら、うーん、と視線を泳がせる。

 水を汲んで、俺はルッコの前に座って、喉を鳴らして飲む。ルッコはまだ、うんうん言っている。そんなに難しいだろうか。俺が渡す最後の答えには到達しなくても、ストレスは自分が感じたものを言えばいいだけなのに。

「人と会えないこと。感染するのが怖いこと」

「そうだね。でも今回の答えはそれじゃない。今、ルッコが言ったのは、自分の行動が制限される、と、死の恐怖で、どちらも自分を中心に考えている」

「自分中心で悪かったね」

 俺は、いやいやいや、と笑って、手を振って、ルッコはむくれた顔をして見せる。

「普通だから。自分中心が。で、俺が言いたかったのは、自分中心じゃない不自由さってのが強いストレスだってことなんだ。感染を拡大させないために、『見ず知らずの人のために自分を律する』ことを強要されて生きている。ポイントは見ず知らずってことだ。ルッコだって俺のために自分を律するのは、多少ならいいだろ?」

「まあ、それは、いいけど」

「コロナ以後の五年間、この『見ず知らずの人のため』のが続いている。そう言う集団共通の不満と不安が溜まったときに、新しい思想とかイデオロギーとか宗教とかが台頭する。広まる土壌にその不満の解決法を与える訳だからね」

 ルッコの顔は我が身を振り返っている顔だ。彼女にだってある筈だ、この不満は。俺にだってある。

「それで、運動するの?」

「そう。その穴に解決策を提示したのが『進化運動』なんだ。学生運動から始まって、燎原の火の如く世界中に広がって、webに飛び火して盛大に燃え上がり、ついにメディアがそれに追従と言うより追認して、今日になる」

「何を進化するのよ」

 ルッコは眉を顰めて訝しげな顔をする。確かにそうだ。進化はそもそも世代を跨いでするものだし、この運動名だけじゃ何をしているのかさっぱり分からない。

「新全体主義。平たく言えば、知らない他人のために動く人は、人類が一つであることに啓蒙された進化した人である。そして、それは認識を変えることで誰でも到達出来る」

「何だか気持ち悪いね。因果応報じゃダメなの?」

「別にやることは同じだからいいんだろうけど、今、流行しているのは特に、進化することが出来る、ってところなんだよね、多分。宗教だったら、尽くせば神の子として認められる、ってのと同じかな」

 ルッコはもっと眉を寄せる。一本眉になっちゃうよ。

「何でそんなものが流行るのよ」

「一つは不満を現実的ではないけど非現実な方法でもない手段で解決するから。不満にフィットするとも言える。廉価なのも一役買ってる。解釈の拡大の余地が広いこと。為政者にとっても都合がいいし、今のところ明らかな害もない。後は、流行っているから流行っているんだよ、でも、すごい勢いだから、運動に入っていない方がマイノリティーになる日は近い、いや、もうそうなっているかも知れない」

「私は嫌い。キヨはどう思うの?」

 ルッコの射るような眼。くしゃくしゃの髪を撫でたい。

「俺は個人主義だし、利己主義だよ。それは変わらない。そう簡単に他人の作った思想に染まるかよ」

 ルッコはにんまりと笑って、握手を求めて来るから、応じて、縦に三回大きく振った。進化運動の震源地は日本だと言われているけど定かではない。それはコロナの最初がほぼ武漢であってもそのオリジンが自然のものか人工なのかをもう見分けることが出来ないのと同じだ。もし人為的なら、それをやった人物だけがその事実を知っている。俺達は応じて生きるしかない、原因と直接関われる距離にはいない。

 ルッコが夕食を用意してくれている間にネットニュースの見出しを繰る。

『あなたの大切な人は、他の誰かにとってはどうでもいい人

 逆に、あなたにとってどうでもいい人は、誰かの大切な人』

 それだけなら、進化なんてする必要はない。スマホを置いて、ルッコの背中に話し掛ける。


 満腹になって天井を見上げていたら着信音、知らない番号。

「もしもし、キヨさんですか。俺です、前にお話を伺ったスズキです」

「すいません、前ってどれくらい前で、どんな話ですか?」

「三年前で、コロナで人がどういうストレスを感じるかって、話です。俺は当時大学一年生で、先輩の話って言う座談会の後に、サシで話させて貰ったんです」

 あ、そう言うこともした。

「思い出しました。で、どういったご用件ですか?」

「今日はお礼の電話です。もし差し支えなければ住所を教えて頂ければ、ギフトを届けます」

「差し支えます」

「……本当にありがとうございます。あの時にキヨさんに聞いた『知らない他人のために自分を律する』ストレスがコロナのストレスのメインだと言うことから、全てが始まったんです」

 自分の顔がゴムになったのが分かった。スズキの明るい声が続く。

「そこをカバーする方法もキヨさんは語ってくれました、俺はそれを体系化して、広めたんです」

 息が苦しい。耳の下の方が痛い。背中に汗が吹き出始めている。

「まさか、それは」

「『進化運動』です」

 世界が変わろうとしている。俺の望まない方向へ。でも、その変化の起源は俺、いや、いずれどこかから同じものが生まれただろう、でも、俺。俺は世界を変えたいとずっとずっと胸に抱えていた。でもそれはこう言うことじゃない。小説で変えたいって思うんだ。俺より後の全ての人が俺の作品群に影響を受けて、もう、当たり前の前提になって。世界が「進化運動」に呑まれてゆく。それが人類にとって好ましい変化なのかそうでないのかは判別出来ない。でも変化ってそう言うものだ。ジミヘンだって夏目漱石だって、それが好ましいかなんて分からない。ただ新しくて、素晴らしいと思う人がいて、影響した、それだけなんだ。俺はそうなりたい。運動の根っ子に俺が居たって、俺は拡散なんてしてない。

「キヨさん。俺と一緒に運動をしませんか?」

「本当に俺の話からなのか?」

「間違いなく。始祖はあなたです」

「すまない。俺は運動をする資格はない、ですよ。さようなら」

 染める元の元がその色に向かないことを彼は不服だろうか。物語の原点は同じ色じゃないといけないと押し付けて来るだろうか。突如俺を誘うのが気紛れな筈はない。それとも、たまたま思い出したから声を掛けてみたのだろうか。俺は進化運動には染まらない。最初の場所が最後まで余白であったっていい。俺がやりたいことはそれじゃない。俺は作品を作るんだ。俺は世界を変えるんだ。

 ノックをして入ってきたルッコが、何も言わないで俺の頭を撫でた。


(了)

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染めたところと余白 真花 @kawapsyc

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