食品と雑貨はお分けしますか

砂村かいり

食品と雑貨はお分けしますか

「しょくひんざっかはおわけしますか」


 よどみない手つきで商品のバーコードをスキャンしてゆく白衣の店員の言葉にとっさにリアクションできなかったのは、その言葉が聞き取れなかったからではない。

 けれど彼はわたしの無反応を別の意味に理解して、

「こちら、食品と雑貨は袋をお分けしますか」

 と丁寧に言い直した。

「あっはい、あ……いや、いいです一緒で大丈夫です」

 慌てておかしな返事をしながら、わたしは店員の胸に取りつけられたネームバッヂを確認する。

 ――ああ、やっぱり。動悸が早くなってゆく。

「3点で合計2,780円になります。ポイントのご利用はよろしかったですか」

「あの……浦野くん?」

 おそるおそる声をかけると、彼は初めてわたしの顔を直視した。

 昔と変わらない素朴な顔に、みるみる驚きが広がってゆく。


 浦野くんは、高1のときの同級生だ。

 けっして目立つタイプでも目立とうとするタイプでもなく、疎まれず特別な注目もされず、休み時間には耳からイヤホンのコードを垂らして机で寝ているようなマイペースな男の子だった。

 男子バレー部に所属していて、男子からも女子からも「ウラヌス」というあだ名で呼ばれていたのをよく覚えている。

 わたしにとっても何か特別な意味を持つ男の子ではなかった。

 あんなことが起きるまでは。


「安池は変わってないね」

 わたしの後ろに並んでいたお客が隣のレジに立つのを確認しながら、浦野くんは業務用のトーンを保ったままわたしの名前を口にした。

「……もう安池じゃないんだ」

 慎重に距離感を探りながら応えると、浦野くんは今まさに袋詰めをしている自分の手元を見下ろし、ようやく顔の強張りを解いてうっすらと微笑んだ。

 母乳パッドに、離乳食のレトルトパック、ベビーローション。

 まだふたりめの子の離乳も終わらない中で家計のために始めたパートの帰り、日用品やベビー用品の安いこのドラッグストアに立ち寄るのは最近できた習慣だった。

「そっか……お母さんなんだね」

「そ、そっちは?」

「3人いる」

「わ……」

 当時と変わらぬひょろりとした背丈に白衣をまとった姿はたしかにずいぶん大人びて見え、眩しいくらいの社会性を放っていた。けれど、彼が誰かの夫であり父親であるという事実はなんだか現実味が希薄だった。

 商品の詰まったグレーのレジ袋を受け取りながら、わたしは昔の同級生の左手の甲にそっと視線を走らせた。

 どきりとする。

 そこにはやはり、あるかなきかの赤い線がうっすらと浮かんでいた。


 胸の内側にこびりついて剥がれない苦い記憶というのは、誰にでもあるのだろうか。

 高1の3学期の、美術の時間だった。からりとした冬晴れの空が校舎の上に広がっていた。

 芸術の授業は選択制になっていて、美術か音楽か書道かを各自選び、隣のクラスの生徒とジョイントで行われた。わたしは中学時代に美術部員だったこともあり、ほとんど何も考えずに美術を選択していた。

 その日は「鳥を彫る」というテーマで、配られた木片を彫刻刀で各自好きな鳥の形に彫り抜く授業だった。

 初老の美術教師は求心力に欠けるタイプだったので、みんなぺちゃくちゃと雑談をしながら彫刻刀を動かしていた。席を立って人の作業を見に行っても、そのままそこに居座って騒いでいても、注意を受けることはなかった。

 わたしももれなく友達と芸能人の話などをしながら作業していた。内申に大きく響くような科目でもなかったし、あと数日で春休みだったから、浮ついた空気が絵の具のにおいと混ざり合って美術室を包みこんでいた。


 惰性で作業していたわりに、わたしの木片は意外にリアルなキツツキの形に整ってきた。

 羽の重なりのこんもりとした具合が特に気に入って、わたしは木屑にふーっと息を吹きかけた。

 窓から差しこむ晩冬の光の中に木屑ははらはらと舞い、わたしは束の間うっとりと自分の作品に見惚れた。


「安池、何彫ってんの」

 肩越しに男子の声がした。腐れ縁の幼なじみ、原田の声だ。隣のクラスだけれど、美術選択者なのでこの時間だけはクラスメイトみたいなものだった。

「そっちこそ」

 彫刻刀を手にしたまま、わたしは勢いよく振り向いた。原田の隣にもうひとり立っているのに気づくのが、ワンテンポ遅れた。

「――いっ」

 低い声で呻き、手の甲を押さえたのは浦野くんだった。その指の間から鮮血が滴るのを、わたしは呆然と見た。

「ウラヌス!」

「血、血が出てる」

 みんなのどよめき。血相を変えて飛んでくる教師。視界に映る鮮やかな赤。

 凍りついたようにその場から動けなかった。

 刃先が人の肉にめりこむ嫌な感触が、いつまでも自分の手に残り続けていた。


 包帯でぐるぐる巻きになった浦野くんの左手は、わたしの胸をひどく締めつけた。

「浦野くんごめんね、ほんとに」

「全然たいしたことないから」

 何度謝っても、浦野くんは涼しい顔をするだけだった。怪我のない右手をひらひらと振って、くるりと背を向けてしまう。「神経には達してないって話だよ」と担任からは聞いたけれど、気が気ではなかった。

 親にも相談し(めちゃくちゃ怒られた)、お小遣いをかき集めて用意したお金を渡そうとしても、彼は頑なに受け取らなかった。クラス名簿を見て自宅に電話をしても、取り次いでもらえなかった。

 そのことは余計にわたしを苦しめた。せめて、正面から糾弾してくれればいいのに。わたしをきちんと悪者にしてほしいのに。

 親と連名で謝罪文を書き、菓子折りを持って浦野くんの家に謝罪に行こうと思いついたときには、春休みに入ってしまっていた。なんとなくうやむやのまま新学年を迎え、理系の浦野くんと文系のわたしはクラスが別れた。

 胸を痛めつつも、心のどこかでほっとしている自分がいた。そんな自分がまた嫌になった。それでも、もう無理に探さなくていい理由を手にしたわたしはそこに安住したのだ。

 謝罪文だけは封筒に入れて投函したものの、きちんと彼の手に届いたのかどうかは確かめようがなかった。


「そういやあいつ、バレー部辞めたんだよ」

 原田が突然わたしに明かしたのは、あの苦い事件からずいぶん経ってからのことだった。夏期講習の帰りにばったり会い、駅ビルの31アイスクリームに寄り道して、ラムレーズンのアイスを舐めていたときだった。

「あいつって……」

「ウラヌス」

 ずきん。心臓が飛び跳ねた。

 そうだ、あの日彼らが一緒にいたのは同じ部活の仲間だったからなのだ。

「学業に身を入れるためとか言ってたけど、まあどう考えても怪我のせいだよね。傷、結構深かったみたいだし」

「……」

 鼓動が早くなった。思考が散らかり、急速に口の中が乾いてゆく。

 自分はやはり取り返しのつかないことをしたのだ。生傷を撫でられた痛みで心臓がひりひりした。

「まあ、安池のせいじゃないよ。むしろ俺だよな。あいつ変なとこ潔癖で、ちっとも謝らせてくんねーけど」

「そんな」

「あいつどうせ補欠だったし。でもな、小学の卒業文集には『将来の夢』のとこに『バレーボール選手』って書いてたらしいんだよね」


 謝りたい。謝りたい。今度こそ、ちゃんと。

 離れたクラスの男子をつかまえて個人的に話をするのは、至難の技だった。J組のわたしが勇気をかき集めてC組の浦野くんを訪れても、浦野くんはいつも教室にいなかった。チャイムが鳴る1分前まで待ってはダッシュで教室へ戻る日々が続いた。

 まちぶせしていると、C組の人たちは不躾な視線をわたしに浴びせ、一部は「なになに、告白でもするの〜?」とからかった。

 まだ携帯電話が一般に普及し始めたばかりで、他社の携帯ユーザーにメールを送ることもできない時代だった。原田でさえ浦野くんとはメールし合う仲ではなく、彼とつながる術を失ったわたしの心はとうとう折れた。

 そもそも、どうして謝りたいのだろう? 自分が彼に気持ちを押しつけてすっきりしたいから? だとしたら、なんて傲慢なんだろう。まぶたの奥に鮮血の赤がちらつき、わたしをさいなんだ。

 答えの出ない問いをクローズして、逃げるように受験勉強に没入していった。

 皮肉なことに、謝罪を諦めてからというもの、たびたび廊下で浦野くんとすれ違った。それでもわたしは、目を合わせなかった。通りすぎたあとで、膝が震えた。


 ――それなのに、20年も経ってこんなところで再会するなんて。

「メディカル系の大学に進んだって聞いてはいたけど、本当に薬剤師さんになったんだね」

「おかげさまで」

 白衣姿の浦野くんは穏やかに微笑む。わたしの視線の先を目で追って、左手の甲を白衣の袖にさりげなく引っこめた。ちりちりと胸が痛んだ。

「あの、あのね」

 レジの上に置かれた袋の持ち手をぎゅっと握りながら、わたしは20年間凍結させていた言葉を井戸の底から引き上げた。隣のレジに立つ店員の視線を気にしつつ、震える声を押しだす。

「あのとき、怪我をさせて本当にごめんなさい。バレー部辞めることになっただなんて知らなくて、そんなに傷が深かったなんて、あのときもっとちゃんと」

「いいから、まじで」

 穏やかな顔のまま浦野くんは遮った。

「でも、言わせて」

「嬉しかったんだ」

「え?」

「ずっと気になってた子と関わりが持てて、実はちょっと嬉しかったんだ。いざ関わってみたら死ぬほど照れくさくて、結局逃げ回っちゃったけど」

 ――それって。

 あの日と同じように身動きのできなくなったわたしをそのままに、次のお客さまあ、と浦野くんは声を張り上げた。わたしは慌ててレジを離れた。

「食品と雑貨はお分けしますか」

 業務モードに戻った同級生の耳がほんのり赤く染まっているのを見ながら、呆然と店を出た。


 母乳パッド。離乳食のレトルトパック。ベビーローション。

 夕闇の下、浦野くんが詰めてくれたレジ袋を自転車の前かごに入れ、ペダルに足を乗せた。子どもたちが保育園で仕事帰りのわたしを待っている。その前にスーパーに寄って食料品も買わなければならない。

 まだ授乳中の身なので、6時間も乳児と離れているときりきりと乳腺が張ってくる。痛い。それでも、心の痛みよりはましだった。

「う────っ」

 体の深いところから声が漏れた。あの日のような冬晴れの空の下、川沿いの道をぐんぐん走りながら、わたしは呻いた。

 かたかた。かたかた。振動で前かごのレジ袋が鳴り、両胸はますますきりきりと張ってゆく。

 向かい風にさらした頰を、気づけば涙が伝っていた。

「ううううううううう」

 低い呻きは川風にさらわれて後方へ飛び去り、わたしはペダルを漕ぐ足に力をこめる。

 ぐしゃぐしゃな顔とは裏腹に妙に気分は軽く、このままどこまででも走っていけそうな気がした。

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