第6話 兄弟の感情に除数なし

生を受けて5年、私は数えで6歳になった。

去年は読み書きに精を出したお陰で、たくさんの写本しゃほんが出来た。

余った写本は売ってもらって小金を稼いでいる。


紅葉と空が朱く染まった夕焼けの頃、父からの文と本が部屋に届けられた。

電気のないこの世では夜にゆっくり読むということは出来ない。

日が暮れる前にと、急いで文を開いた。


『瀬名、息災か。以前欲しがっていた算術書を京で見つけたので送っておいた。あと、其方の話を幕府でしていたら、細川ほそかわ殿が興味を持って下さった。正長が一度駿河に帰る故、今度共に京に来ると良い。』


「細川…?細川幽斎ほそかわゆうさいとか?まさかね…。それより京都か…。なつかしいなぁ。」


京都は旅行で何度か行ったことがある。

京野菜におばんざいに湯葉に抹茶、鱧や肉も美味しかった。

思い出すだけで涎が出そうなので、文を汚す前に返事を書く。


『瀬名は息災です。先日は京から算術書を送って頂き、ありがたく存じます。次は医学書をお願いします。京、行ってみたいです。ついでに堺も。兄上が帰ってくるのを首を長くして待っております。』


したためた文を乾かすように床に置き、さっそく送ってもらった『九章きゅうしょう算術さんじゅつ』を開いた。


今有田いまたあり廣十五歩よこじゅうごほ縱十六歩たてじゅうろくほとうた為田をなすこと幾何いくなんぞ…。」


さっそく問題を写し始めた。

漢文に漢数字だと個人的に分かりにくいので全部日本語訳とアラビア数字に変える。


「15×16=240。ん?苳曰一畝こたえいわくひとうねなるほど、1うねが240歩。除数になるのか。これで田畑を図るんだね。なるほど。」


『九章算術』には面積の計算、比例、測量、租税などの計算法が書いてある。

第一巻の方田ほうでんの翻訳と写し書きが終わる頃には夜の帳が下りていた。


夕食の時間になる頃なので、摩耶まやと二人で家族の元に向かう。

先に母と兄の鵜路丸うじまるが座って団欒をしていた。

私が兄の隣に座ると、食事が運ばれてきたのでみんなで頂く。


「瀬名は夕方は何をしていたの?姿が見えなかった様だけど。」


「部屋で算術書を読んでおりました。」


今日の献立は玄米と味噌汁と糠漬けと魚の煮物である。

噛んでいた漬物を飲み込んでから私は母からの質問に答えた。


「まあ。四書五経ししょごきょうを覚えていると思ったら、また新しい本に手を出したのね。瀬名には驚くことばかりだわ。」


母が私を感心すると、横にいた鵜路丸が箸を置き、ハイハイ!と大きく手を挙げる。


「うじ丸はすもうをしたぞ!村のガキ大将に勝ったのだ!竹馬もなんと三十歩も歩けたのだぞ!」


数え8歳の兄は、その年に相応しくワンパクな遊びをしていた。

母に褒めて欲しそうに大きな声を出して目を見つめている。


「それは良かったわね。鵜路丸は囲碁いご蹴鞠けまりは興味ない?出来る様になれば龍王丸たつおうまる様が喜ぶわ。」


「……。」


しかし母は特に褒めるでもなく、新しい習い事の話をし始めた。

鵜路丸の顔が曇っていくのが分かるが、母は気づかずに龍王丸様や今川家の話を続けていた。


食事が終わって、私は母に手紙の返事を渡そうと差し出した。


「父上へのお返しの文を書きました。母上の文と一緒に出して頂けますか?」


「今日渡したばかりなのにもう書いたのね。同封しておくわ。」


私と母のやりとりを見た鵜路丸が目を丸くしている。

眉を顰めたその顔をみて、私はしまったと思った時にはもう遅かった。


「文…?せなは父上から文をいただいたのか?」


「ええ…本を頼んでいたので…。」


「うじ丸はもらったことないのに!何ゆえせなだけ!」


溜まっていた鬱憤を吐き出す様に、私を睨みつけ、怒声を投げつけてくる。


「…たいした文ではありませぬ。」


「ならば見せてみよ!早く!」


鵜路丸につかみかかられて、思わず懐にしまっていた父からの文を差し出した。

開いて読もうとしているが、多分何が書いてあるのか分からないのだろう。

何度も目を動かした後、耳を朱くして、口を曲げた。


「……。いつも…せなだけ…すごいすごいとはやしたてられる…。母上も、父上も、せなだけをみておる…。うじ丸のことはだれも見てはくれぬ…!」


ビリッ…!


泣きそうになりながら鵜路丸は私の文を破った。

怒りと悲しみでどうしようもなくなった感情をぶつける様に、何度も細かく破った。


「うじ丸はそなたが嫌いじゃ!!ほしいものを全部うばっていく…!」


大量の涙と共に言葉が溢れ出す。


「…せなが…生まれなければ良かったのに…っ!!」


「…鵜路丸っ!!」


母が声を荒げて頬を叩こうとするが、鵜路丸はそれをかわして走って部屋から出て行った。侍従の男が一人、後を追う。


静寂が部屋を包み、暗い部屋の明かりだけがゆらゆらと揺れていた。


「母上、兄上を追いかけてはくださいませんか?」


「鵜路丸には貞国さだくにがついているじゃない。それに…あの子は言ってはいけない事を言ったのよ。」


「幼くして、年下の妹と能力を比べられたら言いたくもなります。傷ついているのは私ではなく、兄上です。」


「でも…其方が一人に…。」


「摩耶もおります。兄上が求めているのは母上です。お願いですから、行ってくださいませ。」


「…すまぬ。瀬名は部屋に戻ると良いわ。」


母が去るのを見送ってから、私は深く息を吐いて、お茶をすすった。

後からじわじわと兄の言葉が胸に染み込んできた。


「……嫌われちゃった。」


「………。」


一人っ子だった私には、憧れだった兄妹。

部屋は別で接点は少なかったが、いつか仲良くなりたかった。


「……失敗した。…可愛い妹になれなかった…。」


兄に存在を否定する言葉を言わせたのは私である。

後悔と悲しみが胸に広がり、小袖こそでの膝に滲みが増えていった。


「…瀬名姫様は可愛いです。好奇心旺盛な所も、家族やお偉い方には背伸びをしてしまう所も。」


涙が止まらない私の手を摩耶が握っていた。


「あと、頭の中で考えている事をつい呟いてしまう所も、集中したら時間を忘れてしまう所も愛らしいです。まだまだありますよ?」


「摩耶…。」


摩耶は目を細めて、私を慈しむ様に笑いかけた。


「能力の優劣ではございませぬ。摩耶は瀬名様の心根をお慕いしております。」


心のダムが決壊し、涙と一緒に感情が溢れ出した。

この世界に生まれてしまった孤独も、溶けていくような気がした。


「…私も、摩耶のこと…好き…っ。」


ヒック、ヒックとしゃくりながら、摩耶の胸に顔を埋めた。


「ずっと一緒にいてくれる?」


「ええ、瀬名姫様のお側にいます。ずっと。」


その日は二人で手を繋いで部屋に帰った。

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