第1話 赤子の未来
春の木漏れ日と風が心地よい昼下がり。
「
「
「嫁いだ後もずっと気にかけてくれるんだもの。恐れ多いわ。」
太守様とは私が意識を取り戻した時に目の前にいた美男である。両親の会話を聞いてその太守様が今川義元ということがわかった。
あれから一月がたっていた。ドラマでも夢でもないことを理解するには十分な日が過ぎていた。
母は
私達家族が住んでいるのは
私は数えで2歳らしい。前世の記憶を持ったまま赤ちゃんとして生まれ変わったようだ。つかまり立ちなら何とかできるようになったが、言葉はまだ明瞭ではない。
この一ヶ月、とにかく泣いてばかりだった。死んでしまったという現実を受け入れられず、新しい環境にも馴染めず、思い通りに動かせない身体や口に苛立ちと悲しみが襲った。
残していった家族は大丈夫だろうか。何一つ親孝行出来なかった。もっと実家に帰れば良かった。仕事も残したまま。見たかった映画も見れてない。
生き返らせてくれと何度願っても、変わらないこの赤子の身体だけがここにあった。
乳母の乳を咥えさせられ、お尻をごしごし拭かれ、背中を叩かれ、ハイハイで城を駆け巡り、毎日泣き疲れた頃にようやく諦めがついた。ここで生きていくしかないのだと。
推定1歳の私にできることは少ない。今はこの世界を少しでも知るためにハイハイしながらいろんな人達の会話を聞き回ることにした。
「
「はい。
「ああ。」
私の父の名前は
母が嫁に来て一番上の兄、正長を産んだのは12歳らしい。小学生じゃないか。教育委員会も真っ青だよ。
父はいつも祖父の政興と一緒に動いていることが多い。次期当主として現関口家当主の祖父から学んでいる最中みたいだ。
庭の方に移動すると、兄の正長が剣の師範と稽古をしていた。
「正長様、腰が入っておりませぬ。もう少し顎を下げて、上半身がぶれないようにしてくださいませ。」
「……こうか?」
「左腰が前に出ておりませぬ。手で打たずに、足で打つのです!」
「…わかった!」
正長が木刀で振りかぶるたび、いなされて姿勢を正されている。12歳になり元服したばかりの兄は気合が入っているのか、めげずに何度も打ち込んでいた。
まだ小学生の年なのに、この時代ではもう成人扱いなのがびっくりだ。
「お姫様!瀬名姫様!ご飯の時間ですよ!」
あちこちをハイハイしているところを乳母に捕まえられてしまった。手慣れた様子で抱き寄せて乳を与えようとしてくる。
「…うーっ!」
「瀬名姫様。ちゃんと乳を飲まねば大きくなれません!」
もうそろそろ乳離れしたい私は必死で抵抗して乳母の手から抜けた。そして全速力でハイハイ。いい匂いのする部屋へと突っ込んでいった。
そこでは母と2番目の兄、鵜路丸が炊き立てのご飯を食べていた。私はその膳を奪って両手でお米を口にかきこんだ。
喉に詰まらないように、しっかりと口の中で柔らかくしてから飲み込んでいく。追いついた乳母は私の姿を見て顔色が蒼白になった。
「名奈様!ご容赦くださいませ!すぐに瀬名姫様を連れて帰ります…!」
「いえ、こんなに喜んで食べてるのだから無理に連れては可哀想よ。今後、食事を共にするのも良いのではないかしら。」
「んー!うー!」
「あら、瀬名は一緒に食べたかったのね。これは其方に渡しましょう。鵜路丸に新しいものをお願い。」
母は鵜路兄の膳を私に下げ渡すと、侍従に指示を出してニコニコと私の頭を撫でた。
私が嬉しそうに手をあげて喜ぶと、乳母は仕方がなさそうに私の側について食事を柔らかくしながら口に運んでくれた。
私は
「名奈様、
「松平家と織田家の事ね。また戦の準備をしていると聞いたわ。今川家から井伊家には要請はないでしょうけど、仔細を伝えておきましょうか。」
「膳を下げ次第、筆を用意致しますか?」
「いいえ、氏興様が帰ってきてからで良いわ。」
「かしこまりました。」
モグモグと食べながら母と侍従の会話を聞いていた。今川家、織田家などの有名な戦国大名の名前が飛び出てくる。もしかしたらいつか
他人事のように聞いていた私だったが、ふと手と口が止まった。
「瀬名姫様、もうよろしいのですか?」
頭の中で昔の記憶が駆け巡る。漫画やゲームに出ていた織田信長、徳川家康、今川義元。そして、戦国の世に翻弄される姫たち。映像と情報が波のように押し寄せる中に「瀬名」という名前が引っかかった。
知ってる。
今川義元の姪だ。
知ってる。
徳川家康の妻だ。
知ってる。
信長の命で……
全身に鳥肌が立ち、顔から血の気が引いていく。
ただ、戦国時代に生まれただけではなかった。私の運命は決まってしまっていた。
(いやだ…。)
「うあ…。」
「瀬名姫様、もう片付けますね。」
(いやだ…!)
「いあ!!」
「あら、首を横に振るなんて、まだ食べたかったのですか?」
(死にたくない!)
「うー。」
「泣きながら食べなくてもよろしいのに…。」
私は涙をほろほろと零しながら、粥状になった米を食らっていた。生きたいという本能だった。
空になるまで必死に食べると、乳母が苦笑いをしながら涙を拭ってくれた。母もこちらを見て微笑んでいる。
「良くぞ食べました。瀬名はきっと丈夫に育つわ。」
「あう。」
好きな人と結婚して、子供を産んで、家族に囲まれて往生する。そんな夢があった。
叶う前に死んでしまった。
次こそは叶えたい。生きたい。悔いのない人生を送りたい。子供と一緒に殺される未来なんて御免だ。
「瀬名」として死ぬ運命が決まっているのなら、全部塗り替えてやる。
家族団欒の中、強く、心に誓う。
慈愛に満ちた目で私を見つめる母に這い寄り、着物の裾をぎゅっと握った。
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