第六話「伯爵の気遣い」
軽やかな小鳥の
それでも未だ微睡みは手を離してはくれず。ならばとそれに身を委ねて、ぼんやりとした意識の中を揺蕩うのだ。
――ああ、私。何をしていたんだっけ。
やがて訪れる、微睡みの往生。
白い瞼がゆっくりと開かれて、薔薇柘榴石がその身を覗かせた。重たげに瞬きを繰り返しながら天井を見つめれば、次第に意識は鮮明となって。
――鼻腔をくすぐる、この消毒液の匂いはなんだっただろうか。
面前に広がる、この見慣れない白い天井は何だっただろうか――
「……っ、お、起きなきゃ!」
何もかもを理解すると、フェエルは勢いよく飛び起きたのだった。
第六話「伯爵の気遣い」
「ええと……」
きょろきょろと辺りを見回すたびに、乳白色の髪がふわふわと揺れる。
時刻は朝の六時半を過ぎた頃。ロックに朝の挨拶をするべく、身支度を済ませて自室を飛び出したフェエル。装いもあの幻想的なワンピースへと変え、彼女の胸元では翆玉が光を浴びてきらきらと輝いていた。
「ロックさまのお部屋……」
まだ見慣れない室内に目を配らせながら廊下を進む。時折、白い壁に張られた木製の扉を前にしては、一度立ち止まる。
目指すのは、ロックの自室だ。昨夜限りの微かな記憶を懸命に思い起こして、いやこの部屋ではないはず、この部屋も違うようなと悩んでは、尾を引かれながら通り過ぎる――
そんなことを三度ほど繰り返して辿り着いた、それらしい部屋の前。他の部屋の扉と変わらず特に目印もないが、フェエルの記憶の中では、確かここだったはず。
胸に手を当てて、一度ばかり深呼吸する。妙な緊張感を携え、「よし」と一言踏ん切りをつければ、小刻みに三回扉をノックした。
「はーいどうぞー」
扉越しに聞こえたそれは、紛れもなくロックの声だった。その間延びした声を聞くや否や、フェエルは安堵からほっと息を吐く。
「失礼します」扉を開いた先には、チェアに腰掛けながらなにやら書類に目を通していたらしいロックの姿があった。
書類から顔を上げて振り返るロック。フェエルの姿を視界に捉えれば、途端に手に持っていた書類をデスクの上に置き、立ち上がる。足早に彼女の側へと立ち寄る彼の表情は、いつも通りの笑顔だ。
「おはようフェエルちゃん。今朝はよく眠れた?」
「おはようございます。思っていた以上に疲れていたようで、ぐっすりと眠ってしまいました」
「そっかそっか」
微笑みを
「あさ、ごはん……」瞳を瞬いて小さく呟く彼女に「昨日から何も食べてないでしょ?」と続ける彼は、フェエルの返事を待たなかった。
「今用意するから、ちょっと待ってて」そう言い、今にも自室を出ようとするものだから、見兼ねた彼女も「あ、あの!」と声を張り上げて呼び止める。
ロックが振り向いた先、赤紫色の瞳がじっとこちらを見つめていた。
「私も、お手伝いしたいです! ……といっても、お料理のことも何もわかりませんが」
精一杯張り上げた声が、二言目には消沈した。そのまま伏目がちに申し訳なく佇むしおらしい彼女の姿に、ロックも思わずくすりと笑みをこぼして。
彼女の愛らしさにつられて細められた黒い瞳は、穏やかなまま。
「じゃあ、一緒に作ろっか」
その一言に、薔薇柘榴石は嬉々としてその身を輝かせるのだった。
がちゃりと冷蔵庫の扉が開かれて、その中身を黒い瞳が吟味する。
卵、バター、ベーコン、牛乳、炭酸飲料の入ったペットボトル、ケチャップ……一通り確認し、続いて野菜室に目を配れば、レタス一玉とトマトが二つ。
「……うーん」
あまり豊富とは言えない中身に唸りつつも、一度冷蔵庫の扉を閉め、今ある材料から作れるであろう料理を模索する。
ベーコンエッグ? サラダ? 考えられるのはそんなものだが、自分とゼクスだけが食べるのならともかく、人に振る舞うのであればもう少しきちんとした食事を提供するべきでは――そう思考しながら、何気なしにブレッドケースを開けば。
「おお」
そこには、
「これなら、サンドイッチくらいは作れるね」
うんうんと満足気に頷いた彼は、言い終えると自身の長い黒髪をすくい上げ、慣れた手つきで一つに結う。その様子を不思議そうに見つめる薔薇柘榴石の存在に気付けば、「フェエルちゃんも結ぼっか」と目を細め、
「髪、触ってもいい?」
「は、はいっ」
口元に柔らかく弧を描いて、彼女のふわふわとした髪に手を伸ばした。
彼の長い指が、フェエルの髪を梳いていく。その優しい手つきに、妙なくすぐったさと恥ずかしさを覚えながらも、彼女は何を言うわけでもなく、ただじっとそれが終わることを待つ。
「こんなものかな」
やがて解放されたものの、フェエルは未だ不思議そうに瞬きを繰り返すばかり。ああ、と気付いてロックが手鏡を持ってくれば、彼女に手渡して覗くように促した。
「ほら、見てみて」
言われて鏡を覗きこみ、ぱちぱちと瞬きながら鏡に映る自分を見る。
「わあ……」いつもとは異なる髪型の自分が見慣れなかったのか、彼女は小さく声を漏らして目を見張った。物珍しそうに鏡を傾けては様々な角度から観察したり、小さく頭を振っては、いつもとは異なる髪の動きを楽しんだり。
「お揃いだね」
そんな呟きに顔を上げれば、にっこりと微笑んでこちらを見つめるロックがいる。
「おそろい……」その言葉の意味を理解すると、フェエルもまた、綻ぶような笑みを見せた。
冷蔵庫から取り出され、調理台へと並べられた食材たち。それを物珍しそうに眺めるフェエルの瞳は、どこかきらきらと輝いているようにも見えた。
「私は、何をすればいいですか?」
首をかしげて尋ねる彼女に、「それじゃあ、野菜を水洗いしてもらおうかな」と答えるロック。彼がボウルに入ったレタスとトマトを見やると、フェエルも追うようにそれに目を向ける。
「わかりました、がんばります!」
大げさに意気込んでみせれば、さっそく小さな手で蛇口を捻り、慣れない手つきでトマトを流水に晒していく。
そんな彼女の姿を横目に。ロックはフライパンをコンロの上に置き、つまみを回して点火する。手をかざしてフライパンが温まったことを確認すると、油を引いてベーコンを並べていく。
じゅううと食欲のそそる音は、次第にぱちぱち油が跳ねる音と協奏する。香ばしい匂いが鼻孔をくすぐり、余計に空腹を刺激した。
「いい匂いですね~……」
レタスを水洗いしていたフェエルが穏やかに呟く。それを横目にくすりと微笑めば、焼きあがったベーコンを器に移して、次なるスクランブルエッグ作りのためにボウルと卵を用意する。
こん、と調理台の角に打ち付けて殻に
「フェエルちゃんもやる?」
そう尋ねると、大きく頷いてみせた。
年頃の女の子らしい小さな手で、卵を手に取る。先ほどのロックの動作を真似して殻に
見兼ねたロックが、フェエルの手の上に自身の手を重ね、軽く握る。そのまま卵を調理台の角に打ち付ければ、今度は殻に
「あ、ありがとうございます」「いえいえ」ロックの手が離れると、卵を両手で持ち、殻の割れ目に両手の親指を入れて、ゆっくりと左右に開く。とぷん、と小さく音を立てて、その中身がボウルの中へと落ちていった。
「いい感じだね」と話すロックに、照れくさそうにはにかむフェエル。卵白の海に四つの黄身が浮かぶボウルの中、ロックは塩胡椒を加えると「じゃあ、今度はこれを使ってかき混ぜてもらおうかな」と泡立て器をフェエルに差し出すものの、受け取った当の本人は怪訝な表情で。
「……もしかして、使い方がわからない?」
こくりと小さく頷く目の前の少女。
「なるほど、文化の違いか……」とひとりでに納得したロックはそれならばと、先ほどのように泡立て器を握る彼女の手の上に自身の手を重ねる。空いたもう片方の手でボウルを抑えて、卵白と卵黄たちの中に泡立て器の先端を落とし、かしゃかしゃとかき混ぜる。
混ざり合う橙と透明を見ながら、「こうやって使うんですね」と感嘆するフェエル。そのまま三十秒ほど混ぜれば動きを止めて、「そろそろいいかな」とロックはフェエルの手から自身の手を放し、卵液の入ったボウルを回収する。
「では、次はこれでスクランブルエッグを作ります」
ロックは言うと、再びフライパンを火にかけ、そこに卵液を流し入れた。そのまま数秒待てば、木べらを用いて手早く卵液を混ぜていく。
「……兄貴が料理してる……」
不意に背後から聞こえた声に、卵液を混ぜる手を止める。振り向いた先には、呆然と佇むゼクスの姿があった。
「ああ。おはよう、ゼクス」
気付いてにこやかな笑みを向けるロック。そんな彼の挨拶に対して「……おう」と返された彼女の声は、寝起きゆえか掠れていた。
「ぜ、ゼクスさま、おはようございますっ。あの、私」
そんな彼女に、ぱたぱたとフェエルが駆け寄る。たどたどしい上に忙しないフェエルに一瞬ばかりきょとんとしてみせたゼクスだったが、「フェエルだろ、兄貴から話聞いてる」と冷静に返しては、「ま、よろしくな」と軽く初対面を果たしていく。
それに対して嬉しそうに「はいっ、よろしくおねがいします!」と返したフェエルからは顔を背けるあたり、ゼクスはやはりシャイなのだった。
「ゼクスも朝ごはん食べるよね? もうすぐできるから、座って待ってて」
「おう」
そう促されれば彼女は短く返事をして、食卓テーブルを囲む椅子を一つばかり引き、それに腰を下ろす。頬杖をついては、再びロックの元へと戻るフェエルの姿をじっと眺めた。
「……まあ、見た感じ害はなさそうだな」
昨夜のロックとの会話を思い出しながら、小さく呟く。
『フェエルちゃん、さ』
『多分だけど……この街の人間じゃない』
『普通の人間には、縫い目を超えることはできない。縫い目を超えることができるのは、特定の条件を満たす者だけ……』
「なんにせよ、これ以上厄介なことにならなきゃいいんだけど」
ゼクスの視界に映るフェエルの姿は、ただの愛らしい少女にしか見えない。ただ、目に見えているものだけが、すべてではない。いくら彼女に悪意がなくとも、縫い目を超えたという事実だけでイレギュラーな存在であることに間違いはなく。
だからこそ、杞憂せずにはいられない。目の前にいる少女のことを
「はい。どうぞ召し上がれ」
思考に
顔を上げれば、にこやかな笑顔を浮かべたロックが、サンドイッチを乗せた大皿をテーブルの上へと置いていた。
「私、もうおなかぺこぺこです」そう言いながら、フェエルがゼクスの向かいに用意された椅子へと腰掛ける。そんな彼女に「昨日から何も食べてないもんね」と苦笑しつつも、ロックが「遠慮せずに食べてね」と続けた。
「それでは、いただきます」
両手を合わせて唱えれば、フェエルが大皿からサンドイッチを一つ手に取り、口に運ぶ。
その様子を眺めながら、ゼクスもまた大皿からサンドイッチを一つ取り、眼前に運んではまじまじと見つめる。
綺麗に揃えられた切り口からは、色鮮やかな具材たちが覗いていた。特に黄金の彩を見せるスクランブルエッグは厚みがあり、少しばかり贅沢感を覚えさせる。
「……んんーっ、とても美味しいです……!」
嬉々として声を上げるフェエルに視線を戻せば、それはそれは美味しそうに表情を綻ばせていた。
それに「あはは、それはよかったよ」と笑ってみせたロックが、今度はゼクスの方を見やる。その眼差しには、どこか期待を孕んでいるようで。
ぎょっとしつつも、ゼクスも見兼ねてゆっくりとサンドイッチにかぶりついた。そのままもぐもぐと咀嚼して、サンドイッチを堪能する。
スクランブルエッグは塩気と甘みの塩梅が程よく、ふわふわと柔らかかった。カリッと焼き上げたベーコンも香ばしく、脂身のくどさはトマトの瑞々しさによって中和される。青々としたレタスも、しゃきっとした食感が非常に心地よい。
「……ん、美味い」
飲み込んで、何気なく呟く。
彼女のただその一言で「よかった」と嬉しそうにロックがはにかんでくれるものだから、なんだか照れくさくなって。
ゼクスは、まるで誤魔化すように二口目へと急いだ。
「ロックさまも、一緒に食べましょう? 美味しいですよ」
「ね?」と提案するフェエルに、「それじゃあ、僕も一つ食べようかな」と一つ手を伸ばし、口に運ぶ。
そのまま咀嚼を続けるロックを、フェエルはただじっと見つめる。次に口が開かれたときに紡がれる、言葉を待って。
ごくんと飲み込んで、一息吐く。
「うん、美味しいね」
その言葉に嬉しそうに細められたのは、やはり薔薇柘榴石だった。
tear fragments. 百萬リヲ @hmyoamkou
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